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合間の博物館旅日記

博物館を回りながら日本各地を旅をする過程の壮絶な日記。(2005.4-9月)
旅終了後は適当に随時更新の予定。

我が家の歴史

2010-04-24 08:43:19 | Weblog
フジテレビ開局50周年記念ドラマ「我が家の歴史」。録画していた三話分を、時間短縮のため早送りで見る。三谷幸喜脚本、豪華な役者陣と、話題を呼んだこのドラマはどうだったのか?

主人公は柴崎コウ。八女家のしっかりものの長女だが、勤め先のキャバレーの社長に見初められ、二号さんになる。(お妾さんのことね) 旦那(佐藤浩市)の経済的援助で八女家は潤うが、その後いろいろあり……。

ラストの運動会のシーンで危うく感動させられかけたが、荒唐無稽な設定やストーリーが多い本作においては、やはりそこが邪魔して感動には至らなかった。首相のSPの大泉洋(この人は南極観測隊員になったりと存在そのものが荒唐無稽。そこが面白いんだが)が、職務をすっぽかして甥の運動会に参加する軽さは、柴崎コウが工場の仕事を休めないという重さと釣り合いが取れていない。まして、やくざの中井貴一が裏で手を回して工場を休みにさせるのもいかにも不自然だ。

一番分かりづらかったのは松潤がいいとこのお嬢さんと駆け落ちしたら、旅先で洞爺丸が沈み、死んだと思った長沢まさみは、実は記憶喪失で生きていて夜の蝶に。さらにストリッパーにまで身を落とすという展開。はっきりいって無茶苦茶だ。永井荷風を出したかっただけじゃないか、と勘ぐりたくもなる。


関心したのは、棋士升田幸三役で出てた内野聖陽の駒を持つ手つきの良さ。調べたらこの人、「ふたりっ子」で棋士の役してたのね。昔とった杵柄か。

もう一つ気になったこと。八女家のお父さん(西田敏行)が歌う「ベアトリ姐ちゃん」の歌詞が、俺の聞いていたエノケンのCDと違っていること。
ドラマでは
「ベアトリーチェ 起きないか」だが、CDでは
「ベアトリ姐ちゃん まだねんねかい 鼻からちょうちんを出して」だった。気になって歌詞をネットで検索したが、分からない。まさか「ねんね」が放送禁止でもあるまいが…。

天下一将棋会

2010-04-19 15:08:01 | Weblog
ゲーセンの麻雀格闘倶楽部のカードは四、五回買っている。凝っていた時期は毎日のように通ってオーブを集めていた。コンピュータでなく、相手が人間というのが魅力なのだが、さすがにお金が勿体ないと、やめるつもりでカードを捨てるのだ。しかし、弱い心に負けて再び買ってしまう。
最近その将棋バージョンである「天下一将棋会」というゲームが登場した。
試しにやってみると、弱い相手が多く、大抵勝ってしまう。25局指したが20勝5敗で勝率は8割。負けの中には、優勢だったのにうっかり飛車や銀を素抜かれ、投了したものもある。逆に、必敗だったのに相手が詰めよを見逃して逆転したケースもある。
ライフ制で指してるのだが、ライフはこちらの考慮時間に減っていくので、一局指すのに100~200円かかる。昨日はお金もないのに三千円近く使ってしまった。

ネットで「天下一将棋会」と検索してみると、渡辺明プロの妻が書いてるブログにたどり着いた。
この人は結婚前は伊奈めぐみといって、自分は面識がある。前に東京詰将棋工房で活動してた時に、何回か来たことがあるのだ。
詰工房は、幾つかある詰将棋サークルの中でも女性が参加した回数が多分一番多い。船戸陽子や北尾まどかといった元女流プロも参加してくれたことがある。
伊奈さんは元育成会で、兄貴もプロ棋士。会合では詰将棋も将棋も一切やらなかったが、育成会を辞めてしばらくしたら渡辺竜王と一緒になっていた。玉の輿と言ってよいのではないか。ブログをみるとすでに幼稚園児の息子がいるようだ。
時の流れは早い。


彼女は僕の知り合いでは一番の出世頭かも。
一方自分は何の業績も仕事も残してないが、唯一後世に残るものがあるとしたら、僕が考案し命名した「資本還元将棋」という変則将棋であろうか。
こちらも検索すると、倶楽部24で資本還元の大会を開催している団体があった。詰将棋作家がメンバーに多くいるらしい。
資本還元は駒の利きなどは指し将棋のままなので、インターネット上の対局も可能。ルールも分かり易いので誰でもすぐに指せるという利点がある。
NHKのBSで、プロ棋士と芸能人を出して年に一回やっている「大逆転将棋」とかで取り上げてくれないものか?

村上もとかにまつわる勝手な憶測

2010-04-17 12:01:16 | Weblog
本屋で、西原理恵子の「人生画力対決」を買おうと探すが、ない。すると、店頭に「JIN-仁-」の宣伝チラシがあるのに気が付いた。ドラマがヒットし、大河ドラマ「龍馬伝」に合わせて、ここぞとばかり最新刊を売ろうという腹なのだろう。何でもシリーズ累計450万部を突破したとか。数多くのヒット作を持つ集英社にしてみればなんということもない数字だが、「スーパージャンプ」としては驚くべきヒットだし、作者村上もとかにしてもこんなに売れるとは予測しなかったはず。

ところで村上もとかといえば、「赤いペガサス」や「六三四の剣」、そして「龍(RON)」と、小学館の作家というイメージが強い。それがよりによって集英社でヒットを飛ばしたのだから、小学館としては面白くないだろう。なぜ作者は、一見不義理なことをしたのか?

ここからは私の推測だが、「龍」では明治から太平洋戦争までの、激動の日本の描写に作者は挑戦した。その過程で、国内の日本人の朝鮮人に対する差別や、中国大陸での支配・戦闘などを描いてきた。こうした描写が反日的、自虐的だという批判が少なからずあったと思う。
ところで、小学館といえばフジ産経グループだ。そして産経新聞は、かなり右寄りの新聞である。つまり、小学館(とその関連会社)の方から「あんな漫画を掲載してけしからん」というクレームがあったのではないか。あるいは、本来作家をそうしたトラブルから守るべき編集者が、何もしてくれなかったのではないか。そのことに失望した作者は、長年世話になった小学館を離れる決心をしたのではないか。

村上もとかは「モーニング」(講談社)にも短編を描いているし、今も「ビッグコミック」(小学館)に女形を主人公にした作品を不定期掲載しているが、メインは「仁」の集英社である。しかも、「少年ジャンプ」出身の他作家を押しのけて「スーパージャンプ」の顔になっている。小学館にしてみれば、逃した魚は大きかった。
ただ今作にしてみれば、医学や江戸の知識など膨大な情報が必要であり、あるいは集英社の強大なコネクションがあったからこそ作品化できたのかも分からない。
あと数ヶ月で終わると予想される漫画だが、もう一度続編がドラマ化されれば、さらに売上が伸びるやも知れず。そうなると村上もとかは、浦沢直樹や井上雄彦と並ぶ注目作家になるかもしれない。

第9地区

2010-04-11 09:39:07 | Weblog
映画「第9地区」を見た。見終わって、「アバター」だなこれは、と思った。
「アバター」では、主人公は、人間とナヴィ族の混血の肉体を、特殊な装置によりコントロールする。その過程で主人公の心境が変化し、ついにはナヴィ族のために侵略者である人間どもと闘う。下敷きには、白人とインディアンの歴史が見え隠れする。極めて人間っぽいナヴィ族の容姿がヒントだ。

「第9地区」は違う。南アフリカの上空に巨大UFOが現われる。UFOは故障して動けず、エイリアンは難民として処理される。彼らは卓越した科学力があるはずだが、何故か知能程度が低く、ものすごい威力の武器を好物の猫缶100個と交換するなど、簡単に人間に騙されてしまう。
武器は強力だが、それを持って人間と戦おうとはしない。また、人間は操作できないので、それらの武器は人間にとって、研究目的以外無用の長物になっている。
主人公はウィルスに感染し、エイリアンに変身中。そのため彼らの武器が扱える。人間側の組織から、研究材料として解剖されそうになる主人公は、元の姿を取り戻すため、エイリアンに協力し、母船に帰る手伝いをする。
ともかく、本作の主人公は最低のゲス野郎だ。エイリアンの第9地区からの立ち退きの責任者に抜擢された彼は、エイリアンが隠し持っている武器を見つけて持ち帰る使命も帯びている。
その途中でエイリアンの卵を見つけると、栄養補給チューブを抜いて「中絶させてやった」と喜び、同行の兵士に火炎放射器で焼かせ、「卵の中の子どもがポップコーンのようにはぜる音がする」と笑う。家の外で遊んでいるだけのエイリアンの子供に銃をつきつけ、「殺しますか?」と問う兵士。エビのように醜い外見の彼らは、人間からは巨大ゴキブリかフナムシ程度に見られているという描写である。
そんな主人公だからこそ、人間から命を狙われ、知的なエイリアンの親子と接することで変心し、ついには命がけで闘うシーンがグッとこさせる。
UFOの母船は多くの同胞を地球に残したまま自分の惑星へと飛び去る。今やすっかり「エビ」の姿となった主人公を元の姿に戻すため、三年後に戻ることを約束して。

我々も三年後?の「第10地区」の公開を待とう。

言葉の文化は滅びるか?

2010-04-07 07:28:42 | Weblog
NHKテレビ「ダーウィンがいく」を見ていたらカエルアンコウという魚が出て来た。確かこいつはイザリウオではなかったと思い、調べてみると、名前が差別的という理由でカエルアンコウに変わったのだそうだ。

どうも変である。

イザリとは、足が不自由で歩けない人を指す言葉だが、「いざる」という動詞もある。足を使わず、手で体を移動させる行為で、赤ん坊とかによく使う。また、干潮の浅い海で泳いで移動する時は、海底や岩を手で手繰って移動するのでこの状態になる。
この「いざる」まで差別語だとすると、一体なんて置き換えればいいのか? 「足を使わず手で移動する」とか?
たった三文字で伝わった言葉を、十文字以上にした上にイメージも伝わりにくくなっている。これはまさに、言葉文化の衰退ではないか?

差別語という用語自体、昔はなかった。あったのは放送禁止用語。公共の電波に乗せるのにふさわしくないと各テレビ局が自主規制したもの。実際は、様々な団体・個人などからクレームが来ないよう、あらかじめ防衛線を張ったに過ぎない。
卑猥な言葉、身障者や特定の職業、民族などを差別した言葉を除いた。
それがまず、企業の広告や社内外の文書にひろまり、さらには個人のHPやブログ、日常の発言にまで広がってきている。

例えば「片手落ち」。ここでいう手は実際の腕を指すわけではないのに、不具者を連想させるとの理由で、放送からは消えている。
「めくら」がいけないとの理由から、「あきめくら」や「めくら縞」という言葉が消えた。「だるまに片目を入れる」も駄目だ。
「支那」は清(しん)やCHINAから派生した国名だと思うが、日本人が蔑称として使ったという経緯から不可とされ、「支那の夜」は放送で歌われなくなり、シナチクはメンマに置き換られた。ここまでくると笑うしかない。


実はこうした差別語と称するものに、一番寛容なのが意外にも天下のNHKである。長いこと放送禁止歌とされた「イムジン河」や「ヨイトマケの歌」を解禁したのはNHKだった。ドラマ「坂の上の雲」では主役のモックンに「金玉がかゆくていかん」と言わせている。

ドラマといえば「あしたのジョー」が実写化されるそうだが、あの漫画も差別語満載だった。もっと凄いのは同じ原作者の「愛と誠」で、「キチガイ・白痴・かたわ」といった言葉が、目を覆うほど頻発に飛び出して来る。しかしこれらを置き換えれば漫画の雰囲気は台無しだ。それに、例えば早乙女愛の母が娘の無謀な行動を「あなたはキチガイよ」と非難して阻止するシーンで、「狂人」とかの言葉に置き換えたら、母の愛情が感じられない、全く冷たい印象になってしまう。梶原一騎もあの世で納得しないだろう。

ともかくこういった風潮に、企業はともかく、個人のレベルで同調するのは愚の極みと言えよう。カエルアンコウはそのままでもいいが、「いざる」という表現を消すべきではない。