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合間の博物館旅日記

博物館を回りながら日本各地を旅をする過程の壮絶な日記。(2005.4-9月)
旅終了後は適当に随時更新の予定。

小池重明氏の思い出

2015-11-22 00:46:05 | 明大将研

二年ぶりに記事をアップしますが、別に死んでいたわけではありません。

主にヤフーブログの方をもっぱら更新していたためです。


今回は早逝のアマ強豪、小池重明氏の思い出を書きます。


あれは今から30年前、明大将研の夏合宿に小池さんが参加したことがありました。

当時「将棋ジャーナル」誌上で売り出し中の高校生、櫛田陽一君も一緒です。


いったいどういう経緯でそうなったのか?

詳しいことは聞きませんでしたが、おそらく、日暮里の将棋研究会で顔なじみだった、自分の一年先輩の石井宜(ただし)さんが、なにがしかの謝礼を払って呼んだものと思われます。

場所は長野県小淵沢にある信濃学寮です。

小池さんは、ジャーナル紙上などではお顔を拝見していましたが、実際に見るのは初めてでした。多分、ほかの大部分の学生たちもそうだったでしょう。

石井さんにすれば、お金を払ってでも、学生たちに超強豪と対局する機会を与え、明治の将棋部全体のレベルアップにつながってほしいとの思いがあったのかもしれません。

しかし学生の中には、たとえトップといえども、アマチュア相手にお金を払うというのに抵抗を示す者もいましたし、またたとえ指しても勝てるわけがないので、そもそも小池さんに対局を申し込む者も実際には少なかったのも事実です。

それならばまだ年下の櫛田君を相手にしよう、という感じでした。

私はというと、そもそも将棋が弱く、また強くなるつもりもこの頃はすでになかったので、当然二人と指すなど論外で、なんとなく遠巻きに見ていた記憶があります。

お二人が都合何日間合宿に参加したのかの記憶も、実は曖昧です。

当時の夏合宿は、一週間ぐらいやってましたから、数日間参加したのではないでしょうか?


そんなわけで、せっかく来てくれた小池さんでしたが、あまり将棋を指すこともなく、ちょっと手持無沙汰な感じに見えました。


しかし、そんな小池さんを喜んで迎え入れるチームもあったわけです。

それがなんと麻雀メンバーでした。

当時の合宿では、主に麻雀卓が二卓立っていました。

一卓は普通の麻雀。(といっても学生なので、点5とか比較的おとなしいレート)

そしてもう一卓は、純粋に麻雀という競技を楽しみたいという、ノーレート麻雀。

もちろん小池さんが参加したのは前者でしたが、私から見ると「極道メンツ」と呼ばれるような先輩たちと小池さんが卓を囲んでいました。

もちろん合宿の場なので、自動卓ではなく、手積みです。

どういうところが「極道」なのか。まあ説明は難しいですが、筋ひっかけは当たり前。九ピンをポンして、なおかつ残りの九ピンであがる、というような、普通の常識があまり通じない人たちです。

自分もギャラリーとして見てましたが、小池さんが、リーチ一発ツモを、二回連続したのを覚えています。(自分の山なら、「あー、覚えているな」と疑うところですが、確かに二回とも他人の山でした。)

そして続く局でも早々にリーチをかけ、一発目のツモで牌を見て、「嘘だろ?」と他の三人の顔を見てつぶやきました。

すわ、三回連続リーチ一発ツモか! 何という強運! ……と思ったところ、何とそれはブラフ。

破顔一笑。
その時の小池さんの、なんとも茶目っ気のある顔は忘れられません。

将棋を(真剣で)指すときの顔とは、恐らく正反対だったのではないでしょうか?

また、この時の大学将棋部の雰囲気。
お金もかかっていない、純粋に将棋が好きで指している学生たちに触れて、小池さんの気持ちも和やかになっていたのでは? と推測します。


そして、意外に盛り上がったのが、次の日の夜に行われた「リレー将棋トーナメント」というイベント。

リレー将棋とは、例えば3人一組でチームを作り、一人3手ずつ指して交代するという、いわば「遊び将棋」です。

一試合につき各チーム一回、つまり都合二回の作戦タイムがあります。

将棋と言うのは読みの勝負なのですが、指す人が変わると、当然読みが一貫していないので、好手が悪手に転じてしまったりして、逆転が頻繁に起こるので見ていて楽しいのです。(指す方は逆に大変ですが)


くじで公平にチーム分けをしたのですが、この時なんと、小池さんと石井さんが同じチームになりました。

最強チーム、というべきところですが、残りの一人が、自分の一年後輩の橋本君。
二回連続地獄名人を取ったという、この時の参加部員で最弱と目される人物だったのです。

まあこの大会は盛り上がりました。

結果、小池さんのチームが決勝に勝ち進み、最後も何とか橋本君が正着を指して優勝。

この時の小池さんの、楽しそうで無邪気な笑顔も忘れられません。



その一ヶ月後、「将棋ジャーナル」の読者投稿欄に、小池さんの詐欺などを告発する記事が載り、アマ棋界を騒然とさせました。

森雞二八段(当時)を指し込みで破るなどして生まれたプロ入りの話も当然のように消滅。
小池さんは棋界を追われて、表舞台から消えました。

また、櫛田君はその後すぐに奨励会に入会。あれよあれよという間に四段にあがり、プロ棋士となりました。


後に、「将棋ジャーナル」のオーナーになった作家の団鬼六氏が、晩年の小池さんの面倒を見てパトロンとなり、最後44歳の若さで小池さんが亡くなるまでの顛末は、鬼六さんの著書に詳しいので省きます。

櫛田さんも現在はプロ棋士を引退されているようです。


僕が今回この記事をアップしたのは、たまたまプロ棋士の田丸昇さんのブログ記事を読んで、田丸プロが櫛田さんの師匠だったことを知り、つい懐かしく思い出したからです。

また、以前この話を、将棋ライターの湯川博士さんにしたところ、「ぜひそれは書いた方がいい」と言われたのを思い出したからでもあります。

といっても自分は、将棋ペンクラブの会員ではないので、ペンクラブの会報ではなく、自分のブログに書くことを選択しました。


そうそう。

合宿での櫛田君の印象は、実はほとんどなかったのですが、合宿最終日前日の打ち上げで、酒を飲んだ後に、歌の好きな者たちが集って歌を歌うのが習わしでした。
流行歌や懐メロ、アニソンやフォークソング。まだカラオケもない時代でしたから、当然みんなアカペラで合唱です。

自分は歌が得意なので、こうゆう時は率先して、歌を誘導……つまり場の雰囲気を読んで、次に歌う曲を選んで歌いだすのが得意でした。

その輪の中に櫛田君もいたのですが……。

自分は将棋では逆立ちしても彼には勝てないが、歌では勝った! とこの時思いました。



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