「詰ルンルン」というブログで、自分が過去に出した「詰将棋パラダイス」のパロディ誌「詰む将棋パラダイス」が、ご丁寧にも画像入りで紹介されていた。あまりに懐かしいので自分も少々振り返ってみたい。
この頃(奥付を見ると「平成三年」とあるのだが)、私は詰将棋に狂っていた。まさに本の中に書かれた「踊るポンポコリン」の替え歌にあるように、「誰でも彼でもみんな 詰棋(つめき)に狂っているよ」…な状態だった。パラやその他の詰棋書を読みまくり、暇さえあれば盤駒を取り出して、詰将棋のことばかり考えていた。
とはいえ、ここに収録されている作品は、どいつもこいつも入選にはほど遠く、実際投稿もしていなかった。
表紙を飾る13手詰は、簡素な初形に加え、意表を突いた歩の成らずもあり、一見好作に見えるが、作意の他の二つの変同(変化同手数)は、むしろ醜い「尾わかれ」と呼ぶべきもので、どう贔屓目に見ても入選に値する作品ではない。
自分は、この後都合11回ほどパラで入選を果たすのだが、その中に「詰む将棋パラダイス」収録作がほとんどないのを見ても、作品のレベルの低さを裏書きしていると思う。だからこそ照れ隠しの意味を含めて「詰む将棋」という蔑称を加えた、読み物主体のパロディ誌にしたわけである。
さて。
東京詰将棋工房の会合(当時はまだ「ACT―2」の名前を引きずっていた)に初めて参加し、詰めキスト(詰将棋を趣味にする人達をこう呼ぶ)なる存在を初めて目撃した自分は、そこで知り合った摩利支天さんと詰パラ編集部に、できたばかりの「詰む将棋パラダイス」を送った。
私はそれまでパラに解答を送って短評が載ることはあっても、基本的にパラ読者にとっては、どこの馬の骨とも知れない謎の人物であった筈だ。
それが、変なパロディ誌を作った謎の人物として有名になり(大阪の詰将棋全国大会では、催し物をよそに、ひたすら「詰むパラ」を寒い廊下で売っていた)、さらにはそれが将棋ジャーナリストである湯川博士氏の目に止まって、「週刊将棋」の取材まで受けてしまう。さらにそれが元で会社の社内報にまで紹介されることになるのだが……。
しかし今「詰む将棋パラダイス」を見直しても、若い読者は何のことか分からないに違いない。
例えば、「詰むと絶連 湯川詰子」というエッセイは、この頃パラに載っていた「詰めば都」という湯川恵子さんのパロディだ。本家では、パラを読んでる湯川さんが難しい顔をしているのに、こちらでは「詰むパラ」を笑って読んでいる。こういう細かい所を作者としては注目してほしい。
猪木が人質を解放した直後で「総理大臣になりたい」と抱負を述べているところ。前田日明がWESTという缶コーヒーのCMに出ていたが、UWFが分裂して、藤原組はメガネスーパーがスポンサーに付いたSWSに参加したこと。ジャイアント馬場が入院し、兄貴と慕うラッシャー木村がマイクパフォーマンスで心配してるところまで、「結果稿」には書いてある。また、プロレスラーの名に混じって、何故かバトルロイヤル風間(漫画家)の名前があったり、作家陣では、当時「将棋ジャーナル」に団鬼六の肝煎りで何故か官能小説を書いていた丸茂ジュンの名があったりと、嫌でも時代を感じさせる内容だ。逆に言うと、今の若い人が見ても何のことだかよく分からないだろう。
あれから20年以上も経ってしまった。自分も詰将棋からスッカリ足を洗った状態だ。最後に駒を触ったのはいつだろう。ケーブルテレビの囲碁将棋チャンネルでプロ棋士の対局はよく見るけど……。
ちなみに、「詰むパラ」の「読者サロン」を見ると、この頃はまだ大山康晴がご存命なのである。
一方自分は、昨日でついに50の大台に乗ってしまった。
あの頃は若かった。まだ自転車で野宿旅をする前だった。
もはや何もかもが懐かしい………。
この頃(奥付を見ると「平成三年」とあるのだが)、私は詰将棋に狂っていた。まさに本の中に書かれた「踊るポンポコリン」の替え歌にあるように、「誰でも彼でもみんな 詰棋(つめき)に狂っているよ」…な状態だった。パラやその他の詰棋書を読みまくり、暇さえあれば盤駒を取り出して、詰将棋のことばかり考えていた。
とはいえ、ここに収録されている作品は、どいつもこいつも入選にはほど遠く、実際投稿もしていなかった。
表紙を飾る13手詰は、簡素な初形に加え、意表を突いた歩の成らずもあり、一見好作に見えるが、作意の他の二つの変同(変化同手数)は、むしろ醜い「尾わかれ」と呼ぶべきもので、どう贔屓目に見ても入選に値する作品ではない。
自分は、この後都合11回ほどパラで入選を果たすのだが、その中に「詰む将棋パラダイス」収録作がほとんどないのを見ても、作品のレベルの低さを裏書きしていると思う。だからこそ照れ隠しの意味を含めて「詰む将棋」という蔑称を加えた、読み物主体のパロディ誌にしたわけである。
さて。
東京詰将棋工房の会合(当時はまだ「ACT―2」の名前を引きずっていた)に初めて参加し、詰めキスト(詰将棋を趣味にする人達をこう呼ぶ)なる存在を初めて目撃した自分は、そこで知り合った摩利支天さんと詰パラ編集部に、できたばかりの「詰む将棋パラダイス」を送った。
私はそれまでパラに解答を送って短評が載ることはあっても、基本的にパラ読者にとっては、どこの馬の骨とも知れない謎の人物であった筈だ。
それが、変なパロディ誌を作った謎の人物として有名になり(大阪の詰将棋全国大会では、催し物をよそに、ひたすら「詰むパラ」を寒い廊下で売っていた)、さらにはそれが将棋ジャーナリストである湯川博士氏の目に止まって、「週刊将棋」の取材まで受けてしまう。さらにそれが元で会社の社内報にまで紹介されることになるのだが……。
しかし今「詰む将棋パラダイス」を見直しても、若い読者は何のことか分からないに違いない。
例えば、「詰むと絶連 湯川詰子」というエッセイは、この頃パラに載っていた「詰めば都」という湯川恵子さんのパロディだ。本家では、パラを読んでる湯川さんが難しい顔をしているのに、こちらでは「詰むパラ」を笑って読んでいる。こういう細かい所を作者としては注目してほしい。
猪木が人質を解放した直後で「総理大臣になりたい」と抱負を述べているところ。前田日明がWESTという缶コーヒーのCMに出ていたが、UWFが分裂して、藤原組はメガネスーパーがスポンサーに付いたSWSに参加したこと。ジャイアント馬場が入院し、兄貴と慕うラッシャー木村がマイクパフォーマンスで心配してるところまで、「結果稿」には書いてある。また、プロレスラーの名に混じって、何故かバトルロイヤル風間(漫画家)の名前があったり、作家陣では、当時「将棋ジャーナル」に団鬼六の肝煎りで何故か官能小説を書いていた丸茂ジュンの名があったりと、嫌でも時代を感じさせる内容だ。逆に言うと、今の若い人が見ても何のことだかよく分からないだろう。
あれから20年以上も経ってしまった。自分も詰将棋からスッカリ足を洗った状態だ。最後に駒を触ったのはいつだろう。ケーブルテレビの囲碁将棋チャンネルでプロ棋士の対局はよく見るけど……。
ちなみに、「詰むパラ」の「読者サロン」を見ると、この頃はまだ大山康晴がご存命なのである。
一方自分は、昨日でついに50の大台に乗ってしまった。
あの頃は若かった。まだ自転車で野宿旅をする前だった。
もはや何もかもが懐かしい………。