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合間の博物館旅日記

博物館を回りながら日本各地を旅をする過程の壮絶な日記。(2005.4-9月)
旅終了後は適当に随時更新の予定。

人生に意味はない

2011-05-13 23:59:43 | Weblog
ゴールデンウィークとやらがあっという間に過ぎた。皆さんはどんな休みを過ごしたか知らないが、私は普段とまったく変わりない仕事の日々を過ごしている。ちなみに、今月は休みが三日しかない。にもかかわらず薄給なのは時給が安いからだ。先日もとある女性客に「融通が利かないからそんな仕事にしかつけないのよ!」と職業差別発言を受けた。わしらの仕事は融通を利かせてはダメなのだが、心の底では一部同意する自分がいるのも、世間と自分との休みの違いをこうして見せつけられたりするためだろう。
仕事するより寝ていたい! っつーのは本音だ。いや、やり甲斐のある面白い仕事ならいんだけどね。


話が暗くなった。
どうも真夜中に打ってるせいか全体に話が暗い。まあ今回はブログのタイトルからして暗いんだが、その件は最後に書こう。


GW中は5月2日が明けだったので、洗足まで行って、影絵作家藤城清治氏の自宅でやっていた展覧会を見に行った。
私はほんの数週間前まで藤城清治氏の名前を知らなかった。いや、絵はもちろん知っている。日本人なら一度は必ず目にしているだろう。
「赤ちゃんも夢を見るのかしら」でお馴染みの宇津救命丸のCM。わしらの世代ではむしろ木馬座アワーが鮮烈だ。あそこに出てくる、当時子供たちに人気絶頂だったケロヨンも藤城氏のキャラだ。
ことの起こりはこう。僕は爆笑問題の、特に太田が好きで、彼が司会をつとめる「雑学王」を録画して見ていた。その中のトークで、太田がファンだった藤城清治氏に自著「マボロシの鳥」をプレゼントしたところ、藤城氏が「これは自分の手で絵本にしなければならない」と強く思ったというのだ。ネットで調べてみると、「マボロシの鳥」の原画を含む展覧会が彼の自宅でやってるというではないか!

で、まあ作品なのだが、どれもこれも素晴らしい。が、一番感動したのは、すでに功なり名を遂げた、数々の勲章までもらっている齢87歳の藤城氏が、日課の血圧測定までやめて、心血を注いでこれだけの作品を作り上げたその情熱と行動力である。
失礼だが、87と言えば、世間的にはもう棺桶に両足突っ込んでそうな年齢だ。生きててもとうに仕事は引退し、趣味でもやってれば「凄いですね」「元気ですね」と誉められる年齢である。それがこの傑作……。まさに脱帽するしかない。
百を過ぎて現役だった平櫛田中、憲政の神様尾崎咢堂もこんな感じであったろうか。
絵本は今月中に出るそうなので、買わずばなるまい。


他に特筆すべきことは、村上もとかの「JIN-仁-」が第15回手塚治虫文化賞の大賞を受賞したこと。いやあ素晴らしい!
この賞、どんだけ権威があるかは知らないが、選考委員には同業者の漫画家も多数名を連ねてるのでいい加減な賞ではあるまい。かつては「バガボンド」や「プルートゥ」「西遊妖猿伝」、吾妻ひでおの「失踪日記」もとっている。一方で、去年の大賞は「へうげもの」と、受賞すれば必ずビッグヒットにつながる、というほどでもなさそうだ。
取り敢えず原作ファン、村上もとかファンとしてはめでたい。


5月2日には渋谷にある岡本太郎の壁画「明日への神話」に福島原発が描き足された。
その福島原発、昨日になってようやく東電がメルトダウンをみとめた。燃料棒が溶けて格納容器の底にたまり、容器に穴が開いて放射能に汚染された水がだだ漏れしていたわけで、さらに海水に広範囲に放射性物質が流出してしまったわけだ。
まあ酷い話である。
原子力発電は見直しましょう、という論調がテレビでも見られ始めたが、もう遅くね?という感じだ。



さて、ここでようやくタイトルの説明に入ろう。
タレントの上原美優が自殺した。彼女の自殺理由はサッパリ分からないが、そんな自分も頻繁に自殺について考える。
私に限らず、夢も希望もなく、経済的にも家庭的にも恵まれていない中高年は、生きることがつらいと、ついつい自殺を考えてしまう。

若い頃はそれでも夢があったり可能性があったりしたので何とかなったが、50を間近にして何一つ成し得ていない自分には、生きることそのものがもはやつらいのだ。

人は何のために生きているのか? 生きる目的は何か?

それが見つからないと生きること自体が無意味に思えて来て絶望してしまう。

そこで考え方を変えてみることにした。
日本人は真面目だから、意味や目的がないと生きている価値がないと考えてしまう。他者を押しのけ、命を奪って生きているのがヒトだ。だからそこに、なにがしかの罪悪感を感じている。
が、意義や意味、目的がないといけないと誰が決めたのか?
別に意味なんかなくてもいいではないか?
ただ〈生きている〉という現象があるだけでは、何故いけないのか?

生に意味を見出だそうとするから、自分が費やしている仕事のための膨大なつまらない時間は、生活費を稼ぐためのものだと割り切る。しかし心には抑圧されたストレスがたまり、それを解消するために酒を飲んだりギャンブルにハマったりする。
そうではない。生に意味はない。ゆえにどう生きようと自由なのだと捉えれば、自分が送っている一見〈無意味な〉膨大な時間も、それ自体楽しむべきユニークな経験と考えることはできないか? 今、まさにこの時間を味わうために生きてるのだ、と思えないか?


「人生に意味はない」というのは、意味などなくてもいんだ、ということ。脅迫観念に囚われて、生を限定しないための発想の転換なのだと思ってほしい。