臓器移植法を問い直す市民ネットワーク

「脳死」は人の死ではありません。「脳死」からの臓器摘出に反対します。臓器移植以外の医療の研究・確立を求めます。

第10回市民講座の報告(2-2 質疑応答要約)

2017-02-06 22:27:16 | 集会・学習会の報告

第10回市民講座の報告(質疑応答要約)

 

発言者1:本日のお話では、専門家が科学的に正しい知識を持っており、それを受容する市民が対局にいるという関係が語られたような気がしました。でも、私はむしろ、科学者ないしは専門家とされる人達の知識や言説に大きな問題があると思っています。実際に移植学会や厚労省の臓器移植委員会などに参加してみても、学者と言われる人たちが持つ知識や言説が、既知の事実から論理的に追及していくのではなく、自分の価値観や依拠することから展開してしまっているように思います。そういう科学者と言われる人たちの文化人類学なり、社会学なり、心理学なりが必要なんじゃないかと思うことがありました。その辺、山崎さんとしては、どう思われているか、お聞きしたいと思います。

A(山崎):実は、科学の人類学というものがあるのですが、そこでは科学者がどのように科学的な知識を生み出しているかが研究されていたりします。今日の発表との関わりでまず重要なことは、科学者が生み出した知識は、なによりこの社会で非常に強い力を持っているという事実であり、またその理由です。科学者は経験的にデータを集めて、そこから論文という形で知識をまとめ上げて、その論文を参照して次の知識を作り上げています。そういう知識の積み重ねをネットワーク状に張り巡らせる中で、新しい知識に対する正当性を高め、また体系的に蓄積していく知の文法を持っているわけですね。一方で、たとえばドナー家族が語る言葉にも、その人の個人の人生に即していえば疑いなく真理であるといったことが、もちろん多くあります。しかし、その後本人の話された言葉は、そのまま社会に流通して一般的な正当性を持ちうるかというと、そこには非常に大きなギャップがあるわけです。それは、科学的な知識と、我々一人一人が正しいと思って口にする言葉との決定的な違いです。そう考えると、一人一人の経験やリアリティを言葉にして社会に伝えるためには、ただそれを大声で叫べばいいというものでもなくて、それが(科学とはまた)別のタイプの「知」として正当なものになるように、固有のネットワークを作っていかなければいけないということではないかと思っています。そうした実践や経験に即した知の文法は、この社会においては未整備ですし、どうしたら対抗言説のような形で組織できるのかということは、誰にも分かっていないことだと思います。繰り返しになりますが、現状、科学というのは非常に強力な知識の体系であり、それに一個人が経験に即した反論しても太刀打ちができない。その事実を、私は飲み込まなければいけないと思っています。

 

発言者2:現実の医療現場において、日本臓器移植ネットワークや移植医たちは、移植用臓器を獲得するという利益目標に基づいて動く利益集団だと思います。例えば、ドナーファミリーが、ドナーが麻酔をかけられていたことを臓器提供後に知って可哀想なことをしたと後悔している。他にも、心臓が停止するまでに長時間かかる場合もあるし、脳機能を復活させる人もいる。つまり、脳死と科学的に判定したことの意味が分からなくなってきている。それなのに、そういうことは、実際の現場で伝えられずに臓器摘出が行われている訳です。今日のお話はインフォームド・コンセントとか欠如モデルに関係することだったと思いますが、いわば、盗み、殺し、騙す、これをやってきている人が沢山いるとすると、そこらへんが変だと思います。もう一つ、科学と社会の相互作用とお書きになっていますけれど、もう科学というのは止めたほうがいいんじゃないかと思うんです。脳死と判定しても心臓の拍動が必ず止まるわけじゃないし、脳の機能はあるかもしれない。あるいは、心停止しても自然に心臓の拍動が再開する人います。ですから、科学では死というのは分からないということを前提にした上で考える方がいいし、科学というのは止めた方がいいのではないかと思いますが、どうでしょうか。

A(山崎):一つ目のご意見についてですが、例えば、臓器移植に関して言うと、脳外科医と移植医では、関心が明確に異なっていると思います。つまり、脳外科医にとっては、脳死と宣告すること、それが死であることを認めることは、自分の患者が死んだことを認めることに結びつくわけです。治療ができなかったという意味で、真剣に自分たちの力が及ばなかったと言うのを私自身も聞いたことがあります。一方で、移植医はそれとは違う視点をもっている。それは、移植の件数や実績が増えるということであったり、自分が診ている(別の)患者が助かるといったことです。ですから、一口に医者といっても、誰を相手にしているのか、何を治療しようとしているのかによって、見方や言動が異なるということはあると思います。 私の知る限り、特に1997年から2000年くらいまでの間は、「そんな説明はうけなかった」とか、「周りから変な噂を立てられた」とか、本来であれば起こらなくて済んだことが色々と起こっていました。そういう部分については、移植医なりコーディネーターの方が日々の実践のなかに取り入れているということはあると思います。例えば、インフォームド・コンセントの仕方ひとつとっても、実務的にはさまざまな改善がなされてきているわけですから。ただ、だから素晴らしいというのではなくて、どういう説明をどこまでしたら、その人が理解したと言えるのかということは、マニュアルだけではできないことであって、個々人の人柄なり経験、その人の生き方に依存することが沢山あると思うのです。なので、いくら経験値を積んでも、「このことは説明してほしかったのに説明してもらえなかった」「聞いていなかった」みたいなことは必ず出てきます。納得する、理解する、ということが必要十分になされるということは、やっぱり難しいと思います。そのこと分かった上で、インフォームド・コンセントとは、そういう制度的な手続きのことを指していると理解したほうがいいのではないでしょうか。利益集団というのはかなり強い意味をもちうるので、そこまで言うつもりもないのですけれど、関心が違うということはあるだろうと思います。
 それともう一つは、科学を止めるという話ですが、この場合問題は、止めるのであればどうやって止めるかということが語られなければならないと思います。私自身の個人的な感想ですが、おそらく、止められないのではないかとも思うのですね。このことを認めるかどうかは、大きな分かれ目だと思います。ただ、現代の科学技術と一切無関係な生活を「個人」で選択することはできるかもしれないですが、「社会」から、あるいはこの地球上から科学を無くしていくようなロードマップを描くということは、現実には極めて困難だと思います。科学を止めるという話は、少なくとも現実的なロードマップを描いた上でしないといけないかなと感じます。

発言者2:医師はドナーファミリーにちゃんと説明をしていない。ドナーに投与されている抗血栓剤の副作用について、厚労省が作成した「ドナー家族の皆様へ」と題する説明文の書き改めを要望し、国会議員の質問主意書への回答には「検討する」とありました。しかし、臓器を新鮮に保ち血液の流れをよくするためにドナーに投与されるヘパリン(抗血栓剤)は脳溢血などの患者には禁忌であるのに、そういう説明がいまだない。それはドナー家族をだますということ、それはいいのでしょうか。

A(山崎):医者は、明確な間違いやウソを自分の職務の中ですることがリスクであることをよく分かっていると思います。説明しなければいけないことは、本当は沢山あるはずですが、混乱した状況で説明しても、たいていの人は理解できないということも一方ではあります。脳死の理解ですらそうなのですから。「脳幹が生きているというのはどういう意味ですか」とか「脳細胞が生きていることは、この人が生きていることとどういう違いがあるんですか」ということをその場で納得がいくように説明するというのは、場合によって非常に難しいと思います。それでもきちんと手続きができるように色んな仕組みが入れられているわけです。制度的にはやるべき手続きをとって同意を得ていることになっていて、実践のレベルでは不確実性を想定せざるをえない、その二つの間に物凄い齟齬があるのだと思います。そういう意味では、やっぱり両方の説明が必要だと思いますね。

 

発言者3:授業内アンケートの2番目、「脳死臓器移植はもっと行われてほしい」という質問は、一つの誘導になっているのではないかと思うのです。例えば、「脳死臓器移植は生命に関することだから、もっと慎重に行うべきだ」と聞けば、同じような結論が出てくるでしょうか。それで、中立という言葉を使われていますが、中立というのはそもそもありえるのかという議論があります。インタビューをされて、質問しても出てこない答えがあると思うし、〔インタビューによって〕心理的にどういう方向へ誘導されていくのかという問題をおさえておく必要があるんじゃないでしょうか。

A(山崎):この質問だと、その誘導はあり得るかもしれないですね。ちょっとそれは反省するところもあります。それとは別に、人類学の方法論に関わることを少し説明させていただきます。今回、便宜上「インタビュー」という言葉を使っていますが、これはまったく構造化されたものではありません。つまり、質問項目はほとんど用意しておらず、お会いしたときにはだいたい私の頭の中は真っ白の状態に近いです。そういう状態で、ひたすら雑談をするのが人類学における調査の手法なのだとまでいうとかなり語弊もあるのですが、なぜそういうやり方をするかというと、それこそまさに質問をすることによる誘導を極力さけるためです。
 例えば、お会いして2時間とか4時間とか話をすることがありますが、こちらから何かを尋ねるよりは、聞いていることのほうが多いように思います。もしくは全然関係ない話をふってみたりとか。こちらからあらかじめテーマを持ち込まないほうが、面白い話が聞けたりします。そういうやり取りのなかで出てきたのが、今日ご紹介したような発言です。ですので、逆にいえば、言いたくないことは言わないということはもちろんあると思います。4時間話しても10時間話しても出てこない内容については、こちらから詮索して聞くということはありません。
 もう一つ言うと、そういう雑談の場は1回でおしまいというわけでもなくて、時と場所を変えて何度も話をすることもあります。そうして拾った声からノートを起こして、記録をしていくということになります。もちろん、記録にとることはあらかじめ許可をいただいています。ですから、「しゃべりにくいことがしゃべられていないのではないか」というご質問については、そういうことは間違いなくあると思っています。ただ、どうしたって何もかもを聞くことはできないので、何かが語られるタイミングを待つ以外に、詮索のしようがないのではないかと思います。
 ではそれが中立か、という問題ですが、私はそこまで「中立」であることを意識して議論しているつもりはないです。偶然の要素に左右されるというのも間違いないです。お会いできた人の話しか聞けてないという時点で、すでにバイアスも相当かかっています。調査エリアや人数の制限も、時代的な制約もあると思います。それをもう少し更新していくために必要なことは、継続的にこういう調査をするということ以外には方法としてありえないので、その意味で、全然中立ではないと思います。ただ、じゃあ絶対中立な調査の方法があるかというと、方法論としてそれはないだろうと私は思っています。

 

発言者4:先ほど、科学が持っている力は、それまでの知識体系から組み立てられたというより、私は、もっと世俗的な、権力の力関係のなかに位置づく話のような気がします。原発問題を例にとれば、原発を肯定する科学者もいれば、原発に反対する科学者もいるけれども、原発を肯定する科学者の方が権力に近い位置にいる。単にそういうことではと。市民の側は、相手に対して批判もするし、直面して論争しあえば「たいしたことねえなあ」と実感するけれども、それでも必ずしも〔市民側が〕力を持てないのは、そういう権力構造に乗っていないだけではないかと。その辺の、もうちょっと世俗的な意味、あるいは、今の消費社会を成り立たせている権力構造、あるいは、そこに働いている論理みたいなものを前提にしたところで考えた方がいいんじゃないか、という気がするのですが、その辺はいかがでしょうか。
 それともう一つ、先ほどの「科学はもう止めた方がいい」という意見について、先ほどの方は、死というものを科学的に規定できるのかということに限定して語られたと思います。私もそこは同感です。科学的という言葉と権威という言葉が、現代社会ではほぼ同じものとして機能している様子がありますので、それらは慎重な使い方をしていかなければいけないと思います。市民の側は、科学的だろうと俺にとっての真実とは関係ない、と思ったら、そこを貫くということ。そして、研究者側からは、市民の経験と発想に謙虚に向きあってほしい、そういう中で、科学というものを再検討するという構造にしかなりようがないと思ってます。

A(山崎):先ほどおっしゃられた話が死に限定しているのであれば、賛成します。現代の科学の水準で人間の意識を正確に評価できるとは思っていませんので。ただし、実務のレベルで法律を決めたりするときに、そういう知識が利用されることはあるだろうと思います。その点は批判的に考えなければならないと思います。
 科学者が権力を持っていると捉えなければならないのは、先ほどの発表の図でいうと、ポスト・ノーマルサイエンスという、社会の中に科学が入り込んでいる状況ですね。この状態では、科学者は権力を持っているというのは正しいと思います。それを政治的に利用する科学者がいることもあるでしょう。そこで、どういう対抗言説を作るのかを方法論として考えなければならないと思うんですね。個人的に科学者にノーと言うことはできます。けれども、それで社会が変わるかどうかはまた別の話です。ポスト・ノーマルサイエンスにおける市民の位置づけというのは、まさにそこにあって、なんらかの対抗言説なり、知識の別の生産の仕方を考えていかなければならない。それが、私にとっては、臓器移植について考えはじめたことで気がついた、今後の課題になっています。そういう意味でいうと、臓器移植は、やはり歴史的に重要な出来事だと思いますね。つまり、市民を巻き込んだ大きな対立点が科学実践のなかに現れて、非常に大きな論争を引き起こしている。こういう対立が社会の中に科学論争として現れてくるということの、非常に早い例の一つだと思っています。

 

 

発言者5:バクバクの会という、人工呼吸器をつけた子どもたちを持つ親の会の者です。お話にあったドナーに近い子どもたちが沢山いるような家族会をやっています。先生の本の第一部では、移植に関する経済論的なところがありますが、私は、実際に、経済の中に臓器が取り込まれていると思っています。今日のテーマ「臓器移植は人類に何をもたらしたか」ですが。日本にドナーを待っているレシピエントがいっぱいいますが、臓器が足りないからと、我々の子どもたちのような存在に対して、「何であなたたちは臓器提供しないの」「何であの人たちが生きようとしているのに、死んでいるような、役にも立たない人たちの臓器をあげないの」というような社会的な見えない圧力を、感じるんですね。社会自体が不寛容な時代になっていると思います。その極端な例として起こったのが、この間の津久井やまゆり園での障碍者の大量殺人であると思います。19人も殺されたのに、世の中、障碍者が殺されたことにそんなに騒がない。これ、一般の人たちが19人いっぺんに殺されたら、ものすごく大変なことだったと思います。国も精神障碍者一人が起こした事件のようにして、社会の不寛容さから起きた事件とは思っていないようです。政府も声明も出していない。そういう障碍者不要論、優生思想が、この脳死・臓器移植からどんどん世の中に広がっているんじゃないかと思います。「臓器移植が人類に何をもたらしたか」というテーマに対して、私はそんなふうに思いましたが、先生のお考えをお聞かせ下さい。

A(山崎):今日詳しく触れられなかったことで最大の変化だと思っていることは、1960年代から1980年代前半までは、人の死をどのように決めるかというところで争われていた議論が、この数年の間に、どうやったら沢山の臓器を集めて無駄なく分配することができて、それを倫理的にも社会的にも法的にも許容できるかという方向に議論が動いてきているということです。そのことについては本の後半部分に書いています。そうすると、結局は「臓器の数をどう増やすか」というような話になりますし、「提供臓器の数が減るとどのような社会的リスクが生じるか」という議論をすることになります。そのことが、目の前にいる人をどう捉えるかという話にオーバーラップしてきているということは、覚えておかなければいけないと思います。ただ、困ったことは、現状の日本で臓器移植を一切やらないことになった場合に何が起こるかというと、問題をすり替えることにしかならないということです。つまり、日本人が他の国に行くこと、そのことを黙認することになる。そこがすごく悩ましいところです。明確な結論は言えませんが、そういう状況に置かれているということは認識しなければいけない。
 経済論に関して言うと、人類学における経済の捉え方は、経済学者の経済の捉え方と違うところがあると思います。まさに先程出てきたモースの議論なのですが、お金であろうが体であろうが、物を渡すということが何かの関係を生み出すということははっきりしている。その限りで、そうしたやり取りを広義の経済活動と捉えるのが、人類学における経済の捉え方です。ですから人類学者は貨幣を介さない経済が成立すると当然のように考える。たとえば、モラル経済(モラル・エコノミー)という言い方もあります。実際、人類の歴史上、威信や信念で駆動する経済は多くあったわけで、そういうものに臓器移植を近づけて理解するということもあり得るでしょう。一方、経済学者の中には、体にいくら値段をつけたら最も合理的な分配が成立するかという計算をするような人達もいます。そこで語られる経済は、同じ言葉であっても全くニュアンスが異なっているわけです。

発言者5:私は、本来、臓器移植医療は過渡期の医療であって、人工臓器のような誰にも迷惑をかけず、人の命をあてにしない医療が、行き着く先ではないかと思っています。

科学と社会の相互作用発言者6:12頁目の下の図に自然と純粋科学と社会の三者の関係図(左図)がありますが、この図でいうと、人文社会学系の研究者はどういう位置づけなのかが気になっています。先ほど科学者は一枚岩ではないとおっしゃいましたが、私は、ここでいう社会、あるいは市民というものも一枚岩ではなく、政府と市民で対峙したり分けられたりするところはあると思います。そこに権力関係とか政治的な関係も勿論含みこまれていると思います。そういう権力関係を含む形で考察をしていくとか、サイエンス・コミュニケーションのような自然科学者と市民側との相互作用を促進することも、人文社会学系の研究者に期待される役割の一つではないかと思うんです。先生はその辺りをどう考えていらっしゃるかお聞きしたいと思います。

A(山崎):この図の中に人文学者を位置づけるとしたら、全てに位置づくということになるでしょうね。例えば、研究室や実験室に入り込んで、科学者が何を考えて研究テーマを決め、どこからお金を引っ張ってきて、どういう方向に科学を推進しようとしているのかも含めて科学の活動を捉えようとする研究があります。それはもう、俯瞰的な位置にある、あるいはすべてを横断的にとらえようとしているわけです。
 もう一つは、図の中にトランスレーション1、2、3とあって、自然から社会に伸びている点線がありますが、人類学者にとっては、ここの動きも凄く関心のある部分です。例えば、気候変動や偶然の事故などが唐突に現れて社会を大きく変化させることがあります。津波なんて、まさにそうした例の一つでしょう。さらに認識のレベルでは、星座を見て占いをすることも含めて、人間は、自然を通して社会的な知識を作り出してきたわけですね。動物を見て、この動物は我々の祖先であると考えるような、これはトーテミズムと言いますが、それがある種の社会形態の母体になるといった人類の歴史もあるわけです。そういう意味で、人間が持っている知識は科学的知識だけでは全くなくて、自然からダイレクトに直感される知識が沢山あります。現代の日本でもそれは無数にあると思っています。例えば、臓器移植や脳死のような科学の先端と思われている領域でも、ある種の信仰のようなものが強い力を持つことがあります。それが何に依拠した知識なのかというと、たいていは経験とか直感から来ているわけです。あの時に物事がこういうふうになったんだから、こうに違いないというタイプの知識が、実践のレベルで物凄く沢山あるわけですね。それにも関わらず、公の、高校の倫理の教科書みたいなレベルでは、法律や科学の知識が優先されて教えられているので、当然その部分のアンバランスが出てきてしまう。そこをきちんと見ていく必要があるのだとすれば、それは人類学者なり人文学者の役割だと思います。
〔翻訳の図を説明すると〕例えば、科学者が森で動物の糞を採集して実験室に持ってくる。そこで糞の分析をして、その動物が何を食べているのかを研究して、それを、この動物の生態に関する知識として社会に還元する。これが、翻訳1から2を経て3に移行していくという科学の活動です。対して、それとは異なる知識の動き方は無数にあるはずです。日本の都市で生活していると理解しにくいかもしれませんが、例えば、アマゾンの世界では動物と人間の関係は非常に密接で、人間が動物の足跡や社会性から読み取っていることが、科学とは別のルートで社会に還元されるという知識の成り立ちがあるのです。そういうニュアンスですね。

 

発言者7:ドナーの家族の語りから「臓器移植は人類に何をもたらしたか」を考えていくと、人間が生きていくときに、「ああすればよかった、こうすればよかった」という思いがいつもあると思うんです。ドナー家族の方、あるいは、レシピエントの方に重ね合わせると、自らの決定を正当化する論理というか、「あの時はあれでしょうがなかった」「こうもできたけど、まあいいじゃないか」という慰められ方、あるいは、責められ方があると思うんです。他のことなら、みんなが互いに慰め合えるわけですよね、「俺のときもそうだったしね」って。でもドナーの場合は、経験しない上に1回限りです。臓器移植の場合は、その点で違うところがあるのではないでしょうか。

A(山崎):その点で決定的に大事なことは、相談できる相手がいないということです。私がこの調査をしたときに受け入れて頂いた組織の一つに「日本ドナー家族クラブ」がありますが、そこに参加しているドナー家族の方々にとっては、そこで定期的に相談会をやったりお互いに話し合うことで、さまざまな思いを共有したり昇華させているという機能があったと思います。
 一方、レシピエントの組織もあって、これは数からいうと比較にならない大きさです。そして、製薬会社や医療系の学会がサポートして患者会の運営を支援しています。レシピエントは、その意味でも移植医療における中心に位置しているわけです。
 でも、ドナー家族の方は、資金的な意味でもサポートされることはなく、組織の規模も小さい。私が関わった時でも、せいぜい10~20家族ぐらいの集まりでした。それ以上は増えていく様子でもなかったし、増やすための手段を持っていなかったようにもみえました。それが大きいと思いますね。そういう場所に行けば、似たような経験をした人がいて、「ああやっぱり貴方も」という話ができる。そういう場所がないと、変に話をしても逆に傷つくだけで自己防衛してしまうということを話していた方も多くいました。その意味でも、広い意味でのドナー家族のケアは、個々人の救済を目的とするというだけではなくて、医療システムとして考え直さなければいけないことではないかと思っています。患者ではないけれども、関わる以上はそうしたケアが必要になるはずで、そこが決定的に抜けている。だから、一度後悔をし始めるとそれを止めることができなくなったり、一度何かの疑念を抱いてしまうと、なかなかその迷いから抜け出せないということになる。普通であれば、色々としゃべっていくなかで納得して、落としどころをつけていけるということもあると思うんです。そうでないと、やっぱり本人が一人で抱えてものすごく大変になってくるのだと思います。

 

発言者8: 山崎先生の3ページの〔学生向け〕アンケート調査ですが、やっぱり知識がない段階でアンケートをとって、その後に、臓器移植の現状や脳死とは何かを教えた上で、再びアンケートをとり、集計するともっと違った結果になっただろうと思うんですね。
 1997年〔臓器移植法成立時〕と2009年〔同法改定時〕とを比べて、根本的な移植に対する考え方の違いは、97年には脳死を真剣に検討したが、2009年の方は、脳死は傍に置いて、臓器移植を中心にして政治家が動いていったという決定的な違いがあります。
 私自身はやっぱり、臓器移植は、命の格差、差別を増強するようなことでしかないと思います。脳死とは何かということを中心にした議論のときには、〔医者は〕患者と真正面に向いて、やっぱり命の問題を検討したんです。でも、2009年の改定の中では、「脳死状態でもうあなたの命は助かりません」「ところで、臓器移植ネットワークの方のお話を聞きますか」という形にすると。頭が真っ白になっている患者さんらにとってみれば、医者と素人の患者さん、あるいは家族とは、情報のものすごい格差があるんですね。そういう中では、医者が言ったら「はい」と答えてしまうというのは一般的だと思うんです。もうそこで、医者は免責されるのです。実際の命に、どう自分たちが関わりを持つかという考えを、そこで捨てちゃってもいいような。そういう意味では、医者の劣化をますます増強させる形になっているのが現実です。そういう意味で、人類にとって、〔臓器移植は〕命の格差と差別を増長させるもの以外の何物でもないと思っています。先生、せっかくここまでやられてきたので、もう一歩踏み込んだ調査と分析をやっていただきたいと思います。

A(山崎):この本を書いた後に、いくつかやっていることもありますが、やり方として難しいというのが今感じていることです。特にドナーに関して、どういうやり方をすると、もっと突っ込んだ話が聞けるのか、あるいは、もっと色んな人に会えるのか。色々画策をしていますが、なかなか難しい現状です。今ここで私が申し上げているような問題意識にまともに取り合ってくれる人が何人か出てきて、そういう方を通じてさらに調査ができないか、と日々思ってはいます。その成果をきちんとまとめるにはもう少し時間かかりそうです。

 

発言者9:私は、臓器移植に関する、二人の情報を得たことがあります。一人はドナー家族の方で、触れられたくないので話したくないという方。もう一人は、中国の死刑囚からの臓器提供を受けて10日後に中国で亡くなった方のご家族でした。掘り下げるお話はできなかったのですが、経験していろいろなことを知ればそれだけ臓器の提供も移植もいやだという気持ちになると言っていました。患者団体も移植を望む立場の人、意思を明確に出せない脳を損傷している人、様々です。双方の要望があるけれど、この“医療技術”は命を天秤にかけること、どちらかを犠牲にしないと成り立たないことが問題ですよね。

発言者10:遷延性意識障害、いわゆる植物状態の家族を介護している家族会を運営しております。先日、やまゆり園の問題を毎日新聞から取材を受けました。その時に、命の尊さというものが日本中でかなり軽くなっているんじゃないか。また、脳死が本当に人の死なのかという議論が、日本中でコンセンサスを取れていないんじゃないか。さらには、出生前診断をして中絶する方が増えているという報道。これらも含めて、もちろん犯人に対する怒りは全く別のところに置いたうえ、話をさせていただきました。もう一つ、安倍政権が言う「一億総活躍社会」について。家の子は、いわゆる、社会的な生産性を求める活躍ができるかというと、できないです。今生きている、それ自体が活躍なんじゃないのかと考えています。一つ気になるのが、日本の人口は1億3千万人位いるのに、1億って、ずいぶん大胆に四捨五入されちゃって。3千万人切り捨てじゃないかと。今の風潮は、どっちかっていうと全体主義的で、マイノリティがどんどん疎んじられている。メジャー指向のような流れで、この「1億総活躍社会」にも、もうちょっと目を向けていかないとと、そういうようなことを、記者と話しました。

A(山崎):以前、遷延性意識障害の状態の方がいらっしゃる施設で調査をしたことがあり、看護師と医者とご家族の方に先ほど言ったような「インタビュー」をして、それをまとめて2014年に論文にしました。その中で焦点をあてたことの一つは、言語以外のコミュニケーションの方法です。人と人とがしゃべっているときのコミュニケーションとは違うタイプではあるけれども、明確に分節化がなされていて、例えば、イエス、ノーみたいなことを何かのサインとして用いて意思疎通をするといったようなコミュニケーションが豊かに現場で行われているということが分かったので、そういうことを少し書いている論文があるんです。よろしければぜひ、読んでご感想いただけたらと思いました。
 もう一つ、命の捉え方が変わっているというテーマは、研究者としてはきちんと向き合わなければいけないテーマだと思います。先程申しましたように、その意味では、臓器移植は日本における非常に重要なテーマであると思います。これまで人の命を語るときに用いられていたいくつかの言葉のセットがあると思うんですね。それは、家族の言葉であったり、社会との関係も当然あったと思うんです。それらが色んなところで変化していて、例えば、子供の将来とかリスクとか、あるいは人口単位で見た場合の生産性などの言説が、医療以外のところから沢山でてきている。それは大きな時代の変化とも関わるのだと思いますが、それをトータルで捉えておかないと医療の現場で起きている変化を読み解けない。医療現場で起きていることが、実は全然違う労働政策と関わっているということは、大いにあると思います。それがもう少しはっきり言えるようになれば、また違う議論の組み立て方ができるのではないかと思っています。

 

(テープ起こし:川見公子/小宮山陽子)

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