OH江戸ライフ

パクス・トクガワーナ♪
とりあえず江戸時代っぽいものが好きなのです♡

江戸期の災害――善光寺地震

2016-07-27 | 江戸時代


というわけで、先日の観光取材旅行で思いがけず見つけた絵馬がコチラ。

これは、別所温泉エリアにある北向観音の中に奉納されていたもので、善光寺大地震というタイトルがついていました。

じゃあ、これはどんな場面を描いたものかといいますと、

「弘化4年3月24日(1847年5月8日)
お開帳でにぎわう善光寺を突然大地震がおそった。
尾張の国の市之助青い着物のニーチャン)は15人の一行と旅をしていたが、ゆえあって1人わかれて北向観音に参詣したのち、一行と合流し善光寺へ参詣した。
そこで大震災にあったけれども、1人だけ難を逃れることができた。
この絵馬には、その市之助が北向観音の御光りに導かれて、避難して行くありさまが画かれている。
その災難をまぬかれたお礼に奉納したのがこの絵馬である」
(『上田情報蔵』さまHPより引用させていただきました

で、この善光寺地震というのは、弘化4年3月24日(1847年5月8日)夜10時ころ、信州・善光寺平を震源として発生した直下型地震でマグニチュードは推定7.4。
これは、活断層が50~60㎞ほど動いて引き起こされた地震で、阪神淡路大震災以上の大きさだったようです。
この強振動により、家屋が倒壊し、くわえて火災も発生。


(地震発生直後の善光寺境内

(3日後、焼け跡で呆然とする人々


じつは、このとき善光寺では7年に一度だけ公開される秘仏のご開帳イベントがあり、全国各地から参詣人が押しよせており、市中は宿泊客でごった返していたのです
そして、そこに未曽有の大地震……
土地勘のない観光客は、倒壊する家屋からかろうじて難を逃れても、各所で発生した火災にまきこまれ、地震による全犠牲者・推定8000~12000人中、善光寺周辺での死者2500~3000人とか
一説によると、観光客の約9割が犠牲になったとも。

となると、あの市之助くんがいかにラッキーだったかわかります
(そりゃ、絵馬も奉納したくなるよねぇ)

しかし、この地震はこれだけでは終わらなかったのです
強振動によって、各所で斜面の崩落・隆起・陥没がおき、犀川では河道閉塞と閉塞箇所の決壊による洪水が発生し、下流の越後でも大きな被害をもたらしました

さらに5日後には今の上越市高田付近でマグニチュード6の誘発地震もあり、被害は拡大しつづけたようです


(虚空蔵山土砂崩落によりせき止められた犀川)

(犀川決壊)

(家屋が犀川決壊による洪水で押し流されるの図

なんか……これでもかこれでもかっていうくらいつぎつぎと……

で、最初の北向観音の話にもどりますと、天長2年(825年)に開創されたここの本堂は、ちょっとめずらしい北向きに建立されており、ご本尊は千手観音、現世利益だそうです。

そして、善光寺は北向さまと向かい合うような南向きに本堂が造られていて、ご本尊・阿弥陀如来さまは未来往生を助けてくれるんだとか。

つまり、この二つをお詣りすれば現在と未来両方フォローできるっちゅーことですわい
(どっちかだけだと「片詣り」って言われちゃうらしいよ

ほら、イチやんも、北向さま善光寺で九死に一生だったわけだしっ


突然ですが、北向観音にお詣りしたあとは、コレがオススメ

島屋菓子舗の厄除けまんじゅう
お宿のお茶うけにでたんだけど、いやもうビックリ~
皮はモッチリ餡はなめらか微糖。
ゴマ的には今までで一番ウマいまんじゅうかも
日持ち2日なので、友だちへのお土産にはちょっと…だけど、逆に言うと添加物一切入ってない証拠だからとても安心
うちは4人で15個買って、残ったら冷凍しようと思ってたけど、即完食だった

あ~、モミジきれいそうだし、秋にまた行きたいな~、別所温泉

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上田にいってきました~♡

2016-07-25 | 日記


『真田丸』熱に浮かされたオヤジをそそのかして誘って、行ってまいりました、丸抱え旅行~(けっけっけ

もちろんゴマは真田丸ではなく、松平伊賀守忠優(忠固)さまの長裃目当てだったわけですが…………



博物館に展示されてないじゃないかーっ!

…………

た、大河のせいで……展示史料が真田カラーに……
恐るべし……六文銭効果……
かくなるうえは、大河が終わったあとリベンジ再訪するしかない……
(長裃を見れば、身長とかがわかるんじゃないかと期待してたのに…グスン…

悔しいので、幕末関連の図録を買って帰りました

とはいえ、いいこともあったんです

今回泊まった別所温泉は、なんと上田藩主がよく湯治に訪れていた所だとか

なにしろ、別所温泉内の案内板に、そう書いてあったのです

【番所跡】
「江戸時代、上田藩主が別所の温泉に入浴の際、警護のために設けられた辻番所跡である。
大湯(今の公衆浴場)の脇に、真田氏以来歴代藩主の「お茶屋御殿」と称する保養所があり明治維新まで250年余も続いた。
当時の記録の一部を記すと、院内境橋西詰に一ヶ所、大湯入口小橋の脇に一ヶ所、薬師堂村橋に一ヶ所~(後略)」

この大湯というのが、ゴマの泊まった部屋(玉屋~)から見えた共同浴場なのです。
(大湯:木曽義仲・北条氏ゆかりの湯「木曽義仲が上洛前、側室・葵御前としばしば入浴していたので「葵の湯」とよばれていた。その後、北条義政が浴室を建て、北条湯ともよばれたが、その溢れ出る湯量の豊富さからのちに「大湯」と改められた」by別所温泉HPより)


つまり、チューさま(=忠優さん)もいらっしゃったかもしれない御殿が、ゴマの泊まった所に

チューさま、お傍にまいりましたぞ~
(あ~、シ

ちなみに、この案内板は大湯と北向き観音の中間地点にありました。


そして、もう一か所行った『海野宿』は、北国街道の宿場町。
ここの白鳥神社は木曽義仲挙兵の地だそうです。


(治承5年(1181年)6月、木曾衆・佐久衆・上州衆など3000騎を集結した小県郡白鳥河原はココの前だったらしい。でも、いまそれっぽい河原は見当たらなく……?)

それに、古民家好きアザラシ発狂必至、「殿、利息でござる」チックな町並み



(「うだつが上がらない」の語源となった「うだつ」)

ソバはうまいし、野菜もうまい

また行くぞ、信濃~



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明治大学博物館 コラム展 「お殿様の結婚事情」―内藤家文書にみる婚姻関係資料―

2016-07-23 | 江戸時代


大名婚礼行列図(江戸時代末期)


楊洲周延「千代田之大奥」より「婚礼 」


和宮様御参向行列附(江戸時代)

てことで、前回のつづきです。
こちらは、常設展ブースで展示されているもので、9月25日まで見ることができます
(あ、この三枚はテキトーに拾ってきた画像だからね博物館で探してもないよ


言うまでもなく、大名家同士の結婚は本人の意向などおかまいなしでドンドン進んでいきます。
当人が自分の結婚を知るのは、双方の家臣が相談し、全部決まってから。
だから、
「キレイなオネーサンがいい」とか、
「イケメンじゃなきゃ絶対イヤ
みたいな希望は一切考慮されません

で、気になる裏事情的な話では、内藤家5代目政和さんの妹・愛姫さんの場合、
持参金1000両(約6000万円)毎年附米(仕送り?)200俵(約1200万円相当)という条件で成婚したようです。
(うは~、金かかるな~ 

縁組が調うと、
結納(男→女)

合礼(女→男:お返しのプレゼント)

婚礼道具搬入(女→男:3日がかり)

輿入れ(内藤家の場合行列219人)

そしてこのとき家臣さんたちは、輿入れルートの調査、コース設定などまで事細かく決めていき、記録いたします(お疲れさまですぅ

いろいろ事前準備もすみ、さぁ、いよいよ祝言当日

スケジュール表的には、
(夜スタート)合杯(いわゆる三々九度)

御色直(着物・飾りつけチェンジ)

饗応(=宴会)

夫側親族との顔合わせ(てか、夫とすら初対面かもしれん)

部屋入り(部屋に入った新郎新婦に家臣からお祝いの品をプレゼント……って、いいから、さっさと出てってやれ

そして次の日、上級家臣たちとの御目見得、でいちおう終了。

あとは、姫様にお世継ぎが誕生すればパーフェクトっす

や~ん、も~、なにこの企画、おもしろ~い
ホント、明治大学さま、サイコー


あ、ちなみに、これは某講座で教えてもらったんだけど、

将軍の娘=姫君様
大名の娘=姫様(ひめさま)
旗本の娘=姫様(ひいさま)
公家の娘=~君様 ※なので「淀君」は決して蔑称ではないらしい。
皇族の娘=~宮様

なんですってー


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神さま、仏さま、明治大学さま 

2016-07-21 | 日記

城を背にした武将は松平家忠 右の寄せ手は石田三成軍 奥は小早川秀秋軍

先日記事にした『明大博物館特別展 譜代大名内藤家と戦』がきのうまでだったので、再度見てきました。

うーん、この絵巻、何度見ても泣けるぜぃ

これ見て泣けないような冷血漢には、佐幕派とは名のってほしくねーな

とくに内藤家長が片膝ついて弓を引いている姿には、ホント胸が熱くなる~


ところで。
徳川天下取りの大きな捨石となったこの伏見城の戦いですが、どうも家長さんと、守備隊総大将・鳥居元忠は籠城方針をめぐって対立していたみたいなのです

鳥居ちゃんの意見:
「この籠城戦は討ち死に必至。城を預かった大将として、『ボクは鳥居元忠だからね!そこらへんの雑兵といっしょにしないで!』と堂々と名のり、武士として華々しく討ち死にするっ! それが三河武士

これに対し、わが(?)内藤家長公は、
「あんた何いってんの? 
俺らのミッションはちょっとでも敵をここに引きつけて時間稼ぎすることでしょ? 
だからこういうときは、たとえ大将が討ち死にしても、それをかくして、まだどこかにひそんで反撃の機会を狙ってるんじゃないか?って思わせなきゃ!
そうすれば、敵は慎重になるから進軍速度も遅くなるし。
これって、古来からの兵法のセオリーでしょ!?」

鳥居ちゃんの反論:
「大きな声でちゃんと名のっとかないと、せっかく名誉の戦死したのに、『あいつ、絶対逃げたぞ』とか、あとあと言われるよ!
それに、ボクの首級が足軽風情の首とごちゃまぜにされてポイされるとか、マジありえないんだけど?」

家長公の再反論:
「てか、あんた、自分の名誉ばっか気にしてない? 
あんたの美学なんて、今はどーでもいいんだよ。
俺らが殿から命じられたのは『足止め』なの
ここでカッコよく死ぬことじゃないの

(……うん、ゴマは家長さんの方が正しいと思うぞ

で、落城まで意見が対立したまま。

そして。
慶長5年(1600)8月1日 二人は同じ城の中でそれぞれその信念どおりの最期をむかえたのです。

鳥居元忠(61歳):
城を背にしてすわり、堂々と名のったのち切腹。


内藤家長(46歳):
弓で敵を斃しまくるが、城内の甲賀衆の裏切りで敵軍乱入。
さらに城に火を放たれ、各所から出火。
「もはやこれまで」と悟った家長さんと息子の元長くん(庶子・16歳)は、燃えさかる松の丸の猛火に飛びこみ焼死。
当然ながら、家長父子の首級はいくら探してもついにみつからなかったとか。

あぁ、内藤ぉぉぉーっっっ!!!

徳川的には、この8月1日はメモリアルディにすべきですっ!(フンガー!)

……ん、まてよ?

8月1日って『八朔』の式日じゃなかった?
ヤッサン(=家康)がはじめて江戸城に入った記念日の。

そっか……

この日は、「初江戸城」だけじゃなく、きっと「伏見城のみんなありがとねby家康」の意味も込められてるのかも……。

うん、絶対そうだ、ゴマはそう信じるぞ。

にしても、明治大学さま、いいもの見せてくれてありがとう

次回は、明治大学博物館常設展の記事だよ~

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映画『武士の家計簿』観たよ~

2016-07-07 | 日記


いままで何回もテレビ放送しているのに、なぜか途中で寝落ちしてしまったり、開始時間を勘ちがいして前半見逃したりで、まともに観たことがなかったと、きのう気づきました

この映画は、いうまでもなく加賀藩御算用者のお話。

ワタクシゴトながら、某所での活動において13代斉泰公や14代慶寧さんには、たいへんお世話になっているので、加賀藩はとても他所様とは思えません
(…アチラにしたら大迷惑&ブチギレでしょうな

ところが、

(城マニア的には萌え~な金沢城

は、よいとして、映画のなかの犀川…



いやいや、これは近江八幡の八幡掘でしょ

だって、ここの遊覧船乗ったもん
日牟禮八幡宮境内のクラブハリエで買ったカレーパンおいしかったもん
だから、絶対まちがいない

さらにいうなら、前日の彦根で食べた「麺匠ちゃかぽん」の「13代目赤鬼うどん」は絶品だったし、


料理自慢のお宿「やす井」さんの朝ご飯が激ウマだったから、あまりお腹すかなくて、昼食=カレーパンだったんですごく覚えてるもん。



(別に回し者ではございません
ウマイものとリンクしたことしか記憶できない仕様になっていると言いたいだけです

ああ、また行きたい…。
なんで滋賀県って、ウマイものだらけなんだー
やっぱ、古民家移住するなら、滋賀がいいかも

(……あ、はげしく脱線してる

えーと、話しを金沢にもどして、と。

うん、金沢では治部煮、食べたな。


じゃなくて!

この映画では、すこしでも借金を減らすために骨董や着物、蔵書を売る話が出てきますが、江戸時代は三価のレートが刻々と変わったりしたせいか、貨幣に対する信用があまりなく、骨董品・茶道具はいわば現代におけると同じようなものでした。
つまり、貨幣価値が急激に下がったときに備え、比較的価値が安定している「物」で資産保全=リスクヘッジしてたんですな。

なので、あんなに一切合財キレイさっぱり家財を売り払っちゃうというのは、現代人が考えるよりもっと大胆というかオソロシイ決断だったりするわけです。

とはいえ、明治になって、禄がなくなり困窮したお武家さまがたは一斉に家財を売り出し、当面の生活費を工面しようとしたので、こうした物の値段が一気に暴落
漆塗りのいかにも由緒ありげな什器類も、家紋入り金蒔絵のお道具類なども、すべて二束三文で投げ売りされるありさま。
だから、わがド庶民バアチャン家にも、お殿さまの雛人形セットがあったりしたわけです
いわゆる質草らしい)

まぁ、そういう意味では、猪山さんちは、いいときに売り抜けたといえるかもしれませんね


しかし、ここ数年、江戸検のせいでヘンな知識がついて、時代劇を見てても、
「おい、武士が道の中央やや右寄りを歩くのはオカシイだろ?
 右を歩くと、武士同士がすれ違ったとき鞘当てでケンカになるから、武士は左寄りを歩くはずだ!
 それに向こうから来たヤツに突然襲われたとき、右だと迎撃態勢に入りにくいし
などと、ギャーギャー騒いで、
「いいから、黙って見てろっ!」
と、家族にキレられるのがデフォになりつつあり、最近ちょっと居心地が……ごにょごにょ…

**********
いっしょに彦根にいった家族から、ちゃかぽんで食べたうどんは十三代目(=直弼公)ではなく、二代目(=直孝公)赤鬼うどんだったとクレームがきました。

なので、つつしんで訂正させていただきます
(んなの、家族以外どーでもいい話だろーがっ

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