OH江戸ライフ

パクス・トクガワーナ♪
とりあえず江戸時代っぽいものが好きなのです♡

行ってきたよ~『真田丸展』

2016-04-29 | 日記


さてさて。
いろいろお宝があった中で、ゴマがもっとも感激したのはこちら(ただし色はもっとキレイだった


武田勝頼ファミリーの図
(正式名称は不明。図録高かったから(2200)買わなかった

 「か、勝頼さまーーーっ!!!」 
もう…もう…もう……ウルウルですよ……
だって、武将の肖像画で子どももいっしょの、ましてや奥さんつきって他にあります?
(あったらゴメンね。こっち方面うといもんで……でも、家康&家光のはあったな)
しかも、なんかアットホームというか、お互い信頼しあったいい家族っぽいんだな、これが(泣ける~

武田氏のことになると、どうしても先代の信玄アゲー、勝頼サゲーで語られることが多いですが、はたして武田滅亡の原因は勝ちゃんだけが悪かったんでしょうか?
(どうしたんだよ、いきなり熱くなって
そもそも、オヤジの時代と勝ちゃんの時代では、武田家を取りまく状況がガラッとかわっていたんですっ!

オヤジのころは、あの信長もまだ周囲を敵に囲まれてヒーヒーいってた時代。
「信玄上洛!オレのとこにも来るー」でパニくってたら、なんとラッキーなことに信玄公急死
そのうえ、もうひとりの戦巧者・上杉謙信もほどなくポックリ
戦国一、二を争う両雄の死で、信タンは周辺の敵を各個撃破する余裕ができたのです。
なので、勝ちゃんのころには、以前とは比べものにならないくらい強大になった織田(&徳川)軍とモロに向きあうハメになっていたわけです。

そして、これは案外盲点かもしれませんが、信玄時代の軍資金だった甲府金山が勝ちゃんのころにはあまり取れなくなってきていたらしく…ダブルパンチっすね。

さらに、武田信玄には成人した男子が七人ほどいましたが、
長男は廃嫡され、二年後に死亡。
次男は盲目。
三男は二十歳で夭折。
四男が勝ちゃんで、諏訪氏(高遠諏訪氏)に養子に出されたため、最初は「諏訪四郎勝頼」と名のっていました。
ちなみに、勝頼の「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は信玄の幼名「勝千代」からもらったものだそうです。
おつぎの五男は他家を継承(=仁科盛信)。
一族・重臣が情け容赦なく勝頼を裏切る中、この異母弟は信長の甲州征伐の際、最後まで抵抗し討死しました
六男も駿相国境の領主・葛山氏の養子となっていましたが(葛山信貞)、信長の甲州征伐で兄・勝頼が自刃したあと、甲府で自刃。
七男は最初オヤジの命令で仏門に入っていましたが、オヤジの死後、勝ちゃんの命で還俗。
武田氏滅亡後は姉さんの嫁ぎ先(上杉家)を頼って落ち延び、そのまま上杉さん家の家来になりました。

こんなにズラズラならべて何が言いたいのかというと、ようするに、
こんなに何人も息子がいたのに、あのオヤジは後継者育成をうまくやれなかった!
ということっすよ

なにしろ、信玄なきあと勝ちゃんが家督をつぐと、養子先から本家に出戻ってきたことをよく思わない家臣も多く、「勝頼は、勝ちゃんの息子・信勝が大きくなるまでの中継ぎだから、ね?」と言ってなんとなく納得させたという話も伝わっています。
そんなアゥェイ感いっぱいの家中を勝ちゃんは必死でまとめ(古参のジジイばっかで、やりにくかったろうなぁ)、日に日にデカくなる織田に対抗していたんですねぇ
お疲れさまですぅ
なのに、最後はみんなに裏切られ……ぅぅ……


NHK的にはこちら「武田勝頼役・平岳大」

でもさ、しつこいようだけど、やっぱあのキャスティングはダメだよね。
前にも書いたけど、
武田勝頼 37歳
真田昌幸 36歳
つまりほとんど同年。

ドラマの第1回で、真田パパが、
「うちの城(岩櫃城)にいったん退却して、いっしょに再起を計りましょう!」と言ったのに、勝頼は小山田信茂の岩殿城を選ぶ裏切られる自刃。
「なんで真田の方に行かなかったんだ?」と思ったけど、小山田は信玄の親戚筋(従甥)でちょっと年上(42、3歳)だったから、いちおう顔を立てなきゃ的な部分もあったのかなぁ……なんて思っちゃいました(ぐすん)

そんな報われないことばっかの勝ちゃんですが、なんと
「勝頼はじつは死んでなかった説=土佐落人伝説
ちゅーのがあるんですねっ!

それによると、死んだのは勝ちゃんの影武者で(オヤジだけじゃなく、君にもいたんかい)、一行はしばらく諸国を転々としたあげく、甲斐武田氏の傍流「香宗我部(こうそかべ)氏」のもとに身をよせ、そこに落ち着いたというのです。
香宗我部という名でわかるように、ここはかの有名な長宗我部氏の支配地で、元親さんも勝頼たちの素性は承知の上でかくまったとか。
そして勝ちゃんは土佐という新天地でそこそこ活躍し、64歳で亡くなったそうな

この話が本当だったら、ちょっと救われる……(合掌)

(……すいません、真田丸展なのに勝ちゃんオンリーになってしまい、真田的要素は皆無でございました

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天敵・豊臣

2016-04-28 | 日記



お題のひとつ醍醐地区といえば……三宝院しか思い浮かばない
醍醐=三宝院=秀吉の花見

出たな、天敵・豊臣ーっ

托卵秀頼くんもアレだけど、アタクシ、秀吉=はさらにキライなんだよねっ

よくを人心掌握に長けた「人たらし」などと評するけど、ゴマが同時代に生きてたら、
「ケッ、ミエミエバレバレだい好かんわー」なんか言いまくっちゃって、本能寺の変後に滅ぼされるのは確実

とはいえ、羽柴さん家の中では小一郎秀長さんは好きなんです
とちがってイヤラシイあざとさはないし、有能な内務官僚っぽいから。

一説によると、が晩年急に残忍でオカシクなったといわれるのは、アレこそが本来の性質で、それまでのプラス評価だった部分は秀長がフォローしてた(またはほとんど秀長がやっていた)たからだという話も。
だから秀長が亡くなったとたん、秀次一族皆殺しとか朝鮮出兵とかのような「頭だいじょうぶ?」方向にいっちゃったんだそうで。
うんうん、すんごく説得力あるわぁー

(……あ、思いっきり脱線してる

三宝院ねぇ……1度だけ行ったなぁ。
だけど、いっしょに行った友だちが最悪で、旅行直後に縁切りしたというダークなオマケつき。
全然いいイメージないなぁ
てか、京都自体もなんかなぁ…だし
ゴマは単純な江戸っ子()だから、「ぶぶ漬けでも」って言われたら、まさか「帰れ」の意味だなんて夢にも思わず、
「あっざーすゴチになりまーす」とか言っちゃうもん。
帰ってほしいなら、ズバッと「帰れ」って言やーいいじゃん、「帰れ」ってさー
裏表はげしすぎ
しかも、歴史長いだけにあちこちにヤバイのいっぱいいそうだしたとえばこんなの
コワくて街歩きもしにくい……八つ橋なら近所のスーパーでも買える……美濃吉だって大宮のデパートに入ってる……ぐちぐち……

(すいません、Twitterやらないもので、ここしかボヤく場がないんですぅ



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やっぱムリ……

2016-04-27 | 日記


な、なんかヘンな発表キター

第13回京都・観光文化検定試験(平成28年12月11日実施)

公開テーマ問題

〔3級〕京のおみやげ

〔2級〕山科・小野・醍醐(関係あるのはここだけ

〔1級〕京の七口と街道

ところが、発表はさらにつづく。

このたび京都・観光文化検定試験公式テキストブックを6年ぶりに改訂し、『新版京都・観光文化検定試験公式テキストブック』(発行:淡交社)として28年6月下旬に発行することになりました
これに伴い、経過措置として第13回京都・観光文化検定試験については、出題に使用するテキストを以下のとおりとします。


3級
『新版京都・観光文化検定試験公式テキストブック』および従来の『京都・観光文化検定試験公式テキストブック(増補版)』のいずれにも記載がある内容から90%以上を出題
2級
『新版京都・観光文化検定試験公式テキストブック』および従来の『京都・観光文化検定試験公式テキストブック(増補版)』の いずれにも記載がある内容から70%以上を出題
1級
『新版 京都・観光文化検定試験公式テキストブック』および従来の『京都・観光文化検定試験公式テキストブック(増補版)』のいずれにも記載がある内容準拠して出題


ただし、上記の範囲外とて出題する問についは『新版 京都・観光文化検定試験公式テキスブック』に新たに追補した、増補版に記載がない内容となる場合もあります

※『京都・観光文化検定試験公式テキストブック(増補版) 』出版以降に変更があり、『新版 京都・観光文化検定試験公式テキストブック』でその変更が反 映された内容については、いずれのテキストをお持ちであっも不利にならないよう取り扱います(例:石清水八幡宮本社10棟の国宝指定など)

なお、第14回京都・観光文化検定試験(平成29年12月実施予定)以降については『新版京都・観光文化検定試験公式テキストブック』から出題を予定しております。

…………
Amazonで公式テキスト買ったばっかなんですけどーっ
やっぱ、受検、中止していいっすかーーーっ!?

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いろんな意味で前途多難(汗)

2016-04-25 | 日記


仕方ないのでテキストを開いてみました……、
しょっぱなから【1 平安京以前の京都】
おい
以前ってなんだよ、以前てーっ
そこからはじまるのかよーーーっ
(うげうげ…ムリィ~
と、泣いていてもはじまらない。買っちまった以上はやるしかない。

そうだ……幕末政治の舞台は京都じゃん
小御所会議の開かれた恨み骨髄の現場・京都御所内の『小御所』


ってことは京都を知る=徳川の敗因究明につながる…かも
なら、御公儀の御為にいっちょがんばるかー


同じく京都御所内『皇后御常御殿』

あ、そういえばみなさんご存じでした?
今この国には『皇后』はいないんですよ
じゃあ、アレはなにかというと、
天皇アキヒトの妻妾・正田美智子です(証拠映像)

外国メディアではこのような字幕がつきます。
(もし『皇后』と認められていたら、この場合『Kaiserin(カイザーリン)・Michiko』となるはず)
これは国連がいってるのとは逆の意味でわが国の報道機関がヒドイため、国民にはオープンにされていませんが、諜報網が発達したイギリスなどではミッチーの出自も全部バレバレで(口に出すのもはばかられる…というところでお察しください)、クィーン・エリザベスさまなど異国の高貴な方々とは対等にお話できる身分ではないこと(早い話が超貴賤婚)はよーく知られています

知らぬは日本人ばかりなり……なにが皇室外交だよ

ちなみに、この超絶貴賤婚は2代続いており、今のところ次代だと思われているロイヤルニートカップルの方も、
プリンス徳仁と彼の妻・小和田雅子』と紹介されます。
(東日本大震災の1か月後に娘のお楽しみパーティを開催した筋金入りの冷血バカップル

では弟宮さまの方はといいますと、
『プリンス秋篠とプリンセス紀子』という字幕。
紀子さまのご先祖は会津藩士なので騎士(ナイト)階級=プリンセスの称号にふさわしい御方と認識されているようです

つまり、『皇后美智子』というのはもともとの出自もアレだし、皇室典範に定める【立后会議】で承認もされていないため、完全な僭称なんです

しかもこの人、入内に際しても大ウソこいてますしね。
天皇家=神道のトップの家なので、当然そのお相手には洗礼をうけたバリバリのキリシタンはご法度。
だって、キリスト教のような一神教は自分以外の神はすべて邪神という教え。
一般人同士の結婚なら信教の自由は認められるけど、天皇家の皇祖神・天照大御神を邪神と貶める娘を入内させるのは双方にとってマイナス。どう考えたってダメでしょ?

なのに、正田さん家は両親はじめ親戚縁者みんなカトリック教徒。
さらにミッチーはウィキペディアによると、
『1957年(昭和32年)聖心女子大学文学部外国語外国文学科(現:英語英文学科英語英文学専攻)を首席で卒業。
在学中はクラスの福祉委員(ウェルフェア・メンバー)委員長、プレジデント(全学自治会会長)としても活動していた。卒業式では総代として答辞を読んだ』って書いてあるよ?
カトリック大学の総代になれる=洗礼をうけたガチのキリスト教徒以外はありえない(そりゃそうだ)
ミッチーは幼稚園~小中高、やはりカトリック系学校法人雙葉学園卒。
親戚縁者もカトリック教徒だらけ。
そのうえ総代?
洗礼受けてないわけないじゃん!
本当は受洗してるのに、何度念を押されても「洗礼はしてない!」と言い張って皇室に入ったのか、すごいなぁ

でもさぁ、キリスト教徒ってウソはついちゃいけないんじゃなかった
カトリック系教会幼稚園出身のゴマは、園長先生=神父さんにそう教わったよ?

あと、これは関係ないかもしれないけど、ウィキには『首席』って書いてあるけど、この成績で???


A=46 B=26 C=4

えー、Cが4つもあったのに
それとも『首席』もウソなの?

さらにさらに、もっとビックリなのは、かの有名なテニスコートの恋もウソだったとか
なんでもミッチーは、「婚活するなら若い方が有利」という親の方針で(お水の世界の話?)、15歳のころから竹山パーティーというエリート対象の婚活パーティーで大人の男性とダンスを踊っていたんだって
ええ、あの年代で
それにミッチーはお茶もお花も苦手というか習ったことないらしい(とんでもなく無惨な生け花の証拠写真あり)
あの当時の良家の子女なら当然身につけていておかしくない素養はゼロ。
反対にイイところのお嬢さまならたしなまない太もも丸出しのテニスや、いかにも悪い虫がつきそうな(いや、そこが狙いか)ダンパ参加。
口グセは「ヤバイ」
結婚直後、取材に来た新聞記者にタバコの火をつけるサービス(シロウトさんじゃなさげ…
結婚後、「御徒町が恋しい」とぼやいていたこと(当時の御徒町はけっこうヤバめな町。お嬢さまが行くような場所ではなかったらしい)
(なんかいろいろ見ていくと、お嬢さまどころかヤンキーぽくない

でも、こんなにがんばったのにお見合いは連戦連敗(25回)。
(第三十一回 国会衆議院 内閣委員会でそれについての審議あり)
26人目がアキヒトさん。
しかも、この婚約発表のイキサツがじつにアヤシイ。
1959年11月17日 アメリカ・ニューズウィーク誌が「皇太子妃決定」を報じる。
     11月27日 皇太子妃についての皇室会議がはじめて開かれる。
公式発表前(てか、これについて話し合いがもたれる前に)に海外でリーク
既成事実化してから、強引に認めさせる
うわ、謀略のニオイがするー

だって、このころの男女交際ってイマイチよくわからないけど、あのぐらいの年代でこういうのはアリなの?


うちのママンはミッチーよりはるかに年下で、良家の子女なんかじゃないただのド庶民だけど、大勢の人が見ている前で、こんなフシダラな痴態はありえないよ
……こりゃ絶対ハニートラップでしょ
アキヒト……まんまと引っかかったな……なさけない……こりゃ後世の歴史家に『天災天皇・ハニートラップにハメられ、国外から冷笑された超貴賤婚エロエロ帝』とか言われちゃうんだろうな……

(あれ、なんで今日は社会派っぽい内容になっちゃったんだ?
地震で脳内まで崩壊しちゃったのか?)

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なんなの、いったい!?

2016-04-24 | 日記


ワタクシの中では「コレはない」と結論づけていた京都検定……。
なんの因果か、受検するハメになってしまいましたーっ
なんでも、
「ここのところずっとダラダラゴロゴロしてるけど、イクナイ」(それは否定しない)
「江戸受かったんなら、京都だってイケルはず」(意味不明)
「京都に行かなくても受けられるからダイジョウブ」(たしかに受検会場は同じ明大……)
「江戸検は11月だけど、京都検定は12月だから余裕綽々」(意味不明Ⅱ)

で、いつのまにか家族が公式テキスト申しこんでたー

だけどさぁ、神君家康公ラブのゴマは、太閤アゲーな上方気質はそもそも肌があわんのじゃい

だいたい秀頼なんて確実に托卵じゃん
(20人いたといわれる秀吉の側室のうち、のちに家臣に下げ渡された数人の女性は子供を産んでいるこれにより、女性側に原因のある不妊ではないことは確実。
にもかかわらず、淀殿のところにだけ立てつづけに2度も子が…ほらね
だれの子胤かわからんガキに、何度も生命の危機を乗り越えて、ようやく手にした天下を譲るアホがいるかよ
当の秀吉からして、本能寺の変直後は信忠の遺児三法師を利用して主家を立てるフリしながら、半ば統一しかかってた天下を乗っ取ったみたいなもんじゃないか
家康くんは最晩年まで戦場にたち続け、実力で天下取ったんじゃい
自分の城が攻められてるつーのに、1度も出陣することなく滅んだどこかのヘタレとはちがうんじゃー
恨まれる筋合いはないっ
くやしかったら武人らしく正々堂々と戦場に出てこいっ

それに、あれはただダラダラしてたんじゃない!
熊本城ショックで鬱って脱力してただけだー!


家康ざま~、だずげで~


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