さきほど見終わった「青天~」に、モヤモヤが止まりませぬ。
なんといっても一番腹がたったのは、小栗さまの最期。
バカヤロー!
三河以来の大身旗本のエリートぼっちゃま&シティボーイだった小栗さまが、ベロの上にネジ乗せて披露するような、お下品なマネ、するわけないやろっ!
では、本当はどのような最期を迎えられたかといいますと、
「慶応4年(1868)閏4月4日、小栗は東山道軍の命を受けた軍監豊永貫一郎、原保太郎に率いられた高崎藩・安中藩・吉井藩兵により東善寺にいるところを捕縛され、閏4月6日朝4ツ半(午前11時)、取り調べもされぬまま、烏川の水沼河原(現在の群馬県高崎市倉渕町水沼1613-3番地先)に家臣の荒川祐蔵・大井磯十郎・渡辺太三郎と共に引き出され、斬首された。
「死の直前、大勢の村人が固唾を飲んで見守る中、東山道軍の軍監に対して、小栗の家臣が改めて無罪を大声で主張すると、
小栗は「お静かに」と言い放ち、「もうこうなった以上は、未練を残すのはやめよう」と諭した。そして原が、「何か言い残すことはないか」と聞くと小栗はにっこり笑い、「私自身には何もないが、母と妻と息子の許婚を逃がした。どうかこれら婦女子にはぜひ寛典を願いたい」と頼んだという。」
(ウィキさんより引用)
これよ!
あの小栗さまはこういう高潔なオサムライさんなのよっっ!
まぁ、そうは言っても、今回の大河では、アタクシの御贔屓の杉浦譲(愛蔵)さま(若干19歳で甲府徽典館助教授となる期待の御直参)が初めてスポットライトを浴びたり、
(真の郵便の父はこの人なのに! 若くして過労死しちゃったせいで、すべて前島の手柄にされちゃったんだ!)
あの慶喜の弟とはいえ、渡欧四ヶ月にして、フランス語で日記を書いた努力の人・昭武ちゃん
という、ステキな方々がお出ましあそばすので、けっこう評価はしてはいます。
にしても、血洗村の若者たちがヒドイ目に遭っちゃったのは、全~部、尾高のあにぃのせいだと思うのですが。
岡部藩が早期にコイツをとっ捕まえて、「尊王攘夷思想をレクチャーするな!」と厳重注意していたら、長七郎や平九郎くんたちも、あんなふうにならずに、平和な御百姓のままでいられたんじゃないかと思えてしかたありません。(合掌)
(にしても、本日の怒り第二弾は、配役テロップに名前が出ていた松平容保・定敬の高須ブラザーズが、「え!? どこにいるの???」状態で、6時のBS、8時の地上波両方見たけど、ついぞ見つからなかったことであります)