OH江戸ライフ

パクス・トクガワーナ♪
とりあえず江戸時代っぽいものが好きなのです♡

甲州に行ってきました

2024-06-07 | 江戸時代以外の歴史関係

こんばんは~。

あさイチ、バイト先で棚を倒して、瓶詰めジャム十数本を廃棄処分にしたゴマで~す 

(クビになる前に、速攻で、転職先探したほうがいいかもしれん 

 

はてさて、先日、ゴマはとある目的で甲府に行ってまいりました。

 

というのも、例の小説がらみで、ある方にごあいさつにうかがったのでございますです。

 

めざす場所は、甲府市にある入明寺。

こちらには、武田信玄の次男・信親(号:竜宝、竜芳とも)さんのお墓があるんです。

(屋根は最近できた? 墓石はかなり風雨にさらされた感じです)

(墓前には、このような説明書きがありました)

 

信親さんは、信玄の正室・三条の方が産んだ男子で、堂々たる嫡流のお血筋でしたが、幼少期に疱瘡にかかって失明してしまい、後継者レースからは脱落。

とはいえ、信玄の信濃侵攻で下した海野幸義の娘との政略結婚で、海野氏の名跡を継ぐことになりました。

(海野って、もしやココ?  )

(海野宿。ソバがうまかった  )

 

―― おっと、脱線しちゃたぜ。

 

永禄8年(1565)、信玄嫡男・武田義信は父に反して廃嫡されますが、信親は盲目。

同母弟の信之はその12年前に11歳で夭折していたので、結局、家督は側室腹の四男・勝頼が継ぐことになったのです。

 

ところが、その17年後の天正10年(1582)、信長連合軍による武田領侵攻が起き、信親は入明寺にかくまわれますが、勝頼が天目山の戦いに敗れて自死すると、信親も「もはやこれまで」と、この寺内で自害(他殺説もあり)

 

余談ですが、この『天目山』(地形としては峠らしい)という場所は、武田氏にとって因縁の地のようで、勝頼の敗死からさかのぼること165年の応永24年(1417)、甲斐源氏13代当主で甲斐国守護大名・武田信満が、鎌倉公方と上杉氏の争いにまきこまれてここで自害しています。

(えぇ~、怖っ )

 

さて、拙作に関係するのは、じつはこの信親さんではなくて、その嫡男・信道と息子の信正のおふたりです。

信道の生母は、信親の正室(穴山梅雪の娘。梅雪は武田一門)なので、正真正銘この方も嫡流となります。

なんなら、勝頼ッチより血統がいいっすね。

当然、織田方の落ち武者狩りで落命してもおかしくないポジションでしたが、当の信長が本能寺の変でアボンしたことで状況はガラリと変わります。

運よく、甲州の新たな主となった徳川家康の庇護を受けられたのです 

 

ところが!

ホッとしたのもつかのま。

家康に見いだされ、財政担当のテクノクラートとして出世していた武田家遺臣・大久保長安(元の名は土屋長安。大久保姓は寄り親の大久保忠隣より拝領)から経済的支援を受けていた信道は、長安死後に起こった『大久保長安事件』に巻きこまれて、伊豆大島への配流という憂き目に。

(なんてこったい!  )

 

しかも、この大久保長安事件というのが、とんでもなくキナ臭く、三度のご飯より陰謀が大好物なゴマでさえ、ドン引くほど凄惨な事件でした。

 

ことの起こりは、慶長18年4月25日に長安が病死したことからはじまります。

葬儀をおこなおうとしていた一族に、家康から突如待ったがかかり、横領の疑いで、息子7人全員が切腹を命じられました。

7人のうち、最年少の子は当時数え年15歳。しかも、すでに僧籍に入っていました。

これは、罪を逃れるために出家していたわけではなく、このころ男児がいっぱいいる家では天皇家も公家も武家も、分与する財産がない、または家産が散逸するのを防ぐため、何人かは出家させて、万が一後継者に子ができなかったり、跡継ぎができる前に早世してしまったりした場合の、いわば血のストックをしてリスクヘッジする慣行があったのです。

そして、一族が罪を問われて処分を受けたときでも、通常、僧籍に入っている者は、その対象から外されるものですが、この事件では、横領等に関与したとは思えない年少のお坊さんまでも死罪になっています。

 

さらにアヤシイのが、長安は死の直前、なにかを察知していたのか、藤堂高虎あてに石見銀山・佐渡金山・伊豆銀山等の勘定は慶長14年分まで決算が済んでおり(つまり、上層部のOKが出ている)、慶長15年以後については部下に決算作業依頼中との報告書を出して、「自分は公方さまのものを横領してない!」と訴えたようなのですが、結果はこのとおり。

訴えは握りつぶされてしまったんでしょうか?

(藤堂高虎なら、家康の指示でやりそう!)

 

長安事件に巻き込まれた武田親子は、長安から資金援助を受けて武田家再興を謀っていた!、と言いがかりをつけられて流罪。

信道は寛永29年、故郷にもどることなく、伊豆大島で亡くなってしまいます。

息子の信正は、寛文3年(1663)、家光の十三回忌に際しての赦免があり、江戸にもどることができました。64歳のときでした。

当時としては相当なご高齢だったにもかかわらず、信正さんは意地で(?)子をもうけ、みごと嫡流の血をつなぎました

その子・信興は高家旗本として、家名再興を果たしたのです。

 

ゴマ的には、この親子をもっと早い段階で救出したいと考えているのです。

ファンタジーっすから、なんでもできるのさ、エッヘン <(`^´)>

 

 

にしても……一族根絶やしにしなきゃいけない秘密がある事件。

かなりヤバイ背景がありそうです。

真相はいったい……???

磯田道史先生あたりが、未知の古文書を発掘して、解明してくれないかなぁ。

 

今回の旅行は、さすがに伊豆大島までお墓詣りには行けないので、パパ上の信親さんのお墓にもうでて「よろしくお伝えください」とお願いしにうかがったわけです。

 

 

(追記)

この旅行では、はじめて甲斐善光寺にも行きました。

宝物殿は、ホントお宝の山ですぞ! 

頼朝・実朝像は、亡くなったすぐあとくらいに作られたものだから、たぶんご本人によく似ているはず。

一見の価値あり!

甲斐善光寺。雨で参拝者も少なくて、ゆっくり参拝&お宝拝見できました。

ラッキー

 

 

 


ウクライナに栄光あれ!

2022-03-28 | 江戸時代以外の歴史関係
この一ヶ月ほど、もともと低いテンションが地の底にまで落ちてしまい、某所への投稿も滞り、たびたびお叱りをいただいております 

ええ、そうです、あの件でかなりメンタルやられちゃいまして……



破壊されたキーウ(キエフはロシア語読みだそうで)




以前は美しい古都だったのに 


(本日は対露戦意を盛りあげるため、BGMはNHKドラマ『坂の上の雲』より「天気晴朗ナレドモ波高シ」と、「日本海海戦」であります)


リヴィウは……



侵攻前は、こんな素敵な街でした 








廃墟と化した街を見ていると、アレを想起してしまうんですよね


(数千発の砲撃を受け、ボロボロになった会津若松城)

しかも、











非武装の民間人・病院・学校を攻撃するとか……非道ここに極まれり!

八百万の神&異国の神様s、プーに天罰を!!!



ところで、よく「大国ロシア」なんて言われますが、その大きさって、じつは思っているほどでもなかったりするんですよね。


(水色部分が一般的によく見る世界地図のもの。実際の国土は深緑色のサイズ)

「あれ? 案外、小っちゃ……」と思いません?

これは、いつも見ている世界地図がメルカトル図法によって描かれていて、等角航路が直線で表されるため、海図・航路用地図として使うには問題ないのですが、高緯度の部分は実際より、とんでもなく拡大されて表されちゃうからなのです 

で、日本はというと、



意外に大きい!

と、いうことは『坂の上の雲』のナレーション「まことに小さな国が開化期を迎えようとしている」は、全然まちがっとるー!

平和ボケした日本人は、「こんな小っちゃな、しかも天然資源もあまり潤沢じゃない日本なんて、戦争してまでほしがる国なんてないっしょ?」と、思いこんでいるかもしれませんが、とんでもない!

国土もそこそこあり、領海+排他的経済水域にいたっては、面積約447万平方㎞、なんと世界第6位のデカさです!

そんな国が他国から狙われないと本気で思えますか?

実際、島根県の竹島は日本固有の領土でしたが(根拠となる歴史的資料多数あり)、第二次大戦後、韓国による軍事侵攻で、日本の民間人多数の死傷者が出、4000人ちかくが捕虜となり、以降、武力による不当な実効支配状態がつづいている ―― ようするに、現在進行形で侵略され中!
まさに、いまのウクライナと同じです!

さらに、このときの4000人の人質を盾に、日本国内の不法滞在者=朝鮮民族に特別永住権をもぎ取られてしまいました。

この朝鮮人たち、終戦直後には300人弱しかいなかったのですが(☜ その人たちには、終戦後、朝鮮半島に帰りたいかどうか意向を聞き、希望して日本に残った)、そのあとの済州島四・三事件や朝鮮戦争で、20~40万という大量の難民が密航してきました。
当時の首相・吉田茂は、「終戦直後で日本人だけでも餓死者が出るほどの食糧難の折、こんな大量の難民を引き受けることはできない!」とマッカーサーに訴えましたが、「はいはい、すぐなんとかするから、ちょっと待って~!」といいつつ異動になってウヤムヤに……。だから、強制連行で日本に~というのは真っ赤なウソなのです!

閑話休題

そして、中国は、尖閣諸島周辺に天然資源があるとわかるやいなや領有権を主張し、現在、実効支配の機会を虎視眈々と狙っており、おまけに「沖縄は、もとはといえば中国領」てなことまで言いはじめています。

そこに、最近ロシア艦が北海道近海をウロウロしはじめ、日本近海に向けた北朝鮮のミサイル……

そうした状況下、周辺国が「自国民が日本で虐待されている!」という口実で侵略してきたら、日本は抗うことができるんでしょうか?

なので、

ウクライナの惨状は、けっして対岸の火事ではありません!

明日の日本の姿、そのものなのです!






Save the World!

#ウクライナ侵攻

「わしは、こんなとこ、来とうはなかった!」(うそうそ)

2019-12-17 | 江戸時代以外の歴史関係
てなことで、越後ツアーネタ第二弾ですぞ 


『北越雪譜』装備の温泉宿を出たゴマたちは、トレンタ君でお出かけ~

目指すのは、「雲洞庵の土踏んだか」のキャッチコピーでおなじみの(?)あの『雲洞庵』どす(南魚沼市)



ここは、奈良時代、藤原房前(あの有名な鎌足たんの孫)の生母が出家して庵を結んだ場所で、裏の金城山から湧き出る霊水で多くの病人を助けたんだとか。


(霊水って、これ?)

で、その尼さんが亡くなったあと、息子の房前がこの場所に母の菩提を弔うために京から持ってきた薬師如来像を安置するハコモノを造ったのがお寺の起源だそうです。

つまり、1300年くらいの歴史があるちゅーことですな 

それからしばらくは藤原家の尼僧院として(律宗)、女性救済の役割を担ったみたいなのですが、室町時代中期頃(15世紀)関東管領・上杉憲実(1410~1466、山内上杉家8代当主)がこの庵を譲り受け(?)、曹洞宗の禅道場となしたのが現在につながっているそうな。





(赤門:めっちゃ古いでー

そういう関係で、この寺で上杉謙信の養子・喜平次(のちの上杉景勝)と、おつきの与六(のちの直江兼続)がお勉強したそうなんですよ。

ええ、アレですよ、アレ。

「わしは、こんなとこ、来とうはなかった!」 の 「こんなとこ」 がまさにここっちゅーことですわい 

てなことで、本日の一曲はこちら


そんな由緒正しい古刹なので、ここは越後国筆頭の格式あるお寺だそうです 


行ったのがちょうど晩秋で、紅葉がきれいでした~ 
(ええトコやった~









(石仏の苔むしぐあいもホントイイ感じですぅ



……それはそうと、気になるのは、ここの開山堂というところに、徳川家康の位牌なるものが安置されていることなんです 


しかも、ひとつの位牌に家康~家治までの院号が列記されてるんですよ

(さらに家康のは、院号の「安国院」ではなく、「東照大権現」になってるし)


なんで、越後に徳川の位牌が

なんで、家治(浚明院)までなの


だれか、教えて~~~