OH江戸ライフ

パクス・トクガワーナ♪
とりあえず江戸時代っぽいものが好きなのです♡

松平忠輝長男・徳松の死の真相に迫る! ②

2020-10-30 | 江戸時代
昨日に引きつづき徳松周辺の事情を、大胆かつ妄想的に考察していきたいと思います 

今回は、忠輝改易後2人がどこに軟禁されていたかを、何の資料もなしに独断で推測します。

それは、ズバリ「お竹・徳松は、忠輝の改易後、岩槻藩に預けられた!」です。

「え~、それじゃあ案内板は正しかったんか~い」というブーイングが聞こえてきそうですが、それは早計。

つまり、正確にいえば、
「徳松たちは、当時岩槻藩主だった高力忠房に預けられたのではないか」
ということです。


元和2年に藩主だった高力忠房は、岩槻藩初代・高力清長の孫で、父が早世してしまったため、祖父・清長の薫陶を受けて育ちました。


(祖父・高力清長の墓石。徳松の供養塔の横にありました。忠房のお墓は京都にあるそうです)

高力家は、代々松平家に仕える三河以来のバリバリの譜代で、清長も家康の人質時代から臣従していた信頼感バツグンの忠臣でした。
また、清長は「仏高力」と称されるくらい人望のある武士で、そういう祖父に育てられた忠房も忠誠心あふれる有能な領主となり、島原の乱後、荒廃した肥前島原の復興を任され、領民の側に配慮した治政でみごとな手腕を見せた人物です。

だとしたら、いくら改易したとはいえ、異母弟の側室と子を預ける先として、秀忠が高力を選ぶことは十分ありえたのではないでしょうか?
(そもそも名前に秀忠と同じ「忠」の字がついているということは、将軍の偏諱を賜ったと考えられます。もし、偶然「忠」の字がかぶったのなら、将軍と同じ字を使うのは恐れ多いことなので、改名しているはずで、それだけ高評価を得ていた証拠でもあります)

とはいえ、高力忠房は元和5年9月、遠州浜松へ加増移封されてしまいます。

高力が去った後には、老中で家光の傅役でもあった青山忠俊が入封します。

ところが、その3年後の元和9年(1623)、忠俊は家光の勘気をこうむり、大減知されて上総大多喜藩へ転封となりました。

その青山のあとに入ったのが、重次の父・阿部正次です。

正次は寛永3年(1626)大坂定番に就任し、上方に常駐することになったので、岩槻の統治は嫡男(重次の兄)政澄が当たることとなりますが、その政澄が寛永5年(1628)早世したため、三浦重次が復姓して生家に戻ることになったのです。


ゴマが考えたのは、

元和2年 忠輝改易により、徳松たちは岩槻藩預かりとなる。徳松の居宅(軟禁所)が岩槻に造られる

元和5年 高力忠房転封。青山忠俊、岩槻に入封。秀忠の信任篤い青山が徳松たちの世話をする。

元和9年 青山転出。阿部正次入封。徳松たちの身柄は阿部家が預かる。

寛永5年 兄の死で重次は阿部姓に復し、岩槻藩の統治を任される。徳松親子への冷遇がはじまる。

寛永9年 徳松、16年間住んでいた居宅に火をかけ、抗議の自殺

――こんな経緯だったんじゃないかと思うのですが、いかがでしょうか?


ちなみに、高力の次に岩槻藩に入った青山忠俊という人は、かなりな硬骨漢で、相手が将軍家光であろうと遠慮なく全力で諫言し(そういう性質を秀忠に認められ、傅役になった)、思いっきり嫌われてしまったわけですが、一方、1度会った人の名前は絶対に忘れなかったといいます。
それは自分よりはるかに身分の低い者でも同様で、2度目に会うときは必ず相手の名前を呼びかけたそうです。
そのことをある人に問われた青山は、
「人は上役や取引相手といった自分にとって益のある人の名前は1度会っただけで覚えるはず。でも、そうでない人の名を忘れてしまうのは、その人が取るに足りない者だと侮っているから。でも、自分はどんなに下の者でも大切な人と考えているので、絶対に忘れない」と言っていたそうです。

こういう人なら、相手が罪人の係累でも、預かった以上は丁重に扱ったにちがいありません。

だから、担当が阿部家に代わったとたん、前任の2人とは違い、あからさまに粗略な扱いをされて、我慢しきれずに自殺してしまったとは考えられないでしょうか 


島原の領民のため、税を免除するなど、下の者に寄り添った政策で復興を成し遂げた高力。
将軍も軽輩も分け隔てなく真剣に対応した青山忠俊。
明敏とはいいかねる家光に近侍して、正誤を口にせず、ひたすらおもねって出世街道を走ってきた重次。
(なにしろ、徳松は家康の孫とはいえ、20年近く軟禁されている子。この母子にこびへつらっても何の得にもなりません)

この人格の、人品の差が、生後すぐに軟禁生活を強いられていきた徳松に絶望を与えた。

そして、阿倍重次は出世の障害となりそうな事件をもみ消して、自然死を偽装した。

――元和元年に豊臣家が滅亡し、これからは戦功を立てて加増されることは難しくなります。
今後は上司に気に入られて、その引き立てて出世するしかなく、同輩は背中を預けあって戦う味方ではなく、互いに足を引っ張りあうライバルに変わった時代。
長年罪なくして軟禁されつづけていた家康の孫・徳松が、阿部家に対し抗議の自殺を遂げたと外部に漏れれば、以後出世の道は閉ざされる可能性が大きく(同僚や部下が「アイツを蹴落とすチャンス!」とばかりに非難してくるのは必至)、重次は藩内に緘口令を布き、徳松が焼身自殺した事実を隠した……。

こう考えるのは不自然でしょうか?


徳松くんとお竹さんが眠る浄安寺本堂



立派な門もありました。




ほかには岩槻藩儒・児玉南柯のお墓もございます。



今度行くときは、亡くなったとき熱かったはずだから、徳松くん親子に冷茶とアイスでもお供えしてあげようかな。
(もちろん拝んだら即持ち帰ります。カラスが来て、お墓を汚されるからね 


松平忠輝長男・徳松の死の真相に迫る! ① 

2020-10-29 | 江戸時代
みなさま ごきげんよう。
またもやお久しぶりになってしまったゴマでございますです。

さてさて、約4ヶ月ほど前に阿部重次の記事をアップしましたが(許すまじ、阿部重次っっ!)、その中で
「忠輝の子・徳松は寛永9年、18歳のときに館に火を放ち、抗議の焼身自殺を遂げた」と書きましたが、その後、お墓のある浄安寺を再訪したとき、市教育委員会が設置した案内板に「???」となり、このたびあらためて確認しに行ってまいりました。



(突っこみどころ満載の案内板

これによりますと、

『徳松丸は徳川家康の六男松平忠輝の子息である。
 父・忠輝は伊達政宗の娘・五郎八姫を妻とし、とかく粗暴の振舞が多かったため、大御所家康や将軍秀忠の勘気に触れて、改易、蟄居を命じられた。
 忠輝は妻との間には子がなく、徳松丸は側室竹の局の子であったが、父の改易に伴い、母子は岩槻城主阿部重次に預けられた。
 寛永九年(1633)四月十三日、母竹の局(見相院)は卒し
続いて同年五月二十七日徳松丸も没し
共に浄安寺に葬られた。徳松丸の法名は朝生院殿珠晴光空大禅定門と号した』

そして、こちらが徳松くんの墓石

(先っちょが欠けちゃってる~  かなり風化しているけれど、右側に『寛永九年』左に『五月二十七日』と読める)

こっちは供養塔

(四角いところに『朝生院殿珠晴光空大禅定門』と刻まれている)


こちらはお竹さんの墓石

(徳松くんのものより状態がよく、右に『寛永九年』左に『四月十三日』とハッキリ読める)

で、同じくお竹さんの供養塔

(台座に『見性殿』の文字)


まず、

「父の改易に伴い、母子は岩槻城主阿部重次に預けられた」
の部分。

「許すまじ~」を見ていただければわかりますが、忠輝改易の年=元和2年、重次は養子に出されていたので「阿部重次」ではなく、「三浦重次」でした。
家禄も養家から分地された3000石しかなくて、大名は1万石以上なので旗本です。
そのころ、重次は元服前の竹千代(家光)の近習をしており、元和2年当時の岩槻藩主は高力忠房(高力清長の孫)です。

阿部家が岩槻藩主になったのは重次の父・正次が元和9年に入封したとき。
重次が生家に戻り、「阿部重次」になったのは寛永5年でした。

なので、「忠輝改易に伴い、母子は岩槻城主阿部重次に預けられ」るのは不可能だったのです!

では、忠輝改易後、お竹さんと徳松くんはどこにいたのでしょう 

まず、徳川の血を引く罪人の係累という処遇に困るような人たちの預け先が一旗本とは考えにくいです。
そのうえ、元和2年だと重次は満18歳。
そんな若造、しかも3000石の旗本に家康の孫を預けるでしょうか?

そもそも、家康の孫が焼身自殺というショッキングな話はどこから出たのか?
フェイクニュースではないのか?

でも、そんな凄惨な事件――居宅に火をかけ、抗議の焼身自殺――という妙に具体的な死因が、作り話というのは不自然ではないか?
謹慎所の火災という人目につきやすい出来事を、なかったことにするのはムリではないか?
となると……


徳松が死んだ翌年=寛永10年3月、重次は要職である六人衆(のちの若年寄)に就きます。

そんな栄達に手が届く寸前に起きた不祥事=家康の孫が抗議の自殺。

同じ近習仲間の知恵伊豆や堀田正盛らが着実に知行を増やし、重用されているのに、ヘタしたら自分だけドロップアウトするかもしれないとなったら、持てる力をフル動員して、もみ消そうとするのではないでしょうか?

忠輝改易のとき、徳松はまだ1歳にもなっていません。
罪を犯した父親は配流地でピンピンしているのに、なにもやっていない子を間接的に殺してしまったら、大問題です!


ちなみに、忠輝を改易した秀忠は、徳松が死ぬ数か月前(寛永9年1月24日)に亡くなっています。

もしかすると、いまや日本で一番エライ人になった主君・家光に相談して、「病死を装って葬ればいい」とOKをもらったのでは?

そう仮定すると、家光が亡くなったときに重次が殉死したことにも納得できます。


ところで、案内板には寛永9年(1633)とありますが、寛永9年は11月下旬までは1632年で、1633年だったのは40日ほど。徳松が亡くなったのは1632年です。
うーん、こんな初歩的なミスまであると、この案内板のすべてが信用できない……


(それはそうと、徳松くんたちのお墓の前に立ってから約1時間ほど、なぜか右の眼からダラダラ涙が流れつづけるといった怪現象が起きました くわえて、気づいたら左の手のひらに1センチくらいの切り傷が……な、なんで~~~???  )