OH江戸ライフ

パクス・トクガワーナ♪
とりあえず江戸時代っぽいものが好きなのです♡

旧暦3月4、5日

2015-04-23 | 江戸時代


なんでも、3月4、5日は奉公人が交替する日だったらしいです。
東都歳事記によりますと、
「奉公人出替り(今日僕(しもべ)婢(しもおんな)、旧主を辞して新主に仕ふ。
 江戸奉公人出代りのこと、以前は二月二日なりしが、明暦三年丁酉[1657年]正月十八日の大火によりて、その年三月五日に出代りすべきよし、公より御沙汰あり。それより改まりて三月五日になれりとぞ」

そもそも「出替り・出代り」とはなんぞや?といいますと、
早い話、女中・下僕などの雇用期限がきて奉公人が入れ替わることで、季語的には「春」だそうです(by広辞苑)
期間は1年または半年で、前者を一年季、後者を半季の奉公というとか。

そういえば、現代でも春は新卒者の入社シーズンですな。
今の大学4年生の就活は先月から解禁になったようですが、今年は好況のため、若干イイ感じなんだとか。

と、そこで気になることが。
江戸時代の雇用ってどうなっていたんでしょう?
…で、調べてみました。

①オサムライさんたちの場合
武士といってもいろいろあって、まず「士分」と「軽輩」にわかれる。
上級武士…旗本・各大名の譜代の家臣など。基本、世襲・終身。
下級武士…軽輩(徒士・足軽・槍持、六尺、草履取り、中間など)
     御家人(幕臣)などは職種上軽輩にあたりますが、基本終身雇用または年季奉公。
     各藩もだいたい似たような感じ。
     ただ、槍持、六尺、草履取り、中間などの分野はだんだん出替奉公にシフト。
     有名なのは大名行列の人数合わせのためにエキストラとして雇うケース
     (バイト)
②農家の場合
村方奉公人という。一年季、または繁忙期に雇う臨時雇い。     
③職人の場合
年季奉公が多い。一人前になるまでの徒弟奉公が主流。
④商家の場合
商人として雇う者と、家事・雑用係の者で雇用形態がちがう。
商売スタッフ…年季奉公。丁稚(でっち)として子どものころ採用し育てる。
        その後、手代、支配人などを経て、のれん分けなど独立の道も。
        きっちり職制が決まっている。
家事スタッフ…主として出替奉公
ちなみに、③④は町方奉公人とよばれました。

江戸時代は士農工商の区分が厳しく…なイメージがありますが、じつは案外そうでもなくて、士分以外の者が武家にお勤めすると、「準武士」な待遇になり、帯刀も許されたりします。

江戸の労働者などには年季などの一般奉公人のほかに、地方からの出稼人もありました。
主として、近郊の武蔵・下総・相模などの農民が農閑期に江戸へ出て、肉体労働に従事するケースです。
そのほかにも信濃(長野)越後(新潟)などの豪雪地帯からくる人も少なくなかったようで、この人たちは故郷の農作業が終わった10月ころから3月ころまで江戸で働き、農作業がはじまるころに帰っていくので、冬場、南に移動して越冬するムクドリにたとえられていました
“雪降れば椋鳥(ムクドリ)江戸へ喰いに出る”(し、失礼な!)

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三月三日 続報

2015-04-22 | 江戸時代


きのう「今日は楽しいひな祭り」どころか、IS並のテロ集団=水戸藩ネタに終始した3月3日の記事ですが、この日はほかにも記載があります。
それが、潮干狩り
東都歳事記には、
「汐干(当月より四月に至る。そのうち三月三日を節(ほどよし)とす~中略~)
 芝浦。高輪。品川沖。佃島沖。深川洲崎。中川の沖(早旦より船に乗じてはるかの沖に至る。卯の刻[午前6時ころ]過ぎより引き始めて、午の半刻[正午ころ]には海底陸地と変ず。ここにおりたちて蠣(かき)蛤(はまぐり)を拾ひ、砂中のひらめをふみ、引き残りたる浅汐に小魚を得て、宴を催せり」
守貞謾稿でも、桃の節句のつづきに、
「今世、今日、大坂は住吉、江戸は深川洲崎等に汐干狩群集す」

江戸時代は肉食は基本できなかった(「薬食い」と称して多少はやっていましたが)ので、海の幸は貴重なタンパク源でした。
そのタンパク食材をタダでゲットできるうえ、レジャー要素も強い潮干狩りは庶民の大事な娯楽でした。
それにしても、江戸沿岸(=東京湾)で牡蠣やハマグリ、ヒラメが取れたとは
そりゃ、万障お繰り合わせのうえ行きますぜ




タコ、頭ぶっ刺されてますけど…い、痛そ…

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今日は上巳…桜田門外の変!

2015-04-21 | 江戸時代


本日(旧暦3月3日)は五節句のひとつ上巳(じょうし)です。
東都歳事記によると、
「上巳御祝儀、諸侯御登城日。良賤、佳節を祝す(草餅、桃花酒、白酒、炒豆等をもつて時食とす。女子雛遊び」
守貞謾稿では
「上巳と云ふ。また桃花の節なる故に、婦女子は桃の節句と云ふ」

ということで、この日は在府諸侯の総登城日だったのです。
午前9時ころ、外桜田の彦根藩上屋敷を出た大老・井伊掃部頭直弼の駕籠は400mほどの距離にある桜田御門から城内に入ろうとしていました。
彦根藩35万石の供揃えは約60人。
天候は季節外れの大雪で、供たちは雨合羽を着用し、刀には防水のための柄袋がかかっていました。
ところで、今年の旧暦3月3日は今日ですが、安政7年の3月3日はグレゴリオ暦では1860年3月24日でした。3月下旬ですからやはり「季節外れの雪」です。
この行列に襲いかかったのは、水戸浪士17人、薩摩藩士1人の計18人。
とはいうものの、実行犯は18人ですが、首謀者・見届け役等ほかにも数人の水戸藩士がかかわっていました。
しかも、17人も「浪士」といっても脱藩したのはテロ直前。
これ…水戸藩じゃなかったら「浪士」と認められたんでしょうか?
たとえば、長州藩士17人+薩摩1人でも、藩にお咎めはなかったんでしょうか?

先月、NHKの歴史秘話ヒストリアで、この襲撃に使われたかもなピストルが紹介されていました。
純銀や紫檀など、ふつうの武器にしては高級すぎる素材が使われ、さらに精巧な桜花の彫刻がしてあるなにやらアヤシゲなしろもので…。
番組では、「大名クラスがもつようなもの」なので、「徳川斉昭がリーダー格の藩士にこのピストルと刀をじきじきに与え、井伊殺害を暗に命じた」的な解釈になっていましたが…。
はたして真相はいかに!?
(お雛さまの話かと思いきや、血なまぐさい話でしたー)



井伊掃部頭直弼公(けっこう好き~
今年11月29日は直弼公生誕200年。
それにともなって、7月10日~12月23日まで彦根市内でイベントが開催されるそうです

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本日のイベント

2015-04-13 | 江戸時代


東都歳事記の2月25日(旧暦)の特記事項は、
「亀戸天満宮、御忌神事~」だとか。
…ま、それはどうでもいいんですがね
(おい!江戸検受けるなら、そこをやらなきゃ、だろー
 
じつは、個人的に気になるのは、
「二十五日頃、紅毛人五年に一度参府(かびたん一人、筆者一人、都合二人なり。当月の末到着し、本石町三丁目長崎屋源右衛門が方に泊し、三月上旬登城す。古来は毎年来りしが、近来五年に一度となる~)」…の方でして。

●年前、司馬遼大先生の「胡蝶の夢」で蘭学・蘭方医に興味をもって以来、長崎・日蘭関係ネタにちょっと引っかかりやすくなっております。
そんなこんなで、この記事にもやっぱり引っかかってしまいました。
…にしても「かびたん」って
ポケモンの「カビゴン」の親戚ですかい
カピタン=オランダ商館長のことでありんす。
みなさんもよくご存じのように、いわゆる「鎖国」状態だった江戸期、西洋で唯一貿易を認められていたのがオランダ。
オランダ商館長はオランダの大使的存在でしたが、日蘭間には正式な国交関係がなかったので、名目上は民間人―オランダ東インド会社日本駐在所所長というものでした。
この紅毛人(オランダ人)の江戸参府は慶長14年にはじまり、寛永10年から毎年、寛政2年から嘉永3年までは5年に1回、計116回行われたようです。
参府が嘉永3年で終わっているのは、日本が開国し、横浜に外国人居留地やら領事館ができたためなんでしょうね。
そして、長崎屋は、現在の中央区日本橋室町4丁目にあった幕府御用達の薬種問屋でした。
ここは本来旅宿ではなく、オランダ人・通詞(=通訳)以外の人は受け入れなかったそうです。
カピタン一行が宿泊中の長崎屋には、その話を聞こうとする蘭学者や天文方等の文化人、蘭方医、異国人をひと目ようとする一般庶民などが大勢押しかけてきたとか。
このようすは葛飾北斎の「日本橋本石町長崎屋」という絵で見ることができます。




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白酒

2015-04-09 | 江戸時代


いや~、早いもので、4月も1/3が終わろうとしております。
旧暦でも、今日は2月21日。もう下旬ですなぁ。

ところで、東都歳事記では、二月の記事として、
「当月中旬より、江府の酒肆(しゅし)白酒を造りて售(あきな)ふ。
 中にも鎌倉町豊島屋の酒房には、二十日頃わずか一朝に商ふ。
 遠近より求むるもの夥しく、未明より戸外市をなせり」

守貞謾稿では、上巳がらみで、
「三都ともに、白酒を供す。常にこれを売らざる酒店にも、この時のみこれを売る。
 特に江戸、鎌倉川岸町豊島屋と云ふ酒店のは、荒くして辛味なれども、精製なれば、買人山のごとく、表一面に丸太材をもって矢来を構へ売る。容易に買ひ得ること難く、空手にて帰る者はなはだ多し。京坂には、かくのごときことなし」

…お正月の福袋初売り状態でしょうか?

さて、白酒(しろざけ)とはなんぞや?といいますと。
雛祭りに出される酒のことで、アルコール分は約9%糖質約45%の、酒税法上はリキュール類に分類されるものだそうです(byウィキペディア)
もの知らずのワタクシなどは、てっきり甘酒と白酒は同じものだと思っていたのですが…。
ところが、どうもそうではなかったようです

甘酒…ご飯・おかゆなどに米こうじを混ぜて保温し、米のデンプンを糖化させたもの。
   アルコールほぼゼロ。
   作り方もけっこう簡単で、庶民でも手作りできる。
   一晩でできることから「一夜酒」ともいう。

白酒…みりん・焼酎等に蒸したもち米や米こうじを仕込んで1ヶ月程度熟成させたもろみを軽くすりつぶして造る。
   白く濁り粘りと甘みがあり、アルコール分は9%前後、糖質が45%程度含まれ、酒税法ではリキュール類に分類。
(↑農林水産省ホームページから)

白酒は別名「山川」ともいい、上記を見ると素人が作るのは難しそうです。

白酒がひな祭りのお供えものとなったのは江戸時代からといわれ、もとは室町時代、桃の節句のとき桃の花を浸した酒を飲んでいたものが変化したとか。

そして、大行列がおきた豊島屋の十右衛門なる人物こそが、庶民の白酒ブーム火つけ役だったのではという説もあります。
豊島屋さんはいまでも東京都千代田区にある酒類醸造販売業及び食品卸売業を営む老舗で、ウィキによれば、
「豊島屋は白酒の元祖として有名で、江戸時代に『山なれば富士、白酒なれば豊島屋』と詠われた。
 十右衛門の夢枕に紙雛が現れ、白酒の製法を伝授され、桃の節句前に売り出したところ飛ぶように売れたという。桃の節句に白酒を飲む風習は豊島屋が発祥である。これにより女性や大名などの新たな顧客を開拓した。
 毎年、桃の節句前の2月25日に行われた白酒の大売出しでは、江戸中から人が押し寄せ風物詩となった。この様子は長谷川雪旦の『江戸名所図会』「鎌倉町豊島屋酒店白酒を商ふ図」に詳しく描かれている。「酒醤油相休申候」の看板を掲げ、当日は他の商品は販売しなかった。あらかじめ切手を買わせ、左側の扉を入口、右側を出口とし、一方通行に並ばせた。入口上には櫓を設け、気分が悪くなった客のために屋根上に鳶と気付け薬を持った医者を待機させた。
 白酒は昼頃には売り切れ、1400樽が空き、売上は数千両に上ったという」

 …ちょ、一日で数千両ーーーっ!?
 アイデイア商法、おそるべし!

 ちなみにこの豊島屋さんは、鎌倉にある鳩サブレの豊島屋さんとは関係ないそうです。

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