OH江戸ライフ

パクス・トクガワーナ♪
とりあえず江戸時代っぽいものが好きなのです♡

庄内の釣りは深いっ!

2016-12-26 | 江戸時代


(庄内藩校・致道館 表御門)

先日サラリと、
「日本最古の現存する魚拓は、忠発公の釣ったフナ~
なんて書いてしまいましたが、ちょいとググってみましたら、

庄内の釣りは『釣道』と呼ばれる武芸の一環だった!

というおどろくべき史実にぶち当たって、いまホコリまみれの居間から、鶴岡方面にむかってお詫びの平伏をしたところでございます

ちゅーことはですよ、天保10年2月のあの40cmの巨大フナを釣り上げた世子(当時)忠発公は、
「まだ世継ぎでヒマだから、抱え屋敷横の錦糸堀でちょこっと釣りでもすっか~」的かるいノリで釣られたわけではなく、鍛錬の一環として真剣におフナさまと対峙あそばされ、みごと戦果をあげられたと解釈するべきなのでしたっ!
くー、不覚っ!


『道』的釣りは、庄内藩8代・酒井忠器公が、戦のない時代の武士がダラケないよう、釣り=武芸として奨励したのがはじまりだとか。


庄内藩士たちは、鶴岡城下にある武家屋敷を夜中に出発し、夜明けまでには庄内浜に到着したらしいですが、地図で見てみると、鶴岡~海までけっこうあるし

それに、このあたりでは庄内竿という長い釣竿を使うらしい。




庄内竿は苦竹(メダケ・雌竹)という細い竹から作られたらしい


こんなのをかついで、夜の山道を20キロ以上歩いて遠征……ああ、そりゃ鍛錬になるわ~

一説によると、こうした下地があったから、幕末の奥羽越侵略戦――ゴマは今後、『戊辰戦争』という呼称を使うのはやめようと思います。だって、戊辰戦争=倒幕戦争なら、江戸城開城で終わったはずだもん。その後の奥羽越侵攻はあきらかに侵略戦争! 
恭順してるのに認めず、侵攻してきたのは、このまま終わっては自分たちの利益が出ないと思って、奥羽越の富を掻っ攫うためだもん
その証拠に、戦後、薩長公家どもがお手盛りで自分たちにどれだけゴホウビあげたか、見てみるといいよ
それは、尾去沢銅山事件なんかをみるとよーくわかるわ

(ぜーはー、また脱線しちまったぜ

えっと、なんの話だっけ……ああ、そうそう、幕末、侵略された奥羽越ですが、このときの戦いで唯一連戦連勝だったのは、庄内藩だけ。

尚武の家、徳川最強といわれた会津でさえ、兵制改革の遅れや厳然とした身分制がアダになって、開城を余儀なくされました。

庄内藩は、この釣りで養われた戦略眼(釣りってやったことないからよくわからないんだけど、目的とするサカナのデータ収集・分析が必要なんですって? このへんが戦略・戦術に応用できたんだとか)、そして夜中に山越えをしたおかげで夜間行動には慣れていたため、ゲリラ戦に強かったんだとか

だから、庄内では釣りのことを『勝負』と称し、釣りあげたお魚さまは敵の大将首に見立てて、その証に魚拓を取ったらしゅうございます

やっぱ、そうなってくると、釣り=武芸=武士のたしなみというのもうなずけるかも

なので、お武家さまがたの釣りは、岩の上に姿勢を正して立ち、まるで槍でもかまえるかのような端正なたたずまいでおこなわれるもので、数よりデカさ重視だそうです


でも、その反面、釣竿や刀を落っことすと、減俸の対象になったとか
……そりゃちょっとイタイ



ということで、前回の魚拓を見直すと、お殿さま方の真剣勝負のようすがまざまざと見えてくるではありませぬかー!

……え? そんなの見えるか? 見えるのはアタシだけ? 
幻覚か……


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ごぶさたでーす

2016-12-14 | 日記
ひゃっほーい、お久しぶりでーす
ぼけーっとしてたら、あーっというまに一ヶ月すぎちゃいました~

いや~、それにしても、今年も残すところあと半月ほどになっちまいましたね
てなことで、キリシタンでないゴマはクリスマス関係ないので、テンプレをさくさく正月用に替えてみました~

で、この間、またまた山形アンテナショップに行って、ミルクケーキとか前回よりちょいと小ぶりになった庄内柿なんぞを買って帰ろうとしたら……なんか妙なもの(タダ)を発見…したのですが
その名も……「敬天愛人」

(物的証拠

あ゛ー、コレーかー

これこそ、かの「西郷丼に心酔し、教えを乞うた元庄内藩」遺物だなっ

…くそっ、庄内藩…譜代の雄としての矜持はどこ行った…


とはいえ、庄内藩では天保年間ころから家中でゴタゴタがあって、その後「丁卯の大獄」と呼ばれる大粛清事件に発展したりするのですが、そのとき排除された側はどちらかというと、公武合体派=土佐の山内容堂と近い考え方だったりするわけで、もともと親和性はあったのかもしれない…
たしかに東北における勤王藩(てか反徳川)秋田藩の影響を受けやすい立地でもあるっちゃあるかもだけど

あの空気デ●なんぞに、なにを教授してもらうんだ!?

致道館で荻生徂徠先生の教えを学べば、充分じゃー!

再来年の大河(西郷丼)は絶対見ないぞー!

(ぜーぜーはーはー)
では気を取り直して……今日はその大獄について調べてみました


天保13年 藩主・忠器、家督を世子・忠発に譲る。
(※ 三方領地替えでお騒がせした責任をとっての引責)
ところが、勤皇系の忠器派と、ガチガチの佐幕派・忠発との間は前々からギクシャクしており、お家騒動的な空気が……。

ちなみに忠器シンパは、家老の松平甚三郎・酒井奥之助・水野内蔵助、中老の酒井右京(吉之丞・了繁)・竹内右膳・松平舎人などなど。
(酒井吉之丞家・酒井奥之助家=「両敬家」。発言力が強い)

家督相続直後、酒井右京・大山庄大夫(江戸留守居役)等は忠発を廃し、分家筋の幕府旗本・松平忠明を藩主にし、同じく旗本で分家筋の酒井大膳を後見にしようという計画を立てる  バレる  忠明、忠発にとっ捕まる  終了

だが、不屈の反忠発派(改革派ともいう)は、今度は「さっさとアイツを隠居させて、忠発の長男・忠恕(奥さんは土佐藩山内容堂義妹)を藩主に」運動を展開するものの、忠恕は在国中、十八の若さでポックリ(謀殺説あり)。

しかし、その後継として、忠器12男・忠寛を押し込むことに成功

そして、文久元年(1861年)8月6日、忠発の隠居にともない、反忠発派念願の忠寛くんの襲封。

ところが、文久2年(1862年)9月17日、当時流行中の麻疹で忠寛があっけなく死去。享年24。

忠寛には正室・側室もなく無嗣だったため、家督は忠発5男・忠篤が継ぐことになる。

このとき、忠篤くんはまだ10歳くらい。
当然、実権はまたもやあの憎き忠発の手中に。

慶応2年(1866年)大凶作となり、減税を求める騒動が勃発。
松平権十郎ら主流派(=佐幕派・忠発派)がこれを鎮圧し、この功により藩内の実権を握る。

慶応3年(1867年)藩政改革・政治方針で対立していた酒井右京(鬼玄蕃の伯父)・大山庄大夫・松平舎人ら公武合体派を逮捕投獄・粛清し、藩論を佐幕派で統一……

ちゅーのが、「大山庄大夫一件」「丁卯の大獄」と呼ばれる大獄事件です。

このとき、大山庄太夫は自宅のトイレで自害(享年59)。
遺体は埋葬を許されず塩漬けにして自宅の庭に仮埋めにされ、翌年掘り起こされて腰切の刑に

(※ 腰切=腰斬刑(ようざんけい)――古代~中世において中国で行われていた死刑執行の方法。
 罪人の胴体を腰部分で切断。胴体を切断されても即死せず、10分~数十分後、出血多量・ショック死。
 その間ムッチャ痛いので、特に重罪人に対して執行される処刑法。
 大山の場合はすでに死んでいたので、重罪だということを示すため用いられたのでは?)

家老の酒井右京は切腹を命じられ、弟の家老・酒井了明も連座して隠居。
家禄も1500石700石に下げられ、家中の席も家老職から番頭格に下ろされ、家督だけは、甥の了明・嫡男(酒井了恒=鬼玄蕃さま)が相続することを認められ、家名は存続。


……てか、ここまで嫌われた忠発さんっていったいどんな人なの?

ということで、ウィキに肖像画が載ってないから勝手に妄想することにします。

この前貼った忠篤さん 


忠篤異母弟で最後の庄内藩主・酒井忠宝(ただみち)さん

(同一人物か!?ちゅーくらいソックリですぅ

このふたりの写真を足して2で割ると……きっとイケメンだったにちがいない(ウンウン)

それに佐幕派!

玄蕃さまには悪いけど、これだけ見るとどうも忠発さん、良さげ~


良さげ~な忠発公ですが、いろいろあったわりにはウィキの記載は少ない
でも、日本史に残る足績もあるんだ

それがコチラ

(日本最古の現存する魚拓)

天保10年2月釣ったフナだそうです。
三方領地替えが言い渡される前年。まさか、これ釣ったときは、翌年ぶっ飛ぶような幕命が下るとは思いもしなかったでしょうねぇ


(こっちは明治になってから息子の忠篤が釣った赤鯛の魚拓。あの美しいお顔でこれを釣ったのか……

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