(庄内藩校・致道館 表御門)
先日サラリと、
「日本最古の現存する魚拓は、忠発公の釣ったフナ~」
なんて書いてしまいましたが、ちょいとググってみましたら、
庄内の釣りは『釣道』と呼ばれる武芸の一環だった!
というおどろくべき史実にぶち当たって、いまホコリまみれの居間から、鶴岡方面にむかってお詫びの平伏をしたところでございます
ちゅーことはですよ、天保10年2月のあの40cmの巨大フナを釣り上げた世子(当時)忠発公は、
「まだ世継ぎでヒマだから、抱え屋敷横の錦糸堀でちょこっと釣りでもすっか~」的かるいノリで釣られたわけではなく、鍛錬の一環として真剣におフナさまと対峙あそばされ、みごと戦果をあげられたと解釈するべきなのでしたっ!
くー、不覚っ!
『道』的釣りは、庄内藩8代・酒井忠器公が、戦のない時代の武士がダラケないよう、釣り=武芸として奨励したのがはじまりだとか。
庄内藩士たちは、鶴岡城下にある武家屋敷を夜中に出発し、夜明けまでには庄内浜に到着したらしいですが、地図で見てみると、鶴岡~海までけっこうあるし
それに、このあたりでは庄内竿という長い釣竿を使うらしい。
庄内竿は苦竹(メダケ・雌竹)という細い竹から作られたらしい
こんなのをかついで、夜の山道を20キロ以上歩いて遠征……ああ、そりゃ鍛錬になるわ~
一説によると、こうした下地があったから、幕末の奥羽越侵略戦――ゴマは今後、『戊辰戦争』という呼称を使うのはやめようと思います。だって、戊辰戦争=倒幕戦争なら、江戸城開城で終わったはずだもん。その後の奥羽越侵攻はあきらかに侵略戦争!
恭順してるのに認めず、侵攻してきたのは、このまま終わっては自分たちの利益が出ないと思って、奥羽越の富を掻っ攫うためだもん
その証拠に、戦後、薩長公家どもがお手盛りで自分たちにどれだけゴホウビあげたか、見てみるといいよ
それは、尾去沢銅山事件なんかをみるとよーくわかるわ
(ぜーはー、また脱線しちまったぜ)
えっと、なんの話だっけ……ああ、そうそう、幕末、侵略された奥羽越ですが、このときの戦いで唯一連戦連勝だったのは、庄内藩だけ。
尚武の家、徳川最強といわれた会津でさえ、兵制改革の遅れや厳然とした身分制がアダになって、開城を余儀なくされました。
庄内藩は、この釣りで養われた戦略眼(釣りってやったことないからよくわからないんだけど、目的とするサカナのデータ収集・分析が必要なんですって? このへんが戦略・戦術に応用できたんだとか)、そして夜中に山越えをしたおかげで夜間行動には慣れていたため、ゲリラ戦に強かったんだとか
だから、庄内では釣りのことを『勝負』と称し、釣りあげたお魚さまは敵の大将首に見立てて、その証に魚拓を取ったらしゅうございます
やっぱ、そうなってくると、釣り=武芸=武士のたしなみというのもうなずけるかも
なので、お武家さまがたの釣りは、岩の上に姿勢を正して立ち、まるで槍でもかまえるかのような端正なたたずまいでおこなわれるもので、数よりデカさ重視だそうです
でも、その反面、釣竿や刀を落っことすと、減俸の対象になったとか
……そりゃちょっとイタイ
ということで、前回の魚拓を見直すと、お殿さま方の真剣勝負のようすがまざまざと見えてくるではありませぬかー!
……え? そんなの見えるか? 見えるのはアタシだけ?
幻覚か……