【遠慮】とは、江戸時代の自由刑の一種『慎(つつしみ)』(謹慎)の自主的バージョン。
慎は、上級武士・公家に課された公的な刑罰で、外出・人との接見などを禁じるもの。
これに対し『遠慮』は、内容的にはほぼいっしょだが、こちらは自主的に引きこもる行為。
みなさま ごきげんよう。
先週来、あまりご機嫌よろしくないゴマでございますです
なんでご機嫌ななめかといいますと、先週バイト先でお金を盗まれたからなのです
バイトに行く前、銀行でお金をおろして、そのまま仕事場に行き、帰宅してから振り込みをしようと思って封筒を開けたら万札が数枚なくなっていたんです!
江戸時代、軽い窃盗は100敲きの刑、10両以上は死罪。
刑法改正して、江戸時代と同じくらいの重罪に処せーーー!
……状況的に、同じ職場の人っぽいのも鬱です。
さらにいうと、封筒はけっこうわかりにくい場所に入れていたのにやられているところを見ると、日常的にチェックされてチマチマ取られていた可能性も……。
いわれてみれば、お金をおろして、数日後見てみると「あれ? そんなに使った?」なことが昨年来数回あったかも……管理がザルなのと、おバカなので「う~ん?」で済ませてきちゃったのがアダになりました。
目下、警察に指紋鑑定依頼中で、だれが犯人かわからなくて怖いので、事件以来仕事をお休みして、ずっと引きこもっているのです。
そんなこんなで執筆も思うように進みませぬ~ (それはいいわけ)
と、気が滅入る前フリはこのへんにして……例の妄想小説翻訳版、明日から海外配信開始されま~す
(必死に気持ちを盛り上げるのじゃ)
ところで、それには松平忠輝も出てくるのですが、みなさまもご存じのように、忠輝は大坂夏の陣の直後(慶長19年8月)父・家康から今後の対面を禁じると通告されました。
翌元和2年、重篤になった家康は、生存していた息子たち(秀忠・義直・頼宣・頼房)を枕頭に呼びましたが、駿府城下に来ていた忠輝には最後まで面会を許しませんでした。
『徳川実紀』によると、《忠輝は、父の重態を知り、急いで駿府に来たものの、重臣(本多正信あたり?)を通じて見舞いたいと申し入れたが、家康は異様にブチ切れて「あいつは城の中にもいれるなっ!」と命じたので、会うことはできなかった。しかたないので忠輝は、駿府城下の禅寺に泊めてもらって、親父の気持ちが和らぐのを待って、謝ろうと思っていたら、そんなチャンスもなく、家康はポックリ逝ってしまった》感じだったみたいです。
そして、家康が亡くなった三ヶ月後、忠輝は、異母兄・秀忠から改易を命じられ、越後高田藩63万石は収公され、忠輝本人は伊勢国朝熊に流罪となりました。
―― で、ここで「?」なのですが、忠輝はいったい何をやらかして、親父を怒らせてしまったんでしょうか?
ウィキさんによると、
〇 大坂夏の陣に際して忠輝軍が大坂に向けて進軍中、近江守山で軍列を追い越したとして、秀忠直属の旗本、長坂信時らを斬り殺したため。
家康はこの一件を大坂の陣後の帰国時に同地を訪れた際に初めて聞き、怒りを露わにして調査を命じた。
当時の軍法では他の者が自隊に入り込んだ際には、馬や武具の没収を命じており、斬り捨ては過剰行為であった。
〇 合戦後の戦勝を朝廷に奏上するため、家康は忠輝に対して共に参内するように命じたが、忠輝は病気を理由に参内せず、しかもそのとき、嵯峨野に出向いて桂川で舟遊びをしたこと。
〇 帰国に際して許可を得なかった上、本街道を通らずに脇道を通り帰国したこと。これも当時の軍法違反に当たる。
〇 大領を得ているにも関わらず、私事に金穀を用いて軍用金不足を訴えたこと。
でも、これを見てゴマは「ん?」と思いました。
それっつーのも、家康自身が合戦の際に出した軍令に、この決定は反するんじゃないの?とモヤモヤしたからです。
天正18年、小田原の北条攻めのとき発せられた軍法によると、
「命令がないのに、先行部隊をさしおいて、物見(偵察)を出してはいけない」
「先行部隊を追い抜いて手柄を立てても、それは軍法違反だから、そんな不届き者は妻子もろとも処刑する」
「進軍するときは決められたルートを守れ。違反したら、その兵の主を罰する」
「命令がないのに、勝手に撤収してはいけない」
これに違反したものは容赦なく成敗する。
また、関ケ原の戦いのときに出された軍法では、これにいくつかプラスされていますが、まぁだいたい同じような感じです。
こうしてみると、忠輝の軍令違反は、「命令がないのに、勝手に撤収してはいけない」「進軍(?)するときは決められたルートを守れ。違反したら、その兵の主を罰する」くらいしか当てはまらないような???
むしろ、秀忠のほうは、
「命令がないのに、先行部隊をさしおいて、物見(偵察)を出してはいけない」
「先行部隊を追い抜いて手柄を立てても、それは軍法違反だから、そんな不届き者は妻子もろとも処刑する」
に、抵触するんじゃない?
さらにいうと、関ケ原の戦いのとき、秀忠の同母弟・松平忠吉は、福島正則が先陣と決まっていたのに、舅の井伊直政といっしょにシレっと前に出てきて、先陣争いをしたっていうエピソードがあるんですけど!
このとき忠吉は、手傷を負いながら敵方の島津豊久を討ち取る戦功を立てて、家康に激賞されたみたいなんですが……あんた(家康)、関ケ原直前の軍法で、「先陣の順番を守らずに手柄を立てたとしても、それは軍法違反。処刑」って通達してるやん!
ちなみに、松平忠吉はすごいイケメンで性格もよく、武勇に優れていたので家康にとてもかわいがられていたとか。
(イケメンの忠吉さん)
なんかさぁ、こういうダブルスタンダードとか、決め事の恣意的適用って、どうなの、家康?
慎は、上級武士・公家に課された公的な刑罰で、外出・人との接見などを禁じるもの。
これに対し『遠慮』は、内容的にはほぼいっしょだが、こちらは自主的に引きこもる行為。
みなさま ごきげんよう。
先週来、あまりご機嫌よろしくないゴマでございますです
なんでご機嫌ななめかといいますと、先週バイト先でお金を盗まれたからなのです
バイトに行く前、銀行でお金をおろして、そのまま仕事場に行き、帰宅してから振り込みをしようと思って封筒を開けたら万札が数枚なくなっていたんです!
江戸時代、軽い窃盗は100敲きの刑、10両以上は死罪。
刑法改正して、江戸時代と同じくらいの重罪に処せーーー!
……状況的に、同じ職場の人っぽいのも鬱です。
さらにいうと、封筒はけっこうわかりにくい場所に入れていたのにやられているところを見ると、日常的にチェックされてチマチマ取られていた可能性も……。
いわれてみれば、お金をおろして、数日後見てみると「あれ? そんなに使った?」なことが昨年来数回あったかも……管理がザルなのと、おバカなので「う~ん?」で済ませてきちゃったのがアダになりました。
目下、警察に指紋鑑定依頼中で、だれが犯人かわからなくて怖いので、事件以来仕事をお休みして、ずっと引きこもっているのです。
そんなこんなで執筆も思うように進みませぬ~ (それはいいわけ)
と、気が滅入る前フリはこのへんにして……例の妄想小説翻訳版、明日から海外配信開始されま~す
(必死に気持ちを盛り上げるのじゃ)
ところで、それには松平忠輝も出てくるのですが、みなさまもご存じのように、忠輝は大坂夏の陣の直後(慶長19年8月)父・家康から今後の対面を禁じると通告されました。
翌元和2年、重篤になった家康は、生存していた息子たち(秀忠・義直・頼宣・頼房)を枕頭に呼びましたが、駿府城下に来ていた忠輝には最後まで面会を許しませんでした。
『徳川実紀』によると、《忠輝は、父の重態を知り、急いで駿府に来たものの、重臣(本多正信あたり?)を通じて見舞いたいと申し入れたが、家康は異様にブチ切れて「あいつは城の中にもいれるなっ!」と命じたので、会うことはできなかった。しかたないので忠輝は、駿府城下の禅寺に泊めてもらって、親父の気持ちが和らぐのを待って、謝ろうと思っていたら、そんなチャンスもなく、家康はポックリ逝ってしまった》感じだったみたいです。
そして、家康が亡くなった三ヶ月後、忠輝は、異母兄・秀忠から改易を命じられ、越後高田藩63万石は収公され、忠輝本人は伊勢国朝熊に流罪となりました。
―― で、ここで「?」なのですが、忠輝はいったい何をやらかして、親父を怒らせてしまったんでしょうか?
ウィキさんによると、
〇 大坂夏の陣に際して忠輝軍が大坂に向けて進軍中、近江守山で軍列を追い越したとして、秀忠直属の旗本、長坂信時らを斬り殺したため。
家康はこの一件を大坂の陣後の帰国時に同地を訪れた際に初めて聞き、怒りを露わにして調査を命じた。
当時の軍法では他の者が自隊に入り込んだ際には、馬や武具の没収を命じており、斬り捨ては過剰行為であった。
〇 合戦後の戦勝を朝廷に奏上するため、家康は忠輝に対して共に参内するように命じたが、忠輝は病気を理由に参内せず、しかもそのとき、嵯峨野に出向いて桂川で舟遊びをしたこと。
〇 帰国に際して許可を得なかった上、本街道を通らずに脇道を通り帰国したこと。これも当時の軍法違反に当たる。
〇 大領を得ているにも関わらず、私事に金穀を用いて軍用金不足を訴えたこと。
でも、これを見てゴマは「ん?」と思いました。
それっつーのも、家康自身が合戦の際に出した軍令に、この決定は反するんじゃないの?とモヤモヤしたからです。
天正18年、小田原の北条攻めのとき発せられた軍法によると、
「命令がないのに、先行部隊をさしおいて、物見(偵察)を出してはいけない」
「先行部隊を追い抜いて手柄を立てても、それは軍法違反だから、そんな不届き者は妻子もろとも処刑する」
「進軍するときは決められたルートを守れ。違反したら、その兵の主を罰する」
「命令がないのに、勝手に撤収してはいけない」
これに違反したものは容赦なく成敗する。
また、関ケ原の戦いのときに出された軍法では、これにいくつかプラスされていますが、まぁだいたい同じような感じです。
こうしてみると、忠輝の軍令違反は、「命令がないのに、勝手に撤収してはいけない」「進軍(?)するときは決められたルートを守れ。違反したら、その兵の主を罰する」くらいしか当てはまらないような???
むしろ、秀忠のほうは、
「命令がないのに、先行部隊をさしおいて、物見(偵察)を出してはいけない」
「先行部隊を追い抜いて手柄を立てても、それは軍法違反だから、そんな不届き者は妻子もろとも処刑する」
に、抵触するんじゃない?
さらにいうと、関ケ原の戦いのとき、秀忠の同母弟・松平忠吉は、福島正則が先陣と決まっていたのに、舅の井伊直政といっしょにシレっと前に出てきて、先陣争いをしたっていうエピソードがあるんですけど!
このとき忠吉は、手傷を負いながら敵方の島津豊久を討ち取る戦功を立てて、家康に激賞されたみたいなんですが……あんた(家康)、関ケ原直前の軍法で、「先陣の順番を守らずに手柄を立てたとしても、それは軍法違反。処刑」って通達してるやん!
ちなみに、松平忠吉はすごいイケメンで性格もよく、武勇に優れていたので家康にとてもかわいがられていたとか。
(イケメンの忠吉さん)
なんかさぁ、こういうダブルスタンダードとか、決め事の恣意的適用って、どうなの、家康?