OH江戸ライフ

パクス・トクガワーナ♪
とりあえず江戸時代っぽいものが好きなのです♡

お江戸は今日も暑かった 💦

2024-07-03 | 日記

お暑うございます。

暑さと寒さに激弱なゴマです。

最近どうも筆が乗らないので(……てか、いまだかつて、筆が乗った時があったのか?)、ちょこっと用事のついでに、ご府内を徘徊して、やる気スィッチをポチっとしてきました。

 

新橋側から歩いていたら、なんかすごい建物が。

『市政会館』 ―― 日比谷公会堂の裏側だった!

(こっち側、見たことない!)

時計塔の感じが、東大の安田講堂っぽいです。

 

そんなこんなで、日比谷公園をウロウロ。

長州藩邸の近くかと思うと、複雑な気持ちっす。

(でも、桜田御用屋敷までしか踏みこんでないも~ん。長州藩邸には1ミリも入ってないもんね~ 

 

ゴマは、日比谷見附あたりから見た御城の風景がお気に入りなんですが……

 

草原ではありません。

一面にヘンな水中植物が繁茂した日比谷堀&馬場先堀ですぅ

斜陽ニッポンの貴重な観光資源が台無しや!

お願い、早急に浚渫して

 

泣き目のままヨロヨロ和田倉門橋を往復し、将門塚に頭を下げ(ゴマのご先祖は俵藤太の家来なので、いちおう礼をつくしておかないと、祟りが怖いのじゃ)、箱根駅伝のスタート&ゴール地点=読売新聞社へ。

 

(元明治大のエース・阿部弘輝くんに似てないか?)

目下『虎に翼』で人気急上昇中の明治大学さん、第1回~10回のうち5回優勝してたんやね

勝率5割やん 

 

その後、ゴマは、常盤橋を渡り、ふくしまアンテナショップで『会津中将』 本当にウマイ!)2本を購入して、帰途についたのでした。

(重くて、肩が抜けるかと思った

 

 

 

 


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甲州に行ってきました

2024-06-07 | 江戸時代以外の歴史関係

こんばんは~。

あさイチ、バイト先で棚を倒して、瓶詰めジャム十数本を廃棄処分にしたゴマで~す 

(クビになる前に、速攻で、転職先探したほうがいいかもしれん 

 

はてさて、先日、ゴマはとある目的で甲府に行ってまいりました。

 

というのも、例の小説がらみで、ある方にごあいさつにうかがったのでございますです。

 

めざす場所は、甲府市にある入明寺。

こちらには、武田信玄の次男・信親(号:竜宝、竜芳とも)さんのお墓があるんです。

(屋根は最近できた? 墓石はかなり風雨にさらされた感じです)

(墓前には、このような説明書きがありました)

 

信親さんは、信玄の正室・三条の方が産んだ男子で、堂々たる嫡流のお血筋でしたが、幼少期に疱瘡にかかって失明してしまい、後継者レースからは脱落。

とはいえ、信玄の信濃侵攻で下した海野幸義の娘との政略結婚で、海野氏の名跡を継ぐことになりました。

(海野って、もしやココ?  )

(海野宿。ソバがうまかった  )

 

―― おっと、脱線しちゃたぜ。

 

永禄8年(1565)、信玄嫡男・武田義信は父に反して廃嫡されますが、信親は盲目。

同母弟の信之はその12年前に11歳で夭折していたので、結局、家督は側室腹の四男・勝頼が継ぐことになったのです。

 

ところが、その17年後の天正10年(1582)、信長連合軍による武田領侵攻が起き、信親は入明寺にかくまわれますが、勝頼が天目山の戦いに敗れて自死すると、信親も「もはやこれまで」と、この寺内で自害(他殺説もあり)

 

余談ですが、この『天目山』(地形としては峠らしい)という場所は、武田氏にとって因縁の地のようで、勝頼の敗死からさかのぼること165年の応永24年(1417)、甲斐源氏13代当主で甲斐国守護大名・武田信満が、鎌倉公方と上杉氏の争いにまきこまれてここで自害しています。

(えぇ~、怖っ )

 

さて、拙作に関係するのは、じつはこの信親さんではなくて、その嫡男・信道と息子の信正のおふたりです。

信道の生母は、信親の正室(穴山梅雪の娘。梅雪は武田一門)なので、正真正銘この方も嫡流となります。

なんなら、勝頼ッチより血統がいいっすね。

当然、織田方の落ち武者狩りで落命してもおかしくないポジションでしたが、当の信長が本能寺の変でアボンしたことで状況はガラリと変わります。

運よく、甲州の新たな主となった徳川家康の庇護を受けられたのです 

 

ところが!

ホッとしたのもつかのま。

家康に見いだされ、財政担当のテクノクラートとして出世していた武田家遺臣・大久保長安(元の名は土屋長安。大久保姓は寄り親の大久保忠隣より拝領)から経済的支援を受けていた信道は、長安死後に起こった『大久保長安事件』に巻きこまれて、伊豆大島への配流という憂き目に。

(なんてこったい!  )

 

しかも、この大久保長安事件というのが、とんでもなくキナ臭く、三度のご飯より陰謀が大好物なゴマでさえ、ドン引くほど凄惨な事件でした。

 

ことの起こりは、慶長18年4月25日に長安が病死したことからはじまります。

葬儀をおこなおうとしていた一族に、家康から突如待ったがかかり、横領の疑いで、息子7人全員が切腹を命じられました。

7人のうち、最年少の子は当時数え年15歳。しかも、すでに僧籍に入っていました。

これは、罪を逃れるために出家していたわけではなく、このころ男児がいっぱいいる家では天皇家も公家も武家も、分与する財産がない、または家産が散逸するのを防ぐため、何人かは出家させて、万が一後継者に子ができなかったり、跡継ぎができる前に早世してしまったりした場合の、いわば血のストックをしてリスクヘッジする慣行があったのです。

そして、一族が罪を問われて処分を受けたときでも、通常、僧籍に入っている者は、その対象から外されるものですが、この事件では、横領等に関与したとは思えない年少のお坊さんまでも死罪になっています。

 

さらにアヤシイのが、長安は死の直前、なにかを察知していたのか、藤堂高虎あてに石見銀山・佐渡金山・伊豆銀山等の勘定は慶長14年分まで決算が済んでおり(つまり、上層部のOKが出ている)、慶長15年以後については部下に決算作業依頼中との報告書を出して、「自分は公方さまのものを横領してない!」と訴えたようなのですが、結果はこのとおり。

訴えは握りつぶされてしまったんでしょうか?

(藤堂高虎なら、家康の指示でやりそう!)

 

長安事件に巻き込まれた武田親子は、長安から資金援助を受けて武田家再興を謀っていた!、と言いがかりをつけられて流罪。

信道は寛永29年、故郷にもどることなく、伊豆大島で亡くなってしまいます。

息子の信正は、寛文3年(1663)、家光の十三回忌に際しての赦免があり、江戸にもどることができました。64歳のときでした。

当時としては相当なご高齢だったにもかかわらず、信正さんは意地で(?)子をもうけ、みごと嫡流の血をつなぎました

その子・信興は高家旗本として、家名再興を果たしたのです。

 

ゴマ的には、この親子をもっと早い段階で救出したいと考えているのです。

ファンタジーっすから、なんでもできるのさ、エッヘン <(`^´)>

 

 

にしても……一族根絶やしにしなきゃいけない秘密がある事件。

かなりヤバイ背景がありそうです。

真相はいったい……???

磯田道史先生あたりが、未知の古文書を発掘して、解明してくれないかなぁ。

 

今回の旅行は、さすがに伊豆大島までお墓詣りには行けないので、パパ上の信親さんのお墓にもうでて「よろしくお伝えください」とお願いしにうかがったわけです。

 

 

(追記)

この旅行では、はじめて甲斐善光寺にも行きました。

宝物殿は、ホントお宝の山ですぞ! 

頼朝・実朝像は、亡くなったすぐあとくらいに作られたものだから、たぶんご本人によく似ているはず。

一見の価値あり!

甲斐善光寺。雨で参拝者も少なくて、ゆっくり参拝&お宝拝見できました。

ラッキー

 

 

 


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なんだかんだハマってます

2024-06-05 | 日記

前回文句たれまくりだったお絵かきAIさんに、結局まだハマっております。

 

なんとか拙作のイラストが作れないか!?と、試行錯誤したところ、

お題:幕末にタイムスリップした高校生

(幕末感は皆無だけど、けっこう使えそう 

(たしかに後ろにおサムライさんはいるけど、やっぱりどこか中華風味……)

(隣の人、シカの角っぽいものが生えてますけど、獣人がいる徳川時代設定なんすか?)

 

お題:幕末の江戸を歩くイケメン武士と護衛たち

(う、うん、い、いいんじゃないかな……背景が京都の三年坂っぽいけど)

 

前回の人食い巨大鯉よりは、かなりイイ感じです

 

あともうひと息!

 


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AIさんに作画をしていただきました

2024-05-24 | 日記

なんでもタダで作画をしてくれるお試し版があるというので、描いていただきました。

 

お題:『江戸時代のイケメン殿様』

(え!? 三国志の方? ……に、日本人じゃなくない 

 

気を取り直して、

『江戸時代のちょんまげのイケメン殿様』

 

たしかに、さっきのごっついオッサンより、格段にイケメン度はアップしたけど……コレ、ちょんまげか???

 

人物はあきらめたほうがいいかもしれん。

 

てなことで、

『江戸時代 江戸 大地震』

1855年の江戸直下地震の絵をリクエストしてみたところ……

 

 

ゴジラもどきの巨大肉食(?)鯉っ!?

怖っっっ! 悪夢でうなされそうです 

 

じ、じゃあ、

『江戸時代 大地震』だったら、どうよ?

北斎の神奈川沖浪裏に激似なんですが……。

そして、建物がやっぱり中華風 

 

イイ感じのイラストができたら、こっそり小説の挿絵に使おうと思ったのにぃ

有料のAIさんなら、ソレっぽいのが作れるのかなぁ。

 


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『まいまいつぶろ』に物申す!(小姑根性丸出しなので、ファンのかたはスルーしてね)

2024-02-04 | 
昨年5月に刊行されたこちらの小説、『第12回「日本歴史時代作家協会賞作品賞」受賞』『第13回「本屋が選ぶ時代小説大賞」受賞』などというキラキラしい煽り文句がついているので、自称小説家のゴマは、どんな作品なのかとても気になっておりました。

とはいえ、「時代小説って、けっこう地雷だから、お金を出して買うのもなぁ」と思っていたら、江戸仲間のAさんが貸してくださいました。
あっざーす! 

で、さっそく読みはじめると……予感的中!

時代考証ユルユルで、まさに地雷そのものでした 

いやいや、そう思ってるのはゴマだけではござんせん。
Amazonのカスタマーレビューにも、同様の違和感をもつかたがたのコメントがいくつか見受けられました。


さて、この小説は、言語不明瞭&身体にハンディキャップのあった将軍として有名(?)な9代将軍・徳川家重と、


(家重さん。お顔がゆがんでいるのは脳性麻痺の後遺症だとも)

彼の言葉がわかった唯一の人・大岡忠光との友情物語(??)らしゅうございます。


(菩提寺のさいたま市岩槻区・龍門寺に残る忠光像)


(忠光さんのお墓。とても立派!)

Amazonレビューにも書かれていましたが、誰視点なのか統一されてないうえ(大岡忠相だったり、側室のお幸だったり、ブレブレ)、語っていた人(お幸)なんていつのまにか亡くなっていたり、ラストも尻切れトンボで「はいぃ?」な読後感でした。


なんやかんや、ひっかかるところはいろいろありますが、とくに気になるのは、

➀ しょっぱなの上臈御年寄(家重の乳母)が中奥に出向いて大岡忠相に会う場面
《大奥の人がそんなに気軽にひょいひょい出て来れるか! ふつう大岡のほうが広敷から奥入りして、対面所で会うだろーが! 不自然じゃ~! それに、中奥は将軍公邸。大奥のオバチャンが好き勝手に行き来して、利用していい場所じゃないんやで》

➁ 年齢に対する認識
『忠相は41歳という若さで江戸町奉行に任じられた』
『吉宗はまだ41という若さで』
『松平能登守乗賢という30過ぎの若者』 
《40歳は初老です。拙ブログ去年7月の記事『いや~、目からウロコっす』をご参照くだされ》

③ 西ノ丸でなぜか薔薇やサツマイモを栽培するふたりが圃場としている場所が、
『伏見櫓の手前なので、花壇が影を作る夕刻は土へ下りてもそう暑くはなかった』
《……西ノ丸の図面とか見ないで書いてるんですかね。伏見櫓周辺は土塁と白洲と建物で、植物を栽培するスペースなんざまったくありません》

④ 将軍になった家重に、薩摩藩主が参勤交代の帰国挨拶をする場面

 取次ぎ役の大岡忠相が、

『島津薩摩守宗信殿、家臣平田靱負正輔殿を伴い参勤帰国の儀、お赦しを願い出ておられます』
 忠相が口上を述べると、主従はさらに頭を下げた。
『薩摩守。此度は早う発つではないか。薩摩で何ごとか出来したか』
 家重の言葉を、忠光が絶妙の間合いで伝えた。

《ツッコミどころ満載で、思わず白目になりました。
 まず、取次ぎ役が言ったセリフは当然将軍に向けた言葉なはず。
 それなのに守名の薩摩守に【守】をつけたうえに(これだけでも超不敬)、宗信【殿】 
 さらに、家臣にまで正輔【殿】(ないわ!ないわ!) 
 さらにさらに、【おられます】(敬語の使い方まちがってる! 敬意を向ける対象はだれなんや!?) 
 さらにさらにさらに、将軍が「薩摩守」と【守】つきで呼びかける(気絶レベルの違和感)》

 これは、現代でたとえるなら、こちらに訪問してきた自社よりはるかに大企業の取引先の社長さんに対して、秘書あたりが自分のところの社長が入室するときに、「当社・社長の鈴木さまがお見えになりました」と、ほざいた場面を想像していただければよいかと。

将軍が大名に呼びかけるときは、「薩摩」「肥後」(会津藩主・容保さま)「掃部」(桜田門外で散った日本を愛した井伊直弼公)という感じだったはずで、これは将軍だけではなく、老中なども同じで、幕閣入りすると、ほかの大名連中を「加賀!」(あの100万石の前田さん)だの、「越前!」(四賢侯の春嶽さん・御三卿田安家出身の元徳川さん)だのと呼び捨てにできるので、老中さんはひそかにテンションをあげていたとかいないとか。

この場面、もし、ゴマが書くとしたら、
「薩摩が御暇言上にまかり越しております」
「それへ」
(島津がウンタラカンタラ申し上げる)
「大儀」

てな感じですかね。
尊い存在である公方さまは、必要最小限しか口にしませんが、まぁ、それだと物語が進みませんから、そこはいいとしても、家臣を伴って御前に出ることはありえないと思いますが。

⑤ 『家重の将軍襲封』
《【襲封】は、封地を拝領する大名が新しく藩主になったときとかでしょ。
将軍の場合は、【襲職】じゃないのかなぁ……  》

こうしてみてみると、これは時代小説じゃなくて、時代ファンタジーだと思えばええんやね!

なんだ、ゴマの書いてるアレといっしょだったのか
(といっても、ネット小説は、そこそこ時代考証してないと、コメント欄でフルボッコにされるから、泣きながら資料探さなきゃアカンのじゃ 


追記:

忠光家重の死後、家治は日光社参の際、大岡が拝領した岩槻に立ち寄って、息子・忠喜と語らい、
『余は父上の言葉も解することができなかった不孝者ゆえ』
と、忠光の功績を誉めるエピローグ的なシーンがあるのですが ―― 

ちょっと待った!

吉宗が次期将軍に家重を指名する場面(作中一番の山場)で、
「言語不明瞭な身体障害者に将軍なんて務まるか! どうしても将軍位につけるなら、忠光は罷免しろ!」
と、迫る老中・松平乗邑に、家重が反論するんですが、やっぱりなにを言っているかわからない。
でも、通訳役の忠光が威に打たれた(あるいは、ビビった?)のか、言葉を発することができなくなるという事態におちいり……

『――――』
 もう一度、家重がまた大声を張り上げた。
(※ 「もう一度」と「また」を一文の中で同時に使うんだ 
『伝えよ、忠光。余の命じゃ』
 つねに、家重の心まで伝えてくる忠光が、まるで気配の異なる声だった。
『忠光を遠ざける、くらいなら、私は将軍を……』
『忠光! 続きを申さぬか』
 乗邑が身を乗り出して叫んだ。
 だが、忠光は突っ伏したまま激しく頭を振っている。
 ~~ 中略 ~~
『忠光が言わぬならば、私が言おう』
 吉宗が驚いて首を伸ばした。
 乗邑も、当の家重も忠光も思わず振り向いていた。
 家治が穏やかな笑みを湛え、口を開いた。
『御祖父様。私は子ゆえ、少しは父上の言葉がわかります。代わりに申しても宜しゅうございますか』
『そなた……』
吉宗は呆けたようにぽかんと見返している。
(※ またもや、同意の「呆ける」と「ぽかん」をいっしょに使用)
『忠光を遠ざけよう、権臣にするくらいなら、私は将軍ゆえ、と。御祖父様、父上はそう仰せになりました』

……おいおい、完全に矛盾してるやん 

このとき家治ちゃんは8歳です。
こんなに小さいころに、けっこう難しい内容を聞き取れてたのに、『父上の言葉を解することができなかった』って……設定破綻してませんか?

ちなみに、老中や一族全員を呼んで次期将軍を宣言するこの公的な場で、吉宗さんが脇息を使っているのも、個人的には目が点ポイントでありました。
(あれは、完全にプライベート状態で使うものなんや。たとえ、相手が家臣でもそんなの置いて話すのはすごく失礼なんだけどなぁ)


では、最後に ―― Aさん、ご好意で貸してくださったのに、いろいろケチつけちゃって、すいません! 


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