OH江戸ライフ

パクス・トクガワーナ♪
とりあえず江戸時代っぽいものが好きなのです♡

「真田丸」に物申す

2016-03-03 | 人物


大河に乗っかれシリーズ第二弾は、戦国時代が超苦手なゴマ自身のためのおさらい会です。

まぁ、これを言ってもしかたないんですが、ドラマから歴史に入っていくと、実在の人物と役者さんのイメージで頭が混乱することがよくあります。
いい例が2013年の大河ドラマ「八重の桜」
あれでは、初回から会津藩家老西郷頼母を西田敏行(当時66歳)が演じていましたが、実際の西郷頼母近悳(ちかのり)は文政13年生まれで、あのころはまだ20代半ば。
文政11年生まれの山本覚馬(=西島英俊)より2つ下、小栗旬が演じた吉田寅次郎とは同い年。
西田敏行と小栗旬…どうしたってタメには見えましぇん…

なので、天正10年当時(武田氏滅亡&本能寺の変がおきた年)の戦国武将の実年齢を調べてみました

      (※数え年)
・織田信長 49
・織田信忠 26(信長の嫡男)

・羽柴秀吉 46

・武田勝頼 37

・北条氏政 45
・北条氏直 21

上杉景勝 27
・直江兼続 23

・徳川家康 40
本多正信 45
本多忠勝 35

真田昌幸 36
真田信之 17
真田信繁 13~16(生年がイマイチはっきりしないらしい)

ほらー、やっぱりーっ

草刈正雄(63)の真田パパが36
信繁役の堺雅人(42)がやってもいいくらいです
そして、徳川四天王のひとり本多忠勝が35
内野聖陽(47)の家康(これは許容範囲内)からみて5歳年下の忠勝が藤岡弘(70)…あたしゃ、近藤正臣(74)とともに傅役のじいやかと…

そして先週、やけにテンション高めでキレ気味だった北条氏直と上杉景勝は6歳しかちがわないんですね
(さすが上杉さん、落ちついてはるわ~。ゴマは上杉ヒイキどす

それにしても、ホントにワケわかんなくなってきたー

とはいえ、今年は去年の「どこの国の、いつの時代設定なの?」な超いい加減大河とは雲泥の差で、かなりおもしろいし、週末がたのしみなんですが

ま、ようするに自分で年齢を頭においてみればいいんですね(なら、最初から文句いうな


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上田は真田だけじゃないっ!

2016-03-02 | 幕末


目下、真田一色になっているでありましょう長野県上田市ですが、真田氏がここを統治したのは元和8年(1622)までの40年弱。
その後は、宝永3年(1706)まで仙石氏が約80年間統治し、つぎに但馬出石から仙石さんとトレードする形で入部したのが、伊賀守流藤井松平家。
そして、結局この家系が幕末まで約160年間、ここを支配することとなったのです。
なので、
上田は真田だけじゃないっ!
ではなく、
真田の4倍上田を統治した松平っ!とタイトル変更した方がいいかも。

それはそうと、アザラシ界の佐幕派宣伝部長たる()ゴマとしましては、激動の幕末期に老中をつとめた上田藩主・松平忠優―ただます―(のちに忠固―ただかた―と改名)公について語らないわけにはまいりません
忠優公ご着用の長裃

忠優さんは文化9年(1812)播磨姫路藩主・酒井雅楽頭忠実の次男として生まれ、17歳(数え年19歳)のとき、上田藩松平家に養子入りしました。
雅楽頭系酒井氏といえば、徳川四天王の筆頭・酒井忠次子孫の左衛門尉家(出羽庄内藩)とともに代々徳川譜代の代表格で、最後の大老を出したのもこの雅楽頭酒井家からでした。
そして婿入りした先もまた十八松平のひとつ藤井松平氏。
つまり、忠優さんはずっと徳川ひと筋、バリバリの譜代さんだったのですっ

さて、バリバリ忠優さんは嘉永元年(1848)めでたく老中になります。
歳は30代半ば。脂の乗り切った、まさに働き盛りのころであります
さて老中就任から6年後、マシュー・ペリー率いるアメリカ東インド艦隊の軍艦4隻が浦賀沖に出現し、このころから公にとって生涯の天敵となる水戸徳川斉昭との熾烈なバトルがはじまるのでした

徳川斉昭(呼び捨て)はいうまでもなくコテコテの攘夷論者。
なので、今回も攘夷一辺倒、口を開けばなんとかのひとつ覚えみたいにJOYJOY
ところが、寺社奉行大坂城代老中と着実に実務経験を積んできた忠優さんは、
「それ、俺らの装備じゃ絶対ムリだから」ということがよ~くわかっており、現実的な開国…いや、むしろ積極的に交易を行い、日本のイイもの売りまくって、その代価で海外の進んだ物を買って先端技術なんかを取り入れた方がいいんじゃね?的鋭敏な時代感覚をお持ちだったのです。
まさに徳川斉昭とは真逆の意見
ぶつからないわけはない
そのため忠優さんは水戸さまに嫌われ、顔を合わせるたび、あいさつがわりに「腹を切れ」と叫ばれるパワハラまで受けていたとか(ホントお気の毒…

その後の忠優さんは斉昭の圧力に屈した老中首座・阿部正弘によって閣内から追われるものの、阿部の死後に復活。開国派老中・堀田正睦、大老・井伊直弼のもとで修好条約締結にむけて奔走するのですが、井伊の安政の大獄でまたまた失脚。
そして安政6年(1859)急死、享年48。表向きは病死ながら暗殺説もあるそうです

では、これより忠優公のどこがスゴイかという本題に入りますです
(いままでは前フリですぞ~

1)いざとなれば朝廷も大老もガン無視

忠優さんは、当時のアジア地域で無双状態だったイギリスから日本を守るため、そのころはまだイギリスほどガツガツしていなかったアメリカと先に有利な条約を結ばなければっと決意していました。(先にむすんだ条約が基本になるうえ、アメリカさんのバックアップが期待できたため)
なので、条約締結に際し、「グダグダ朝廷の許可(勅許)なんか待ってられっかんなことしてたら、アメリカより先にイギリスに詰め寄られて不利な条約呑まされんだろ」と、「勅許ガー」と吠える井伊をガン無視してさっさと調印しちまったのでした。
(これがもとで『掃部頭くん粛清リスト』にお名前が記されることに…

2)先見の明がスゴイ

日米修好通商条約調印の前年、産物会所を江戸と上田にサックリつくり、条約発動とともに藩特産品の生糸を輸出できる体制をスタンバイ。横浜が開港すると生糸輸出でガッポガッポ

そのほか、忠優さんには直接関係ないのですが、維新後、三男・忠礼(7代目藩主)、四男・忠厚(旗本)はアメリカの大学に留学します。
ついこの前まで殿さまだった人たちがガチ留学ですぞー
(外遊もどきのちょろっと留学なら、けっこうやってる元・殿さまはいました
忠礼はアメリカの主要大学の卒業生の中から成績優秀者のみに与えられる賞を受け、明治12年(1879)帰国。翌年から外務省御用掛・外務省取調局に勤務します。
一方、弟の忠厚は土木工学を専攻し、大陸横断鉄道建設中のユニオン・パシフィック社の主任測量士に。また測量に関する論文(もちろん英文)を多数発表し、アメリカにおける日本人初の公職者として名を轟かしたそうです(奥さんもあちらの方)
こうした息子たちの時代に対する即応性・先見性は、やはり開明派だったパパゆずりのような気がします

3)なんと、あの吉田松陰とも接点が

嘉永7年(1854)日本とアメリカの間で日米和親条約が調印されたあと、その細則を決めるためアメリカ艦船が下田に停泊しているとき、かの有名な吉田松陰密航未遂事件が起こります。
当時、日本では『海禁』といって、日本人の渡航および帰国が禁じられていました。
この国禁違反により吉田と密航を指嗾した罪で吉田の師・佐久間象山がパクられ、厳罰必至な状況の中、開国派の忠優公は減刑のために尽力し、なんとか国許での蟄居という軽い処罰ですませたのです。
その後も忠優公は稀代の異才・佐久間象山を赦免するための活動をつづけており、それを知った吉田は公に対し敬慕の情を抱いていたようです(安政4年桂小五郎あて書簡より)

うーん、開国派として全くブレてないっ
ここまでのお大名はなかなかいません


信濃上田藩最後の殿さま、忠優公三男・忠礼―ただなり―氏(二十歳くらいのころ)
忠優公もこんなお顔をしてたのかなぁ
(肖像画が見つからないので、坊ちゃまのお写真で妄想することにします

(今回の写真は、上田市立博物館さまHPよりお借りしました

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