OH江戸ライフ

パクス・トクガワーナ♪
とりあえず江戸時代っぽいものが好きなのです♡

あ゛あ゛ー、長岡藩がぁー (@_@。

2022-12-20 | 幕末
みなさま ごきげんよう
皮下脂肪たっぷりなくせに、寒さに激弱なゴマでございます。

さてさて、先週来の寒波で新潟をはじめ日本海側の各地では災害レベルの被害がでています。

長岡などで立ち往生続出

なんということでしょう 

ニュースででてくる長岡や小千谷……といえば、そうです!
河井継之助ですっ!


そして、その継之助を主人公にした映画が今年封切られたりしたわけですが、(『峠』
原作は、かの有名な小説家S遼太郎氏です。

現在ゴマは完全にアンチ化していますが、中学~高校くらいまでは親父の部屋からちょいとくすねてSセンセイの御高作をむさぼり読み、果ては大キライな教師(物理担当)の授業中、わざと最前列で『胡蝶の夢』を広げたりなんぞして、思いっきり赤点を食らったりといったイタイ青春時代を過ごしたりしたものです。

(でもね、そのころでも某C藩やS藩のテロリストどもを無節操に持ち上げたあんな作品やこんな作品には違和感を覚えていたんだよ。ゴマ、エライ

で、くだんの『峠』ですが、いまでも印象に残っているのが、冬の長岡から江戸に出てきた継之助が「不公平だ!」と憤るシーン。
(それ以外はまったく記憶にない 

1年の半分近く陽光もささず、真冬ともなれば豪雪で、毎日のように雪かきをしなければばらない長岡。
それに対し、冬でも晴天つづきで、故郷の人たちが強いられているようなムダな労働等とは無縁な江戸っ子連中。
そんな地理的不利に、なんとか愛する長岡をイイ方向に持っていけないかと、己の人生の指針を見出す ―― たしか、そんな感じだったような気がします。
(うろ覚えなんで、まちがっていたらスンマセン ☜ 読み返す気は皆無)

若いころに刷り込まれた印象が強烈で、ニュースで大雪の被害状況を見るたび、この継之助のもどかしさや、どこにもぶつけようのない怒りみたいなものを思い出しちゃうんです。

考えてみれば、会津・荘内をはじめ奥羽越諸藩も、冬は長岡同様の過酷な環境に置かれていたわけです。

一方のテロリスト排出C藩などは、めちゃくちゃ年貢率を高く設定してコメをゴッソリ持っていっても、二毛作ができるので、冬に麦等を作ればお百姓のみなさんは食べていけるのでとても有利です。

なんと不公平な!!


そんなこんなで思い出しついでに、ついついネットでポチッとしてしまったのがこちら



今年の6月に出たばかりの本で、著者は河井継之助記念館の前館長さんだそうです。
(ご本人は出版前にお亡くなりになったとか 


ここへきて、ハッと気づいたんですが、河井継之助と小栗上野介忠順さまは同じ文政10年生まれで、亡くなったのも同じ慶応4年!

うわぁ~、運命的なものを感じるわ~ 



ここしばらくは寒い日がつづきそうなので、家にこもって読もうっと。






尋ね人

2019-06-25 | 幕末
みなさま こんにちは 
書く書く詐欺のゴマちゃんです 

前回、
『どうもヤバいものが憑いてるみたいだからお祓いしました なんか取れた気がするんで、ヒソカちゃんの続きを書くね』なんて調子こいた宣言をしましたが、じつはあれからもいろいろありまして……

一例を挙げますと、
「ずっと暖かかったのにいきなり冷えこんで、植えたばかりの苗がいっぱい枯れた」
「なんとか気を取り直して苗を植え替えたら、大量かつ激しく雹が降り、畑がリアル青汁状態に」

……みたいな

そのほかにもモロモロあったのですが、現在は原因不明のひじ痛で(ゴマはスポーツなどやらんのに、テニス肘のようなものらしい)、シップ&サポーター&痛み止めを服用中。

コレ、絶対取り切れてないし~!!!


そんな鬱々な日々を過ごしているわけですが、ゴマはこういう時、ベアトなどの古写真をながめつつ、勝手にソレっぽいと決めつけた音楽を聴いて憂さ晴らしをしているのです。


てなことで、今日も溜まった洗濯物とグジグジを解消しようとお気に入りの曲をセレクト(今日の気分はコチラ・『逢いたくていま(MISIA)』

で、手持ちの写真集も見飽きたのでネットでいい写真はないかとググったところ…………

でやぁーーー!!!???

誰や、このイケメンは!?



オ、オグさ……ま!?

アタクシの中の小栗忠順さまそのものですー 


(小栗さまご尊顔 激似 本人としか思えん


とはいえ、あのころはオグさまのようなほっそりした男じゃなくて、特に上級武士などはこういうデップリした御方のほうが好ましく思われていたようですが 


幕末三美男の一人・老中阿部正弘公

体形的にはこのタイプやね




どなたかこのイケメンさんのお名前をご存知ありませんかー!?

教えて~~~!


海援隊カステラ

2016-10-19 | 幕末


きのう坂本龍馬の名が出たので、つい思いだしちゃいましたよ、『海援隊カステラ』

なんでも、2010年の大河ドラマ『龍馬伝』のころから発売されているらしいんですが、龍馬伝は興味なかったから、長崎行くまで全然知らなかったっすよ~

ま、佐幕派のワタクシにとって、海援隊なんてどーでもいいっちゃ、いいんですが、聞き捨てならないのは、
「幕末レシピを忠実に再現・復刻したカステラ」ちゅーキャッチコピーっ!

なんでも『雄魂姓名録』という京都国立博物館所蔵の海援隊日誌的古文書に、その分量・製法が書いてあって、それをもとに開発されたとか。

で、これを売っているのはコチラ、文明堂総本店(長崎市江戸町1-1)
(現在)
(昔)

ここは出島のすぐそば、長崎県庁(かつて長崎西役所があったところ)横でございます。
(ちなみに、かの有名な遠山の金さんこと町奉行・遠山景元の父、遠山景晋も長崎奉行として赴任したことがあるので、きっと金さんパパも食べたんじゃないでしょうか、こんなカステラ


そして、気になるそのレシピはといいますと、

「カステイラ仕様
 正味

 玉子  百 目(=匁・3.75g)
 うどん 七十目(=小麦粉のこと)
 さとふ 百 目(=砂糖) 

 此ヲ合テヤク也
 和蘭実方」

……こ、これだけ

で、お味はといいますと……これがまたとんでもなくうまいっ
広告文では、
「現在のカステラにくらべ、しっとり感はすくないが~(ウンヌン)~」
って書いてあるけど、ゴマのような微糖派にはむしろこっちのさっぱり系カステラの方が断然好み

あー、また食べたいな~
お取り寄せしちゃおうかな~


ところでみなさん、「文明堂」などと軽~く言ってますが、この名を冠する会社が全国に7つもあるのをご存じでしたか

①長崎市江戸町にある文明堂総本店――明治33年(1900)創業

②株式会社文明堂東京(東京都中央区日本橋室町)――大正11年(1922)創業:初代は本家創業者の実弟

③銀座文明堂(東京都中央区築地)――昭和14年(1939)②からのれん分けされ、創業

④株式会社文明堂(横浜市中区伊勢佐木町)――昭和8年(1933)②創業者が横浜店を開店し創業

⑤株式会社文明堂神戸店(神戸市兵庫区福原町)――昭和5年(1930)創業

⑥株式会社浜松文明堂(静岡県浜松市東区子安町)――昭和42年(1967)②創業者により創業

⑦株式会社麻布文明堂(東京都港区六本木)――大正12年(1923)②からのれん分けされ、文明堂麻布店として創業するも、平成15年(2003)カステラはじめ菓子製造販売を休止。現在はアロマセラピー商品などを販売する、「ABJOY」というショップを運営


で、この7つはすべて別会社で、経営もそれぞれ別個に行っているようです
もとは1つだった「文明堂」が分裂したのは昭和21年(1946)だそうで、なぜかは……けっこうオトナの事情っぽいみたいで

ようするに、関東で「文明堂のカステラ」として売っているものは、長崎の「文明堂カステラ」とは全く別物。
名前は似ていても別会社のちがう製品ということです


たしかに、以前、長崎旅行に行ったとき、文明堂総本店で買った「期間限定・九州産イチゴ使用カステラ巻」がすんごくおいしくて、こっちに帰ってから近所のスーパーで、「文明堂のイチゴ味カステラ巻」買ったら、ビックリするほど……だったっけ

期間限定って言葉に弱い

そう思うと、「文明堂は関東でも買えるから」って、ここでは海援隊カステラとカステラ巻(しかも機内用に1個だけ)しか買わなかったあの選択がくやまれるぅ……

みなさーん、長崎に行ったら、出島&文明堂、セットでおたのしみくだされ~
地元で買える文明堂カステラと、長崎文明堂のカステラは全然ちがうんですよ~

(ちきしょー 速攻取り寄せてやるー

上田は真田だけじゃないっ!

2016-03-02 | 幕末


目下、真田一色になっているでありましょう長野県上田市ですが、真田氏がここを統治したのは元和8年(1622)までの40年弱。
その後は、宝永3年(1706)まで仙石氏が約80年間統治し、つぎに但馬出石から仙石さんとトレードする形で入部したのが、伊賀守流藤井松平家。
そして、結局この家系が幕末まで約160年間、ここを支配することとなったのです。
なので、
上田は真田だけじゃないっ!
ではなく、
真田の4倍上田を統治した松平っ!とタイトル変更した方がいいかも。

それはそうと、アザラシ界の佐幕派宣伝部長たる()ゴマとしましては、激動の幕末期に老中をつとめた上田藩主・松平忠優―ただます―(のちに忠固―ただかた―と改名)公について語らないわけにはまいりません
忠優公ご着用の長裃

忠優さんは文化9年(1812)播磨姫路藩主・酒井雅楽頭忠実の次男として生まれ、17歳(数え年19歳)のとき、上田藩松平家に養子入りしました。
雅楽頭系酒井氏といえば、徳川四天王の筆頭・酒井忠次子孫の左衛門尉家(出羽庄内藩)とともに代々徳川譜代の代表格で、最後の大老を出したのもこの雅楽頭酒井家からでした。
そして婿入りした先もまた十八松平のひとつ藤井松平氏。
つまり、忠優さんはずっと徳川ひと筋、バリバリの譜代さんだったのですっ

さて、バリバリ忠優さんは嘉永元年(1848)めでたく老中になります。
歳は30代半ば。脂の乗り切った、まさに働き盛りのころであります
さて老中就任から6年後、マシュー・ペリー率いるアメリカ東インド艦隊の軍艦4隻が浦賀沖に出現し、このころから公にとって生涯の天敵となる水戸徳川斉昭との熾烈なバトルがはじまるのでした

徳川斉昭(呼び捨て)はいうまでもなくコテコテの攘夷論者。
なので、今回も攘夷一辺倒、口を開けばなんとかのひとつ覚えみたいにJOYJOY
ところが、寺社奉行大坂城代老中と着実に実務経験を積んできた忠優さんは、
「それ、俺らの装備じゃ絶対ムリだから」ということがよ~くわかっており、現実的な開国…いや、むしろ積極的に交易を行い、日本のイイもの売りまくって、その代価で海外の進んだ物を買って先端技術なんかを取り入れた方がいいんじゃね?的鋭敏な時代感覚をお持ちだったのです。
まさに徳川斉昭とは真逆の意見
ぶつからないわけはない
そのため忠優さんは水戸さまに嫌われ、顔を合わせるたび、あいさつがわりに「腹を切れ」と叫ばれるパワハラまで受けていたとか(ホントお気の毒…

その後の忠優さんは斉昭の圧力に屈した老中首座・阿部正弘によって閣内から追われるものの、阿部の死後に復活。開国派老中・堀田正睦、大老・井伊直弼のもとで修好条約締結にむけて奔走するのですが、井伊の安政の大獄でまたまた失脚。
そして安政6年(1859)急死、享年48。表向きは病死ながら暗殺説もあるそうです

では、これより忠優公のどこがスゴイかという本題に入りますです
(いままでは前フリですぞ~

1)いざとなれば朝廷も大老もガン無視

忠優さんは、当時のアジア地域で無双状態だったイギリスから日本を守るため、そのころはまだイギリスほどガツガツしていなかったアメリカと先に有利な条約を結ばなければっと決意していました。(先にむすんだ条約が基本になるうえ、アメリカさんのバックアップが期待できたため)
なので、条約締結に際し、「グダグダ朝廷の許可(勅許)なんか待ってられっかんなことしてたら、アメリカより先にイギリスに詰め寄られて不利な条約呑まされんだろ」と、「勅許ガー」と吠える井伊をガン無視してさっさと調印しちまったのでした。
(これがもとで『掃部頭くん粛清リスト』にお名前が記されることに…

2)先見の明がスゴイ

日米修好通商条約調印の前年、産物会所を江戸と上田にサックリつくり、条約発動とともに藩特産品の生糸を輸出できる体制をスタンバイ。横浜が開港すると生糸輸出でガッポガッポ

そのほか、忠優さんには直接関係ないのですが、維新後、三男・忠礼(7代目藩主)、四男・忠厚(旗本)はアメリカの大学に留学します。
ついこの前まで殿さまだった人たちがガチ留学ですぞー
(外遊もどきのちょろっと留学なら、けっこうやってる元・殿さまはいました
忠礼はアメリカの主要大学の卒業生の中から成績優秀者のみに与えられる賞を受け、明治12年(1879)帰国。翌年から外務省御用掛・外務省取調局に勤務します。
一方、弟の忠厚は土木工学を専攻し、大陸横断鉄道建設中のユニオン・パシフィック社の主任測量士に。また測量に関する論文(もちろん英文)を多数発表し、アメリカにおける日本人初の公職者として名を轟かしたそうです(奥さんもあちらの方)
こうした息子たちの時代に対する即応性・先見性は、やはり開明派だったパパゆずりのような気がします

3)なんと、あの吉田松陰とも接点が

嘉永7年(1854)日本とアメリカの間で日米和親条約が調印されたあと、その細則を決めるためアメリカ艦船が下田に停泊しているとき、かの有名な吉田松陰密航未遂事件が起こります。
当時、日本では『海禁』といって、日本人の渡航および帰国が禁じられていました。
この国禁違反により吉田と密航を指嗾した罪で吉田の師・佐久間象山がパクられ、厳罰必至な状況の中、開国派の忠優公は減刑のために尽力し、なんとか国許での蟄居という軽い処罰ですませたのです。
その後も忠優公は稀代の異才・佐久間象山を赦免するための活動をつづけており、それを知った吉田は公に対し敬慕の情を抱いていたようです(安政4年桂小五郎あて書簡より)

うーん、開国派として全くブレてないっ
ここまでのお大名はなかなかいません


信濃上田藩最後の殿さま、忠優公三男・忠礼―ただなり―氏(二十歳くらいのころ)
忠優公もこんなお顔をしてたのかなぁ
(肖像画が見つからないので、坊ちゃまのお写真で妄想することにします

(今回の写真は、上田市立博物館さまHPよりお借りしました

今日は安政江戸地震の日

2015-10-02 | 幕末


安政2年10月2日(グレゴリオ暦1855年11月11日)午後10時ころ、江戸直下でM7クラスの地震が起きました。
(これについては3/6にも書いています。ご参照ください)

当時江戸の町名主をしていた斎藤月岑の「武江年表」を見ると、ここだけ飛びぬけてページ数を割いており、それだけインパクトが強い出来事だったとわかります。



死者推定1万人ともいわれるこの大災害が起ったのが旧暦の10月……「神無月」=つまり神さまのいない月に起きた大地震……そして今も10月……
ギャーみなさん、大ピンチですぞー

日本では地震が起きるのは大ナマズが地中で暴れるからと思われています。
この悪いナマちゃん、いつもは鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)の要石で頭を、香取神宮(千葉県香取市)の要石でシッポをガッチリ押さえられているからおとなしくしているのです。
そして、この大事な石を守ってくださっているのが鹿島神宮祭神の武甕槌大神(通称:鹿島さま)でございます。
しかーし
10月はこの鹿島さまが出雲に1ヶ月間も長期出張してしまうんです
な、なんでそんなことにぃぃぃ~~~
とはいえ、鹿島さまがお留守の間、代理で要石を守ってくださる方もいらっしゃるのですが……
それが七福神唯一のジャパニーズ=恵比須さま
ところが、エビスさまにももともとのお仕事があったりするわけで、要石だけ見張ってるというわけにもいかず……
(10月には「えびす講」なんてお祭りもあるくらい、それなりにお忙しい
……ちょ、ちょ、ちょっとまって……
やっぱ10月は危ないんじゃないのぉーっ

鹿島さまとナマちゃん
鹿島さま、早く帰ってきて~