テアトル十瑠

1920年代のサイレント映画から21世紀の最新映像まで、僕の映画備忘録。そして日々の雑感も。

[アカデミー賞の季節です]

2009-02-24 | [コラム]
 昨日、米国アカデミー賞(第81回)の発表があって、滝田洋二郎監督の「おくりびと」が日本初の外国語映画賞を、鹿児島出身の加藤久仁生監督が作った「つみきのいえ」が短編アニメーション賞を受賞するという快挙が成し遂げられました。夕べもそうだけど、今朝もこの話題がワイドショーのトップニュースでした。
 「おくりびと」は、主演の本木雅弘が16年前にインドに行った時に彼の地の葬儀に感銘を受け、その後日本で納棺師をされていた人の本「納棺夫日記」を読んで、いつか映画にしたいとの思いが生まれ、関係者にその思いを伝えていった末の作品とのことです。未見なので内容については詳しくは知りませんが、元々チェリストであった主人公がリストラにあい、次の職業に選んだのが納棺師と言うわけで、個人の再生の話でもあるのだろうし、生と死について考えさせる話にもなっているらしい。外国語映画賞といえば、少し前には「たそがれ清兵衛」がノミネートされるも受賞に至らなかったのが記憶に新しく、それを思うと実に素晴らしいことです。ユーモアも交えた語り口だそうで、観るのが楽しみですね。

 さて、この季節に合わせた訳ではないんですが、アカデミー賞にまつわるエピソードを纏めた川本三郎氏の「アカデミー賞」(中公新書)という本を、たまたま一(ひと)月ほど前に古本屋さんで購入してまして、丁度読んでいる途中でした。副題が、<オスカーをめぐる26のエピソード>。
 華やかな祭典の裏には、光の何倍もの影の話があるわけで、それは別に暗いとか汚いとかそういう種類のものだけではなく、地味だけど滋味溢れる面白い話も色々とあるので、私はそういう部分に惹かれるわけですね。
 このブログでも触れたジェーン・フォンダ、ヘンリー・フォンダ親子の「黄昏 (1981)」に関するエピソード。賞レースを拒否したジョージ・C・スコットやマーロン・ブランドの話。グレタ・ガルボ、ジュディ・ガーランドやリチャード・バートン、ピーター・オトゥールなど悲運のスターの話。そして、そもそものアカデミー賞が誕生した経緯など、アメリカ映画ファンには面白い話が一杯です。

 誕生秘話について少しだけ書きますと、言い出しっぺは当時のMGMの副社長だったルイス・メイヤーで、狙いは組合対策だったそうです。1926年に撮影所で働く専門職による5つの労働組合が作られ、その組合と経営者側とで労働条件や賃金に関する労働協定が結ばれた。ところが、後でよく考えるとその協定通りに賃金を支払うと大変な数字になることが分かり、そのうち監督やら脚本家などの組合も出来るともっと大変になる。そこで、労使協調の場を設けようと、主要な映画人が集まる会員組織を作った。それがアカデミー会員の始まりで、その頃はゴルフクラブの会員のような感じで、映画賞のようなものは無かったらしい。ところが、始めてみると組織の目的が曖昧との意見が出てくるようになり、表向き「映画芸術及び科学の質の向上をはかること」が目的として掲げられ、更には「優れた業績に関する表彰」が活動内容の一つに加えられた。これが後のアカデミー賞になるわけです。
 言い出しっぺが経営者側であり、昔の事でもあり、初めの頃は経営者による恣意的な投票が行われたらしいです。あの俳優は気にくわんからノミネートから外そうとか、弱小会社の作品にはお声がかからなかったとか。監督賞3回受賞のフランク・キャプラもコロンビアというマイナーの会社に居たためなかなか受賞できなかったらしいです。俳優たちも各映画会社と専属契約を結んでいた時代で、なかなか発言の場が無く、こういったアカデミー賞に関する不満も出てきた。そこで、その頃アカデミーの会長だったキャプラは策を練って、アカデミー会員をそれまでの200人から1400人に増やし、経営者側の権力を小さくする事に成功したとのことでした。さすが、キャプラ。

 もう一つ書かせて下さい。
 前回紹介した「女相続人(1949)」の主演のオリヴィア・デ・ハヴィランドに関連して、彼女と一つ下の妹ジョーン・フォンテインとの仲の悪さについて書きましたが、この本にも26分の1のエピソードとして書かれていました。つまり、姉妹の関係を悪くしたのにはアカデミー賞が関わっていたわけです。
 あまり詳しく書くと著作権に引っかかるので、簡単に書きますが、1940年のヒッチコック作品「レベッカ」から表だった不運が始まります。
 当時ワーナーの専属女優だったオリヴィアは、前年度にMGMの大作「風と共に去りぬ」の演技で好評を博したが、社長のワーナーとは気が合わなかった。MGMは翌40年に「レベッカ」を企画し、ヒッチコックはオリヴィアを起用したいと思っていたが、今度はワーナーがオリヴィアの貸し出しを渋った。泣く泣くオリヴィアも諦めたが、その後レベッカ役を射止めたのが妹のジョーン・フォンテインというわけです。
 ジョーン・フォンテインはこの演技で主演女優賞にノミネートされ一躍有名になる。更に翌年、ジョーンは再びヒッチコックと組んで「断崖」に主演し、その年のアカデミー主演女優賞にノミネートされる。そして、この年のオスカー獲りのライバルの一人が姉のオリヴィアだったのです。今回も他社作品への出演だったオリヴィアには、受賞へのサポートがなく、なんと妹のジョーンが姉を差し置いてオスカー女優となってしまいました。
 この時の受賞パーティーでは、初受賞に驚くジョーンを姉のオリヴィアが優しく壇上へと促し、その後スピーチを終えて帰ってきた妹と握手を交わす。『美しい姉妹愛』と当時の新聞は称えたそうですが・・・。
 悲劇は更に続きます。
 ワーナーではB級作品の助演的な役しかもらえなかったオリヴィアは会社との関係が悪化し、ついには専属契約解消の訴訟を起こす。仕事のない月日が3年続き、やっとワーナーから解放されたオリヴィアは46年の「遙かなる我が子」で主演女優賞にノミネート、初の主演女優賞に輝く。パーティー会場には妹のジョーンも来ていて、壇上から降りてきた姉に笑顔で手を差し伸べたが、オリヴィアはくるりと背を向けて握手に応じなかった。この瞬間の写真が新聞に載って、姉妹の不仲が公になったということでした。
 悪いのはワーナー。そう思いたくなります。あと、裁判費用も相当なものだったようだし、3年の間の不遇の時代の姉妹の関係がどうだったのか。この辺に不仲の原因があるようですね。
 因みに、姉妹の父親が東大の教授をしていた関係で、二人とも東京生まれだそうです。

 もっと面白い話がありますが、これ以上は話せません。お後がよろしいようで・・・。

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