個人的な遍歴も、今回の3で終わりです。
高校に入ってからは、以前から行っていた東宝劇場のある街も近くなった(路面電車で行ける)ので、週末などには学校帰りにも行くようになりました。今と違って昔は土曜日にも午前中は授業があっていたんですよね。
この頃行くのは洋画専門館がメインになりました。
たくさん観たので何を最初に観たかハッキリしませんが、比較的初期に観て印象に残っているのが「卒業」と「2001年宇宙の旅」の二本立て。これはロードショーではなくリバイバルです。この時に、キャサリン・ロスとダスティン・ホフマンのファンになって、以後彼らの出演作を追っていったのでした。
この頃の映画館というのは、全席自由席で大抵二本立てでした。二本立てというのは一度に二つの映画が交互に放映される仕組みで、いわばレコードの(これも例えが古いなぁ)A面とB面のようなもの。売りはどちらかで、もう一方はおまけですね。だから、おまけの方は何があるのか知らずに観に行くこともあります。
これも洋画を観だして間もない頃に、同時上映作品にエロチックなスウェーデン映画が流れてきてビックリしたことがありました。筋書きも出演者もサッパリ覚えていないのにタイトルだけは覚えているという「濡れた唇」。allcinemaで調べると、全くのエロ目的の作品だったみたいで、監督も出演者もその後特記すべき作品には出ていないようでした。いわゆる成人映画ではなかったので、ヌード・シーンも大したことはなかったと思われますが、なにしろそんなシーンもあったのやらどうやら・・・。
全席自由席では入れ替えもありませんから、二本立てでも目的の映画を観ればもう片方はどうでもいいと帰る人もいれば、僕のように両方とも観て更にもう一回観る人もいます。人気の作品では券を買う時には既に満席の場合もあって、ガラス窓の奥のお姉さんに『立ち見になりますけどよろしいですか?』なんて聞かれたりします。
まるまる映画一本、通路の堅いコンクリートの床に座って観たことも何度もありましたね。
当時はNETテレビといっていた今のテレビ朝日系列で「日曜洋画劇場」も始まっていまして、そちらも毎週のように観ていました。解説は勿論、淀川長治さん。その内に「月曜ロードショー」とか「水曜ロードショー」とか「金曜ロードショー」とか、他の局でも(概ね夜の9時スタートで)映画枠が設けられ、とにかく毎日のようにお茶の間で映画が観れる、そんな時代でした。
当時はアメリカン・ニューシネマと言われるアメリカ映画が隆盛で、映画雑誌「SCREEN」を毎月買って読んでは、興味の湧いた作品を毎週のように観に行ったものでした。
当時、ファンになった俳優はダスティン・ホフマンとロバート・レッドフォード。彼らの作品は結構観に行きました。
女優ではキャサリン・ロス。「卒業」、「明日に向って撃て!」、「夕陽に向かって走れ」。
名作のリバイバルも時折公開され、「風と共に去りぬ」、「アラビアのロレンス」、「略奪された七人の花嫁」を観たのも高校生時代でした。前2作は長尺作品だったので、昼食にサンドウィッチを頬張りながら、丸一日潰して映画館に籠もって観たものです。
サイレント映画のブームというのもその頃にあって、チャップリンやバスター・キートンの映画が日本で見直され、一般劇場でのリバイバル公開もなされました。僕もこの時に初めて「モダン・タイムス」や「セブンチャンス」を観たような気がします。
「SCREEN」誌で双葉さんや滋野辰彦さんのレビューを読み、専門家の映画の見方を勉強したのもこの頃ですが、監督として好きになったのは、既にTVでの放映の方が多かったウィリアム・ワイラーやアルフレッド・ヒッチコック。当時の若手監督ではスピルバーグや日本の斎藤耕一には大いに惹かれました。
最近はサッパリ“映画館”には行ってません。
指定席の椅子はゆったりと大きいし、飲み物を置く台も付いてるし、前のシートの背もたれには荷物をかけるフックまで付いている。おまけに前後の椅子の配置がずらしてあって、昔のように前の席の座高の高い人の頭が気になることもない。
身体的環境は雲泥の差があるのですが、なにしろ昔から映画は一度に2回観る癖のあった僕にとっては、一度で退場しなければいけない今の映画館は物足りない。もしも今、そういう昔のシステムで経営している映画館があれば、多少のプレミアム料金を払っても観ても良い作品もあるかも知れないと思うんですがネ。
高校に入ってからは、以前から行っていた東宝劇場のある街も近くなった(路面電車で行ける)ので、週末などには学校帰りにも行くようになりました。今と違って昔は土曜日にも午前中は授業があっていたんですよね。
この頃行くのは洋画専門館がメインになりました。
たくさん観たので何を最初に観たかハッキリしませんが、比較的初期に観て印象に残っているのが「卒業」と「2001年宇宙の旅」の二本立て。これはロードショーではなくリバイバルです。この時に、キャサリン・ロスとダスティン・ホフマンのファンになって、以後彼らの出演作を追っていったのでした。
この頃の映画館というのは、全席自由席で大抵二本立てでした。二本立てというのは一度に二つの映画が交互に放映される仕組みで、いわばレコードの(これも例えが古いなぁ)A面とB面のようなもの。売りはどちらかで、もう一方はおまけですね。だから、おまけの方は何があるのか知らずに観に行くこともあります。
これも洋画を観だして間もない頃に、同時上映作品にエロチックなスウェーデン映画が流れてきてビックリしたことがありました。筋書きも出演者もサッパリ覚えていないのにタイトルだけは覚えているという「濡れた唇」。allcinemaで調べると、全くのエロ目的の作品だったみたいで、監督も出演者もその後特記すべき作品には出ていないようでした。いわゆる成人映画ではなかったので、ヌード・シーンも大したことはなかったと思われますが、なにしろそんなシーンもあったのやらどうやら・・・。
全席自由席では入れ替えもありませんから、二本立てでも目的の映画を観ればもう片方はどうでもいいと帰る人もいれば、僕のように両方とも観て更にもう一回観る人もいます。人気の作品では券を買う時には既に満席の場合もあって、ガラス窓の奥のお姉さんに『立ち見になりますけどよろしいですか?』なんて聞かれたりします。
まるまる映画一本、通路の堅いコンクリートの床に座って観たことも何度もありましたね。
当時はNETテレビといっていた今のテレビ朝日系列で「日曜洋画劇場」も始まっていまして、そちらも毎週のように観ていました。解説は勿論、淀川長治さん。その内に「月曜ロードショー」とか「水曜ロードショー」とか「金曜ロードショー」とか、他の局でも(概ね夜の9時スタートで)映画枠が設けられ、とにかく毎日のようにお茶の間で映画が観れる、そんな時代でした。
当時はアメリカン・ニューシネマと言われるアメリカ映画が隆盛で、映画雑誌「SCREEN」を毎月買って読んでは、興味の湧いた作品を毎週のように観に行ったものでした。
当時、ファンになった俳優はダスティン・ホフマンとロバート・レッドフォード。彼らの作品は結構観に行きました。
女優ではキャサリン・ロス。「卒業」、「明日に向って撃て!」、「夕陽に向かって走れ」。
名作のリバイバルも時折公開され、「風と共に去りぬ」、「アラビアのロレンス」、「略奪された七人の花嫁」を観たのも高校生時代でした。前2作は長尺作品だったので、昼食にサンドウィッチを頬張りながら、丸一日潰して映画館に籠もって観たものです。
サイレント映画のブームというのもその頃にあって、チャップリンやバスター・キートンの映画が日本で見直され、一般劇場でのリバイバル公開もなされました。僕もこの時に初めて「モダン・タイムス」や「セブンチャンス」を観たような気がします。
「SCREEN」誌で双葉さんや滋野辰彦さんのレビューを読み、専門家の映画の見方を勉強したのもこの頃ですが、監督として好きになったのは、既にTVでの放映の方が多かったウィリアム・ワイラーやアルフレッド・ヒッチコック。当時の若手監督ではスピルバーグや日本の斎藤耕一には大いに惹かれました。
最近はサッパリ“映画館”には行ってません。
指定席の椅子はゆったりと大きいし、飲み物を置く台も付いてるし、前のシートの背もたれには荷物をかけるフックまで付いている。おまけに前後の椅子の配置がずらしてあって、昔のように前の席の座高の高い人の頭が気になることもない。
身体的環境は雲泥の差があるのですが、なにしろ昔から映画は一度に2回観る癖のあった僕にとっては、一度で退場しなければいけない今の映画館は物足りない。もしも今、そういう昔のシステムで経営している映画館があれば、多少のプレミアム料金を払っても観ても良い作品もあるかも知れないと思うんですがネ。
中学校に上がる少し前から、電車に乗って映画館に行くようになりました。
その街には松竹もあったのですが、やはり少年が観たいのは東宝映画でした。最初に観たのが、当時ファンだった加山雄三が主演する若大将シリーズの第5作、「海の若大将」。同時上映が「フランケンシュタイン対地底怪獣バラゴン」。
若大将がお目当てだったはずなのにそっちの思い出は無くて、フランケンシュタインの手首から先だけが研究室の床をモゾモゾと動いていたのを今でも覚えています。まだまだ子供ですから、余程気味悪かったのでしょう。
白人の博士が出て来るんですが、扮していたのが「ピクニック」とか「ミスター・ロバーツ」にも出ていたというニック・アダムス。この「フランケンシュタイン」のわずか4年前に、ドン・シーゲルの「突撃隊」(主演:S・マックィーン)で捕虜になるドイツ兵を演じていたのが彼らしいです。
怪獣映画といいながらデータを見ると、高島忠夫、水野久美、土屋嘉男、佐原健二というお馴染みの顔ぶれに加えて、志村喬、田崎潤、藤田進といったベテランまで登場しておられました。
そして、この怪獣映画の続編がanupamさんの思い出の映画「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」であります。
中学校時代も映画を観るのは東宝と決めていた(他に面白いモノはやってないと思っていた)ので、若大将シリーズとか、クレージーキャッツものとかをよく観ていました。
若大将シリーズは、途中から恋人が星由里子の澄(すみ)ちゃんから酒井和歌子の節(せっ)ちゃんに変わったり、若大将自体も終いには草刈正雄に変わったりと、又しても歴史を作るのに必死だったようです。同音異曲のワンパターン映画ですから、流石に飽きたみたいで、振り返ってみれば僕が観たのは3、4本くらいです。
クレージーキャッツものでは、植木等が主演する「日本一の男」シリーズを数本と、“クレージー作戦”ものの一作、北杜夫原作の「怪盗ジバコ」を元にした映画を観た記憶があります。あとアメリカにロケをした「クレージー黄金作戦」とか。
クレージーキャッツの映画は全てコメディで、「日本一の男」シリーズは東宝得意のサラリーマンものの一種。植木等扮する「○○等(作品毎に名字が変わる)」という一見大ホラ吹きの男が、奇想天外な手段を使って事を成し遂げ、出世していくというこれもワンパターンの筋書きながら、若大将シリーズと同じく当時の彼らのヒット曲も聞けるので、3、4本は観たと思います。
高校に入学してからは、洋画がメインになったので東宝に行くことも無くなったのですが、熊井啓の「忍ぶ川」、豊田四郎の「恍惚の人」は映画館で観たので、これは若大将やクレージーを観た東宝劇場に再び行ったのは間違いないですね。
その街には松竹もあったのですが、やはり少年が観たいのは東宝映画でした。最初に観たのが、当時ファンだった加山雄三が主演する若大将シリーズの第5作、「海の若大将」。同時上映が「フランケンシュタイン対地底怪獣バラゴン」。
若大将がお目当てだったはずなのにそっちの思い出は無くて、フランケンシュタインの手首から先だけが研究室の床をモゾモゾと動いていたのを今でも覚えています。まだまだ子供ですから、余程気味悪かったのでしょう。
白人の博士が出て来るんですが、扮していたのが「ピクニック」とか「ミスター・ロバーツ」にも出ていたというニック・アダムス。この「フランケンシュタイン」のわずか4年前に、ドン・シーゲルの「突撃隊」(主演:S・マックィーン)で捕虜になるドイツ兵を演じていたのが彼らしいです。
怪獣映画といいながらデータを見ると、高島忠夫、水野久美、土屋嘉男、佐原健二というお馴染みの顔ぶれに加えて、志村喬、田崎潤、藤田進といったベテランまで登場しておられました。
そして、この怪獣映画の続編がanupamさんの思い出の映画「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」であります。
中学校時代も映画を観るのは東宝と決めていた(他に面白いモノはやってないと思っていた)ので、若大将シリーズとか、クレージーキャッツものとかをよく観ていました。
若大将シリーズは、途中から恋人が星由里子の澄(すみ)ちゃんから酒井和歌子の節(せっ)ちゃんに変わったり、若大将自体も終いには草刈正雄に変わったりと、又しても歴史を作るのに必死だったようです。同音異曲のワンパターン映画ですから、流石に飽きたみたいで、振り返ってみれば僕が観たのは3、4本くらいです。
クレージーキャッツものでは、植木等が主演する「日本一の男」シリーズを数本と、“クレージー作戦”ものの一作、北杜夫原作の「怪盗ジバコ」を元にした映画を観た記憶があります。あとアメリカにロケをした「クレージー黄金作戦」とか。
クレージーキャッツの映画は全てコメディで、「日本一の男」シリーズは東宝得意のサラリーマンものの一種。植木等扮する「○○等(作品毎に名字が変わる)」という一見大ホラ吹きの男が、奇想天外な手段を使って事を成し遂げ、出世していくというこれもワンパターンの筋書きながら、若大将シリーズと同じく当時の彼らのヒット曲も聞けるので、3、4本は観たと思います。
高校に入学してからは、洋画がメインになったので東宝に行くことも無くなったのですが、熊井啓の「忍ぶ川」、豊田四郎の「恍惚の人」は映画館で観たので、これは若大将やクレージーを観た東宝劇場に再び行ったのは間違いないですね。
森鴎外さんじゃありませんし、自分の性の遍歴なんぞ、ものの2、3行もあれば、いや5、6行、ん? 20行ほどもあれば済んでしまいますので(ほんまかいな)、それではなくて、映画の鑑賞歴を大雑把な視点で書いておこうかと。つまりこれも備忘録ですな。
最初に大きなスクリーンで映画というものを観たのは、確か小学校の1年生の時。
小学校の体育館兼講堂になっている建物では、周囲の窓に黒いカーテンが常設してあって、ほぼ年に1回の割合で映画の上映があってました。映写中にはカーテンを全て閉め切って、まさに映画館と同じ。最初に観たと記憶しているのが、東宝の「ゴジラの逆襲」でした。ゴジラシリーズの第2作で、1955年の作品。一般公開は既に何年か前に終わっていた映画です。
ところが、記憶にあるのが北極海の氷の下で眠っていたゴジラの目がパッと開くシーンで()、これはデータを紐解くと3作目の「キングコング対ゴジラ (1962)」の序盤のシーンらしいんですな。その時の上映が「キングコング対ゴジラ」だとしたら、新作映画を学校で観たことになるし、その割にはキングコングの記憶はゼロだし、でもそう考えていると映写会前にお金を徴収されたような気もしてくるし、と少し混乱しています。とにかく、ずっとMY記憶の中ではこの時の作品名は「ゴジラの逆襲」でした。
数十年後には、自分の子供に付き合ってよりパワーアップした「ゴジラ」を観る事になるのですから、なんというか、“寅さんシリーズ”といい、“サザエさん”といい、日本人は歴史を作るのが好きでありますなぁ。
“逆襲”の動画はなかったので“キングコング”の方の予告動画をどうぞ(↓)
小学校時代は、この学校での上映会が楽しみで、「ゴジラ」と同じくらいに印象深かったのが別の年に観た東映漫画の「白蛇伝」。
「白蛇伝」は1958年の作品で、監督は大川博という人。森繁久彌と宮城まり子がアテレコをしていて、一人十役という設定だったそうです。中国が舞台の話のせいか、切れ長の目が特徴的なんですが、少女のようなヒロインが大人っぽい表情を見せたのも強く記憶に残っています。後にTVのアニメ「狼少年ケン」を見たとき、表情の描き方が似ていて、すぐに東映漫画だと分かりました。ジブリの宮崎駿監督もこの映画を観てアニメーション作家を目指したといわれており、「白蛇伝」にもパンダが出ているので、「パンダコパンダ」を思い出してしまいますね。
ウィキで調べると、ベニス児童映画祭グランプリ受賞とのこと。さもありなん。
最初に大きなスクリーンで映画というものを観たのは、確か小学校の1年生の時。
小学校の体育館兼講堂になっている建物では、周囲の窓に黒いカーテンが常設してあって、ほぼ年に1回の割合で映画の上映があってました。映写中にはカーテンを全て閉め切って、まさに映画館と同じ。最初に観たと記憶しているのが、東宝の「ゴジラの逆襲」でした。ゴジラシリーズの第2作で、1955年の作品。一般公開は既に何年か前に終わっていた映画です。
ところが、記憶にあるのが北極海の氷の下で眠っていたゴジラの目がパッと開くシーンで()、これはデータを紐解くと3作目の「キングコング対ゴジラ (1962)」の序盤のシーンらしいんですな。その時の上映が「キングコング対ゴジラ」だとしたら、新作映画を学校で観たことになるし、その割にはキングコングの記憶はゼロだし、でもそう考えていると映写会前にお金を徴収されたような気もしてくるし、と少し混乱しています。とにかく、ずっとMY記憶の中ではこの時の作品名は「ゴジラの逆襲」でした。
数十年後には、自分の子供に付き合ってよりパワーアップした「ゴジラ」を観る事になるのですから、なんというか、“寅さんシリーズ”といい、“サザエさん”といい、日本人は歴史を作るのが好きでありますなぁ。
“逆襲”の動画はなかったので“キングコング”の方の予告動画をどうぞ(↓)
小学校時代は、この学校での上映会が楽しみで、「ゴジラ」と同じくらいに印象深かったのが別の年に観た東映漫画の「白蛇伝」。
「白蛇伝」は1958年の作品で、監督は大川博という人。森繁久彌と宮城まり子がアテレコをしていて、一人十役という設定だったそうです。中国が舞台の話のせいか、切れ長の目が特徴的なんですが、少女のようなヒロインが大人っぽい表情を見せたのも強く記憶に残っています。後にTVのアニメ「狼少年ケン」を見たとき、表情の描き方が似ていて、すぐに東映漫画だと分かりました。ジブリの宮崎駿監督もこの映画を観てアニメーション作家を目指したといわれており、「白蛇伝」にもパンダが出ているので、「パンダコパンダ」を思い出してしまいますね。
ウィキで調べると、ベニス児童映画祭グランプリ受賞とのこと。さもありなん。
(盆明けに続く)
映画には秘密やウソを抱えた人々がしばしば登場し、それがサスペンスやドラマを生む。それらのウソは最後には何らかの形で明らかにされて観客にもカタルシスが生まれる。ウソや秘密は巧妙に取り込まれれば映画としてとても面白いモノになるのは、映画ファンはとっくにご存じだろうが、そんな映画の中で僕が最も好きなのが「ローマの休日」だ。
「ローマの休日」は主人公の男女がお互いに相手に対して隠し事をしていて、しかも観客はどちらのウソも知っている。もしも最後に秘密が明かされたなら悲しい結末になりそうな予感もしてしまう。ところがその結末は隠していた真実が明かされたにもかかわらず優しく暖かい人情に包まれ、登場人物にも観客にとっても美しく愛おしい想い出となって残っていく。
先夜、偶然に観たTV番組、NHKBSプレミアム『BS歴史館 シリーズ ハリウッド100年』は、最初のスタジオができて今年で百年を迎えるハリウッドの、一時代を画した名画を取り上げて、そこに纏わるエピソードからアメリカ現代史の光と影に分け入っていこうというモノだった。1時間の番組だったらしいが、僕が観たのは後半だけ。出演は東大教授の藤原帰一、映画評論家の上島春彦、女優の斉藤由貴、そして作家の中村うさぎ、ナレーターが奥田民義。この夜が2回シリーズの初回で、取り上げた映画が「ローマの休日」だった。副タイトルには“赤狩りの嵐の中で”と表記されている。
グレゴリー・ペック、オードリー・ヘプバーン主演のこの映画は、ストーリー上の設定として男女の主人公がそれぞれに秘密を抱えているが、実は映画の製作そのものにも諸々の秘密があったという、映画製作の裏話が明かされていて、面白い番組だった。
NHKの番組紹介を転載すると・・・
<1993年、ある脚本家の遺族に「ローマの休日」(53年)のアカデミー脚本賞が40年ぶりに渡された。受賞者の名はダルトン・トランボ。戦前はハリウッド有数の売れっ子脚本家だったが、戦後にアメリカ映画界から追放され、偽名で「ローマの休日」を書き上げていた。背景には、アメリカに吹き荒れた共産主義者追放運動、“レッド・パージ(赤狩り)”があった。ハリウッドもその嵐に見舞われるなか、希代の傑作が作り出される。>
トランボが使った偽名、イアン・マクレラン・ハンターというのは今までてっきり架空の人物だとばっかり思っていたが、この人は実在したイギリス人脚本家だった。トランボの友人で、名義貸しに協力したわけだ。
当初パラマウントが主演の二人にケーリー・グラントとエリザベス・テイラーを予定していたことも、今回のTV番組で初めて知った。ネットで調べると、最初に脚本に興味を示したのはフランク・キャプラだったが、キャプラの提示した予算が高額なモノだったので、パラマウントは監督にウィリアム・ワイラーを指名したらしい。
フランスとドイツの国境にあるアルザス地方出身のワイラーは苦労してハリウッドの大監督になったユダヤ人であり、ユダヤ人排除の意図もあった“レッド・パージ(赤狩り)”には最初から反対の意志を表明していた。しかしヒステリックなまでの世論には勝てず何人もの友人がハリウッドを追われ、無力感に包まれた。その後、彼なりの抗議運動を貫いた。その一つが「ローマの休日」の製作だった。
NHKの番組にはワイラーの長女もインタビュイーとして映像が出てきた。彼女は『ハッキリと本人から聞いてはいないが、父はこの脚本がダルトン・トランボの手によるものと知っていたと思う』と証言した。
プロデューサーも兼任したワイラーは、自由な製作が出来るようにハリウッド式のスタジオ撮影を拒否して、全編ローマでのロケーション撮影とした。その為に嵩んだ製作費を押さえるべくカラーではなく、モノクロフィルムにした。
『この映画は、撮影、編集の全てをローマで行った』
ワイラーは映画の冒頭にわざわざこんな注釈文を流しているが、何よりも、ハリウッドから離れることによって、赤狩りによって職を無くした友人達と仕事が出来ることを望んだのだ。
クレジットはされていないが、共同プロデューサーには戦時中に友人となったレスター・コーニグを選任しローマに連れて行った。コーニグもやはり赤狩りでハリウッドを追われた一人だった。
スタジオが構想していた主演の人選もワイラーは拒否した。主演のグレゴリー・ペックは、ワイラー等が設立した“赤狩り”抗議団体に最初に参加した俳優だった。
そんな風に、ローマにはワイラーの信頼の置ける人々だけを連れて行き、それ以外のスタッフは現地のヨーロッパの人々を使った。撮影は「美女と野獣(1946)」、「愛人ジュリエット(1950)」などのアンリ・アルカン、音楽には同じく「美女と野獣」や「夜ごとの美女(1952)」などのジョルジュ・オーリックと、フランスの大ベテランに協力を仰いだ。
ワイラーがこの映画の監督を引き受ける条件に主役を自由にキャスティング出来る事もあげていて、主演のアン王女には、当時ブロードウェイで上演されていた「ジジ」の主役を務めていたオードリー・ヘプバーンの演技を見たワイラーがヒロインに抜擢した。
ベルギー生まれのイギリス人だが、第二次世界大戦中には母方の国であるオランダで暮らしていた。スクリーンテストの映像も幾つか残っているが、番組で紹介した面接映像では、戦時中はバレエの公演で得たお金をレジスタンスに渡していた事も明かしている。
この映画の中でも有名なシーンに“真実の口”の前でのやりとりがある。
“真実の口”は海神トリトーネの顔がレリーフのように刻まれている石の彫刻だが、小さく空いたその口に手を入れると、偽りの心がある者はその手首を切り落とされる、あるいは手が抜けなくなるという伝説がある。
グレゴリー・ペック扮するジョーがアン王女を案内し、伝説を聞かせた上でその口に手を入れることを提案する。無邪気な王女はビビって断るが、替わりにやって見せたジョーは、突然腕ごと口の中に引き込まれ・・・、というユーモラスなシーンだ。
これ、実はトランボの脚本には無かったシーンで、ペックの演技もアドリブだったらしい。多分、ローマに着いた後に伝説を聞いたワイラーが付け加えたのだろう。
『嘘をついている二人が主人公だから、どうしてもこのシーンは映画のどこかに入れたいと思っていた』
NHKの番組では、当時“赤狩り”の中で虚偽の証言をして同業者を陥れた人々も居ただろうから、これは意味深なシーンですよね、と言った出演者もいた。
番組の中には、トランボの娘さんもインタビュイーとして出てきて、デジタル・リマスターによって、「オリジナル・ストーリー by ダルトン・トランボ」とクレジットされた「ローマの休日」を観ていた。彼女はラストシーンでのジョーと王女の別れ、そして王女の言葉に涙した。ジョーの誠実さに感謝した王女の、私は人間を信じていると言う言葉は、父の言葉に間違いないと言って・・・。
尚、「ローマの休日」を直訳すれば「Holiday in Roma」となるはずだが、実際の原題は「Roman Holiday」。これにはローマ帝国時代、一般の休日に奴隷の剣闘士を戦わせる見世物を市民たちが楽しんだことから「他人を苦しめ楽しむ」、「面白いスキャンダル」といった意味があるらしい。(ウィキペディア参照)
「ローマの休日」は主人公の男女がお互いに相手に対して隠し事をしていて、しかも観客はどちらのウソも知っている。もしも最後に秘密が明かされたなら悲しい結末になりそうな予感もしてしまう。ところがその結末は隠していた真実が明かされたにもかかわらず優しく暖かい人情に包まれ、登場人物にも観客にとっても美しく愛おしい想い出となって残っていく。
先夜、偶然に観たTV番組、NHKBSプレミアム『BS歴史館 シリーズ ハリウッド100年』は、最初のスタジオができて今年で百年を迎えるハリウッドの、一時代を画した名画を取り上げて、そこに纏わるエピソードからアメリカ現代史の光と影に分け入っていこうというモノだった。1時間の番組だったらしいが、僕が観たのは後半だけ。出演は東大教授の藤原帰一、映画評論家の上島春彦、女優の斉藤由貴、そして作家の中村うさぎ、ナレーターが奥田民義。この夜が2回シリーズの初回で、取り上げた映画が「ローマの休日」だった。副タイトルには“赤狩りの嵐の中で”と表記されている。
グレゴリー・ペック、オードリー・ヘプバーン主演のこの映画は、ストーリー上の設定として男女の主人公がそれぞれに秘密を抱えているが、実は映画の製作そのものにも諸々の秘密があったという、映画製作の裏話が明かされていて、面白い番組だった。
NHKの番組紹介を転載すると・・・
<1993年、ある脚本家の遺族に「ローマの休日」(53年)のアカデミー脚本賞が40年ぶりに渡された。受賞者の名はダルトン・トランボ。戦前はハリウッド有数の売れっ子脚本家だったが、戦後にアメリカ映画界から追放され、偽名で「ローマの休日」を書き上げていた。背景には、アメリカに吹き荒れた共産主義者追放運動、“レッド・パージ(赤狩り)”があった。ハリウッドもその嵐に見舞われるなか、希代の傑作が作り出される。>
トランボが使った偽名、イアン・マクレラン・ハンターというのは今までてっきり架空の人物だとばっかり思っていたが、この人は実在したイギリス人脚本家だった。トランボの友人で、名義貸しに協力したわけだ。
当初パラマウントが主演の二人にケーリー・グラントとエリザベス・テイラーを予定していたことも、今回のTV番組で初めて知った。ネットで調べると、最初に脚本に興味を示したのはフランク・キャプラだったが、キャプラの提示した予算が高額なモノだったので、パラマウントは監督にウィリアム・ワイラーを指名したらしい。
フランスとドイツの国境にあるアルザス地方出身のワイラーは苦労してハリウッドの大監督になったユダヤ人であり、ユダヤ人排除の意図もあった“レッド・パージ(赤狩り)”には最初から反対の意志を表明していた。しかしヒステリックなまでの世論には勝てず何人もの友人がハリウッドを追われ、無力感に包まれた。その後、彼なりの抗議運動を貫いた。その一つが「ローマの休日」の製作だった。
NHKの番組にはワイラーの長女もインタビュイーとして映像が出てきた。彼女は『ハッキリと本人から聞いてはいないが、父はこの脚本がダルトン・トランボの手によるものと知っていたと思う』と証言した。
プロデューサーも兼任したワイラーは、自由な製作が出来るようにハリウッド式のスタジオ撮影を拒否して、全編ローマでのロケーション撮影とした。その為に嵩んだ製作費を押さえるべくカラーではなく、モノクロフィルムにした。
『この映画は、撮影、編集の全てをローマで行った』
ワイラーは映画の冒頭にわざわざこんな注釈文を流しているが、何よりも、ハリウッドから離れることによって、赤狩りによって職を無くした友人達と仕事が出来ることを望んだのだ。
クレジットはされていないが、共同プロデューサーには戦時中に友人となったレスター・コーニグを選任しローマに連れて行った。コーニグもやはり赤狩りでハリウッドを追われた一人だった。
スタジオが構想していた主演の人選もワイラーは拒否した。主演のグレゴリー・ペックは、ワイラー等が設立した“赤狩り”抗議団体に最初に参加した俳優だった。
そんな風に、ローマにはワイラーの信頼の置ける人々だけを連れて行き、それ以外のスタッフは現地のヨーロッパの人々を使った。撮影は「美女と野獣(1946)」、「愛人ジュリエット(1950)」などのアンリ・アルカン、音楽には同じく「美女と野獣」や「夜ごとの美女(1952)」などのジョルジュ・オーリックと、フランスの大ベテランに協力を仰いだ。
ワイラーがこの映画の監督を引き受ける条件に主役を自由にキャスティング出来る事もあげていて、主演のアン王女には、当時ブロードウェイで上演されていた「ジジ」の主役を務めていたオードリー・ヘプバーンの演技を見たワイラーがヒロインに抜擢した。
ベルギー生まれのイギリス人だが、第二次世界大戦中には母方の国であるオランダで暮らしていた。スクリーンテストの映像も幾つか残っているが、番組で紹介した面接映像では、戦時中はバレエの公演で得たお金をレジスタンスに渡していた事も明かしている。
この映画の中でも有名なシーンに“真実の口”の前でのやりとりがある。
“真実の口”は海神トリトーネの顔がレリーフのように刻まれている石の彫刻だが、小さく空いたその口に手を入れると、偽りの心がある者はその手首を切り落とされる、あるいは手が抜けなくなるという伝説がある。
グレゴリー・ペック扮するジョーがアン王女を案内し、伝説を聞かせた上でその口に手を入れることを提案する。無邪気な王女はビビって断るが、替わりにやって見せたジョーは、突然腕ごと口の中に引き込まれ・・・、というユーモラスなシーンだ。
これ、実はトランボの脚本には無かったシーンで、ペックの演技もアドリブだったらしい。多分、ローマに着いた後に伝説を聞いたワイラーが付け加えたのだろう。
『嘘をついている二人が主人公だから、どうしてもこのシーンは映画のどこかに入れたいと思っていた』
NHKの番組では、当時“赤狩り”の中で虚偽の証言をして同業者を陥れた人々も居ただろうから、これは意味深なシーンですよね、と言った出演者もいた。
番組の中には、トランボの娘さんもインタビュイーとして出てきて、デジタル・リマスターによって、「オリジナル・ストーリー by ダルトン・トランボ」とクレジットされた「ローマの休日」を観ていた。彼女はラストシーンでのジョーと王女の別れ、そして王女の言葉に涙した。ジョーの誠実さに感謝した王女の、私は人間を信じていると言う言葉は、父の言葉に間違いないと言って・・・。
尚、「ローマの休日」を直訳すれば「Holiday in Roma」となるはずだが、実際の原題は「Roman Holiday」。これにはローマ帝国時代、一般の休日に奴隷の剣闘士を戦わせる見世物を市民たちが楽しんだことから「他人を苦しめ楽しむ」、「面白いスキャンダル」といった意味があるらしい。(ウィキペディア参照)
21:05 from web
kiyotaさんからの情報で、双葉さんの訃報を。なんというか、いつかこの日が来るのは分かっていても、あまりに突然のことでした。しかも、ひと月前とは。
「SCREEN」の「ぼくの採点表」で育ったような私なので、今日はホントに悲しい。寂しい。ご冥福をお祈り申し上げます。
合掌
23:46 from web
明日のブログは双葉さんの訃報に関しての追加記事を書く事になるんだろうが、さてさて何から書いてイイものやら。
ウィキペディアにはペンネームの由来は「トム・ソーヤ」からとしか書いてない。勿論、マーク・トウェインの本の主人公ですな。トム=トミー=十三、ソーヤ=ソーヨー=双葉、であります。
by theatre_jules on Twitter
電車で二(ふた)駅離れた町の高校に通い始めて、その降車駅にほど近い所にあったS書店が僕と「SCREEN」、そして双葉さんとの出逢いの場所だった。入学してまもなくの頃で、以来3年間欠かさず毎月21日には「SCREEN」を買い、「ぼくの採点表」を読んだ。
スティーブ・マックィーンが好きでシャーリー・マクレーンが好きで、アラン・ドロンをドロン君と呼びイーストウッドをクリント君と呼ぶ。「めぐり逢えたら」の寸評では『現実で、メグに逢えたらなぁ』なんて仰有る。
ハリウッド映画が好きなのかなぁと思ったら、パゾリーニの「アポロンの地獄」は☆☆☆☆(80点)の傑作評価で、「テオレマ」もそうだったし、「豚小屋」だって70点くらいはあったような気がする。ブレッソンの「バルタザール」も☆四つだったし、ベルイマンなんて殆ど☆☆☆☆(80点)以上だった。イギリス、フランス、イタリア、スウェーデン、インド、ギリシャ、何処の国の映画も公平に観ておられたし、宗教絡みなどで分からない事はそのまま分からないと書かれた。
フェリーニの「アマルコルド」がお好きで、ジュリエッタ・マシーナもお好みだった。
フランスではトリュフォーがご贔屓で、「恋のエチュード」、「暗くなるまでこの恋を」、「夜霧の恋人たち」、「アメリカの夜」などは新作として採点表で読ませてもらった。
ヒッチコックも大のご贔屓で、「フレンジー」、「ファミリー・プロット」の採点表も新作でだった。
リチャード・アッテンボローが「素晴らしき戦争」を作った時には、なかなかお目にかかれない☆☆☆☆★(85点)を付けられた。ベテラン俳優の監督デビュー作品だったが、素晴らしい、素晴らしいとべた褒めだった。
スピルバーグもその頃は新人監督だ。
『映画の優秀な着想には二種類ある。誰も思いつかない奇想天外な話を編み出すケース。平凡な事柄なのに何故今まで思い付かなかったんだろうと口惜しくなるケース。「激突!」は後者の模範・・・』
そう言って、この新人の作品を誉められた。勿論、☆☆☆☆。
僕が「採点表」を読み出した頃は既に還暦に近いお歳だったはずだが、段々と増えつつあったポルノまがいの作品も登場した。流石に数年経つと、とてもじゃないがワンパターンで観ちゃおれん、という理由かどうかは忘れたが、そういう作品はコーナーから消えていった。「エマニュエル夫人」とかキャロル・ベーカーの出演したイタリア製ピンク映画などは書かれていたと思う。そうそう、スウェーデン製の「私は好奇心の強い女」なんていう作品は唯のポルノとは言えないものだったようで、先生の評点も可成りよかったように覚えている。
文芸春秋の文春新書から何冊か双葉さんの本が出ている。「外国映画ぼくの500本」、「日本映画ぼくの300本」、「愛をめぐる洋画ぼくの500本」などなど。どれも「ぼくの採点表」のエッセンスだけを取り出してまとめた本だが、「外国映画ぼくの500本」の巻末には『ぼくの小さな映画史』として氏の子供の頃からの映画との関わり合いが書かれている。小学校の高学年から“一応の意識を持って”映画を観るようになったそうで、1910年(明治43年)のお生まれだから、その頃はまだサイレント映画。チャップリンの「キッド」を新作で観たそうである。なんとまぁ!
その後のトーキー映画の誕生、モノクロからカラーへの変貌も見届けられ、シネマスコープに70mm、3D映画も「スター・ウォーズ」の特撮も、近年のCGもご覧になっているわけだ。まさに生き字引だったわけです。
2万本以上の映画を観られたという双葉さん。「ぼくの採点表」も40年以上に渉って書き続けられ、何冊かに分けられて分厚い本になっている。お高いのでなかなか手が出ないが、図書館に行けばいつでも(どの巻かは)読めるので、とりあえずはそれで我慢している。以前このブログでも紹介したが、「映画の学校」という昌文社の著書(1973年出版)があって、これは「採点表」の数倍濃い内容で、オカピーさんが非常に面白いとご指摘の「日本映画月評」も添えられている。今思えば素晴らしい買い物をしたと自負しております。
享年99歳。
1歳年上だった淀川さんは11年前、88歳で亡くなった。
『ぼくの小さな映画史』の中で淀川さんとの出会いについても書かれている。1934年(昭和9年)6月13日、場所は大阪。双葉さんは住友の社員であり、淀川さんはユナイテッド・アーティストの社員だったが、雑誌の投稿欄でそれぞれの存在は知っていた、そんな間柄だったそうだ。
『あれから70年近く、ずっと仲良くしてきた。映画で言い争うこともなかった。お互いがよく分かっていて「あれがね」と言うと「あれだね」で終わってしまうからだ』
双葉さんがリリアン・ギッシュが好きだと言えば、淀川さんはパール・ホワイトが好きだと言い、そして二人ともグロリア・スワンソンのファンだった。
今頃は、やぁやぁとか言いながら旧交を温めておいでではないかと思ってしまうのだが・・・。
kiyotaさんからの情報で、双葉さんの訃報を。なんというか、いつかこの日が来るのは分かっていても、あまりに突然のことでした。しかも、ひと月前とは。
「SCREEN」の「ぼくの採点表」で育ったような私なので、今日はホントに悲しい。寂しい。ご冥福をお祈り申し上げます。
合掌
23:46 from web
明日のブログは双葉さんの訃報に関しての追加記事を書く事になるんだろうが、さてさて何から書いてイイものやら。
ウィキペディアにはペンネームの由来は「トム・ソーヤ」からとしか書いてない。勿論、マーク・トウェインの本の主人公ですな。トム=トミー=十三、ソーヤ=ソーヨー=双葉、であります。
by theatre_jules on Twitter
*
電車で二(ふた)駅離れた町の高校に通い始めて、その降車駅にほど近い所にあったS書店が僕と「SCREEN」、そして双葉さんとの出逢いの場所だった。入学してまもなくの頃で、以来3年間欠かさず毎月21日には「SCREEN」を買い、「ぼくの採点表」を読んだ。
スティーブ・マックィーンが好きでシャーリー・マクレーンが好きで、アラン・ドロンをドロン君と呼びイーストウッドをクリント君と呼ぶ。「めぐり逢えたら」の寸評では『現実で、メグに逢えたらなぁ』なんて仰有る。
ハリウッド映画が好きなのかなぁと思ったら、パゾリーニの「アポロンの地獄」は☆☆☆☆(80点)の傑作評価で、「テオレマ」もそうだったし、「豚小屋」だって70点くらいはあったような気がする。ブレッソンの「バルタザール」も☆四つだったし、ベルイマンなんて殆ど☆☆☆☆(80点)以上だった。イギリス、フランス、イタリア、スウェーデン、インド、ギリシャ、何処の国の映画も公平に観ておられたし、宗教絡みなどで分からない事はそのまま分からないと書かれた。
フェリーニの「アマルコルド」がお好きで、ジュリエッタ・マシーナもお好みだった。
フランスではトリュフォーがご贔屓で、「恋のエチュード」、「暗くなるまでこの恋を」、「夜霧の恋人たち」、「アメリカの夜」などは新作として採点表で読ませてもらった。
ヒッチコックも大のご贔屓で、「フレンジー」、「ファミリー・プロット」の採点表も新作でだった。
リチャード・アッテンボローが「素晴らしき戦争」を作った時には、なかなかお目にかかれない☆☆☆☆★(85点)を付けられた。ベテラン俳優の監督デビュー作品だったが、素晴らしい、素晴らしいとべた褒めだった。
スピルバーグもその頃は新人監督だ。
『映画の優秀な着想には二種類ある。誰も思いつかない奇想天外な話を編み出すケース。平凡な事柄なのに何故今まで思い付かなかったんだろうと口惜しくなるケース。「激突!」は後者の模範・・・』
そう言って、この新人の作品を誉められた。勿論、☆☆☆☆。
僕が「採点表」を読み出した頃は既に還暦に近いお歳だったはずだが、段々と増えつつあったポルノまがいの作品も登場した。流石に数年経つと、とてもじゃないがワンパターンで観ちゃおれん、という理由かどうかは忘れたが、そういう作品はコーナーから消えていった。「エマニュエル夫人」とかキャロル・ベーカーの出演したイタリア製ピンク映画などは書かれていたと思う。そうそう、スウェーデン製の「私は好奇心の強い女」なんていう作品は唯のポルノとは言えないものだったようで、先生の評点も可成りよかったように覚えている。
文芸春秋の文春新書から何冊か双葉さんの本が出ている。「外国映画ぼくの500本」、「日本映画ぼくの300本」、「愛をめぐる洋画ぼくの500本」などなど。どれも「ぼくの採点表」のエッセンスだけを取り出してまとめた本だが、「外国映画ぼくの500本」の巻末には『ぼくの小さな映画史』として氏の子供の頃からの映画との関わり合いが書かれている。小学校の高学年から“一応の意識を持って”映画を観るようになったそうで、1910年(明治43年)のお生まれだから、その頃はまだサイレント映画。チャップリンの「キッド」を新作で観たそうである。なんとまぁ!
その後のトーキー映画の誕生、モノクロからカラーへの変貌も見届けられ、シネマスコープに70mm、3D映画も「スター・ウォーズ」の特撮も、近年のCGもご覧になっているわけだ。まさに生き字引だったわけです。
2万本以上の映画を観られたという双葉さん。「ぼくの採点表」も40年以上に渉って書き続けられ、何冊かに分けられて分厚い本になっている。お高いのでなかなか手が出ないが、図書館に行けばいつでも(どの巻かは)読めるので、とりあえずはそれで我慢している。以前このブログでも紹介したが、「映画の学校」という昌文社の著書(1973年出版)があって、これは「採点表」の数倍濃い内容で、オカピーさんが非常に面白いとご指摘の「日本映画月評」も添えられている。今思えば素晴らしい買い物をしたと自負しております。
享年99歳。
1歳年上だった淀川さんは11年前、88歳で亡くなった。
『ぼくの小さな映画史』の中で淀川さんとの出会いについても書かれている。1934年(昭和9年)6月13日、場所は大阪。双葉さんは住友の社員であり、淀川さんはユナイテッド・アーティストの社員だったが、雑誌の投稿欄でそれぞれの存在は知っていた、そんな間柄だったそうだ。
『あれから70年近く、ずっと仲良くしてきた。映画で言い争うこともなかった。お互いがよく分かっていて「あれがね」と言うと「あれだね」で終わってしまうからだ』
双葉さんがリリアン・ギッシュが好きだと言えば、淀川さんはパール・ホワイトが好きだと言い、そして二人ともグロリア・スワンソンのファンだった。
今頃は、やぁやぁとか言いながら旧交を温めておいでではないかと思ってしまうのだが・・・。
「ローン・レンジャー」に続く30分番組は、「ララミー牧場」と同じくらいに良く観た「ライフルマン」。原題もそのまま、【The Rifleman】です。
チャック・コナーズ扮するルーカス・マケインが妻に先立たれ、息子のマーク(ジョニー・クロフォード)と二人で牧場を営む話で、マケインがライフル銃の名手なのでそういうタイトルになっています。父親と息子の親子愛が軸になっているので、ホームドラマの趣もありますね。
日本ではTBS系で1960年11月から1964年2月にかけて放送されましたが、アメリカでは58年からの放送との事ですので、コナーズはワイラー監督の「大いなる西部」の後の出演になります。
後に「ワイルド・バンチ」で名をあげるサム・ペキンパーが、脚本や演出で幾度かクレジットされた番組でもありました。
マケインが持っているライフル銃がウィンチェスター型といわれるモノで、これはオリバー・ウィンチェスターという人物が考案しました。それまでのスプリングフィールド銃と違って連発式になっており、特に73年型(1873年ですぞ)は「ウィンチェスター銃'73(1950)」という映画にもなっているように、“西部を征服した小銃”と呼ばれた名器なのだそうです。
但し、他のサイトによると、マケインのウィンチェスターは<1892年に製造された銃身20インチのカービンタイプで、ループ・レバーという特製の大型レバーを取りつけたカスタムメイドだった>との事でした。
因みに、拳銃ではコルト社のピースメーカーと呼ばれるリボルバーが名器として有名で、その中でも45口径(=0.45インチ)の人気が高く、いわゆるコレが“コルト45”と一般的に呼ばれたものです。
チャック・コナーズは身長2メートルの大男で、このライフル銃を撃った後、ピストルのようにくるくると回すのが格好良かったです。「リオ・ブラボー」や「駅馬車」でもジョン・ウェインが片腕で回しますが、先に「ライフルマン」を観ていたので、ライフルといえばチャック・コナーズの方を先に思い出しますね。
コナーズは俳優をする前はメジャー・リーガーだった人で、現在のロサンゼルス・ドジャースの前身、ニューヨークにあったブルックリン・ドジャースに所属していたそうです。
角張って多少しゃくれた顎に大きな口。決して二枚目ではない顔でしたが、細い目が子供思いの優しさを滲ませていました。
♪どこから、や~って来~たのやら~
(何処から、やって来たのやら)
♪い~かつい かお~に、や~さしい目~
(厳つい顔に、優しい目)
♪わ~らえば、だ~れでも、な~つくけど~
(笑えば誰でも懐くけど)
♪あ~くにんども~には、お~によりこわい~
(悪人共には、鬼より怖い)
♪ライフルマ~ン、ライフルマ~ン
♪む~てき~の、ライフルマ~ン
(無敵のライフルマン)
日本版の主題歌(↑)はカントリーが得意な小坂一也が唄い、コナーズの吹き替えは、後に『水戸黄門』で“風車の弥七”を演じた中谷一郎だったそうです。この辺はすっかり忘れてます。
その他に観た番組は・・・(以下、『ウィキペディア(Wikipedia)』を参考にする)
「ボナンザ(=カートライト兄弟)」(日本テレビ、1960年7月~1962年4月、主演:ローン・グリーン)
「バット・マスターソン」(NET、現テレビ朝日、1959年2月~1961年3月、主演:ジーン・バリー)
「ガンスモーク」(フジテレビ、1959年3月~1969年5月、主演:ジェームズ・アーネス)
「シャイアン」(KRT、現TBS、1960年5月~1961年5月、主演:クリント・ウォーカー)
「ブロンコ」(TBS、1961年5月~1962年8月、主演:タイ・ハーディン)
「バークレー牧場」(NET、現テレビ朝日、1965年11月~1967年12月、主演:バーバラ・スタンウィック)など。
マックィーンが主演の「拳銃無宿」は深夜の放送だったので観なかったです。
「ローン・レンジャー」などのお子さま向け西部劇に対して、「バット・マスターソン」など大人を対象にしたモノをアダルトウェスタンと呼んだそうですが、お子さま向け番組と同じ30分枠では話の奥行きが無くなってしまうので、「ローハイド」辺りから60分番組に変わっていったそうです。
58年頃から始まった日本の西部劇ブームは60年代前半にピークを迎え、やがてスパイ物、探偵物、SF物に取って代わられるようになります。
ハリウッドでも劇場用の西部劇はなりを潜め、既に50年代の後半には倒産した映画会社もあったようです。それは西部劇の衰退よりも、娯楽の中心が映画からテレビに移った影響の方が大きいようで、劇場用映画しか作らなかった撮影所も徐々にテレビ映画の制作に乗り出すようになったのでした。
しかし、そんな中でも19世紀の西部を舞台にした映画が全く無くなることはなく、西部劇も無法者対正義のガンマンという構図が無くなり、より深い人間ドラマになっていきました。ネイティブ・アメリカンの描き方がそれまでと違った作品も現れ、それは、当時のアンチ・ベトナム戦争を反映したのだという見方もされました。この時代の西部劇を西部劇と見なさないファンもおられるようですが・・・。
劇場用西部劇はその後も数は少なくなったものの、「ダンス・ウィズ・ウルブス(1990)」、「許されざる者(1992)」などアカデミー賞に輝く作品も出ています。さて、テレビ用の西部劇というのは今でも作られているのでしょうか? ご存じの方、コメントプリーズです。
チャック・コナーズ扮するルーカス・マケインが妻に先立たれ、息子のマーク(ジョニー・クロフォード)と二人で牧場を営む話で、マケインがライフル銃の名手なのでそういうタイトルになっています。父親と息子の親子愛が軸になっているので、ホームドラマの趣もありますね。
日本ではTBS系で1960年11月から1964年2月にかけて放送されましたが、アメリカでは58年からの放送との事ですので、コナーズはワイラー監督の「大いなる西部」の後の出演になります。
後に「ワイルド・バンチ」で名をあげるサム・ペキンパーが、脚本や演出で幾度かクレジットされた番組でもありました。
マケインが持っているライフル銃がウィンチェスター型といわれるモノで、これはオリバー・ウィンチェスターという人物が考案しました。それまでのスプリングフィールド銃と違って連発式になっており、特に73年型(1873年ですぞ)は「ウィンチェスター銃'73(1950)」という映画にもなっているように、“西部を征服した小銃”と呼ばれた名器なのだそうです。
但し、他のサイトによると、マケインのウィンチェスターは<1892年に製造された銃身20インチのカービンタイプで、ループ・レバーという特製の大型レバーを取りつけたカスタムメイドだった>との事でした。
因みに、拳銃ではコルト社のピースメーカーと呼ばれるリボルバーが名器として有名で、その中でも45口径(=0.45インチ)の人気が高く、いわゆるコレが“コルト45”と一般的に呼ばれたものです。
チャック・コナーズは身長2メートルの大男で、このライフル銃を撃った後、ピストルのようにくるくると回すのが格好良かったです。「リオ・ブラボー」や「駅馬車」でもジョン・ウェインが片腕で回しますが、先に「ライフルマン」を観ていたので、ライフルといえばチャック・コナーズの方を先に思い出しますね。
コナーズは俳優をする前はメジャー・リーガーだった人で、現在のロサンゼルス・ドジャースの前身、ニューヨークにあったブルックリン・ドジャースに所属していたそうです。
角張って多少しゃくれた顎に大きな口。決して二枚目ではない顔でしたが、細い目が子供思いの優しさを滲ませていました。
♪どこから、や~って来~たのやら~
(何処から、やって来たのやら)
♪い~かつい かお~に、や~さしい目~
(厳つい顔に、優しい目)
♪わ~らえば、だ~れでも、な~つくけど~
(笑えば誰でも懐くけど)
♪あ~くにんども~には、お~によりこわい~
(悪人共には、鬼より怖い)
♪ライフルマ~ン、ライフルマ~ン
♪む~てき~の、ライフルマ~ン
(無敵のライフルマン)
日本版の主題歌(↑)はカントリーが得意な小坂一也が唄い、コナーズの吹き替えは、後に『水戸黄門』で“風車の弥七”を演じた中谷一郎だったそうです。この辺はすっかり忘れてます。
その他に観た番組は・・・(以下、『ウィキペディア(Wikipedia)』を参考にする)
「ボナンザ(=カートライト兄弟)」(日本テレビ、1960年7月~1962年4月、主演:ローン・グリーン)
「バット・マスターソン」(NET、現テレビ朝日、1959年2月~1961年3月、主演:ジーン・バリー)
「ガンスモーク」(フジテレビ、1959年3月~1969年5月、主演:ジェームズ・アーネス)
「シャイアン」(KRT、現TBS、1960年5月~1961年5月、主演:クリント・ウォーカー)
「ブロンコ」(TBS、1961年5月~1962年8月、主演:タイ・ハーディン)
「バークレー牧場」(NET、現テレビ朝日、1965年11月~1967年12月、主演:バーバラ・スタンウィック)など。
マックィーンが主演の「拳銃無宿」は深夜の放送だったので観なかったです。
*
「ローン・レンジャー」などのお子さま向け西部劇に対して、「バット・マスターソン」など大人を対象にしたモノをアダルトウェスタンと呼んだそうですが、お子さま向け番組と同じ30分枠では話の奥行きが無くなってしまうので、「ローハイド」辺りから60分番組に変わっていったそうです。
58年頃から始まった日本の西部劇ブームは60年代前半にピークを迎え、やがてスパイ物、探偵物、SF物に取って代わられるようになります。
ハリウッドでも劇場用の西部劇はなりを潜め、既に50年代の後半には倒産した映画会社もあったようです。それは西部劇の衰退よりも、娯楽の中心が映画からテレビに移った影響の方が大きいようで、劇場用映画しか作らなかった撮影所も徐々にテレビ映画の制作に乗り出すようになったのでした。
しかし、そんな中でも19世紀の西部を舞台にした映画が全く無くなることはなく、西部劇も無法者対正義のガンマンという構図が無くなり、より深い人間ドラマになっていきました。ネイティブ・アメリカンの描き方がそれまでと違った作品も現れ、それは、当時のアンチ・ベトナム戦争を反映したのだという見方もされました。この時代の西部劇を西部劇と見なさないファンもおられるようですが・・・。
劇場用西部劇はその後も数は少なくなったものの、「ダンス・ウィズ・ウルブス(1990)」、「許されざる者(1992)」などアカデミー賞に輝く作品も出ています。さて、テレビ用の西部劇というのは今でも作られているのでしょうか? ご存じの方、コメントプリーズです。
前回記事の「ララミー牧場」と「ローハイド」はゴールデンタイムの1時間の放送だったと思いますが、30分モノの番組も沢山ありました。
まずは「ローン・レンジャー」。
黒いマスクを付けて、腰には2丁拳銃。白馬に跨(またが)ったガンマン、人呼んで“ローン・レンジャー”が活躍する西部劇で、白い愛馬の名前が「シルバー」。ローン・レンジャーが悪者を追いかける時などにシルバーに乗って『ハイヨー シルバー!』と掛け声を出すのも定番で、その時にかかる音楽が(何故か)ロッシーニの「♪ウィリアム・テル序曲」というのもお決まりの、勧善懲悪型の子供向けドラマだったと記憶しております。
彼をサポートするのがインディアンのトント。ローン・レンジャーを『キモサベ』と呼び(トントの使うインディアン語で“友達”とかいう意味だったと思います)、何かというと『白人嘘つき。インディアン嘘つかない』などと言うので、この二つの言葉は子供たちの間で結構流行(はやり)ました。
『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、<『ローン・レンジャー』(The Lone Ranger)は、ジョージ・W・トレンドル(George W. Trendle)、フラン・ストライカー(Fran Striker)原作の、西部劇を題材としたラジオドラマ。1933年にラジオドラマが放送されて以来、アメリカン・コミックス化、テレビドラマ(1949年-1958年、全221話)化、映画(1956年・1958年・1981年)化もされた。・・・
日本ではテレビドラマ版が1958年からテレビ放映され、黒い仮面をつけた主人公が白馬にまたがった姿が、アメリカ版『鞍馬天狗』として親しまれた>とのこと。
ローン・レンジャーのキャラクターについては殆ど忘れてしまっているのですが、色々なサイトの情報によって背景が分かってきました。
元々はテキサス・レンジャー(騎馬警官隊)の一員だったのですが、ある時無法者の一味に狙撃されて5人の仲間は殺され、瀕死の重傷を負った彼一人だけ、たまたま通りかかったインディアンのトントに救われる。彼はその後6つのお墓を建て、自分も死んだように見せかける。死んだと見せかけて、無法者達を捕まえようとしたわけですな。亡くなったレンジャー隊の隊長は彼の兄で、兄の制服を使って黒いマスクを作り、以後ローン・レンジャーとして、悪者達を懲らしめたというわけです。
ローン・レンジャーは、普段は仮名を使って一般市民として暮らしていたようで、事件の臭いをかぐとマスクを付けて乗り出すという具合。つまり、「スーパーマン」や「バットマン」、「グリーン・ホーネット」、そして「スパイダーマン」さえも「ローン・レンジャー」から派生した物語だったわけですね。
マスクを付けた正義の味方といえば、コレより前に「怪傑ゾロ」という物語がありました。ゾロも普段は弱々しい青年という仮の姿を保っていましたら、実はゾロこそがこれらの正義のヒーローの大元ネタなのかも知れません。
私が観ていたTV版「ローン・レンジャー」は、クレイトン・ムーアが主演したもので、トント役はジェイ・シルヴァーヒールス。クレイトン・ムーアは1999年12月に85歳で亡くなっておりました。
昨年秋の芸能ニュースで、ウォルト・ディズニーによって新しい映画版の制作予定があり、プロデューサーが「パイレーツ・オブ・カビリアン」のジェリー・ブラッカイマー、トント役がジョニー・デップでほぼ決まり、ローン・レンジャー役がジョージ・クルーニーか? との情報がありました。
さて、どうなったんでしょう?
“レンジャー”という語感は日本人にも受けたようで、いまだにお子さま向けヒーロー物のタイトルに使われています。
又、アメリカ、メジャーリーグの西地区には“テキサス・レンジャーズ”という人気球団があり、イチローのマリナーズとペナントを争っています。
(続く)
まずは「ローン・レンジャー」。
黒いマスクを付けて、腰には2丁拳銃。白馬に跨(またが)ったガンマン、人呼んで“ローン・レンジャー”が活躍する西部劇で、白い愛馬の名前が「シルバー」。ローン・レンジャーが悪者を追いかける時などにシルバーに乗って『ハイヨー シルバー!』と掛け声を出すのも定番で、その時にかかる音楽が(何故か)ロッシーニの「♪ウィリアム・テル序曲」というのもお決まりの、勧善懲悪型の子供向けドラマだったと記憶しております。
彼をサポートするのがインディアンのトント。ローン・レンジャーを『キモサベ』と呼び(トントの使うインディアン語で“友達”とかいう意味だったと思います)、何かというと『白人嘘つき。インディアン嘘つかない』などと言うので、この二つの言葉は子供たちの間で結構流行(はやり)ました。
『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、<『ローン・レンジャー』(The Lone Ranger)は、ジョージ・W・トレンドル(George W. Trendle)、フラン・ストライカー(Fran Striker)原作の、西部劇を題材としたラジオドラマ。1933年にラジオドラマが放送されて以来、アメリカン・コミックス化、テレビドラマ(1949年-1958年、全221話)化、映画(1956年・1958年・1981年)化もされた。・・・
日本ではテレビドラマ版が1958年からテレビ放映され、黒い仮面をつけた主人公が白馬にまたがった姿が、アメリカ版『鞍馬天狗』として親しまれた>とのこと。
ローン・レンジャーのキャラクターについては殆ど忘れてしまっているのですが、色々なサイトの情報によって背景が分かってきました。
元々はテキサス・レンジャー(騎馬警官隊)の一員だったのですが、ある時無法者の一味に狙撃されて5人の仲間は殺され、瀕死の重傷を負った彼一人だけ、たまたま通りかかったインディアンのトントに救われる。彼はその後6つのお墓を建て、自分も死んだように見せかける。死んだと見せかけて、無法者達を捕まえようとしたわけですな。亡くなったレンジャー隊の隊長は彼の兄で、兄の制服を使って黒いマスクを作り、以後ローン・レンジャーとして、悪者達を懲らしめたというわけです。
ローン・レンジャーは、普段は仮名を使って一般市民として暮らしていたようで、事件の臭いをかぐとマスクを付けて乗り出すという具合。つまり、「スーパーマン」や「バットマン」、「グリーン・ホーネット」、そして「スパイダーマン」さえも「ローン・レンジャー」から派生した物語だったわけですね。
マスクを付けた正義の味方といえば、コレより前に「怪傑ゾロ」という物語がありました。ゾロも普段は弱々しい青年という仮の姿を保っていましたら、実はゾロこそがこれらの正義のヒーローの大元ネタなのかも知れません。
私が観ていたTV版「ローン・レンジャー」は、クレイトン・ムーアが主演したもので、トント役はジェイ・シルヴァーヒールス。クレイトン・ムーアは1999年12月に85歳で亡くなっておりました。
昨年秋の芸能ニュースで、ウォルト・ディズニーによって新しい映画版の制作予定があり、プロデューサーが「パイレーツ・オブ・カビリアン」のジェリー・ブラッカイマー、トント役がジョニー・デップでほぼ決まり、ローン・レンジャー役がジョージ・クルーニーか? との情報がありました。
さて、どうなったんでしょう?
“レンジャー”という語感は日本人にも受けたようで、いまだにお子さま向けヒーロー物のタイトルに使われています。
又、アメリカ、メジャーリーグの西地区には“テキサス・レンジャーズ”という人気球団があり、イチローのマリナーズとペナントを争っています。
(続く)
6月から7月にかけて、NHK-BS2では西部劇特集があっているようで、「シェーン」やら「荒野の決闘」やら、懐かしい名作が次々とかかっております。ジェームズ・ステュワートの「怒りの河(1951)」も先日あったし、この作品の監督アンソニー・マンとジミーさん主演の作品では、「ウィンチェスター銃'73 (1950)」とか「遠い国 (1954)」なんちゅうのもあったなぁなんて懐かしく思い出しました。ホークスの「リオ・ロボ」については記事にし、昨日は「リオ・ブラボー」を録画しました。
そこでといってはなんですが、思い出の西部劇について書いてみようと思います。但し、劇場用映画について書いては切りがないし、個別に今後書くやも知れませんので、今回は子供の頃に観たTV版西部劇について思い出してみようと思います。
まずは、「ララミー牧場」。
ロバート・フラー扮するジェスと牧場主のスリムの二人が主人公だった事と、スリム役の俳優の芸名がジョン・スミスという、まるで嘘のような芸のない名前だったことを覚えています。ジェスの吹き替えが久松保夫さんで、べらんめぇ調の低音とフラーの親しみやすいハンサムぶりがお茶の間に受けて、<日本での最高視聴率は43.7%(1961年2月23日)を記録>したそうです。
『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、<ララミー牧場(LARAMIE)は、1959年から1963年にかけて米NBCで放送された西部劇のTVドラマ。日本では、1960年6月から1963年7月まで、NET(現テレビ朝日)系で放送。尚、舞台となる牧場の正式名称は「ララミー牧場」ではなく、ワイオミング州・ララミー市郊外の「シャーマン牧場」である>との事。
放送は毎週木曜日のゴールデン・タイムの1時間だったようです。
あらすじは、<米国で南北戦争が終焉を迎えた1860年代後半、ワイオミング州ララミー市郊外のシャーマン牧場において、父親をならず者に殺されたシャーマン兄弟が、牧場を残すための資金稼ぎに、駅馬車中継所を営みながら暮らしていてた。そこへある日、ジェス・ハーパー(ロバート・フラー)と名乗る一匹狼のガンマンが流れ着き、牧場を襲ったギャングをみごとなガンさばきで倒したことから、牧場の一員として受け入れられることになる。彼もまた、己の父を殺され放浪の旅に出た孤独な男であった。男達は牧場を守りながら大陸横断郵便の要である駅馬車中継所を柱に、未開の雄大な西部を背景として、様々な出来事に立ち向かっていく。>(『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
ジェスはまるで“シェーン”のような流れ者だったんですねぇ。しかも、舞台も同じワイオミング。
少年も出ていたと覚えてましたが、これはスリムの弟だったようですネ。
「♪ララミー~ ♪ララミー~ ・・・」という広い草原を思わせるようなテーマ音楽。番組の終わりには淀川長治さんの解説があったことなども思い出します。
淀川さんのお話は、「西部こぼれ話」というコーナーだったそうで、この時「日曜洋画劇場」はまだ始まってなかったんですが、すでに「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」という締めの挨拶は始まっていました。
下に添付した動画「懐かしの海外TVドラマ」の6分半辺りから、「ララミー牧場」の秘蔵映像が流れます。
その動画には、「ローハイド」も出てきます。「ララミー牧場」と同じように視聴率40%を越える人気番組でしたが、実は私はあんまり観ていません。
フジTV系列で、1959年11月から1965年3月まで放送されたとのことで、「ララミー牧場」とかぶっていたから避けたのか、又は同じ時間枠に別の番組を見ていたのかも知れません。
後に、深夜や夕方に再放送されていたのを時々観た覚えがあります。でも、「♪ローレン、ローレン、ローレン ・・・」というフランキー・レインの主題歌は鮮明に覚えてます。作曲は大御所ディミトリ・ティオムキンでした。
あらすじは、<南北戦争後の1870年代のアメリカ西部を舞台に、テキサス州のサンアントニオからミズーリ州のセタリアまで3000頭の牛を運ぶロングドライブたちの活躍を描く。>(『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
ロディ・イェーツ役のクリント・イーストウッド(声:山田康雄)の出世作であることは、皆さんご承知ですよね。
尚、「ローハイド(rawhide)」と は、「ロウ(raw、生の)」+「ハイド(hide、皮)」で作った、カウボーイ達がズボンの上に付ける当て皮の事だと聞いた覚えがあります。歌を聴いていると、牛達を誘導するときに使う皮製の鞭の事も指しているようですネ。
(続く)
そこでといってはなんですが、思い出の西部劇について書いてみようと思います。但し、劇場用映画について書いては切りがないし、個別に今後書くやも知れませんので、今回は子供の頃に観たTV版西部劇について思い出してみようと思います。
まずは、「ララミー牧場」。
ロバート・フラー扮するジェスと牧場主のスリムの二人が主人公だった事と、スリム役の俳優の芸名がジョン・スミスという、まるで嘘のような芸のない名前だったことを覚えています。ジェスの吹き替えが久松保夫さんで、べらんめぇ調の低音とフラーの親しみやすいハンサムぶりがお茶の間に受けて、<日本での最高視聴率は43.7%(1961年2月23日)を記録>したそうです。
『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、<ララミー牧場(LARAMIE)は、1959年から1963年にかけて米NBCで放送された西部劇のTVドラマ。日本では、1960年6月から1963年7月まで、NET(現テレビ朝日)系で放送。尚、舞台となる牧場の正式名称は「ララミー牧場」ではなく、ワイオミング州・ララミー市郊外の「シャーマン牧場」である>との事。
放送は毎週木曜日のゴールデン・タイムの1時間だったようです。
あらすじは、<米国で南北戦争が終焉を迎えた1860年代後半、ワイオミング州ララミー市郊外のシャーマン牧場において、父親をならず者に殺されたシャーマン兄弟が、牧場を残すための資金稼ぎに、駅馬車中継所を営みながら暮らしていてた。そこへある日、ジェス・ハーパー(ロバート・フラー)と名乗る一匹狼のガンマンが流れ着き、牧場を襲ったギャングをみごとなガンさばきで倒したことから、牧場の一員として受け入れられることになる。彼もまた、己の父を殺され放浪の旅に出た孤独な男であった。男達は牧場を守りながら大陸横断郵便の要である駅馬車中継所を柱に、未開の雄大な西部を背景として、様々な出来事に立ち向かっていく。>(『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
ジェスはまるで“シェーン”のような流れ者だったんですねぇ。しかも、舞台も同じワイオミング。
少年も出ていたと覚えてましたが、これはスリムの弟だったようですネ。
「♪ララミー~ ♪ララミー~ ・・・」という広い草原を思わせるようなテーマ音楽。番組の終わりには淀川長治さんの解説があったことなども思い出します。
淀川さんのお話は、「西部こぼれ話」というコーナーだったそうで、この時「日曜洋画劇場」はまだ始まってなかったんですが、すでに「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」という締めの挨拶は始まっていました。
下に添付した動画「懐かしの海外TVドラマ」の6分半辺りから、「ララミー牧場」の秘蔵映像が流れます。
その動画には、「ローハイド」も出てきます。「ララミー牧場」と同じように視聴率40%を越える人気番組でしたが、実は私はあんまり観ていません。
フジTV系列で、1959年11月から1965年3月まで放送されたとのことで、「ララミー牧場」とかぶっていたから避けたのか、又は同じ時間枠に別の番組を見ていたのかも知れません。
後に、深夜や夕方に再放送されていたのを時々観た覚えがあります。でも、「♪ローレン、ローレン、ローレン ・・・」というフランキー・レインの主題歌は鮮明に覚えてます。作曲は大御所ディミトリ・ティオムキンでした。
あらすじは、<南北戦争後の1870年代のアメリカ西部を舞台に、テキサス州のサンアントニオからミズーリ州のセタリアまで3000頭の牛を運ぶロングドライブたちの活躍を描く。>(『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
ロディ・イェーツ役のクリント・イーストウッド(声:山田康雄)の出世作であることは、皆さんご承知ですよね。
尚、「ローハイド(rawhide)」と は、「ロウ(raw、生の)」+「ハイド(hide、皮)」で作った、カウボーイ達がズボンの上に付ける当て皮の事だと聞いた覚えがあります。歌を聴いていると、牛達を誘導するときに使う皮製の鞭の事も指しているようですネ。
(続く)
もしもし、ジャック君? 君がかの有名なジャック・バウアーかね? まさか、岸君じゃないよね?
えっ、そうか、正真正銘のバウアー君なんだね。
君に電話したのは他でもない、先日(というか、今日の午前中)、テロリストを追っかけて私のブログにやって来たそうじゃないか。君が尋問したのは私じゃない。たまたま遊びに来ていた甥っ子だ。名前は十瑠と書いてトオルと読む。残念だな。
午前中はコチラの方に野暮用で出かけていたので、留守にしていた。一言電話をくれていたら・・・。ははっ、ガサ入れにくるのに連絡してくる奴はいないか。^^
テロリストなんて、わしゃ知らんよ。そんなのと関わり合っている暇はないし。
しかもテロリストは三人だって? ひとりはキャサリン・ゼダ・ジョーンズ、もうひとりはアンジェリーナ・ジョリー、そしてもうひとりはシャーリーズ・セロンに似た女?
ウン、確かに全員私の好みの女性ばかりだが、そんなテロリストがいるのか? そんなのがやって来たら、サイコーじゃないか!! なにされてもいいぞ。「黄金狂時代」のチャーリーみたいに飛び跳ねて枕の羽もばらまいちゃうぞ。
しかし、そんなテロリストなんかは知らないし、勿論かくまってなんかいない。
ん?
そう、誓って嘘はついていない。(えっと~、何に誓おう?)
そうか。今回の依頼人はanupamさんか。
anupamさんは、良く知っている。神奈川の別嬪さんだ。
ハーレーをかっ飛ばす旦那さんを“相方”と呼んでいるが、お笑い芸人じゃない。日本のショービズ界を影で操る、タイトスカートの良く似合うウォシャウスキーみたいな女性だ。
えっ! 違う?
すまかなった。適当に答えてしまった。実は、ブログ上でしか逢ったことはない。さっきのも妄想だ。一部真実も入っているが・・。
ついでに、もう少しバラしてしまおう。
彼女も旦那さんも水瓶座だ。ついでに私も水瓶座。旦那さんは私の息子と同じ誕生日で、彼女はモーツァルトと同じ日に生まれている。
私の息子が大きくなったら、多分恋人はanupamさんのような人じゃないかと、そんな妄想もしてしまう。あっ、いや、これはたった今考えた作り話だ。
ん?
そうか、ジャック君も忙しいんだね。役に立てなかったけど、他を当たってくれたまえ。
な~んてね。
anupamさんにメルマガで紹介されました十瑠で~す。
anupamさんと私の最初の接点は、確か彼女の「フォロー・ミー」の記事にコメントしたのがきっかけで、その後コチラの「フレンジー」にコメントくれたのでした。
彼女の好きな映画は「ファンダンゴ」。(未だに観てない、ご免ね~)
若い頃のケビン・コスナーやトム・ハンクスのファンだとも認識しております。
そして、音楽も大好きで、「ファンダンゴ」でも使われたパット・メセニーの大ファンでもあられます。
「anupam」とは、インドの言葉で『秘密』という意味だったと覚えてますが、間違いなかったですかね?
「ほぼ100%純正映画ブログです」と紹介されました。
ここ数年は、ポートレイトクイズなんぞ作りまして、旧いスターの紹介も始めましたし、昨年あたりからは映画で使われた「音楽」をyoutubeの動画をかりて紹介させていただいています。
皆さん、よろしくね。
anupamさん♪
大好きなジャック・バウアーのバージョンで紹介してくれてありがとさんでした。
因みに、本物の「24」は観たことありません。未だに、“どきどきキャンプ”でしか、雰囲気は知りません。
えっ、そうか、正真正銘のバウアー君なんだね。
君に電話したのは他でもない、先日(というか、今日の午前中)、テロリストを追っかけて私のブログにやって来たそうじゃないか。君が尋問したのは私じゃない。たまたま遊びに来ていた甥っ子だ。名前は十瑠と書いてトオルと読む。残念だな。
午前中はコチラの方に野暮用で出かけていたので、留守にしていた。一言電話をくれていたら・・・。ははっ、ガサ入れにくるのに連絡してくる奴はいないか。^^
テロリストなんて、わしゃ知らんよ。そんなのと関わり合っている暇はないし。
しかもテロリストは三人だって? ひとりはキャサリン・ゼダ・ジョーンズ、もうひとりはアンジェリーナ・ジョリー、そしてもうひとりはシャーリーズ・セロンに似た女?
ウン、確かに全員私の好みの女性ばかりだが、そんなテロリストがいるのか? そんなのがやって来たら、サイコーじゃないか!! なにされてもいいぞ。「黄金狂時代」のチャーリーみたいに飛び跳ねて枕の羽もばらまいちゃうぞ。
しかし、そんなテロリストなんかは知らないし、勿論かくまってなんかいない。
ん?
そう、誓って嘘はついていない。(えっと~、何に誓おう?)
そうか。今回の依頼人はanupamさんか。
anupamさんは、良く知っている。神奈川の別嬪さんだ。
ハーレーをかっ飛ばす旦那さんを“相方”と呼んでいるが、お笑い芸人じゃない。日本のショービズ界を影で操る、タイトスカートの良く似合うウォシャウスキーみたいな女性だ。
えっ! 違う?
すまかなった。適当に答えてしまった。実は、ブログ上でしか逢ったことはない。さっきのも妄想だ。一部真実も入っているが・・。
ついでに、もう少しバラしてしまおう。
彼女も旦那さんも水瓶座だ。ついでに私も水瓶座。旦那さんは私の息子と同じ誕生日で、彼女はモーツァルトと同じ日に生まれている。
私の息子が大きくなったら、多分恋人はanupamさんのような人じゃないかと、そんな妄想もしてしまう。あっ、いや、これはたった今考えた作り話だ。
ん?
そうか、ジャック君も忙しいんだね。役に立てなかったけど、他を当たってくれたまえ。
~~~~~~~ カーーーット! ~~~~~~~~~
な~んてね。
anupamさんにメルマガで紹介されました十瑠で~す。
anupamさんと私の最初の接点は、確か彼女の「フォロー・ミー」の記事にコメントしたのがきっかけで、その後コチラの「フレンジー」にコメントくれたのでした。
彼女の好きな映画は「ファンダンゴ」。(未だに観てない、ご免ね~)
若い頃のケビン・コスナーやトム・ハンクスのファンだとも認識しております。
そして、音楽も大好きで、「ファンダンゴ」でも使われたパット・メセニーの大ファンでもあられます。
「anupam」とは、インドの言葉で『秘密』という意味だったと覚えてますが、間違いなかったですかね?
「ほぼ100%純正映画ブログです」と紹介されました。
ここ数年は、ポートレイトクイズなんぞ作りまして、旧いスターの紹介も始めましたし、昨年あたりからは映画で使われた「音楽」をyoutubeの動画をかりて紹介させていただいています。
皆さん、よろしくね。
anupamさん♪
大好きなジャック・バウアーのバージョンで紹介してくれてありがとさんでした。
因みに、本物の「24」は観たことありません。未だに、“どきどきキャンプ”でしか、雰囲気は知りません。
昨日、米国アカデミー賞(第81回)の発表があって、滝田洋二郎監督の「おくりびと」が日本初の外国語映画賞を、鹿児島出身の加藤久仁生監督が作った「つみきのいえ」が短編アニメーション賞を受賞するという快挙が成し遂げられました。夕べもそうだけど、今朝もこの話題がワイドショーのトップニュースでした。
「おくりびと」は、主演の本木雅弘が16年前にインドに行った時に彼の地の葬儀に感銘を受け、その後日本で納棺師をされていた人の本「納棺夫日記」を読んで、いつか映画にしたいとの思いが生まれ、関係者にその思いを伝えていった末の作品とのことです。未見なので内容については詳しくは知りませんが、元々チェリストであった主人公がリストラにあい、次の職業に選んだのが納棺師と言うわけで、個人の再生の話でもあるのだろうし、生と死について考えさせる話にもなっているらしい。外国語映画賞といえば、少し前には「たそがれ清兵衛」がノミネートされるも受賞に至らなかったのが記憶に新しく、それを思うと実に素晴らしいことです。ユーモアも交えた語り口だそうで、観るのが楽しみですね。
さて、この季節に合わせた訳ではないんですが、アカデミー賞にまつわるエピソードを纏めた川本三郎氏の「アカデミー賞」(中公新書)という本を、たまたま一(ひと)月ほど前に古本屋さんで購入してまして、丁度読んでいる途中でした。副題が、<オスカーをめぐる26のエピソード>。
華やかな祭典の裏には、光の何倍もの影の話があるわけで、それは別に暗いとか汚いとかそういう種類のものだけではなく、地味だけど滋味溢れる面白い話も色々とあるので、私はそういう部分に惹かれるわけですね。
このブログでも触れたジェーン・フォンダ、ヘンリー・フォンダ親子の「黄昏 (1981)」に関するエピソード。賞レースを拒否したジョージ・C・スコットやマーロン・ブランドの話。グレタ・ガルボ、ジュディ・ガーランドやリチャード・バートン、ピーター・オトゥールなど悲運のスターの話。そして、そもそものアカデミー賞が誕生した経緯など、アメリカ映画ファンには面白い話が一杯です。
誕生秘話について少しだけ書きますと、言い出しっぺは当時のMGMの副社長だったルイス・メイヤーで、狙いは組合対策だったそうです。1926年に撮影所で働く専門職による5つの労働組合が作られ、その組合と経営者側とで労働条件や賃金に関する労働協定が結ばれた。ところが、後でよく考えるとその協定通りに賃金を支払うと大変な数字になることが分かり、そのうち監督やら脚本家などの組合も出来るともっと大変になる。そこで、労使協調の場を設けようと、主要な映画人が集まる会員組織を作った。それがアカデミー会員の始まりで、その頃はゴルフクラブの会員のような感じで、映画賞のようなものは無かったらしい。ところが、始めてみると組織の目的が曖昧との意見が出てくるようになり、表向き「映画芸術及び科学の質の向上をはかること」が目的として掲げられ、更には「優れた業績に関する表彰」が活動内容の一つに加えられた。これが後のアカデミー賞になるわけです。
言い出しっぺが経営者側であり、昔の事でもあり、初めの頃は経営者による恣意的な投票が行われたらしいです。あの俳優は気にくわんからノミネートから外そうとか、弱小会社の作品にはお声がかからなかったとか。監督賞3回受賞のフランク・キャプラもコロンビアというマイナーの会社に居たためなかなか受賞できなかったらしいです。俳優たちも各映画会社と専属契約を結んでいた時代で、なかなか発言の場が無く、こういったアカデミー賞に関する不満も出てきた。そこで、その頃アカデミーの会長だったキャプラは策を練って、アカデミー会員をそれまでの200人から1400人に増やし、経営者側の権力を小さくする事に成功したとのことでした。さすが、キャプラ。
もう一つ書かせて下さい。
前回紹介した「女相続人(1949)」の主演のオリヴィア・デ・ハヴィランドに関連して、彼女と一つ下の妹ジョーン・フォンテインとの仲の悪さについて書きましたが、この本にも26分の1のエピソードとして書かれていました。つまり、姉妹の関係を悪くしたのにはアカデミー賞が関わっていたわけです。
あまり詳しく書くと著作権に引っかかるので、簡単に書きますが、1940年のヒッチコック作品「レベッカ」から表だった不運が始まります。
当時ワーナーの専属女優だったオリヴィアは、前年度にMGMの大作「風と共に去りぬ」の演技で好評を博したが、社長のワーナーとは気が合わなかった。MGMは翌40年に「レベッカ」を企画し、ヒッチコックはオリヴィアを起用したいと思っていたが、今度はワーナーがオリヴィアの貸し出しを渋った。泣く泣くオリヴィアも諦めたが、その後レベッカ役を射止めたのが妹のジョーン・フォンテインというわけです。
ジョーン・フォンテインはこの演技で主演女優賞にノミネートされ一躍有名になる。更に翌年、ジョーンは再びヒッチコックと組んで「断崖」に主演し、その年のアカデミー主演女優賞にノミネートされる。そして、この年のオスカー獲りのライバルの一人が姉のオリヴィアだったのです。今回も他社作品への出演だったオリヴィアには、受賞へのサポートがなく、なんと妹のジョーンが姉を差し置いてオスカー女優となってしまいました。
この時の受賞パーティーでは、初受賞に驚くジョーンを姉のオリヴィアが優しく壇上へと促し、その後スピーチを終えて帰ってきた妹と握手を交わす。『美しい姉妹愛』と当時の新聞は称えたそうですが・・・。
悲劇は更に続きます。
ワーナーではB級作品の助演的な役しかもらえなかったオリヴィアは会社との関係が悪化し、ついには専属契約解消の訴訟を起こす。仕事のない月日が3年続き、やっとワーナーから解放されたオリヴィアは46年の「遙かなる我が子」で主演女優賞にノミネート、初の主演女優賞に輝く。パーティー会場には妹のジョーンも来ていて、壇上から降りてきた姉に笑顔で手を差し伸べたが、オリヴィアはくるりと背を向けて握手に応じなかった。この瞬間の写真が新聞に載って、姉妹の不仲が公になったということでした。
悪いのはワーナー。そう思いたくなります。あと、裁判費用も相当なものだったようだし、3年の間の不遇の時代の姉妹の関係がどうだったのか。この辺に不仲の原因があるようですね。
因みに、姉妹の父親が東大の教授をしていた関係で、二人とも東京生まれだそうです。
もっと面白い話がありますが、これ以上は話せません。お後がよろしいようで・・・。
「おくりびと」は、主演の本木雅弘が16年前にインドに行った時に彼の地の葬儀に感銘を受け、その後日本で納棺師をされていた人の本「納棺夫日記」を読んで、いつか映画にしたいとの思いが生まれ、関係者にその思いを伝えていった末の作品とのことです。未見なので内容については詳しくは知りませんが、元々チェリストであった主人公がリストラにあい、次の職業に選んだのが納棺師と言うわけで、個人の再生の話でもあるのだろうし、生と死について考えさせる話にもなっているらしい。外国語映画賞といえば、少し前には「たそがれ清兵衛」がノミネートされるも受賞に至らなかったのが記憶に新しく、それを思うと実に素晴らしいことです。ユーモアも交えた語り口だそうで、観るのが楽しみですね。
さて、この季節に合わせた訳ではないんですが、アカデミー賞にまつわるエピソードを纏めた川本三郎氏の「アカデミー賞」(中公新書)という本を、たまたま一(ひと)月ほど前に古本屋さんで購入してまして、丁度読んでいる途中でした。副題が、<オスカーをめぐる26のエピソード>。
華やかな祭典の裏には、光の何倍もの影の話があるわけで、それは別に暗いとか汚いとかそういう種類のものだけではなく、地味だけど滋味溢れる面白い話も色々とあるので、私はそういう部分に惹かれるわけですね。
このブログでも触れたジェーン・フォンダ、ヘンリー・フォンダ親子の「黄昏 (1981)」に関するエピソード。賞レースを拒否したジョージ・C・スコットやマーロン・ブランドの話。グレタ・ガルボ、ジュディ・ガーランドやリチャード・バートン、ピーター・オトゥールなど悲運のスターの話。そして、そもそものアカデミー賞が誕生した経緯など、アメリカ映画ファンには面白い話が一杯です。
誕生秘話について少しだけ書きますと、言い出しっぺは当時のMGMの副社長だったルイス・メイヤーで、狙いは組合対策だったそうです。1926年に撮影所で働く専門職による5つの労働組合が作られ、その組合と経営者側とで労働条件や賃金に関する労働協定が結ばれた。ところが、後でよく考えるとその協定通りに賃金を支払うと大変な数字になることが分かり、そのうち監督やら脚本家などの組合も出来るともっと大変になる。そこで、労使協調の場を設けようと、主要な映画人が集まる会員組織を作った。それがアカデミー会員の始まりで、その頃はゴルフクラブの会員のような感じで、映画賞のようなものは無かったらしい。ところが、始めてみると組織の目的が曖昧との意見が出てくるようになり、表向き「映画芸術及び科学の質の向上をはかること」が目的として掲げられ、更には「優れた業績に関する表彰」が活動内容の一つに加えられた。これが後のアカデミー賞になるわけです。
言い出しっぺが経営者側であり、昔の事でもあり、初めの頃は経営者による恣意的な投票が行われたらしいです。あの俳優は気にくわんからノミネートから外そうとか、弱小会社の作品にはお声がかからなかったとか。監督賞3回受賞のフランク・キャプラもコロンビアというマイナーの会社に居たためなかなか受賞できなかったらしいです。俳優たちも各映画会社と専属契約を結んでいた時代で、なかなか発言の場が無く、こういったアカデミー賞に関する不満も出てきた。そこで、その頃アカデミーの会長だったキャプラは策を練って、アカデミー会員をそれまでの200人から1400人に増やし、経営者側の権力を小さくする事に成功したとのことでした。さすが、キャプラ。
もう一つ書かせて下さい。
前回紹介した「女相続人(1949)」の主演のオリヴィア・デ・ハヴィランドに関連して、彼女と一つ下の妹ジョーン・フォンテインとの仲の悪さについて書きましたが、この本にも26分の1のエピソードとして書かれていました。つまり、姉妹の関係を悪くしたのにはアカデミー賞が関わっていたわけです。
あまり詳しく書くと著作権に引っかかるので、簡単に書きますが、1940年のヒッチコック作品「レベッカ」から表だった不運が始まります。
当時ワーナーの専属女優だったオリヴィアは、前年度にMGMの大作「風と共に去りぬ」の演技で好評を博したが、社長のワーナーとは気が合わなかった。MGMは翌40年に「レベッカ」を企画し、ヒッチコックはオリヴィアを起用したいと思っていたが、今度はワーナーがオリヴィアの貸し出しを渋った。泣く泣くオリヴィアも諦めたが、その後レベッカ役を射止めたのが妹のジョーン・フォンテインというわけです。
ジョーン・フォンテインはこの演技で主演女優賞にノミネートされ一躍有名になる。更に翌年、ジョーンは再びヒッチコックと組んで「断崖」に主演し、その年のアカデミー主演女優賞にノミネートされる。そして、この年のオスカー獲りのライバルの一人が姉のオリヴィアだったのです。今回も他社作品への出演だったオリヴィアには、受賞へのサポートがなく、なんと妹のジョーンが姉を差し置いてオスカー女優となってしまいました。
この時の受賞パーティーでは、初受賞に驚くジョーンを姉のオリヴィアが優しく壇上へと促し、その後スピーチを終えて帰ってきた妹と握手を交わす。『美しい姉妹愛』と当時の新聞は称えたそうですが・・・。
悲劇は更に続きます。
ワーナーではB級作品の助演的な役しかもらえなかったオリヴィアは会社との関係が悪化し、ついには専属契約解消の訴訟を起こす。仕事のない月日が3年続き、やっとワーナーから解放されたオリヴィアは46年の「遙かなる我が子」で主演女優賞にノミネート、初の主演女優賞に輝く。パーティー会場には妹のジョーンも来ていて、壇上から降りてきた姉に笑顔で手を差し伸べたが、オリヴィアはくるりと背を向けて握手に応じなかった。この瞬間の写真が新聞に載って、姉妹の不仲が公になったということでした。
悪いのはワーナー。そう思いたくなります。あと、裁判費用も相当なものだったようだし、3年の間の不遇の時代の姉妹の関係がどうだったのか。この辺に不仲の原因があるようですね。
因みに、姉妹の父親が東大の教授をしていた関係で、二人とも東京生まれだそうです。
もっと面白い話がありますが、これ以上は話せません。お後がよろしいようで・・・。
■ YouTube Selection (予告編)
■ Information&Addition
※gooさんからの告知です:<「トラックバック機能」について、ご利用者数の減少およびスパム利用が多いことから、送受信ともに2017年11月27日(月)にて機能の提供を終了させていただきます>[2017.11.12]
●2007年10月にブログ名を「SCREEN」から「テアトル十瑠」に変えました。
●2021年8月にブログ名を「テアトル十瑠」から「テアトル十瑠 neo」に変えました。姉妹ブログ「つれづる十瑠」に綴っていた日々の雑感をこちらで継続することにしたからです。
●コメントは大歓迎。但し、記事に関係ないモノ、不適切と判断したモノは予告無しに削除させていただきます。
◆【著作権について】 当ブログにおける私の著作権の範囲はテキスト部分についてのみで、また他サイト等からの引用については原則< >で囲んでおります。
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●2007年10月にブログ名を「SCREEN」から「テアトル十瑠」に変えました。
●2021年8月にブログ名を「テアトル十瑠」から「テアトル十瑠 neo」に変えました。姉妹ブログ「つれづる十瑠」に綴っていた日々の雑感をこちらで継続することにしたからです。
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◆【管理人について】
HNの十瑠(ジュール)は、あるサイトに登録したペンネーム「鈴木十瑠」の名前部分をとったもの。由来は少年時代に沢山の愛読書を提供してくれたフランスの作家「ジュール・ヴェルヌ」を捩ったものです。
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