1936年(37年の説もあり)8月生まれのレッドフォードと、1937年8月生まれのダスティン・ホフマン。共にロサンゼルスの出身。
先日、久しぶりにアクターズ・スタジオ・インタビューがあり、2005年に収録された二人の前編・後編がそれぞれ1本に纏められて、二日に渉って再放送された。どちらも見逃していたので、しっかりと録画してワクワクしながら見た。多感な時期に彼らの映画を沢山見たので、どちらも思い出深い俳優だ。
特に、レッドフォードには役者としてより人間としての魅力を多く感じていたし、演技以外の映像もほとんど見たことがなかったので、非常に興味深いインタビューだった。
映画では、どれを見ても“レッドフォードだ”という感じがするが、役柄の選択には毎回こだわりがあったらしいのは、大昔の雑誌のインタビュー記事で知っていた。
出演作品を選ぶときの決め手は? という質問に、こう答えた。
「物語」、「役柄」、「葛藤」・・・
シドニー・ポラックは最も出演作品が多い監督で、とても親しいと言っていたが、ポラックから「追憶(1973)」のオファーがあった時には、最初は断ったらしい。
『二枚目だけの役はイヤだ。弱点のある役がいい。
本人も見た目で評価されている事に気付いていて、心の中に不安を抱えている。
自分は完璧な人間ではない。ごく普通に生きている人間なんだと。』
「追憶」の脚本も、幾度かの変更があったらしい。
葛藤し、成長する人物。ドラマチックな重圧に耐え、悩みながら状況を乗りきっていく。そうした経験を通して、何かに気付く。そんな役柄に惹かれるようだ。
「白銀のレーサー(1969)」、「候補者ビル・マッケイ(1972)」、「大いなる勇者(1972)」、「華麗なるギャツビー(1974)」、「コンドル(1975)」、「出逢い(1979)」、「ブルベイカー(1980)」・・・。
仕事や環境は違っていても、確かに彼の演じる人物には共通する何かがあった。彼の言を借りれば、“葛藤”ということだろう。一見何でもこなしそうな美青年なのに、どこか屈折したところがあって、しかしその影がトニ・パキのように陰に籠もってない。あの“ギャツビー”のように、どんなに苦しい環境の中でも、又それがどんなに遙か先であっても、希望の光を求め続ける男なのだ。
本名、チャールズ・ロバート・レッドフォード・ジュニア。
両親は再婚で、義理の兄がいたが、年が近く仲は良かったようだ。どちらかと言えば貧しい家で、楽しみは週末の映画館と7歳から通った図書館。兄とは色々な悪戯もして、二人してビルの外壁をよじ登り、上の方の電飾の球を外した事などを話していた。
学校も嫌いで、早くロサンゼルスから出ていこうと思い、得意だった野球の奨学金を得てコロラド大学に入る。専攻は美術だったが、管理的な授業に嫌気がさし、大学の近くのパブに入り浸り、1年半で退学となる。
画家を目指してヨーロッパに渡り、スペイン、フランス、フィレンツェなどの学校で学ぶ。その放浪の旅で知り合った女性と結婚をし、アメリカに帰ることにする。帰米費用は個展で稼いだ75ドルだった。
ニューヨークに着くと、街の様子が気に入り居着く。画家以外の仕事には興味がなかったが、人に聞かれた時には『舞台美術をやりたい。』と答えていた。それは真っ当な職業に思えたからだ。
それならば、演劇を学んだ方がいいと言われ、教えられるまま演劇学校に通いだしたのが、役者になるきっかけになったそうだ。演技にも本当は興味がなく、偶然授業で組むことになった青年の演技に腹がたち、そいつを放り投げて学校を辞めようとした時に、『演技を辞めるな。』と引き留めた先生の言葉がなければ、今の自分はなかったかも知れないと言っていた。
(・・・続く)
先日、久しぶりにアクターズ・スタジオ・インタビューがあり、2005年に収録された二人の前編・後編がそれぞれ1本に纏められて、二日に渉って再放送された。どちらも見逃していたので、しっかりと録画してワクワクしながら見た。多感な時期に彼らの映画を沢山見たので、どちらも思い出深い俳優だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/24/00dcbb120633e9c24dd5f3494fd01844.jpg)
映画では、どれを見ても“レッドフォードだ”という感じがするが、役柄の選択には毎回こだわりがあったらしいのは、大昔の雑誌のインタビュー記事で知っていた。
出演作品を選ぶときの決め手は? という質問に、こう答えた。
「物語」、「役柄」、「葛藤」・・・
シドニー・ポラックは最も出演作品が多い監督で、とても親しいと言っていたが、ポラックから「追憶(1973)」のオファーがあった時には、最初は断ったらしい。
『二枚目だけの役はイヤだ。弱点のある役がいい。
本人も見た目で評価されている事に気付いていて、心の中に不安を抱えている。
自分は完璧な人間ではない。ごく普通に生きている人間なんだと。』
「追憶」の脚本も、幾度かの変更があったらしい。
葛藤し、成長する人物。ドラマチックな重圧に耐え、悩みながら状況を乗りきっていく。そうした経験を通して、何かに気付く。そんな役柄に惹かれるようだ。
「白銀のレーサー(1969)」、「候補者ビル・マッケイ(1972)」、「大いなる勇者(1972)」、「華麗なるギャツビー(1974)」、「コンドル(1975)」、「出逢い(1979)」、「ブルベイカー(1980)」・・・。
仕事や環境は違っていても、確かに彼の演じる人物には共通する何かがあった。彼の言を借りれば、“葛藤”ということだろう。一見何でもこなしそうな美青年なのに、どこか屈折したところがあって、しかしその影がトニ・パキのように陰に籠もってない。あの“ギャツビー”のように、どんなに苦しい環境の中でも、又それがどんなに遙か先であっても、希望の光を求め続ける男なのだ。
*
本名、チャールズ・ロバート・レッドフォード・ジュニア。
両親は再婚で、義理の兄がいたが、年が近く仲は良かったようだ。どちらかと言えば貧しい家で、楽しみは週末の映画館と7歳から通った図書館。兄とは色々な悪戯もして、二人してビルの外壁をよじ登り、上の方の電飾の球を外した事などを話していた。
学校も嫌いで、早くロサンゼルスから出ていこうと思い、得意だった野球の奨学金を得てコロラド大学に入る。専攻は美術だったが、管理的な授業に嫌気がさし、大学の近くのパブに入り浸り、1年半で退学となる。
画家を目指してヨーロッパに渡り、スペイン、フランス、フィレンツェなどの学校で学ぶ。その放浪の旅で知り合った女性と結婚をし、アメリカに帰ることにする。帰米費用は個展で稼いだ75ドルだった。
ニューヨークに着くと、街の様子が気に入り居着く。画家以外の仕事には興味がなかったが、人に聞かれた時には『舞台美術をやりたい。』と答えていた。それは真っ当な職業に思えたからだ。
それならば、演劇を学んだ方がいいと言われ、教えられるまま演劇学校に通いだしたのが、役者になるきっかけになったそうだ。演技にも本当は興味がなく、偶然授業で組むことになった青年の演技に腹がたち、そいつを放り投げて学校を辞めようとした時に、『演技を辞めるな。』と引き留めた先生の言葉がなければ、今の自分はなかったかも知れないと言っていた。
(・・・続く)
特に笑ったのは、親友ポール・ニューマンとの交友のエピソードで、
(1)誕生日か何かのプレゼントとして、カーレースに夢中のポールに、時代遅れのスポーツカーを贈ったこと、
(2)ポールは、それをスクラップにして送り返したこと
(3)ロバートは、それをさらに圧縮して送り返したこと
しかも、いまだに自分のいたずらだとはお互いに認めていない、ということです。
②は本日アップの予定です。
昔の雑誌では、送ったのは便器だったように覚えているんですが、ソレは又、別の誕生日の話だったのかも知れませんネ。
いずれにしても、おかしなオッサン達です。