はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

風の終わる場所 10

2020年12月09日 10時00分28秒 | 風の終わる場所
「わたしがここに連れてこられたのは、曹公のご命令か」
「いいえ。すべては我が一存のこと。曹公はなにもご存じない」
「なぜわたしを?」
陳長文は、ちらりと横にいる親子を見る。
成都では行商人に身をやつしていたが、いまはそれぞれ立派な風体をして、特に子供のほうは、まるで公子のように贅沢な衣裳をまとっていた。
愛嬌のある、かわいらしい子供である。
この場の緊迫した空気に、子供の背後に控えている男…父親ではあるまいと孔明は判断した…は畏まっているのに、子供は怖じることなく堂々としている。
劉禅と同じか、すこし年上だろう。
「天下の乱れを憂う士として、貴殿にどうしても話があったのだ。孔明どの…そうお呼びしてもよろしいだろうか…わたしはかつて徐州に身を寄せたこともあり、琅邪に足を向けたこともある。
なにより、以前は劉左将軍にお仕えしていたこともある。いろいろと、共通するところも多い」

陳長文が劉備に仕えていたのは事実だ。
しかし、その意見が聞き入れなかったために、劉備から離れて野に下り、呂布が滅ぼされると曹操に仕えた、という経歴の持ち主だ。
陳長文が魏のなかでも重鎮に上りつめたこともあり、遠慮をして過去を語る者は少ないが、劉備が陳長文を重用しなかったのは、その徹底した現実主義が、肌に合わなかったからだ、と評する者もいる。

そうであろうな、と本人を見て、孔明はおもった。
おおよそ、夢や志のために身を犠牲にしたり、あるいは一族を犠牲にしたりするような身の処し方はできない性質だろう。
だが…

「曹公の命令でないというのなら、わたしを攫ったのは、貴殿の指揮か」
「そうだ」
陳長文は重々しく肯いたが、その言葉に嘘が含まれていることに、孔明はすぐに気づいた。
陳長文はどこか納得していない顔をしている。
それは、孔明が想像していた以上に若かったから、などという単純な理由ではなく、この状況そのものに納得していないようだ。
「わたしは蜀の代表として、貴殿らに召喚を受けた、ということか。
白羽の矢が立ったのは光栄であるが、貴殿らの用件をお聞かせ願いたい。もしも我が意に添わぬような話なのであれば、早急に成都に帰らせていただく。なにせ忙しい身なのでね」
孔明の強がりに、陳長文は苦笑をする。
その顔は、まるで駄々っ子のわがままに困っている父親のようであった。
「帰る必要はない。ここは蜀だ」
「なに?」
「ここは、貴殿が向かおうとしていた、広漢の終風村だ。貴殿の用事なら、我らが済ませよう」
と、陳長文は子供の後ろにひかえる男に促した。
「広漢を『荒らしまわった』盗賊の首領・馬光年だ」

鋭敏な孔明は、陳長文のいわんとすること、魏の思惑をすぐに見破った。
魏は、李巌の焦りと野望につけ込んで、広漢に細作を忍び込ませ、盗賊を組織させ、近隣を荒らしまわらせた。
そうして、広漢を無法地帯にすることで、劉備の名声を落とさせた。
ところが、盗賊の所業にたまりかねた終風村の村人たちが動いたことで、呉の細作が動いてしまう。
魏としては、呉に介入されるのは厄介だった。
そこで手を組むことをもちかける。
おそらく、頃合を見て、かれらも始末するつもりだったにちがいない。
さらにそこへ、費家より文偉がやってくる。
文偉が戸籍のことに触れたことで、馬光年は、策が破綻するのを恐れ、呉の細作の芝蘭が止めるのも聞かず、文偉を殺すことに躍起になる。
ところが、それがきっかけで、呉は魏に不信を抱き、敵に回った。
そのために、魏は大胆に動き回らざるを得なくなった。
だが、目的はなんだ? 
この大掛かりなしかけの動機は?

「貴殿には隠し事はせぬ。真実をすべて明かそう」
「貴殿は何者だ?」
陳長文は眉をしかめて孔明を見る。
孔明はつめたく陳長文を見下ろした。
かぎりない憎悪でもって。
「陳長文といえば、天下に知らぬものはない高潔の士として知られているはずであるが、貴殿は下劣な策で、わが国の民を危険に晒し、悲嘆を味あわせた。斯様な男が、まこと陳長文とはおもえぬ」
「私が偽者だというのかね」
「貴殿がまこと陳長文という証左をみせるがよい。私は、正体のわからぬ無礼者には頭を下げぬ」
それまで、堂々としていた陳長文の表情が、あきらかに不快を大きく表にあらわした。
孔明はそれを見届けると、踵を返して欄干に立つ。
「終風村か。なかなかよいところではないかね。だが、ここは蜀の地、われらが所領。細作ごときが、いつまでもうろついてよきところではない」
「私が、細作だというのか!」
「呉か魏かは知らぬが、下手な芝居はよすがよい」
「愚かなり、諸葛亮! その目は節穴か!」
「さて、人を見る目はあるつもりだがな。このようにわたしを薬で眠らせ、終風村に連れてきたくせに、真実もなにもあったものではない。
おまえたちの呼ぶ真実とは、おそらくひどく軽く、小汚いものであろうな」

言いつつ、孔明は欄干を見下ろした。
あいかわらず人の気配はない。
ここからは人家が見えないから、おそらく村の外れにある建物なのだろう。
終風村の規模はわからないが、魏の細作、あるいは兵士たちが、そこかしこに息を潜めているにちがいない。
おそらく、自分を監視するために。

孔明は、背後にいるこの男が、細作の化けた者などとは、微塵もおもっていなかった。
もし偽者であるならば、陳長文の名を持ち出すことの意味がわからない。
自分を寝返らせるためならば、こんなやり方は逆効果だし、まったく面識のない陳長文を使者に出すよりは、徐庶を出したほうが効果的だと、かれらは知っているはずだ。
孔明と徐庶は、いまだに手紙でやりとりを続けている。
それを魏は掌握しているからである。
狙いが自分ではないとすると、かれらはなにを企んでいるのだろう。

「そこから飛び降りて、鳥のように成都に帰られたら如何か。止めはせぬ」
と、怒りの余韻をなんとか宥めている風情の陳長文は、大きく息をつきながら言った。

なるほど、これで決定した。
狙いはわたしではない。
だが、いい傾向ではないことはたしかだ。
狙いが自分でないとして、なぜここに連れてこられたのか。
そして、なぜ自由にさせている?

「できることならばそうしておりますよ。ところで陳御史中丞、貴殿らの用件をお聞かせいただきましょう」
「食えぬ男だな。おのれが虜になっている状況が、わかっておるのかね」
孔明は沈黙した。
分からないことに迂闊に返事をするべきではない。
「では、時間がないので、早速、最初の話にもどさせてもらうとしよう。前置きは無しだ。貴殿は、伝聞とはちがって、ずいぶん短気な男らしいからな」
「まさか、その話が天下のため、というものではないでしょうな」
孔明は欄干を背もたれにして、山風に髪をなぶらせて陳長文を見た。
わずかな仕草の差も見逃してはならない。
この男の、魏の意図がどこにあるのか見極めなければ。
「時間がないので、よく聞きたまえ。我らは蜀との平和的な統合を目指しているのだ。我らはあまりに長いあいだ、互いに互いの苦しみを増すことに時間も人も費やしてきたとおもわぬか。
民は疲弊し、大地は荒れ果てておる。そのことに、曹公も深く憂いておられる。それは、貴殿の主公も同じであろう。もし、天下万民の納得しうる形での統合が可能になったら、どうかね」
「もはやこれだけ事態が複雑化したなかで、だれもが納得する統合など有り得ぬ。われらは曹操の前には膝は屈せぬぞ」
「有り得ないなどと、なぜ決め付けるのかね」
言いつつ、陳長文は、それまで控えてきた子どもを手招き、側に呼び寄せた。
「この子をよく見たまえ」
言われるまま、孔明は少年を見た。
曹操の息子の一人だろうか。
孔明が目を向けると、その少年は、孔明と陳長文の会話は聞こえていただろうに、人懐っこい笑みを浮かべた。

孔明は、まさか、とその顔を凝視した。
その少年は、育ち盛りであったから、そのうち手足も伸びるであろうとおもわれる。
もし手足が長く伸びきって、顔に男らしさが宿ってきたら…あの特徴的な耳は似なかったけれども、きっと、そっくりになるのではないか。

「劉左将軍の長子であられる。御名は括と申される」
「長子?」
「左様。かつて劉左将軍が袁紹に身を寄せていた際に、寵愛した女人が産み落とされた子である。
曹公は、天下の乱れに憂いたためと、この括さまの明敏かつ稀な大器に感動されて、ついに、この劉姓たる括さまに、漢王朝の帝位についていただくことをご決心なされたのだ。
そこで、貴殿らには、括さまが帝位におつきあそばされる際には、すみやかにその臣となり、洛陽に来朝いただきたい」

あまりの話に、孔明は呆然とした。
同時に、陳長文が嘘をついていることを確信した。
これだけの大きな話を、陳長文ひとりの一存で動かせるはずがない。
曹操が、おのれの築き上げてきたものを、簡単に他人に譲るはずがないのだ。
まして、これほどの天下の乱れを、ある意味だれよりも嫌った曹操という男が、その原因をつくった漢王朝を利用こそすれ、いまさら敬う真似をするはずがない。
曹操も本心のところでは、おもっているはずだ。
いまの状況で、天下はひとつになれはしない、と。

「なぜわたしにこの話をするのです? 正式な使者を立て、まずは劉左将軍にお話をするのが筋というものでしょう」
「劉左将軍にお話をする前に、貴殿にどうしても話をする必要があったからだ」
陳長文は、またも少年を促した。
すると、劉備の長子という少年は、ふところより、何かを取り出し、孔明に向けて差し出した。
外から差し込む光が、少年の手に持つものを鈍く光らせる。
風が吹き、それについた小さな鈴が、揺れて、ちりん、と鳴った。
銀の櫛であった。
「劉括さまのご母堂は、新野において、貴殿によって処刑された」
孔明は、銀の櫛を凝視したまま、陳長文の声を聞いていた。

軍師になったばかりのときに、刺客に命を狙われたことがある。
その刺客こそが、劉括の母というのか。
孔明は劉括の表情を読もうとしたが、おのれの母の仇である孔明をみるまなざしには、なんの表情も浮かんでいない。
孔明は、自分に杯を差し出してきた際の、少年の様子をおもい出していた。
劉禅より年上のはずなのに、たどたどしい口調、ぎこちない仕草。
そうして、あまりに状況を把握していない、この朗らかさ。
ぞっと孔明の背筋に戦慄が走った。
明敏が聞いて呆れる。
この少年は、だれかの助けがない限り、ふつうの生活もおぼつかない者だ。
周囲のことがなにもわからないことをいいことに、利用しようとするその性根が恐ろしい。

孔明は少年に同情したが、不意に少年は孔明に言った。
「余は貴殿を許さぬ」
しかし、そのまなざしには憎しみも嫌悪もない。
ただ、諸葛孔明にはこう言えと、教えられているだけなのだろう。
そうして孔明は、さきほどから陳長文が、くどいほどに『時間がない』と言っている理由について、理解した。
時間がないのは、かれらに時間がないのではなく、孔明に時間がないのだ。
「我らは、劉括さまを主君と仰ぐならば、蜀の臣のこれまでの行状をすべて許す。だが、未来の帝の母を処刑した貴殿だけは、このままにしておくわけにはいかぬ。
しかし、貴殿の名声と、劉左将軍に見せた忠節に鑑み、罪人のごとく引っ立てて、処刑することはせぬ。その代わり、貴殿に死を選ばせてやろう」
そして、後ろに控えていた馬光年が差し出した盆の上には、三つのものが載っていた。
白絹の糸束、短剣、鴆毒であろう液体の入った瓶。
こみ上げてくる怒りを抑えつつ、孔明は言った。
「慈悲深いことよ。どれでも好きな方法を選べ、というのかな」
「貴殿には今日一日の猶予を差し上げよう。もし決心がつかないというのであれば、今宵、日が落ちたあと、貴殿は我が手にて処刑する。
お逃げになろうとはかんがえますな。呉の細作どもは、みんな国へもどっていきましたので、このあたりには我らしかおりませぬ」
陳長文は馬光年より盆を受け取ると、小さな卓に載せて、それから淡々と言う。
「心残りはさぞあろうが、これも運命とあきらめられるがよい。書をしたためることは許すゆえ、いまのうちに遺言でも書いておくのだな。
自害の決意がついたなら、わが部下が表に控えておるゆえ、言うがよい。最後に食べたいものがあれば、それもできうる限り用意させよう」
孔明はそれには返事をせず、陳長文をきつくにらみつけた。
だが陳長文は動じず、さも自分は悪くない、とでも言いたげな顔をして、部屋から去っていった。





だれもいなくなるや、孔明は盆を掴み、壁におもい切り、三つの道具を叩きつけた。
壁に、毒のつくった汚いしみが広がっていく。
孔明は、はげしい怒りに捕らわれていた。
魏に対してもそうであったし、やすやすと、その手に落ちた自分が許せなかった。
そうして、欄干から太陽を見上げる。
まだ日が落ちるまでには、時間がある。
かんがえるのだ。
ここから脱出する方法を。

つづく……

(サイト「はさみの世界」 初掲載・2005/05/19)


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