陳到の娘、銀輪はがっかりしていた。
それというのも、成都で一大旋風を巻き起こした『想い人に贈ると心が届く』という触れ込みの玻璃細工をつくる工房、これが、あまりの注文の多さに、職人たちが悲鳴をあげて、工房を仕切る親方が眠っているあいだに、集団で脱走してしまったというのである。
料金が前払いであったために、品物を受け取っていない若者は大騒ぎ。
暴動になるところを、左将軍府が動いて、なんとかことをおさめたのであった。
妹の頂華は、いったい、いかなる手段を用いたものか、陳到がいつも警戒態勢をひいて監督しているにもかかわらず、複数の男子より、工房の玻璃細工を受け取り、妹たちに自慢している。
しかし、頂華はそのだれにも心を与えないようであるから、やはり触れ込みは、しょせん売るためのもので、実際には、なんの効き目もなかったようである。
とはいえ、贈りものをもらえる、というところに喜びがあるのであって、やはり、欲しかったなあ、と銀輪はため息をつく。
もちろん、この場合、頂華のように、だれからでもいい、という話ではない。
結局、なーんとも思われてないわけだ。分かっちゃいたけれど。
母上の病気平癒のために貰った像があるけど、形がやっぱり気持ち悪いから、部屋の隅っこの、あんまり目立たないところに置いてある。
亀なんか。亀なんか。(注・玄武です)。
と、そこへ、家令が、お客さんですよと銀輪を呼びに来た。
この家令は、銀輪のことを可愛がっており、こっそりとあるじである陳到に内緒で、なにかと便宜をはかってくれているのである。
家令が、その名を告げずに、ただ「お客さん」と言った場合、相手は、ただ一人なのだ。
もしかして、玻璃細工に替わるものを持ってきてくれたのかな?
わくわくしながら門扉へいくと、孔明の主簿で、銀輪とは一回り歳の離れている青年、胡偉度が、なにやらむずかしい顔をして立っていた。
というより、偉度は、いつもむずかしい顔をしている。
「どうしたの?」
銀輪がたずねると、偉度は、仏頂面のまま、ほれ、と絹にくるまれた『なにか』を取り出してみせる。
とたん、銀輪の胸はときめいた。
たまには期待をしてみるものである!
「みていい?」
偉度は、仏頂面のまま、こくりとうなずいた。照れているにちがいない。
そうして銀輪は、絹の布をひらいてみたのであるが…
「ぎゃあ!」
「やっぱり、ぎゃあ、っていうよな」
絹の布をひらいてみてみれば、そこにあったのは、見まごう事なき、不気味な色合いをもつ、蛾の玻璃細工であった。
「なにこれ? ひどい、偉度さん、嫌がらせ? 銀輪が嫌いなら、ちゃんとそう言ってくれればいいのに!」
涙目になって銀輪が抗議すると、偉度はため息をついて、その手から、見れば見るほど気持ち悪い、そしてなにやら形状も歪んでいる蛾の玻璃細工(にしか見えないもの)を取り返した。
「嫌がらせではないのだよ。まーったく、どこで聞きつけたのやら、あの地獄耳軍師。おまえが玻璃細工を欲しがっていると聞いてだな、ご自分でつくられた玻璃細工工房の記念すべき第一作を、ぜひにおまえの手で持って行けとわたしに託されて、そしてわたしはここにいる。で、おまえは『ぎゃあ!』と言った、と」
「あのう、わけが、いま一歩という感じでよくわからないんだけれど、つまりその蛾、軍師が作ったの?」
「あのひと、実はやたらと派手な器用貧乏なんじゃないかと思えてきたよ。大秦国の職人が集団脱走したのは知っているな?
だが、脱走する前に、軍師は、あの工房で作られた、白い龍の玻璃細工を手に入れられて」
「え? ちょっと待って。軍師が、だれかからそれを貰ったの? それって、『想い人に贈ると心が届く』っていう玻璃細工でしょう? あげたのを突っ返されたんじゃなくって、貰ったものなの?」
銀輪の鋭い質問に、偉度は手でそれを制した。
「そこは突っ込むな。さらりと聞き流してくれ。それがおまえの未来のためでもある」
「なんだかわかんないけど、じゃあ、流すね。で?」
「蜀錦とあわせて、蜀玻璃というものを国の目玉商品に出来ないかと言い出して、自費でもって、工房を作ったのだ。
しかもどこで文献を手に入れたのやら、職人と一緒になって、文献をもとに、玻璃細工を作り出したのだよ。
けれど、玉石を砕いて混ぜる方法が、どうもうまくいかないようで、こんなものができてしまった、と。
本人に会ったら、ちゃんと礼だけは言ってくれないか。あの人たちにとっては、これは『胡蝶』なのだから」
「どう見ても蛾だけど」
「わたしもそう思うのだが、なにせ、徹夜作業で必死に作り上げた実際の姿を見ていると、『それは蛾にしかみえません』のひとことが、どうしても出てこなくてなー。
困ったなー。壊すのも気の毒だし、かといって、これ、変に本物っぽくて、嫌なのだよ」
「ねえ、もしかして、いまもその工房で、『胡蝶』が作られているの?」
「いや、いまや工房は山海経の世界だ。見たことも無い形状の『生物』が目白押し。怖いものみたさで、来て見るか?」
「悪夢を見そうだから、よす」
「だよなあ。さすがの趙将軍も、入り口で固まっていたからな」
「なおさら行かない。でも、ありがとう、偉度さん」
「なんだ、唐突に」
「だって、ちゃんと贈り物をくれたんだもの。『蛾』だけど、そうしてくれただけでうれしい」
「妙な期待をするなよ、軍師の命令だから来たのだ」
「それでもうれしい。だから、ありがとう」
にこにこと、うれしそうにわらう銀輪と、どうみても『蛾』な『胡蝶』を手に、苦笑いと照れ笑いの中間の表情を浮かべる偉度であった。
そして、あたらしい工房で出来あがった玻璃細工であるが、『縁を切りたい相手に贈ると心が届く』というおそるべき呪具として大流行し、やはり琅邪出身の孔明は、怪しい術を得ている謎の人物だと、変に評判が高まったのであった。
もちろん、これによって国庫が潤ったという話は、寡聞にして聞かない。
おしまい!
御読了ありがとうございました♪
それというのも、成都で一大旋風を巻き起こした『想い人に贈ると心が届く』という触れ込みの玻璃細工をつくる工房、これが、あまりの注文の多さに、職人たちが悲鳴をあげて、工房を仕切る親方が眠っているあいだに、集団で脱走してしまったというのである。
料金が前払いであったために、品物を受け取っていない若者は大騒ぎ。
暴動になるところを、左将軍府が動いて、なんとかことをおさめたのであった。
妹の頂華は、いったい、いかなる手段を用いたものか、陳到がいつも警戒態勢をひいて監督しているにもかかわらず、複数の男子より、工房の玻璃細工を受け取り、妹たちに自慢している。
しかし、頂華はそのだれにも心を与えないようであるから、やはり触れ込みは、しょせん売るためのもので、実際には、なんの効き目もなかったようである。
とはいえ、贈りものをもらえる、というところに喜びがあるのであって、やはり、欲しかったなあ、と銀輪はため息をつく。
もちろん、この場合、頂華のように、だれからでもいい、という話ではない。
結局、なーんとも思われてないわけだ。分かっちゃいたけれど。
母上の病気平癒のために貰った像があるけど、形がやっぱり気持ち悪いから、部屋の隅っこの、あんまり目立たないところに置いてある。
亀なんか。亀なんか。(注・玄武です)。
と、そこへ、家令が、お客さんですよと銀輪を呼びに来た。
この家令は、銀輪のことを可愛がっており、こっそりとあるじである陳到に内緒で、なにかと便宜をはかってくれているのである。
家令が、その名を告げずに、ただ「お客さん」と言った場合、相手は、ただ一人なのだ。
もしかして、玻璃細工に替わるものを持ってきてくれたのかな?
わくわくしながら門扉へいくと、孔明の主簿で、銀輪とは一回り歳の離れている青年、胡偉度が、なにやらむずかしい顔をして立っていた。
というより、偉度は、いつもむずかしい顔をしている。
「どうしたの?」
銀輪がたずねると、偉度は、仏頂面のまま、ほれ、と絹にくるまれた『なにか』を取り出してみせる。
とたん、銀輪の胸はときめいた。
たまには期待をしてみるものである!
「みていい?」
偉度は、仏頂面のまま、こくりとうなずいた。照れているにちがいない。
そうして銀輪は、絹の布をひらいてみたのであるが…
「ぎゃあ!」
「やっぱり、ぎゃあ、っていうよな」
絹の布をひらいてみてみれば、そこにあったのは、見まごう事なき、不気味な色合いをもつ、蛾の玻璃細工であった。
「なにこれ? ひどい、偉度さん、嫌がらせ? 銀輪が嫌いなら、ちゃんとそう言ってくれればいいのに!」
涙目になって銀輪が抗議すると、偉度はため息をついて、その手から、見れば見るほど気持ち悪い、そしてなにやら形状も歪んでいる蛾の玻璃細工(にしか見えないもの)を取り返した。
「嫌がらせではないのだよ。まーったく、どこで聞きつけたのやら、あの地獄耳軍師。おまえが玻璃細工を欲しがっていると聞いてだな、ご自分でつくられた玻璃細工工房の記念すべき第一作を、ぜひにおまえの手で持って行けとわたしに託されて、そしてわたしはここにいる。で、おまえは『ぎゃあ!』と言った、と」
「あのう、わけが、いま一歩という感じでよくわからないんだけれど、つまりその蛾、軍師が作ったの?」
「あのひと、実はやたらと派手な器用貧乏なんじゃないかと思えてきたよ。大秦国の職人が集団脱走したのは知っているな?
だが、脱走する前に、軍師は、あの工房で作られた、白い龍の玻璃細工を手に入れられて」
「え? ちょっと待って。軍師が、だれかからそれを貰ったの? それって、『想い人に贈ると心が届く』っていう玻璃細工でしょう? あげたのを突っ返されたんじゃなくって、貰ったものなの?」
銀輪の鋭い質問に、偉度は手でそれを制した。
「そこは突っ込むな。さらりと聞き流してくれ。それがおまえの未来のためでもある」
「なんだかわかんないけど、じゃあ、流すね。で?」
「蜀錦とあわせて、蜀玻璃というものを国の目玉商品に出来ないかと言い出して、自費でもって、工房を作ったのだ。
しかもどこで文献を手に入れたのやら、職人と一緒になって、文献をもとに、玻璃細工を作り出したのだよ。
けれど、玉石を砕いて混ぜる方法が、どうもうまくいかないようで、こんなものができてしまった、と。
本人に会ったら、ちゃんと礼だけは言ってくれないか。あの人たちにとっては、これは『胡蝶』なのだから」
「どう見ても蛾だけど」
「わたしもそう思うのだが、なにせ、徹夜作業で必死に作り上げた実際の姿を見ていると、『それは蛾にしかみえません』のひとことが、どうしても出てこなくてなー。
困ったなー。壊すのも気の毒だし、かといって、これ、変に本物っぽくて、嫌なのだよ」
「ねえ、もしかして、いまもその工房で、『胡蝶』が作られているの?」
「いや、いまや工房は山海経の世界だ。見たことも無い形状の『生物』が目白押し。怖いものみたさで、来て見るか?」
「悪夢を見そうだから、よす」
「だよなあ。さすがの趙将軍も、入り口で固まっていたからな」
「なおさら行かない。でも、ありがとう、偉度さん」
「なんだ、唐突に」
「だって、ちゃんと贈り物をくれたんだもの。『蛾』だけど、そうしてくれただけでうれしい」
「妙な期待をするなよ、軍師の命令だから来たのだ」
「それでもうれしい。だから、ありがとう」
にこにこと、うれしそうにわらう銀輪と、どうみても『蛾』な『胡蝶』を手に、苦笑いと照れ笑いの中間の表情を浮かべる偉度であった。
そして、あたらしい工房で出来あがった玻璃細工であるが、『縁を切りたい相手に贈ると心が届く』というおそるべき呪具として大流行し、やはり琅邪出身の孔明は、怪しい術を得ている謎の人物だと、変に評判が高まったのであった。
もちろん、これによって国庫が潤ったという話は、寡聞にして聞かない。
おしまい!
御読了ありがとうございました♪