はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

青い玻璃の子馬 おまけ

2019年05月15日 09時33分37秒 | 青い玻璃の子馬
陳到の娘、銀輪はがっかりしていた。
それというのも、成都で一大旋風を巻き起こした『想い人に贈ると心が届く』という触れ込みの玻璃細工をつくる工房、これが、あまりの注文の多さに、職人たちが悲鳴をあげて、工房を仕切る親方が眠っているあいだに、集団で脱走してしまったというのである。
料金が前払いであったために、品物を受け取っていない若者は大騒ぎ。
暴動になるところを、左将軍府が動いて、なんとかことをおさめたのであった。

妹の頂華は、いったい、いかなる手段を用いたものか、陳到がいつも警戒態勢をひいて監督しているにもかかわらず、複数の男子より、工房の玻璃細工を受け取り、妹たちに自慢している。
しかし、頂華はそのだれにも心を与えないようであるから、やはり触れ込みは、しょせん売るためのもので、実際には、なんの効き目もなかったようである。

とはいえ、贈りものをもらえる、というところに喜びがあるのであって、やはり、欲しかったなあ、と銀輪はため息をつく。
もちろん、この場合、頂華のように、だれからでもいい、という話ではない。
結局、なーんとも思われてないわけだ。分かっちゃいたけれど。
母上の病気平癒のために貰った像があるけど、形がやっぱり気持ち悪いから、部屋の隅っこの、あんまり目立たないところに置いてある。
亀なんか。亀なんか。(注・玄武です)。

と、そこへ、家令が、お客さんですよと銀輪を呼びに来た。
この家令は、銀輪のことを可愛がっており、こっそりとあるじである陳到に内緒で、なにかと便宜をはかってくれているのである。
家令が、その名を告げずに、ただ「お客さん」と言った場合、相手は、ただ一人なのだ。

もしかして、玻璃細工に替わるものを持ってきてくれたのかな?

わくわくしながら門扉へいくと、孔明の主簿で、銀輪とは一回り歳の離れている青年、胡偉度が、なにやらむずかしい顔をして立っていた。
というより、偉度は、いつもむずかしい顔をしている。
「どうしたの?」
銀輪がたずねると、偉度は、仏頂面のまま、ほれ、と絹にくるまれた『なにか』を取り出してみせる。
とたん、銀輪の胸はときめいた。
たまには期待をしてみるものである!
「みていい?」
偉度は、仏頂面のまま、こくりとうなずいた。照れているにちがいない。
そうして銀輪は、絹の布をひらいてみたのであるが…
「ぎゃあ!」
「やっぱり、ぎゃあ、っていうよな」
絹の布をひらいてみてみれば、そこにあったのは、見まごう事なき、不気味な色合いをもつ、蛾の玻璃細工であった。
「なにこれ? ひどい、偉度さん、嫌がらせ? 銀輪が嫌いなら、ちゃんとそう言ってくれればいいのに!」
涙目になって銀輪が抗議すると、偉度はため息をついて、その手から、見れば見るほど気持ち悪い、そしてなにやら形状も歪んでいる蛾の玻璃細工(にしか見えないもの)を取り返した。
「嫌がらせではないのだよ。まーったく、どこで聞きつけたのやら、あの地獄耳軍師。おまえが玻璃細工を欲しがっていると聞いてだな、ご自分でつくられた玻璃細工工房の記念すべき第一作を、ぜひにおまえの手で持って行けとわたしに託されて、そしてわたしはここにいる。で、おまえは『ぎゃあ!』と言った、と」
「あのう、わけが、いま一歩という感じでよくわからないんだけれど、つまりその蛾、軍師が作ったの?」
「あのひと、実はやたらと派手な器用貧乏なんじゃないかと思えてきたよ。大秦国の職人が集団脱走したのは知っているな? 
だが、脱走する前に、軍師は、あの工房で作られた、白い龍の玻璃細工を手に入れられて」
「え? ちょっと待って。軍師が、だれかからそれを貰ったの? それって、『想い人に贈ると心が届く』っていう玻璃細工でしょう? あげたのを突っ返されたんじゃなくって、貰ったものなの?」
銀輪の鋭い質問に、偉度は手でそれを制した。
「そこは突っ込むな。さらりと聞き流してくれ。それがおまえの未来のためでもある」
「なんだかわかんないけど、じゃあ、流すね。で?」
「蜀錦とあわせて、蜀玻璃というものを国の目玉商品に出来ないかと言い出して、自費でもって、工房を作ったのだ。
しかもどこで文献を手に入れたのやら、職人と一緒になって、文献をもとに、玻璃細工を作り出したのだよ。
けれど、玉石を砕いて混ぜる方法が、どうもうまくいかないようで、こんなものができてしまった、と。
本人に会ったら、ちゃんと礼だけは言ってくれないか。あの人たちにとっては、これは『胡蝶』なのだから」
「どう見ても蛾だけど」
「わたしもそう思うのだが、なにせ、徹夜作業で必死に作り上げた実際の姿を見ていると、『それは蛾にしかみえません』のひとことが、どうしても出てこなくてなー。
困ったなー。壊すのも気の毒だし、かといって、これ、変に本物っぽくて、嫌なのだよ」
「ねえ、もしかして、いまもその工房で、『胡蝶』が作られているの?」
「いや、いまや工房は山海経の世界だ。見たことも無い形状の『生物』が目白押し。怖いものみたさで、来て見るか?」
「悪夢を見そうだから、よす」
「だよなあ。さすがの趙将軍も、入り口で固まっていたからな」
「なおさら行かない。でも、ありがとう、偉度さん」
「なんだ、唐突に」
「だって、ちゃんと贈り物をくれたんだもの。『蛾』だけど、そうしてくれただけでうれしい」
「妙な期待をするなよ、軍師の命令だから来たのだ」
「それでもうれしい。だから、ありがとう」
にこにこと、うれしそうにわらう銀輪と、どうみても『蛾』な『胡蝶』を手に、苦笑いと照れ笑いの中間の表情を浮かべる偉度であった。


そして、あたらしい工房で出来あがった玻璃細工であるが、『縁を切りたい相手に贈ると心が届く』というおそるべき呪具として大流行し、やはり琅邪出身の孔明は、怪しい術を得ている謎の人物だと、変に評判が高まったのであった。
もちろん、これによって国庫が潤ったという話は、寡聞にして聞かない。


おしまい!

御読了ありがとうございました♪

青い玻璃の子馬 その10

2019年05月11日 07時36分50秒 | 青い玻璃の子馬


成都から任地たる臨沮に帰る前日、馬超は思い立ち、もう一度だけ、あの山に登ってみようと思った。
任地に戻っても、いまの心を忘れないように、あの山で終わりにしないために、しっかりと、あの風景を目におさめておきたかった。
そうして、久しぶりに見る断崖絶壁と、屏風のようにつらなる切り立った崖のおもしろさは、やはり変わらぬものであった。
こうして、この大地は、この身が朽ちたあとも、変わらず、ここにこうしてあるのだろう。
馬超は、けじめや逃避としての『死』ではなく、人の生活のその果てにある『死』というものを、意識するようになっていた。
そして、その日が来たなら、きっと穏やかに受け入れられるであろう自分にも、気がついていた。

目を閉じると、風の音が聞こえる。
轟々とうなり、吹きつけてくる風の音。
いまやなつかしい光景となった、草原を渡る風の音に、やはりよく似ている。
けれど、わたしはもう、おまえたちの元には戻れないのだよと、馬超は心の中でつぶやいた。
あの青い玻璃の子馬と同じように、わたしの足は折れてしまった。
おまえたちとは一緒に走ることは、もうできないのだ。許してくれ。

そうして、目を開く馬超の耳に、さくさくと、青草を踏み分けてやってくる足音が聞こえてきた。
まさか。
思わぬことに振り返れば、やはり、杖を頼りにして山をのぼってきた、青翠であった。
馬超が沈黙していると、青翠は、気配でそれと知れたのであろうか、足を止めて、たずねてきた。
「そこに、どなたかいらっしゃいますか」
馬超は答えなかった。
青翠は、変わらず、地味で清楚な衣裳に身をつつんでいた。
安堵したことに、ずいぶんと血色がよくなり、すこし太ったようである。
「いらっしゃいますね。お返事はけっこうです。いつか、かならずまたお会いできると思って、お待ちしておりました。ようやくお会いできた」
青翠は、そうして笑顔を向けるのであるが、しかし、馬超がいる位置とは、すこしばかりずれている。
それでも、その笑顔は、馬超が女人の中にみるもののなかでも、美しいと手放しで褒めちぎることのできる、晴れ晴れとした、そして優しいものであった。

「あれから、どなたか知りませんが、物好きな方が、わたくしの家の借財を、すべて肩代わりしてくださいました。そして、高大人が、二度とわたくしに手を出せないようにまでしてくださった。
わたくし、もう自由です。いただいた自由を、どうやって使おうか、毎日、けんめいに考えておりますの。それがとても楽しいのです」
それはよかったと、馬超は心の中で返事をした。
女の身、まして盲目となれば、自由と言っても、制限は多かろう。
それでも、父の死をおのれのものとしてしっかり受け止め、屈辱にも耐え、一度は死の淵をみずから覗きこんだ娘である。この娘であれば、きっとおのれの力で、おのれの幸せを掴み取ることができるだろう。
「ありがとうございました。わたくし、あなたに頂いたこの命を、もう二度と、けっして、粗末に投げ出そうとは思いません。
あなたは、わたくしにとって、二番目の父です。生きます。どんなことがあっても、もう、逃げたりいたしません」
青翠はそういうと、深々と頭を下げた。
「さようなら、名前のわからない父上さま」
そう言って、青翠は、来た道を、ふたたびひとりで、戻って行った。

あの娘も、二度と、この山には戻ってこないだろう。
その背中に、馬超も言った。
さようなら、と。





山を下りると、どこかで見たような安車が停まっている。
思わず馬超は口元に笑みをはき、そして、おっかなびっくりと身を縮ませている御者に言った。
「おい、おまえだけ、先に帰れ」
「へ?」
目をぱちくりとさせている御者をよそに、馬超は安車の幌をかきわけると、中にいた習氏に言った。
「そこは狭かろう。出てくるがいい」
安車には、習氏だけしか乗っていなかった。
ためらう習氏に、馬超は手を差し伸べる。
すると、ようやく習氏は心を決めたようにして、外に出てきた。
無言のまま、馬超がなにを考えているのかと、怪訝そうにしている習氏の手を、馬超は、なかば強引につかむと、御者に言った。
「おい、言っただろう。先に帰ってよし。わたしたちは、あとから帰る」
御者がうろたえて習氏を見る。
すると、習氏も、それでよい、というふうにうなずいて見せた。
そこで、御者はやっと納得して、空の安車を走らせ、屋敷に戻っていく。

その後塵を見つめながら、習氏は呆れたように言った。
「なにを考えてらっしゃるのです」
「なに、歩いて帰るのもよかろう。思えば、わたしはこうして、おまえと一緒に歩いたことがない」
「馬はどうなさいますの」
「預けている家の小僧に小遣いをやれば、うちまで届けてくれるであろう。このわたしの馬を盗もうなどという者は、成都にはおるまいし、大事無い」
「屋敷まで、だいぶありますわ」
「かまわぬ。日が沈むまでにつけばよい」
「このように、いい年をして、手をつないで歩いていたら、だれに見咎められますことやら」
「知ったことか。このわたしに意見できるものなど、この世におらぬわ。おまえくらいなものだ」
「呆れた方」
「前から知っていただろう」
習氏が吹き出したので、馬超も、それにつられて、声をたてて笑う。
笑いながら、馬超は習氏の手を取ったまま、ゆっくりと、足を進めた。

二度と、振りかえることはない。
こうして生きていく。
今度こそ、おのれと、おのれを取り巻くものと、しっかり向き合いながら。


おしまい

おまけにつづきます。

青い玻璃の子馬 その9

2019年05月08日 10時00分41秒 | 青い玻璃の子馬
自邸に帰ると、習氏は、やはり、まったく変わった素振りを見せず、馬超を出迎えた。
馬超は、そのまま屋敷に入ることはせずに、安車のある車庫へと向かい、その車輪をたしかめた。
車輪には、まだ湿った土が残って、ついていた。
車庫には、安車の御者もいて、突然の馬超の登場におどろいて、隅っこでかしこまっている。

「おまえは、お下がり」
習氏の声がした。
御者は、かしこまったまま、緊迫した空気から逃げるようにして、車庫を出て行く。
そうして、二人だけとなった。
人払いでもしたのか、ひどく静かだ。
人の気配がまるでしない。
振りかえって真正面から見た習氏の顔は、怒っているのか、それとも単にこわばっているのか、よくわからない表情を浮かべていた。
習氏は黙って、馬超を真っ直ぐ見つめている。

そうだ、この女は、いつでもわたしを真っ直ぐ見つめてくる。
一度たりとも、目を逸らしたことがない。
婚儀の日からずっとそうだった。
董氏は、いつも横に並んで一緒に歩いていける、友のような女だった。
だが、この習氏は、つねに真正面から自分を見つめてくる。
なにひとつ見逃さぬように。
それは、なぜだ? 
関心がない者を、そんなに見る必要はないはずだ。
管理するためだろうか。
であれば、ただ、おかしな振る舞いをしないかどうか、ただ家のなかで見張っていればよいだけの話である。
すでに、ほかに何人もの妾を持っている。
それでも、習氏は、なにひとつ不平を口にしなかった。
だが、それでもなお、玻璃細工の行方を気にしていたのは、なぜだ。
安車でもって、ひそかにおのれのあとを尾行していたのは、なんのためだ。
なにも見ていなかったのは、どちらだ。
わたしは、この女を、どれだけ知っていたのだろう。

「いくらご入用なのです。すぐに用意させましょう」
習氏は淡々と、表情ひとつ、変えずに言った。
さすがに馬超はおどろいた。
趙雲が使者を先によこしていたのか? 
いいや、馬超は、ここまで、自慢の愛馬で飛ばしてきたのだ。
趙雲の馬道楽はしっているが、この馬より早く走れる馬など、成都には、いないと断言できる。
「なぜわかる」
「郎君の顔を見ればわかります。あの方をお助けしたいのでしょう? 借財を肩代わりするというのでしょう? いくら必要なのですか」
馬超は、淡々と言葉をつむぐ習氏の勢いに押されるようなかたちで、答えた。
「わかりました。すぐに用意させ、証文を破らせます。ただ」
「ただ?」
「お答えくださいまし。あの方をお助けしたあと、あなたは、あの方をどうなさるおつもりですの?」

趙雲が言った、最低野郎の話が頭に浮かんだ。
同時に、こちらをまっすぐに、射るように見つめてくる習氏の顔が目に入ってくる。
思わず、目を逸らしかけた馬超であるが、自制した。
目を逸らしてはならないのだ。
これ以上は、目を背けてはいけない。
「あの娘をどうするつもりもない。あの娘のこれからは、あの娘と、あの娘の家族が決めることだ」
「側室に迎えるおつもりではないのですか」
「それはせぬ」
あの娘は、さようならと言った。
感謝されたくて、そうするのではない。
助けられなかった女の代わりに、こちらがわがままを通して、助けようとしているだけだ。
それだけの話だ。

習氏が安堵するかと思った馬超であるが、しかし、そうではなかった。
おどろいたことに、習氏は、じっと組んだ腕を震わせて、涙を必死で堪えている。
嬉し泣きを堪えているのではない。
その目は、はっきりと、馬超を非難していた。
言葉をなくしていると、習氏の目から、涙が、ひとすじ、そしてまたひとすじとこぼれはじめた。
思わず手を伸ばすと、習氏ははじめて、馬超の手をはげしく振り払った。
「触らないでくださいまし!」
それまでに聞いたことの無いような、きつい口調、そして声であった。
感情の起伏の乏しい女だとばかり思っていた習氏のなかにある、思わぬ激情に触れて、馬超はさらに、なんといってよいかわからなくなる。
と、同時に、そこまで深く傷つけたのだと知った。

昨日の、あの心無い言葉を口にしたことを、いまこそ心の底から後悔した。
おのれの過去の悲しみにどっぷりと浸かり、まるで関係のない女を傷つけ、悲しませ、自分ばかりを憐れんでいた。

「どなたでもよいのでしょう! わたくしでなくても!」
習氏は感情を余さず吐き出すような声で言った。
「たまたま、郎君を援助できる豪族に娘がいた。だから、あなたはわたくしを娶った。ほかの娘でもよかったのです。
わたくしのことなんて、なんにも知らないくせに!」
「すまぬ」
「なにをすまないとおっしゃるの? ご自分が悲惨な運命を辿ってこられたから、特別なのだとでもおっしゃりたいの? だから、わたくしたちには黙って我慢しろとおっしゃりたいの? 
わたくしたちとは、新しい生活を築くことも出来ぬとおっしゃりたいのですか!」

馬超は黙った。
意識はしていなかったにしろ、そうしろと、いままで無意識のうちに、無情な要求を付きつけてきた。
この女は、それをずっと、今日まで我慢してきたのだ。

「あの崖から飛び降りたいのは、わたくしでございます」
思わぬことばに、馬超は仰天する。
「なにを馬鹿なことを!」
「いいえ! あなたは、だれとでもいいと、おっしゃったではありませんか! わたしが死んだなら、また適当にお相手を選ばれればよいのです! 
そうして、また同じことを言えばよいのです! だれでもよかった、と!」
踵を返し、本邸にもどろうとする習氏を止めようと、馬超は手を伸ばすが、習氏は、はげしくそれを拒んだ。
「ご安心くださいませ。娘が成人するまでは、わたくしは死にはいたしませぬ。
ただ、それだけのためにわたくしは生きるのです。決して、あなたのためには、生きませぬ!」
そうして、習氏は、屋敷に駆け出していった。

馬超には、それを追いかけることもできなかった。
ふと思い立ち、懐のなかを見た。
見れば、絹にくるまれていた青い玻璃の子馬は、おそらく青翠を助ける弾みでそうなってしまったのだろう。
足が、無惨にも折れて、取れてしまっていた。
これではもう、走れまい。





味気ない日々が流れていった。
淡々とした日々だった。
あの朝以来、馬超は息子の秋の夢を見ることもなくなったが、同時に、娘が笑顔で駆け寄ってくることも、なくなった。
習氏は淡々と、馬超の身のまわりをする。
まるで何もなかったように。
必要とあればことばを交わすし、雑談にも応じる。
しかし、それ以上でもなければ、それ以下でもない。

平和で、空疎で、閉ざされた場所。
馬超はもう、この閉塞感を、習氏のせいにすることはなかった。
すべては自分のせいだったと気付いたいまとなっては、だれを恨む気にもならなかった。
あの青い玻璃の子馬と同じように、自分で自分の未来を、その手で叩き壊したのだ。
目をつぶったまま、なにも見ようとせずに。
日々はただ、過ぎていく。

馬超は、青翠がどうなったのか、その後を知らないまま過ごしていた。
習氏は、言われたとおりにする女である。
きっと、高大人からは解放されただろう。
だが、その後、どうやって生きているものか、馬超は知らなかった。
いや、あえて知らないままでいた、というほうが正しいだろう。
知れば知ったで、気になってしまったであろうし、容姿はまるで似ていないまでも、青翠と董氏を重ねてしまっているのも、また事実なのである。
きっと、また青翠になにかあったとしたら、馬超は動いてしまう。
そうなれば、さらにまた、習氏を傷つけることとなる。

こうなってみて、はじめて、馬超は、自分の生涯で、おそらく初めて得た、秩序ただしい安息の日々を、そしてそれを作ってくれた習氏や娘を、どれだけ愛していたかを知った。
董氏が最愛の女であることには変わりはなかったし、秋のことを忘れることもなかった。
けれど、徐々に、二人は過去の中に消えていった。
忘れることはない。
けれど、無理にでも忘れなければならない二人であった。

成都で淡々と職務をこなしながら、馬超もまた、静かに日々をくりかえした。
時が過ぎていく。

つづく……

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青い玻璃の子馬 その8

2019年05月04日 09時47分56秒 | 青い玻璃の子馬
「おまえは強い娘だな」
意外な言葉に、泣きじゃくっていた娘は、泣きながらも、奇妙なものをさぐるようにして、目線を虚空におよがせる。
「生きることは、おまえにとって罰だというのなら、わたしもきっとそうなのだろう。戦いの中で、生き残ることができたのは、たった一人の従弟と、わたしだけだ。
父母も兄弟ももちろん、妻も子も、みんな死んだ。わたしは皆を捨てて逃げた。なぜ逃げたといえば、死ぬことが恐ろしかったからだ。
そうしていまもって、わたしはおまえのように、強い意志でもって、死のうとしたことはない」
昨日、崖に立った。
あれは、虚ろな心が、楽な方向へと、やはり『逃げよう』と仕向けたからにすぎないのだ。

ようやく、馬超はわかった気がした。
自分を鬱屈とさせていたもの、どこにあろうと、自分は場違いだという気持ちが拭えなかった理由が。
「わたしは、戦いを放棄した人間だ。奪われたからこそ戦った。だが、ますます失った。辛うじて残されたものだけを守るため、生きているのだと自分では思っていたが、そうではなかったようだ。
わたしは、いまもって、命を絶とうと思えない。あの日、妻子を捨てて逃げた日より、わたしは、なににも立ち向かわずに、流されるままの人間になったのだ。
それでいて、自分では戦っているつもりであったのだから、笑わせる。逃げつづけていたからこそ、何者にも立ち向かっていなかったのだ。
わたしは、この巴蜀に来て、なにも見ようとしていなかった。おまえのように、目が見えないわけでもないのに、やはり、決して明けない夜の中にいたのだよ」
語る馬超に、それまで、泣きつづけていた娘が、ゆっくりと体を起こした。
それを見て、馬超は言う。
「余計なお節介であったな。おまえは、わたしよりも、ずっと戦ったのだろう。それでどうしても耐えられないというのであれば、おまえが死を選ぶことを、わたしが止めるべきではなかったのだ。すくなくとも、わたしにはその資格はない」
「わたしに、死んでもよいとおっしゃるのですか」
「おまえがそう望むのならば」
すると、娘は、上半身だけを起こした姿勢のまま、ちいさく声をたてて笑った。
「止めてみたり、勧めてみたり、おかしな方。わたしが戦ったとおっしゃる。なぜです」
「耐えることも、また戦いだろう。ただ流されることをよしとした者には、生への執着がないかわりに、死も軽いものなので、あえてわざわざそこへ向かうことも考えない。生ける死者のようなものだ。もともと、心が死んだようになっている。
だから、わざわざ痛い思いをして、本物の死を選ぼうとしないのだ。いや、死そのものに鈍感になってしまうのだ。おまえはそうではない。生としっかり向き合ったからこそ、死に執着するのだ」
「そんな誉め言葉を、はじめて聞きました」
「耐え続けよなどということを、わたしは言えぬ。すまぬな、わたしは、ほんとうにどうしようもない」

誰一人救える力もないくせに、多くを巻き込んで戦った。
殺すことはたやすい。
しかし、生かすことは、とてもむずかしい。
この理屈も知らぬまま、ただただ、熱に浮かされたように、周囲に動かされ、自分もまた、たっぷりとうぬぼれて、戦いをつづけた。
たくさん殺した。
敵も、味方も。
そうしていま、ただ生きている。

これが一度でも英雄と呼ばれた者の、不様な末路なのだ。
情けないと思う。うんざりだとも。
しかし、等身大のおのれが、いまのこの姿なのだ。
馬超は、薄暗い森のなかに差し込む木漏れ日が投じる、おのれの影を、はっきりと見た。
いま、ようやく、自分の姿を真正面から見た気がした。

「あなたは、どなたなのですか」
「名乗らぬ。聞いて楽しい名前ではない。すまぬな、死んでよいと言っておきながら、手助けはできぬ。臆病者と笑ってくれてよい」
「いいえ、笑いません」
青翠は、涙の乾かぬ顔をして、手探りで地面をさぐりつつ、身を起こす。馬超が助けてやろうとすると、青翠は、首を横に振って、それを拒んだ。
「帰ります。今日はもう、死ぬ気は失せてしまいました」
「邪魔をして、すまなかったな」
馬超が、青翠が投げた杖をひろいあげ、渡してやり、そして心から謝罪すると、青翠は、涙にぬれたた顔のまま、かすかにほほ笑んだ。
「あなたも、無明の闇のなかにいらっしゃるのね」
そうだ、とは、馬超は答えなかった。
好んで闇のなかにいるのである。
おのれの悲劇を嘆くばかりで、ぼんやりと周囲を眺めまわすばかりで、なにも眼に入っていなかった。
この娘はちがう。
闇のなか、必死でもがき、苦しみ、それでも逃げられない運命に、絶望してしまっているのだ。
同じ闇でも、この娘は、ちゃんと見えない目で、おのれの運命を見すえている。
この娘の闇と、自分とでは、闇は闇でも、いる場所がちがうと、馬超は思った。

青翠は、見送りはいらないからと言って、来た道を、そのまま杖を頼りに帰ろうとする。
馬超は、踵をかえそうとする青翠を止めて、乱れに乱れた髪を直してやり、はだけた着物をもどしてやって、泥土を、人が見て不審に思わぬ程度に清めてやり、そしてやってきた道へと向かわせた。
青翠は、山を下りはじめたが、一度だけ振りかえると、言った。
「ありがとうございます。さようなら」


董氏に最後に会ったのは、馬岱であった。
あの女も同じことばを最後に残して、そして逝ったという。
さようなら、と。
父親が、その死を目前に、それでも必死に助けあげた娘。
その父親は、なにを思って、娘を必死で守ったのであろうか。
わたしは、息子を守ることはできなかった。
この娘は、生きねばならない。
いつまでも明けない夜のなかにいるなどと、嘆かせつづけてはいけない。
もう一度だけ、自分にまだ力が残っているのなら、なりふり構わず、動いてみてもよいのではないか?





馬超は、山を下りると、その足で、まっすぐ趙雲の屋敷に向かった。
趙雲よりも金持ちの知り合いは何名か思いついたが、事情を説明するのが面倒だった。
趙雲ならば、ある程度の事情は、すでに知っている。
正直にずばり言ってしまえば、まったく気心の知れていない相手であったが、この際、あれやこれやと気にしている場合ではなかった。
信頼という点においては、だれよりまさっているというところが、なんとも心強い点ではある。

馬超は、趙雲があらわれるなり、まるで家臣が主君にするように、深々と頭を下げ、言った。
「頼む、なにも聞かずに、わたしに金を貸してくれ!」
こんなに真摯に、人に頭を下げたのは、韓遂と同盟を組んだときくらいだろうか。

沈黙。
呆れているのか、おどろいているのか、頭を深々と下げてしまったために、趙雲の反応がわからない。
とはいえ、相手が何も言わないうちには顔を上げられぬと、馬超はしばらくそうしていた。
やがて、趙雲の、なぜだか怒りのこもった声が耳に届いてきた。
「帰れ、愚かものめが。貴様に貸す金など、一文たりともないわ」
「なんと」
無礼な、といいかけ、あわてて馬超は、頭をもう一度下げた。
この際、誇りだなんだと気にしている場合ではないのだ。
そう決めて、ここにやってきた。
なぜここまで、ひどく罵倒されなければならないのは、謎だが。
「頭を上げてくれ。あんたは、頭を下げる相手をまちがえているぞ」
「なんだと?」

ことばの意味がつかめずに、さすがに顔を上げると、軽蔑をかくさずに、こちらをにらみつけている、趙雲の顔があった。
こうなると礼節もなにもあったものではない。趙雲にとって、馬超は年長者であり、上位者である。
それを、ここまで罵倒した上に『あんた』呼ばわりだ。
誇り高い馬超は、一瞬、かっと頭に血をのぼらせたが、必死でおのれを自制する。さきほどあの山で思ったことを、怒りにまかせて忘れてはならない。
ここでまた、だれのためにもならない『おのれの面子』とやらに捕らわれてしまっては、またあとで後悔することになる。
奥歯をかみ締めて、怒りを押し殺していると、趙雲の方が、先に口を開いた。
「あんたは、俺の親父に似ている。単におのれの欲を晴らすために、女を何人もまわりにはべらせて、ふんぞりかえって、『家』を作る努力を放棄して、おのれの不遇を恨むばかりで、なにひとつ現実を見ようとしていない。
それでいて、自分が傷つけられることには敏感なくせに、人を傷つけることは平気なのだ」
「それは悪かったな」
おまえになにがわかる、とも馬超は思ったが、この男には、自分とまたちがう苦しみを持っているらしいということは、その表情から察することができた。
儒の精神から照らし合わせてみても、いや、それでなくても、父親は絶対的な存在であるこの世間において、父を罵倒する言葉を堂々と口にするという行為自体、常識はずれもいいところだが、この男の苦しみの元が、おそらく父親に起因しているものなのだろう。
趙雲に直言を吐かれたことで、かえって馬超も怒りが鎮まってきた。
「わたしが、どれだけ図々しい頼みをしているかは、よく承知している。わたしのことを、貴殿がどれだけ嫌悪していてもかまわぬ。好きなだけ罵倒してくれてもかまわぬ。しかし、金がどうしても必要なのだ。必ず返すゆえ、頼まれてくれぬか」

ふたたび沈黙。
趙雲の顔からは、軽蔑の表情はなくなっていた。
が、やはり表情は固いままである。
「平西将軍、いまひとたび言わせていただこう」
と、口調をあらため、さきほどとはだいぶ穏やかに、趙雲は言った。
「貴殿は、頭を下げる相手を間違っておられる。どれだけ罵倒されてもかまわぬと言ったが、貴殿を罵倒する権利があるのは、俺ではない」
「どういうことだ?」
趙雲は、ちいさく息をつくと、ゆっくりと口を開いた。
「あの娘を助けたとき、俺もあの山にいた」
「なんだと?」
「俺だけではない。もうひとり、いたのだ」
「だれが? 軍師将軍か?」
すると、ふたたび趙雲の顔が、軽蔑をかくさぬものに転じた。
「なぜ軍師がそこに出てくる。軍師が物見遊山に、あんたを見に行くと思うか? 今度、軍師の名を軽々しく出したら、それこそ庭にでて、勝負だ」
「すまん、いまのは失言だった。貴殿が軍師と懇意にしているというのが頭にあったから、つい余計なことを」
「ああ、まったく余計だ。それでいて、なぜに本来、気を回さねばならぬところに目が行かぬのか、さっぱりわからぬ。
あんたが、あの娘に言っていたことばではないが、あんたこそ、何にも見えていないのではないか」
「む?」
怪訝そうにする馬超に、処置なし、というふうに、趙雲はため息をついた。
「いいか、よーく考えてみるがいい。この成都で、あんな山の中にまで、あんたを追いかけてくる人間は、だれだ?」
「刺客…いや、細作か」
「もう、あんたは帰れ。そんなものがいたら、俺の地所だぞ。俺が斬っておるわ」
趙雲は、すっかり呆れて座を立つ。
「待て。謎解きの答えを言ってくれ」
「本当にわからないのなら、あんたは、たぶん、俺がいままで知っているなかでも最低野郎の部類に入るだろうな」

立ち上がった趙雲の表情から、馬超は悟った。
「まさか?」
「事実かどうかは、自分でたしかめろ。そういうわけで帰れ。そちらに断られたら、俺が用立てしてやるが、そうならないことを祈っている」
「貴殿、いいヤツなのか、悪いヤツなのか分かりにくいな」
「すまんな。俺のほうも、あんたをどう思ってよいのか、判じかねている」
「唯一の意見の一致だな。ともかく、先に礼を言っておく」
馬超が出て行こうとすると、趙雲が、最後に言った。
「先ほどの言葉は、あまりに言いすぎた。あんたは俺の親父にすこしだけ似ている。
ただ、俺の親父は、あんたと同じ状況になっても、あの娘を助けようとは考えなかっただろう。助けたとしても、娘を自分のものにするのが目的だっただろうな」
「貴殿の父は、どんなヤツだ」
「俺が言うとおりの最低野郎だよ。あんたは、自分の娘に、俺と同じ気持ちをさせちゃいけない」
それは押し付けの意見ではなく、趙雲の本音であっただろう。
そういう趙雲の顔は、思いもかけないほど翳りのある、悲しげなものであった。

つづく……

青い玻璃の子馬 その7

2019年05月01日 10時48分37秒 | 青い玻璃の子馬
しらじらしい、うんざりするほど静かな夜が過ぎた。
馬超が帰ると、習氏は、何事もなかったかのように、ふつうに、やはり表情になにも浮かばせずに馬超を出迎えた。
そうして用意された夕餉を口にし、たんたんと時間を過ごしていく。
おたがいに、朝のことは、ひとことも触れない。
家人たちも、馬超が火山のように突然に怒りを爆発させる主人であると知っていたから、これをおそれてか、それとも、習氏が、馬超の留守に、みなによく言い聞かせていたものか、ふたりを気にするそぶりさえ見せない。
なにもない朝だったのかと、錯覚するほどである。
最悪の一日であった。
夢見からして悲しかった。
遠出に行こうとすれば、玻璃細工が落ちたせいで、習氏と娘を怒鳴らなければならなくなるし、落ち込んで気に入った場所に行けば行ったで、崖っぷちに立っている自分に気付き、そしてそれをたしなめてくれた娘を不用意に傷つけたうえ、ぼう然としていたら、なぜだかまたあらわれた趙子龍に、変にかん違いされたらしく、
「俺の地所を変なふうに利用するのなら、いっそ買い上げてくれ」
などと嫌味を言われる始末。
あの風景は気に入ったので、売ってくれるというのなら買ってやってもよかったが、しかし、馬超が、実際に自分の意思で動かせる金というのは、必要最低限のものしかない。
気前のよすぎる馬超の放埓な浪費ぶりにあきれた習氏が、金銭管理を完全に行っており、馬超には必要な額しか与えないからだ。
そこも、馬超が習氏に対し、複雑な感情を抱いている原因のひとつでもある。

に、しても、翊軍将軍め、ぺらぺらといらぬことを、周囲に言いふらさぬであろうな。
あれは口の重い男だから大丈夫だと思う。
思うが、たしかに口は重いけれども、注意せねばならぬことには、軍師将軍には、かわったことは、あますことなくすべて伝える男だ、という点だ。
あれは軍師の飼い犬だから注意しろと、そう言ったのは魏延だったか。
あれも癖のある男だが、翊軍将軍よりは、まだわかりやすい。
一度、酒席を共にしたいと申し込まれていたな、そういえば。
すっかりわすれて、返事をしていない。
あの魏延という男、軍師将軍との仲は、なぜだか最悪だという。どうでもいいことだが。
とにもかくにも、軍師将軍は、噂話を好むような者ではないから、たとえ翊軍将軍から、わたしの話を聞いたとしても、変な気を揉むひつようはないか。
そうだ、そもそも、気にすることからしておかしかろう。
だいたい、なんにもないのだからして。

そうしていろいろ考えながら、更衣をすませ、湯あみをすませ、あとは寝るばかりとなった馬超であるが、自室に戻る途中で、家人たちのひそひそ声が耳にはいってきた。
「やはり、奥方様とて黙っておられなかったのでしょうよ。旦那様がね、湯浴みにはいられたとたん、衣裳をおよこし、といって、わたしの手から取り上げて、着物をさぐりだしたのですよ」
「それは、旦那様が持ってらした、玻璃細工をさがしていたのかしら」
「そうでしょうよ。旦那様が、まだ身につけているのを確認したら、奥方様も安心なさったようで、このことは、旦那様には決していわないように、と言い置かれて、行ってしまったの」
「このおうち、大丈夫かしら。いまの奥方様が良い方だからお勤めできているけれど、お妾が増えて、しかもこのうちにすむ、なんてことになったら、たいへんだわ」
「さすがによそに家を与えるでしょうよ。奥方様、お気の毒にねぇ。ただでさえ、正夫人ではないと、世間からも侮られてしまっているのに」
「だれでもよかった、なんて、みんなの前で言わなくてもねぇ」
「あたしがもし言われたなら、すぐに荷物をまとめて出て行っているところだわよ。ここは、奥方様はよいけれど、旦那様はおそろしくて、あたしは苦手だわ」
「旦那様が好きでお勤めしていた人たちも、今朝の一件で、考え直したって言っていたわよ。まったく、なかなかいいお勤め先というのはないものね」

馬超は、家人たちに気づかれないように、自分でも情けないと思いながらも、足音を殺して、廊下を渡り、自室へともどった。
青い子馬の玻璃細工は、すっかり、いもしない『あたらしい妾』に贈られることになっているらしい。

自分が湯あみをしているあいだに、習氏が、玻璃細工の所在をたしかめていた、と聞いて、馬超としては複雑な気持ちになった。
まったく無関心ではないのだ。
無関心すぎる、ということに集中して怒りをぶつけてきただけに、家人たちから漏れ聞いたそのことばは、馬超の良心を、またもいじめた。

まったく、朝から晩まで、ろくなことがない。
いつからだ? 夢を見たせい? 
そもそも夢を見たのは、玻璃細工を見たからだろう。
とすると、あの玻璃細工はどうしたものか。
だれにもやるつもりはない。
かといって手元に置いておく気にはなれない。
一度でも、董氏が触れたことのあるものだというのなら形見にもなろうが、そうではないのである。

寝台に横になり、目をつむると、崖のふちで目を瞑って受けた、風の心地よさが思い出された。
平原を駆け抜けてきた風に似ていた。
あそこからなら、空でも飛べそうな。
もちろん、人は空を飛べない。
だが、玻璃細工の馬をあそこから投げたなら、翼が生えて、高く天へのぼっていってくれるのではないだろうか。
人は落ちたという。

青翠の父親は、気の毒に、あそこで命を落としたのだな。
そういえば、翊軍将軍も、そんなことを口にしていたようだが。
父親があそこで命を失い、自身もまた、視力をあそこで失った。
そんな悲しい場所に、足を運びつづける女。

そうして、馬超は、ある予感に突き動かされ、がばりと布団から起き上がった。

あの女は、わたしがいることを迷惑がっていた。
わたしがいなかったら、あそこでなにをするつもりだったのだ?
男たちに襲われながらも、諦めきった目をみせていた女。
人生を捨ててしまっている女。
まさか。

馬超は、朝になると、やはり朝餉もそこそこに、身づくろいだけすませると、従者もつけずに、趙雲の地所へと馬を走らせた。





馬は、肝心なときに嘶くといけないし、第一目立つので、ふもとの里の家にあずけておき、自分だけが山に入った。
青草の上に、それこそ敵をまつかのように腹ばいになって、静かに待ちつづける。

確信があった。
そうして、青草を通して土の冷たさが腹にとどき、なにやら体全体が冷えてきたころになり、青草をさくさくと踏みしだいてくる、軽やかな足音が聞こえてきた。
草のあいだから、気配を殺して、そっと様子をさぐる。
杖をつきながらも、慣れたように山道を登ってくる。
青翠だ。
今日は、声をかけなかった。
声をかけてはならない。
馬超は、気配を殺し、じっと青翠の様子を見つめる。
青翠は、崖のところまでやってくると、きょろきょろとあたりを見まわし、耳を澄ませる。慎重に、何度も。
そうして、納得したのだろう、山道から逸れてしまうため、木々にぶつからないよう、杖と、空いた手をうまく使って先に進む。
やがて、風の吹きつけてくる、その強さでわかったのだろう、足を止めて、持っていた杖を傍らに投げ捨て、まるで鳥が羽根をひろげるように、自身も腕を広げた。袖が、まるで翼のように見えた。
息を殺して見つめていると、青翠は、その姿勢のまま、すこしづつ、すこしづつ、慎重に前へ、前へと足を進める。

やはり。
馬超は、自身の読みが当たったことに、感謝した。
そうして、体を起こす。
背後で、馬超が起き上がる音が聞こえていてもおかしくないのだが、青翠は、いまから自分が飛び込むことになるであろう空に向かって集中しているせいか、振りかえるどころか、足を止める気配もない。
青翠の足が崖のぎりぎりにまで進んだとき、馬超は背後より、その姿をとらえ、そのまま、引きはがすようにして崖から遠ざける。
青翠は、突然に背後から現れた者が何者かわからないこともあり、はげしく抵抗してくる。
「放しなさい! やめて!」
足をばたつかせ、それでもなお、前へ、崖のほうへと進もうとする。
思いもかけない細身の女の抵抗に、馬超は舌打ちしながらも、青翠をなんとか、山道のところまで引き戻すことができた。
そのあいだ、蹴り飛ばされたり、ひっかかれたり、いろいろされたが、馬超のほうも夢中である。
そうして、もう大丈夫だろうというところで、青草の上に青翠を放り出す形で手を放した。

とたん、猛然と、青翠は身を起こすと、見えない目でもって、自分の邪魔をした者が、どこにいるのかを探しながら、怒鳴った。
「なにをなさるの? どうして邪魔をしたの!」
「どうしても、こうしてもなかろう! なぜ死ぬ?」
その声で、ようやく誰だかわかったのだろう。
青翠は、顔を鬼のように怖くして、噛みつくようにして馬超に言った。
「またあなたなの! わたしを待ち伏せしていたのですか!」
「いい読みをしていただろう。おまえは、ここにただの散策に来ていたのではない。死ぬためにここにきていたのだ。高大人とやらが自分を迎えに来る前に、死のうとしてな!」
青翠は黙りこみ、口をつぐんだ。どうやらそのとおりであったようだ。
馬超は、息をつき、そしてつづける。
「なぜ、死ぬ必要がある。それほどに己の運命が悲しいか」
「知った風な口を利かないでください! あなたなどに、なにが判るというのです!」
言いながら、青翠は、這ったまま、なおも崖のほうを目指そうとする。
馬超は、またも青翠を止めるべく、手を伸ばさねばならなかった。
「待て! 待てというのだ!」
「放して! どうせ、この身は死んだも同然! 父が助けてくれた命とはいえ、生きていても、目の見えぬ厄介者として生涯を過ごさねばならぬばかりか、辱めを受けつづけて生きねばならないというのに、なぜ生きていなければならないのですか!」

この世の無情への苛立ちか、それとも死への執着か、青翠は、はげしく暴れながらも、なおも崖を目指して動こうとする。
馬超は、地べたに這いずり回るような形でも、なおも死を目指す娘の姿に苛立ち、馬乗りになる形で、娘の動きを止めた。
それでもなお、娘は暴れ、奇声を発しながら、手足をばたつかせ、両手で、自分の上に乗っている男を、殴ったり、ツメで引っかいたりして見せる。
こうなると獣のようである。
いや、はたから見れば、いつぞやの男たちのように、この娘を襲おうとしているようではないか。
青翠があまりに暴れるので、着物ははだけて、なまめかしく白い肩があらわになる。
ええい、くそ、と悪態をつきつつ、馬超は、片手で暴れる女の手首を掴み上げ、もう片方の手で、あらわになった肌をもとに戻すべく、頬を引っかかれながらも、襟元を戻してやった。
われながら、なにをしているのかと呆れるところであるが、頬の肉に食い込むツメの痛さに我慢しつつ、苦労して着物を直してやると、とたん、娘はなにを思ったか、急におとなしくなった。

暴れるのを止めると、まるで放心したように、だらりと手足を地面に投げたまま、青翠は、何者もうつさない双眸から、涙をぼろぼろとこぼした。
青翠の表情が、あまりに虚ろなために、馬超は、逆に心配になってきた。
気が触れてしまったのではないだろうか。
馬乗りになっていた姿勢から、体を離し、地面の上に仰向けになり、嗚咽することもなく、涙を流すだけの青翠に、おそるおそる、馬超は声をかける。
「おい?」
頬を触ると、それまで馬超も長いあいだ、地面の上に伏せていたせいか、体が冷えていたため、頬の温かさが感動的ですらあった。
この温かさこそが、生きているということなのだろう。
「わたしは、なぜ生きねばならないのですか」
娘は泣きながら、問いかけてくる。
「教えてくださいまし。なぜ生きねばならないのです。生きていれば、必ずよいことがあるなどと、陳腐なことはおっしゃらないでください。そんなことはないということは、このわたしが身をもって知っております。
もともと闇の中に住んでいるのです。死ぬことが親不孝だというのですか。父がわたしを助けたのは、あのような老人の慰み者にするためではなかったはずです。
わたしを少しでも哀れだと思うのなら、わたしをあの崖から投げ落としてください!」
「馬鹿なことを申すな。わたしを人殺しにするつもりか! おまえに何の咎があって、崖から投げ落とさねばならぬ!」
「わたしの咎なら、ございます。わたしが父を殺した。花を摘んで欲しいなどというわがままさえ口にしなければ、父はいまも、きっとお元気であったはず! 
わたしが父を殺した罰が、この運命だというのならば、だれに頼めば許してくれるというのですか。わたしにとっては、世の中は、決して明けることのない夜でありつづけるのです。だから、殺してください!」
そういって、娘は投げ出した手をようやく動かし、顔を覆って、声をあげて泣き出した。

明けることのない夜か。
娘の言葉を引き継いで、馬超の心も暗くなってくる。
仇討ちの名のもと、虐げられつづけてきた辺境の一族が、いっせいに蜂起した。そこには、長年にわたり蓄積された怨念と、悲憤があった。
いや、それだけを底力に、爆発的な力を見せて、馬超たちは戦ったのだ。
戦略はなかった。ただ大地を駆け、敵を殲滅すれば、勝てると思っていた。
その果てに待っていたのは、破滅であった。
なのに、この身は生きて、いまも大地のうえにある。

つづく……

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