新野にいたであろう壺中の目をくらますため、劉備と張飛は、劉封と麋竺に新野をまかせ、自分たちは一路、南の襄陽城へと向かっていた。
相手を刺激しないように、供の兵の数も最小限にとどめた。
そも、新野をあまり留守にはできない。
この状態で曹操が南下してきてしまったら、目も当てられないことになるからだ。
そろそろ襄陽城が見えてくるころあいで、おかしなことが起こった。
先導していた供の者が、街道の先で、劉豫洲を待っているという人物に遭ったというのである。
「どんな男だ」
「それが、身なりの良い、いかにも士人といったふうの人物です」
言いつつ、伴の者は、その士人が示したという名刺を劉備に示す。
そこには、流麗な文字で、
『零陵の劉子初』
とあった。
その名に心当たりのあった劉備は、おもわず、ほお、と声を上げていた。
劉備の感嘆の声をきき、興味をおぼえたらしい張飛が、たずねてくる。
「どんなやつだい、兄貴。その劉子初っていうやつは」
「むかしの江夏太守の息子で、茂才にも推挙されたことがあるというほどの才人だ。
なんどか劉州牧に招聘されたのだが、断り続けていると聞いた」
「気難しそうなやつだな。なんで出世を断っていたのだろう」
「さてな。おう、あれが劉子初どのであろう」
馬を進めていくと、背のすらりとした、目元から鼻筋にかけてすっきり整った風貌の旅装の男が、劉備たちを待っていた。
劉備を前にすると、男は流麗な動作で拱手する。
「お初にお目にかかる。零陵の産で、姓は劉、名は巴、あざなを子初と申すもの。
劉豫洲とお見受けいたしました」
「丁寧に痛み入る。たしかにそれがしが劉備です。
劉子初どののご高名はかねがね孔明からうかがっておりました」
「そうですか、孔明どのから」
と、劉巴は孔明の名を聞くと、顔にすこしだけ喜色を浮かべた。
「ところで、旅の途中のようですが、いったいどちらへ行かれるのです」
「北へ向かいます」
北へ、と聞いて、なぜだか劉備はざわりと胸をざわつかせた。
なぜだろう、目の前の劉巴は穏やかに微笑んですらいるのに、その顔の裏で、ぺろりと舌を出しているような抜け目のなさを感じたのだ。
北といってもいろいろあるはずなのに、劉備は目の前の男が、曹操のもとへ行こうとしているのを察した。
「初対面の方に不調法と思われるかもしれませんが、なぜ北へ行かれるのか、理由をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「かまいませぬ。端的に申し上げましょう、劉州牧が亡くなられたからです」
「なんだって」
その声を上げたのは、うしろで聞いていた張飛であった。
劉備も思わず、道の先に見える襄陽城の正門をみやる。
襄陽城の周辺には異常はなにもなく、いまも多くの商人や町人が、舟や馬や徒歩で行き交っているのが見えるほどだ。
「なぜ劉州牧が亡くなられたことを知っておられる」
声が尖らぬように気を付けながら劉備が問うと、劉巴は造作もない、というふうに答えた。
「ご存じかもしれませぬが、わたしは招聘に応じなかったがために、劉州牧から命を狙われておりました。
襄陽城に勤める者のなかに、わたしを案じてくれている者がおりまして、すでに劉州牧が亡くなられていることをひそかに知らせてくれたのです」
劉備は素早く頭をはたらかせた。
劉表が死んだとなれば、後継は劉琦か劉琮。
だが、高い確率で、蔡瑁に推されている劉琮がつぎの州牧に立てられるだろう。
そうなれば、いま襄陽城にのこのこ出かけていけば、逆にいいがかりをつけられて捕らえられる危険がある。
張飛が供についてきてくれているとはいえ、この少ない手勢で、襄陽城の内部にいる兵の全員を相手にするのは不可能だ。
新野へ戻るか。
しかし、樊城の隠し村とやらへ向かった関羽たちも気になる。
孔明と子龍はどうしただろう。
助かったのかどうなのか、それを確かめるにも、樊城へ向かうほうがよいのではないか。
劉備が何も言わないうちから、劉巴が口をはさんできた。
「襄陽城では、劉琮どのを擁立して荊州牧にする準備をしているそうです。
ご長男の劉琦どのは江夏へ出ていかれてしまいましたからね」
状況が目まぐるしく変わっている。
劉備はけんめいに頭をはたらかせつつ、目の前の、この敵か味方かわからない男に、胸のうちを悟られないように気を付けた。
「貴重な情報をかたじけない。
そうなれば、われらは新野に戻り、あたらしい州牧どのからの沙汰を待とうと思う。
劉巴どの、よろしければ途中までお送りしましょうか」
しかし劉巴はすぐに首を横に振る。
「ありがたいお申し出ですが、ご遠慮させていただきます。
それに、新野へは急がれたほうがよろしいでしょう。
わたしのような足手まといがいっしょでは、次の行動を打ちづらいでしょうし」
劉巴は劉備の状況がよく見えている。
その笑っているような目は、実はまったく笑ってなどいない。
冷徹に劉備を見究めようとしている。
どこか得体のしれない気味の悪さを劉巴に感じつつ、劉備は言った。
「それでは、お名残り惜しいですが、これにて失礼させていただきます。
たしかに、急がねばならぬようですし」
「それがよろしいでしょう。
ときに劉豫洲、荊州をおとりになる予定はおありで?」
虚を突かれ、劉備が唖然としていると、
「いえ、戯言でございます。お忘れください」
そう言って、劉巴は笑って、うろたえている劉備たちを横目に、さっさと街道を北へ向かってしまった。
「なんでえ、あれは」
毒づく張飛のことばで、劉備はようやく現実にもどってきた。
荊州をとる?
たしかに、孔明の示した三分の計では荊州をとることは重要だ。
だが、劉琮を倒してまで手に入れなければならないものかというと、話は別になってくる。
劉表の死。
襄陽城に背を向け、新野を目指して走り出した劉備であったが、次第にその事実が腹の中でおおきく膨らんできた。
と、同時に、曹操がこの機を逃すだろうかという考えが頭を占めるようになってきた。
劉巴は北へ行く、と言った。
あれを斬って捨てるべきではなかったか。
劉巴は、おそらく劉表の死のほか、荊州の内部の情報をも曹操に伝えに行くにちがいない。
「いや」
劉備はひとり、頭を振って、その思いを捨てた。
平和だった七年間は過ぎ、ふたたび激動の日々が待っているのだ。
ひとつ、行動をまちがえれば命をうしなうことになる。
ごくりと唾を呑み込んで、劉備は前を見据える。
いつしか空は暗くなり、雨が降りそうになっている。
「急がなくちゃいけないや」
張飛がこぼすのを耳にしつつ、劉備は新野へもどる道を疾走しはじめた。
臥龍的陣 おわり
相手を刺激しないように、供の兵の数も最小限にとどめた。
そも、新野をあまり留守にはできない。
この状態で曹操が南下してきてしまったら、目も当てられないことになるからだ。
そろそろ襄陽城が見えてくるころあいで、おかしなことが起こった。
先導していた供の者が、街道の先で、劉豫洲を待っているという人物に遭ったというのである。
「どんな男だ」
「それが、身なりの良い、いかにも士人といったふうの人物です」
言いつつ、伴の者は、その士人が示したという名刺を劉備に示す。
そこには、流麗な文字で、
『零陵の劉子初』
とあった。
その名に心当たりのあった劉備は、おもわず、ほお、と声を上げていた。
劉備の感嘆の声をきき、興味をおぼえたらしい張飛が、たずねてくる。
「どんなやつだい、兄貴。その劉子初っていうやつは」
「むかしの江夏太守の息子で、茂才にも推挙されたことがあるというほどの才人だ。
なんどか劉州牧に招聘されたのだが、断り続けていると聞いた」
「気難しそうなやつだな。なんで出世を断っていたのだろう」
「さてな。おう、あれが劉子初どのであろう」
馬を進めていくと、背のすらりとした、目元から鼻筋にかけてすっきり整った風貌の旅装の男が、劉備たちを待っていた。
劉備を前にすると、男は流麗な動作で拱手する。
「お初にお目にかかる。零陵の産で、姓は劉、名は巴、あざなを子初と申すもの。
劉豫洲とお見受けいたしました」
「丁寧に痛み入る。たしかにそれがしが劉備です。
劉子初どののご高名はかねがね孔明からうかがっておりました」
「そうですか、孔明どのから」
と、劉巴は孔明の名を聞くと、顔にすこしだけ喜色を浮かべた。
「ところで、旅の途中のようですが、いったいどちらへ行かれるのです」
「北へ向かいます」
北へ、と聞いて、なぜだか劉備はざわりと胸をざわつかせた。
なぜだろう、目の前の劉巴は穏やかに微笑んですらいるのに、その顔の裏で、ぺろりと舌を出しているような抜け目のなさを感じたのだ。
北といってもいろいろあるはずなのに、劉備は目の前の男が、曹操のもとへ行こうとしているのを察した。
「初対面の方に不調法と思われるかもしれませんが、なぜ北へ行かれるのか、理由をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「かまいませぬ。端的に申し上げましょう、劉州牧が亡くなられたからです」
「なんだって」
その声を上げたのは、うしろで聞いていた張飛であった。
劉備も思わず、道の先に見える襄陽城の正門をみやる。
襄陽城の周辺には異常はなにもなく、いまも多くの商人や町人が、舟や馬や徒歩で行き交っているのが見えるほどだ。
「なぜ劉州牧が亡くなられたことを知っておられる」
声が尖らぬように気を付けながら劉備が問うと、劉巴は造作もない、というふうに答えた。
「ご存じかもしれませぬが、わたしは招聘に応じなかったがために、劉州牧から命を狙われておりました。
襄陽城に勤める者のなかに、わたしを案じてくれている者がおりまして、すでに劉州牧が亡くなられていることをひそかに知らせてくれたのです」
劉備は素早く頭をはたらかせた。
劉表が死んだとなれば、後継は劉琦か劉琮。
だが、高い確率で、蔡瑁に推されている劉琮がつぎの州牧に立てられるだろう。
そうなれば、いま襄陽城にのこのこ出かけていけば、逆にいいがかりをつけられて捕らえられる危険がある。
張飛が供についてきてくれているとはいえ、この少ない手勢で、襄陽城の内部にいる兵の全員を相手にするのは不可能だ。
新野へ戻るか。
しかし、樊城の隠し村とやらへ向かった関羽たちも気になる。
孔明と子龍はどうしただろう。
助かったのかどうなのか、それを確かめるにも、樊城へ向かうほうがよいのではないか。
劉備が何も言わないうちから、劉巴が口をはさんできた。
「襄陽城では、劉琮どのを擁立して荊州牧にする準備をしているそうです。
ご長男の劉琦どのは江夏へ出ていかれてしまいましたからね」
状況が目まぐるしく変わっている。
劉備はけんめいに頭をはたらかせつつ、目の前の、この敵か味方かわからない男に、胸のうちを悟られないように気を付けた。
「貴重な情報をかたじけない。
そうなれば、われらは新野に戻り、あたらしい州牧どのからの沙汰を待とうと思う。
劉巴どの、よろしければ途中までお送りしましょうか」
しかし劉巴はすぐに首を横に振る。
「ありがたいお申し出ですが、ご遠慮させていただきます。
それに、新野へは急がれたほうがよろしいでしょう。
わたしのような足手まといがいっしょでは、次の行動を打ちづらいでしょうし」
劉巴は劉備の状況がよく見えている。
その笑っているような目は、実はまったく笑ってなどいない。
冷徹に劉備を見究めようとしている。
どこか得体のしれない気味の悪さを劉巴に感じつつ、劉備は言った。
「それでは、お名残り惜しいですが、これにて失礼させていただきます。
たしかに、急がねばならぬようですし」
「それがよろしいでしょう。
ときに劉豫洲、荊州をおとりになる予定はおありで?」
虚を突かれ、劉備が唖然としていると、
「いえ、戯言でございます。お忘れください」
そう言って、劉巴は笑って、うろたえている劉備たちを横目に、さっさと街道を北へ向かってしまった。
「なんでえ、あれは」
毒づく張飛のことばで、劉備はようやく現実にもどってきた。
荊州をとる?
たしかに、孔明の示した三分の計では荊州をとることは重要だ。
だが、劉琮を倒してまで手に入れなければならないものかというと、話は別になってくる。
劉表の死。
襄陽城に背を向け、新野を目指して走り出した劉備であったが、次第にその事実が腹の中でおおきく膨らんできた。
と、同時に、曹操がこの機を逃すだろうかという考えが頭を占めるようになってきた。
劉巴は北へ行く、と言った。
あれを斬って捨てるべきではなかったか。
劉巴は、おそらく劉表の死のほか、荊州の内部の情報をも曹操に伝えに行くにちがいない。
「いや」
劉備はひとり、頭を振って、その思いを捨てた。
平和だった七年間は過ぎ、ふたたび激動の日々が待っているのだ。
ひとつ、行動をまちがえれば命をうしなうことになる。
ごくりと唾を呑み込んで、劉備は前を見据える。
いつしか空は暗くなり、雨が降りそうになっている。
「急がなくちゃいけないや」
張飛がこぼすのを耳にしつつ、劉備は新野へもどる道を疾走しはじめた。
臥龍的陣 おわり
※ いつも当ブログに遊びに来てくださっているみなさま、ありがとうございます。
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おかげさまで、無事に本編のほとんどを更新することができましたー!
ここまでお付き合いくださったみなさま、ほんとうにあらためて感謝です!
明日からはしばらく「番外編」を更新します。
どうぞこちらも見てやってくださいねー('ω')ノ