はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

おばか企画・心はいつもきつね色 旅立ち編・3

2020年11月04日 11時24分56秒 | おばか企画・心はいつもきつね色


「二度あることは三度あるか。まるでシンデレラのような見事な逃げっぷりであったな、あの119番。名前の記載欄に『法孝直』と書くほどのユーモアセンスの持ち主であったのに、惜しい。じつに惜しい」
と言いながらも、劉巴は、さすがにショックを隠せないでいる孔明に言うのであるが、もはや喜色をかくさずに、ちらり、ちらりと孔明を見る。
その視線を受け流しつつ、孔明はすっかりうんざりしてたずねた。
「あの、劉曹掾、この際ですから一気に確認したいのでありますが、もしや、荊州時代に、わたしの呼びかけにも答えず、南の蛮地へ旅立たれてしまったのは、単に志が云々というよりも、わたしの困った顔が見たかったからなのでございますか」
「そうだね」
「………成都に入ったときに、なかなか主公の前に出てくださらなかったのも?」
「そうだね」
「張飛を怒らせたのも、もしや」
「あれはじつに効果的だったね」
「なぜまた………」
「なぜと聞くかね。君のその困り顔、悲しげな顔は、見ているだけで、じつにゾクゾクとしてくるのだよ」
「風邪では」
「野暮なことを言う。この心の意味を知りたいかい」
「結構です」
どうしてわたしの周りには、こんなタイプばかりが集るのだろうと嘆息する孔明のもとへ、偉度が文偉と休昭をともなってあらわれた。
文偉と休昭は、なにを考えているのやら、目をきらきらと輝かせて、孔明の前にあらわれた。
しかもいつになくめかしこみ、文偉にいたっては、衣を香で焚き染めてきたらしい。
この匂いは、青雲アモーレ。
煙がすくなく、愛らしい形が自慢の一品です。

やる気に満ち溢れた二人と対称的に、偉度は面倒そうに孔明に言った。
「119番に逃げられたそうですね、おめでとうございます。とりあえず、次点の二人を連れてまいりました。煮るなり焼くなり、お好きにどうぞ」
「焙るという手もあるよ」
と、劉巴がにこやかに言う。
「残念ながら、わたしには、おまえたちを煮るつもりも焼くつもりも焙るつもりもない。義兄弟の話は終わりだ。孔明は三度、義兄弟の申し込みをして、三度とも断られた。それでよかろう。
わたしの生涯にやたらついてまわる三という数字が出てくるので、世間的にも妙に納得できる話になるであろうし」
言うと、文偉と休昭が、ぶうぶうと不平を鳴らした。
「せっかくここまで参りましたのに! 義兄弟に選ばれないとしても、せめて残念賞として、副賞のプリンスエドワード島旅行をいただけませんでしょうか!」
文偉のことばに、孔明は怪訝そうに眉をしかめた。
「プリンスエドワード島? なんだ、それは」
「あ、プリンシベ島でございましたか」
「プリンシベ島も知らぬ。ああ、そうか、H.I.Sに電話をして、キャンセルをしなければ」
「ええ? なぜでございますか。キャンセルするくらいならば、われらに下さいませ。義兄弟の話は気持ちよくすっぱりと忘れますので、ぜひ!」
「ああそうだ、言うのをすっかり忘れていたよ」
と、劉巴がまたも口をはさむ。
「副賞のP島だがね、なくなってしまったのだ」
「わたしの代わりに、キャンセルしてくださったのですか?」
孔明が問うと劉巴は首を振った。
「いいや、許長史が、『ちょっと行ってくる』と言いながら、持っていってしまったのだ」
「なにぃ!」
と、叫んだのは、休昭と文偉である。
「副賞を、横から取ってしまうなんてひどい! いくら父上の上役にあたる方でも許せぬ!」
「いまから追いかけて、ついでにわれらも連れて行ってもらおう、プリンスエドワード島!」
意気込むふたりに、孔明はふしぎそうにたずねた。
「おまえたち、いったい、さきほどからプリンスエドワード島だの、プリンシベ島だのと、なんなのだ? あの副賞のP島とは、おまえたちが望んでいるような観光地ではないぞ。そも、義兄弟が決まってしまった場合の保険としての最後のトラップだったのだからな」
孔明のことばに、文偉と休昭は、目をぱちくりとさせて鸚鵡返しにする。
「とらっぷ?」
「そんなに行きたいというのならば、これも経験のうち。行ってこい、パノラマ島」
「パ、パノラマ島!」
ちらりと孔明が見れば、もはやそこには文偉の姿も休昭の姿もなくなっていた。
「どこへ消えた」
孔明が尋ねると、偉度は、やれやれといったふうに答える。
「100メートル10秒切っているんじゃないか、という勢いで逃げました。しかしパノラマ島とは、許長史なら、すっかり馴染んでしまわれているのでは。
というか、おまえたち全員を、わたしが面倒みてやろうとか言い出して、島にいるフリークスをぞろぞろと連れて帰ってくるにちがいない。わたしはごめん蒙りますよ、これ以上の変わり者が、左将軍府に増えるのは」
変わり者ということばに、孔明はちらりと劉巴を見る。
「まったくだ」
そう答えて、孔明は嘆息した。
今日はほんとうに、厄日だ。
西の空が、あざやかなキツネ色に転じているのを執務室から眺めつつ、孔明は深く嘆息した。



おまけ

偉度が見つけたとき、趙雲は、巡察の結果報告をまとめているところであった。
「軍師の義兄弟の募集の告知を、ご存知なかったのですか」
問うと、趙雲はてきぱきと筆を動かしつつ、偉度のほうはみずに答えた。
「知っていた」
「では、なぜ無視してらっしゃったのです。気恥ずかしかったとか」
「そうではない。第一、俺は軍師の義兄弟になるつもりはない」
「ほう。それでは、どこの馬の骨ともわからぬ輩が、軍師の義兄弟になっても、黙ってみているおつもりか」
偉度が目を細めてたずねると、ようやく趙雲は顔をあげて、言った。
「あたりまえではないか」
「あたりまえ? なぜでございますか」
「軍師が、たとえだれを義兄弟にしようと、それが俺に、どういう影響がある」
突き放したような趙雲のことばに、偉度はおおいに顔をしかめ、口をとがらせた。
「軍師がなにをしようと、どうでもいいとおっしゃるのか」
「そうではない。軍師が、だれと義兄弟の契りをかわそうと、俺自身には、なにも変わりがないからだ」
「は」
「軍師がどうあれ、俺の心は変わることはない、と言ったほうが、おまえ好みの答えかな」
「えーと、つまり」
「つまり、軍師が変わったとしても、俺の位置は変わらぬ」
「はあ」
「ヒトに変わるなと言うほうが、どうかしていると思うぞ。そこで焦るよりも、つねに己は同じところにいるのだということを、黙って示すべきだ」
「………」
「わかったなら、もうよかろう。仕事がまだ続くのでな」
「………」
偉度は沈黙のまま、政務にもどる趙雲をしばし見つめていたが、やがて踵を返して立ち去った。

その後も、孔明の義兄弟候補は、あらわれていない。

おわり

やっと終わり! 御読了ありがとうございました。

(サイト「はさみの世界」 初出2006/04/12)

おばか企画・心はいつもきつね色 旅立ち編・2

2020年11月04日 11時23分24秒 | おばか企画・心はいつもきつね色


一方、試験会場では。
試験終了のベルが響き渡ると、会場内から、いっせいにため息が漏れた。
そのため息の種類はさまざまで、やっと解放されたと安堵するため息、思いもかけない障害に、がっかりしたため息、怒りをまぎらわせるためのため息が混ざっているようだ。
解答用紙はすぐにあつめられ、左将軍府の職員が総出で採点に当たるようである。
すっかりあきらめて、帰宅してしまった者のほかは、採点結果を、臨時会場のなかで待っている。
そのなかには、文偉と休昭の姿もあった。
「うーむ、思った以上にぜんぜん出来なかった。なあ、
『問・1 つぎのうち、孔明を書いたことのある漫画家はどれでしょう。1・美内すずえ 2・木原敏江 3・青池保子』って、わかったか?」
「当然だ。3だろう。あの軍師は、かなり笑撃的であったな。詳しくはイブの息子たちをドーゾ」
「しまった、判らないので、適当に1と答えてしまった」
「こんな問題ばっかりだったよな。点数を稼げるやつがいるのだろうか。普通の公務員試験みたいに、常識問題が出ると思ったのになあ。暗記なら得意なのだけれど、あれはむずかしいよ。
軍師自身が常識人ではないから、あんな問題になったのかなあ…なんだったっけ、非常識のエレクトリカル・パードレ?」
「パードレじゃ、『父』だろ。電気仕掛けのオヤジってなんだ」
「なんで丁寧に訳してくれるのさ…」
どんよりと暗い空気に包まれ、反省会をするふたり。
「せっかく楽しみにしていた、プリンスエドワード島が遠くなっていく。パスポート用意したのに、無駄になってしまったね」
「まったくだ。証明写真や印紙代の返還を要求したいところだな。なんだって、あんなに高いのだ、印紙代! びんぼう人は、海外に出るなということか?」
「そう悪く取っちゃいけないよ。でも、選択問題だったわけだし、文偉なら、運がいいから、もしかしたら受かっているかもしれないよ?」
「受かったとしても、一人じゃ味気ないな。辞退するかな」
「そんなの勿体ないよ。もし文偉が受かって、プリンスエドワード島に行くことがきまったら、向こうからエアメールを送ってくれ。おみやげはメイプルシロップで頼む」
「遠く離れても、おまえのことは忘れやしないさ。きっと連絡するよ」
「そうしてくれ。というか、なんなのだろう、この卒業式当日のような会話は」
試験の出来については、もう取り返しがつかないので、気安い友達同士の、倦怠期の夫婦、あるいは言葉遊びにも似た会話をして暇をつぶして、結果を待つ二人である。

そうしてしばらくすると、偉度が、蒼い顔をして、二人のまえを行き過ぎた。
めずらしくも狼狽しているようである。
ひとりでぶちぶちと、だから言わんこっちゃない、などと口にしている。
「おおい、偉度。試験の結果はどうなった」
文偉が声をかけると、偉度はいかにもうるさそうな顔を向けて、答えた。
「満点がひとり出たので、面接さえクリアしたなら、その者が軍師の義弟となるだろう」
「「満点!」」
はっと気づいた文偉が、会場を見回すも、そこに、目指す者の姿はなかった。
「われらが90番台であるから、あの男は100番台のはず……って、タケノウチがいない! 偉度、そいつの番号はわかるか?」
「119番だ。まったく、物好きが119人以上。世の中狂っとる。というか、肝心のあの方は最後まで姿を現さなかったな、なにをしているのだか」
偉度の苛立ちのこもったつぶやきをヨソに、119番と聞いて、文偉は、タケノウチのいた机に貼られた席番を見る。そこにはやはり『119』とあった。
「タケノウチが満点だ……」
呆然とする文偉に、偉度が声をかける。
「そう落ち込むな。よいしらせをやろう。次点はおまえだ。そのつぎが休昭。おまえたち、あの非常識問題をクリアしたのだから、ほんとうは左将軍府に配置されるべき人材なのかもしれないな」
「うわあ、誉められているのかけなされているのか、いまひとつわからないけれど、次点というのはうれしいな。われらも面接があるのだろうか」
休昭がたずねると、偉度は目をほそめてつまらなささそうに答えた。
「いつもの面子で、いまさら面接もあるまい」
「そうか? いつもの面子であればこそ、新鮮な面をみせれば、訴えるものがちがってくると思うが」
と、口を挟んできたのは馬超である。
偉度としては意外であったのだが、馬超は、大人しく行列に並び、大人しく試験を受けたのである。
まだいたのか、という無礼なつぶやきをこぼしつつ、文偉は、偉度にこっそりたずねた。
「平西将軍はどうであったのだ」
「聞いておどろけ0点だった。おまえも、むしろこの清清しさを学ぶがいい」
「0点? だってマークシート方式だったじゃないか。適当に塗りつぶしていけば、一個ぐらい当たりそうなものなのに。さすがというべきなのかな」
そんなふうにひそひそとやっている二人を見て、馬超は察したのか、じつにあっさりと爽やかに言った。
「わたしは落ちたのだろう」
「残念でございますが」
偉度は、馬超が、ここもやはり正直に、「そうでもない」と言うことを予想していたのだが、意外な言葉がかえってきた。
「そうだな。残念であった」
「は? もしや、本気で軍師の義兄弟になってもよいと考えてらっしゃった?」
偉度が尋ねると、馬超は、からからと明るく笑いながら答えた。
「新聞広告まで使って義兄弟がほしいと考えているのだ。軍師はよほど人付き合いが狭く、孤独を感じているのであろう。
ならば、わたしも知らない仲ではなし、これを見捨てることはできなかったのだ」
「はあ…」
「そこの費家の跡取り息子が受かると良いな。それでは、もう用事がないので、わたしはこれで失礼する。軍師将軍によろしく伝えてくれ」
そう言って、馬超は背を向けて、颯爽と去って行った。



孔明とマスク・ド・タケノウチこと法正は、いまや差し向かいになり、いつになく真剣に、深く深く語り合っていた。
「州境には、やはり武官を中心とした配置をすべきであると思う。もちろん文官も必要であるが、ことが大きくなったとき、文官だけでは事態をおさめられなくなる可能性があるからな。
軍律の問題ではなく、敵方に賞金首に指定された場合、領民までも敵になる」
「そこがそれ、不条理のきわみではないか。民はつねに不平ばかりを口にして、われらの恩をすぐに忘れ、そのときどきの支配者に尾っぽを振ってみせる。
やはり民は生かさず殺さず。抵抗する力を奪いつつ、搾るだけ、搾り取る」
「苛烈なことを言う。しかし真理でもある。民とはきまぐれなもの。大多数の意見こそが常に正しいとはかぎらぬ。
とはいえ、昨今は、なにを勘違いしているのか、虐げられる者たちのなかにこそ正義と真理があると思い込み、むやみやたらにかれらに肩入れしすぎる理想主義者も多い。かれらの耳あたりのよい大きすぎる声を、いかに抑えるかが問題であろうな」
「む。貴殿もなかなか過激な」
「綺麗事ばかりでは世の中は進まぬ。実務にたずさわらず、正当な手段をとらない者ほど、不平を世に訴える能力ばかりに長けていることがあるからな」
「まったく。そういう連中に、われらの仕事をこなしてみよと言ってやりたいものだ」
「一日ともつまいよ」
「ちがいない」
そうしてまさに越後屋とお代官様のように、二人はまるで一蓮托生の間柄、はたまた連理の枝か、というくらいに、ある意味、たいへんにこやかに、かつてないほど仲よく笑いあった。

そこへ、とたとたと足音をひびかせて、劉巴があらわれた。
劉巴が走るところも、たいへんめずらしい。
なにやら不穏な事態をおぼえたのか、孔明は笑みを引っ込めると、腰を浮かせて、すぐさま劉巴に向き直る。
「何事でございますか」
笑みを引っ込め、顔をけわしくして尋ねる孔明であるが、劉巴はあいかわらず表情の読めない、笑っているような顔で、こたえた。
「よいしらせだよ。おめでとう、軍師将軍。きみの義兄弟がどうやら決まりそうだ」
とたん、孔明は肩から力を抜かせると、深くため息をついて、言った。
「いや、ですから、その件は、なるべくならばなかったことにしていただきたいと、今朝、お話したばかりではありませんか」
「そうは言うがね、きみの義兄弟になりたいがために、それこそ成都だけではなく、近在の町からも百五十名ちかくが集ったのだ。いまさら、試験はやりましたけど、やっぱり気が変わったので、義兄弟はいりませんというわけにはいくまい」
「劉曹掾、楽しんでおられるな?」
「当然だ。これを楽しまずしてどうする」
言いながら、劉巴はにやりと、それこそ、さすがの孔明も、一歩うしろに退くほどの不気味な笑みを浮かべて、つづけた。
「わたしはね、君の困った顔を見るのが大好きなのだ。困り果てた君の顔はじつに素晴らしい。同好の士は多いようだよ」
そう言って、劉巴はくぐもった声で、隠微に笑った。
孔明は顔をひきつらせて言う。
「……………知りませんでした…………というか、だれとだれだか具体的に名を挙げていただきたい」
「だめだよ、これは秘密結社でね」
「秘密結社! なんの!」

『義兄弟選考? なんだそれは? だれの義兄弟だ? もしや、軍師将軍の義兄弟ということか?』
劉巴のことばに、法正はすっかり混乱していた。陳情者のための試験ではなかったのか?
うろたえる法正をよそに、劉巴は孔明の疲れ切った顔を、うれしそうに(見える)表情でながめつつ、つづけた。
「それでね、お楽しみの義兄弟候補者なのだが、わたしと許長史が徹夜でつくった試験を、なんと満点でクリアした者がいたのだよ。番号は119番」
なにやら身に覚えのある番号。
法正は、左将軍府に潜入するにあたり、袖に隠していた番号札を、おそるおそる、そっと見た。
『ノォ! 119番! わたしではないか!』
「次点は費家の跡取り息子と、幼宰どののご子息だった。119番と次点の二人、この三人から義兄弟を選びたまえ」
「『たまえ』って、なんだってそう、押しが強いのですか」
「これで君がだれも選ばなかったとなったら、いったいあの試験はなんだったのかと非難の声があがるよ。君の評判はがたんと落ちるだろうな。好感度は一気に下降線をたどることまちがいなし。某お遍路に出かけて、むしろ女性の支持層が減ったのではないかと噂のK氏とおなじ道をたどるかね」
「どういう脅迫ですか。勝手にヒトの義兄弟を募集したあげくに、今度は義兄弟を選ばねばならぬという。
義兄弟とは、やはり試験で決められるべきではない。信頼がおけて、切磋琢磨できる相手こそが理想だ。そう、志の高い議論ができる相手が」
と、孔明はここでふとなにかに気づいたらしく、マスクの下で、さてどうやってこの場を切り抜けるべきかとフル回転で演算をしつつ、だらだらと冷や汗をかいている法正のほうを向いた。
法正は生きた心地がしない。
さいわい、劉巴は、119番=マスクをかぶった法正、ということに気づいていない様子である。
しかし、いつ気づかれることやら。
それに、ナゼ唐突にこちらを向く、軍師将軍!

孔明は真正面からじいっと法正をみつめると、その手をいきなり両手でつつむようにして掴み、言った。
「貴殿、貴殿は、さきほど、義兄弟がいないと言ったな」
言った、という肯定の意味で、迫力に負けて、つい頷く。
目の前にある孔明の顔は、はじめて間近で見るものだ。
マスクの下の法正は、ぐらぐらしながら考えた。
『たしかにこれは綺麗というか、男女というか、なんだ、なんでこんなに睫毛が長くて肌が白いのだ。というか、この年齢になったなら、シミのひとつくらいは普通あるだろうに、ないのはなぜだ、どういうお手入れしたら、そうなるのだろう、やはり洗顔? というか、こいつの目とか鼻とか口とか、すごいぞ、見事な位置にぴたりとはまっておさまっておる、こうまで綺麗だとむしろ怖いぞ、ほんとうにこういうのが父親でいいわけか、ウチの子供たちはー!』 
「どうだろう、義兄弟になってみないか!」
「ヤダ!」
法正は答えると、孔明の両手を振り切って、一気に走り出した。
子供のころに鬼ごっこをやって以来の走りをみせて、左将軍府を駆け抜けると、火の玉のような勢いで、息が切れきても、自邸に向かって走りつづけた。

えらい目にあった、と足をゆるめつつ、まわりに誰もいないことをたしかめてから、べろりとタケノウチマスクをはがす。
外気に触れると、風がひんやりと冷たく、心地よかった。
そうして空気がこんなに甘いのだということを実感しながら、空に向かってたずねた。
「偵察になったのか? わからん!」
そうしてふらふらと歩きだすと、そこへ、耳慣れた声が、遠くから聞こえてきた。
「ちちうえー!」
振り返れば、なにやら荷物をたくさんかかえた子供たちと妻が、ぶんぶんと元気に手を振っている。
予定よりも、だいぶ早い帰還である。
「おまえたち、一週間は向こうにいるといっていたではないか」
「そーうなんだけどねー。はい、おみやげの『きりぼんストラップ』。父上が青で、あたしが黄色だよ」
言いながら、法正の娘は、法正にストラップを渡した。
出かけるときは、あんなにむすっとしていたのに、この機嫌のよさ。
というか、まあ、機嫌がよいほうが、父としても嬉しいが。
「わたしは予定通りに帰ろうとしたのですけれど、子どもたちが、早く帰ろうと言い出したのですよ」
と、法正の妻が、さっそく、いそいそとストラップを携帯につけている法正に言った。
「なぜだ。ホームシックにでもかかったか」
「ちがいますよ。ほら、邈や、家に戻ったら、父上にちゃんと言うと、自分で決めたのでしょう」
「なにをだ?」
目をぱちくりさせていると、邈は、ちらり、ちらりと上目遣いに法正を見る。
が、照れてしまっているのか、唇をもごもご動かすばかりで、肝心のことばが出てこない様子だ。
それを見て、法正の妻は笑った。
「仕方のない子ね。わたしたち、温泉についたのはいいのですけど、たった三人だったでしょう。それに、あなたと喧嘩したまま出てきてしまったから、この子たちったら気にしてしまって。
温泉でゆっくり出来るのも、父上がお外でいっしょうけんめいお仕事して、お金を稼いでくれるからなんだよね、ってこの子が言い出して、それで早く帰ろうと決まったのです」
「なんと」
感激のあまり、法正がことばを詰まらせていると、邈は、そのまま勢いに乗ってしまえと思ったのか、小さな頭をぺこりと下げて言った。
「父上、ひどいことを言ってごめんなさい!」
「邈や~」
法正はうれしさのあまり、目の前の子を両手で抱き上げると、そのまま肩車をした。
邈は恥ずかしいのか、いいよ、いいよと言ってすこし暴れたが、肩におさまってしまうと、ぴたりとおとなしくなった。
子どもの重さを肩におぼえつつ、法正は、黙ったまま、妻と娘と並んで、自邸へと帰って行った。
無言であったのは、涙があふれてどうしようもなかったからである。
その日見た、自邸の方角にかたむくキツネ色の太陽を、法正は生涯わすれなかった。

まだつづく……

(サイト「はさみの世界」 初出2006/04/12)

おばか企画・心はいつもきつね色 旅立ち編・1

2020年10月31日 15時05分41秒 | おばか企画・心はいつもきつね色
孔明は首を伸ばして、いかにも迷惑そうに顔をしかめてみせる。
法正と孔明が顔をあわせるときというのは、たいがい評議の場であったから、知っている顔というのは、つんとすました表情ばかりである。
素だと、ずいぶんころころと表情が変わる男なのだなと感心しつつ、法正はすこしばかり意地悪な気持ちになってたずねた。
「渋い顔をしていらっしゃる」
「当然だろう、君には義兄弟はいるのか」
「いや」
なぜ急に、義兄弟のことなど聞いてきたのであろう。
義兄弟か。
いるにはいたが、向こうはどう思っていたかはしらぬ、と法正は胸のうちでつぶやいてみる。

思い出されるのは、劉備を蜀に招き入れる前に死なねばならなかった、張松のことである。
風貌は、法正がキツネならば張松はイタチ。
腹黒そうな獣っぽい風貌がお互いに気に入って、仲良くしていたものだ。
義兄弟も同然の、濃く、つよい絆で結ばれていた。
あとにも先にも、心から親友と呼べるのは、張松ひとりだけであろうと法正は思っている。
ふしぎと人というものは、似たもの同士で好き合うものだ。
法正が張松をこのましく思ったのは、その容姿が、モテなさそう、というところからであった。
そうして、語り合えば、その深い知識と見識に感銘をうけた。
それは相手も同じであったようである。
孔明のようにキラキラと華やかで目がくらみそうな者とは、まず初対面からしてうまくいかないことがおおい。
ヒトを見た目で判断してはならぬというが、しかし初対面でできあがった印象というものは、強烈なものだ。

もちろん、あとから、それはどんどん変化していくものであるが、しかし、頑固に初対面での印象を変えないで人付き合いをつづける執着質の頑固者もいる。
それが、まずいことに劉璋だった。
劉璋から、法正は、容姿がキツネっぽい、という理由から、遠ざけられた。
そこで、同じようにイタチっぽい、という理由から遠ざけられた張松と連合し、こんな主君は追い出してしまえと結論したのである。
劉璋は、キツネ風の容姿のなかに眠る、才能や志の高さを、けっして見ようとはしてくれなかった。
小生意気な軍師将軍の場合は、これだけ容姿に恵まれているのである。
自分がこれまでに味わったような悲しみや苦痛は、味あわずに済んできたであろうと思い、法正は、また腹が立ってくる。
張松は、裏切り者として捕らえられ、けもののように殺されてしまった。
法正はその報復のために、張松の処刑に関わった者、生前にその容姿からあからさまに侮っていた者たちを殺した。
世間の非難をおおいに浴びたが、法正はそれでもかまわなかった。
張松が日々、内面を磨くべく研鑽にはげんでいたのは、おのれのみにくい容姿を、内面を磨くことですこしでも上向かせようという考えからであった。
卑屈に、世を憎む男ではなかった。
真正面から見れば、張松の双眸にあった、聡明な思慮深さを読み取れたであろうし、不遜であるとしばしば批判された強気な発言のなかに、己が志のためならば、どんな犠牲も厭わないという、気高い精神を感じ取ることができたであろう。
それがわからなかった者に、なんら同情する気は起こらなかった。
法正は、しかし、処刑についての真の理由、動機を、だれにも語らなかったので、虐殺をおこなったのは、いまもって、自分の恨みを晴らすための行為だったと思われつづけている。
いいわけをするつもりはない。
おそらく、生涯沈黙しつづけるであろう。


義兄弟はいない、と法正が答えると、孔明は、すこしがっかりしたような顔をした。
「そうか。義兄弟というものは、やはりよいものなのかどうかと、知りたかったのだが」
まだ公務中だろうに、なんなのだろうと、不真面目な態度に怒りつつ、法正はたずねた。
「義兄弟が欲しいと思っておられるのか?」
「いたら、どんな心持がするのだろうと思ったのだよ。ほら、主公には関羽と張飛という義兄弟がおられる。よくお話をしてくださるのだが、もしも二人の義弟がいなければ、自分がいま、成都にいることはなかっただろうと、おっしゃっているのだ。
わたしの場合は、実の兄との仲は最悪であるし、弟はわが道をゆく男であるから、世間で言う、仲のよい兄弟とは当たらぬ気がする。
こういうと、奇異に思われるかもしれぬが、家族のなかに、わたしの心の支えとなるものがいないのだ」
と、語ってから、孔明は、ふと我にかえり、喋りすぎだな、おかしいな、とつぶやいた。

ふん、そういえば、こやつの妻女は、とんでもない変わり者で、諸国漫遊の旅に出たきり、帰ってこないという噂だ。
それでいて、妾も持たずに、一人身を通しているのだから、こやつも変わっておる。
もしも心の支えが欲しいというのならば、放埓な妻なんぞ無視をして、妾をもらえばよいものを。
これだけの器量、名声、くわえて若いときたら、どんな女とて好きに選びたい放題であろうに。
世の中には、張松のように、不公平な目にばかりあって、そのまま芽が出ずに死んでしまった者もいれば、この男のように、栄光の道を突き進むためにひつようなもの、すべてを最初から用意されているような者もいるわけだ。

考えたら、法正は腹が立ってきた。
なーにが義兄弟だ。
主公の寵愛も深く、まわりに固めている連中も、なにやら個性的なやつらばかりで仲がよさそうであるし、武官としてついているのは趙子龍、それにさきほどの行列のなかに錦馬超がいたな。
なぜにこやつの周囲ばかりに人があつまる。
顔か? 顔なのか?

法正の脳裏に、ふと、子どもたちの顔が浮かんだ。
実の父よりも軍師将軍のような父がいいと言い切った。世の人間に、どれだけ嫌われようと、痛くも痒くもないフリをつづけていられたのは、すべて子どもたちによい暮らしをさせてやりたいと思ったからである。
それがなぜだ。なぜ嫌われねばならぬ。
またまたホロリと涙がこぼれそうになり、法正はあわてて奥歯をぎりぎりと噛んで、鼻の奥のほうからツンとこみ上げてくるものを我慢した。
マスクをかぶっているからといって、油断してはならぬ。
こやつの前で泣いてなんぞたまるか。

ぐっと奥歯を噛みしめすぎるあまり、奥歯が、ごりごり、ぎりぎりと嫌な音を立てて鳴った。
なにせ滅多に泣く、ということがないので、泣くのを我慢する経験というのもすくないから、どうしても仕草が不自然になる。
そんな法正を、孔明はふしぎそうに見る。
「どうした、具合でもわるいのか」
「べつに」
なんでもない、かまうな、と言いたいところであるが、泣きそうになっているために長くしゃべることができない。
話かけるでない、気が利かぬやつよ、と法正はいまいましく思うが、孔明を責めるのはまちがっているだろう。
目の前にいる人物が、じつはマスクをかぶっており、しかも泣きそうになっているなどと、だれが想像するであろうか。
涙をひっこめねばとあせるあまりに、またガリゴリと奥歯が鳴ったので、孔明はだれかを呼ぼうと戸口に立とうとする。
あの目ざとい主簿に戻られたらコトだ。
あわてて法正は孔明を止めた。
「てーい、ていていてい!」
「てい………?」
『てい』とはなんだ、と不思議そうに首をかしげる孔明に、法正の涙は汐のようにしりぞいた。
『てい』とは、ことば自体に意味はないのであるが、法正が目下の者を叱るときに、つい口にしてしまうことばなのである。
たしかに孔明は年下で、自分よりいささか地位も下であるが、ここは敵陣。
いかん。
孔明の怪訝そうな顔が、だんだんと疑いの方向に曇っていく。
いかん、いかん。ごまかさねば。

「て…弟弟(ていてい)ということばをご存知か」
よし、うまく事前の話題ともつながっとる。
おのれの機転に、おもわずにやりとする法正であるが、しかし孔明の顔はぎゅっと険しいものになった。
なぜ!
「弟弟。弟は弟としての道を尽くせということばであろう。つまりは、弟は弟らしくしておれということだ。
むかし、兄に言われたことがある。弟に心を添えると悌という字になる。つまり悌とは、弟が兄に素直に仕える道を示す。おまえに心があるならば、われに従え、とな」
どうやら、孔明の兄は、某東京都荒川区の日本一有名な中学校の国語教師のような説得をする男らしい。
クサッタミカン。
よいことを言うではないか。
悌は、兄弟の道というほかに、年下の者が年長者に従うという意味でもあるのだ。
言ってやれ、軍師将軍の兄。
「従え従えとみなは言う。しかしわからぬのは、なぜあきらかに劣る者に、年下だから、目下だからという理由で仕えねばならぬのか、ということだ。兄はおのれのことを簡単に棚にあげて、わたしに要求ばかりをつき付ける。先に生まれたというだけではないか」

苛立ちの含まれた孔明のことばに、正直なところ、法正はおどろいた。
というのも、孔明は、公的な場では、とんと本音を語らぬところがある。
だから取っつきにくいし、周囲にいるのも、いつも同じ顔ぶれ、という印象がある。
狭い男よのう、とマスクの下で鼻を鳴らす法正であったが、孔明は、するどい眼差しを、きらりと法正に向けてきた。
法正のことばに怒っているというふうではなく、おのれの頭に浮かんだことに、興奮しているというふうだ。
「そなたはどう思う? わたしは曹操の強引な手法は好まぬし、才能さえあれば兄嫁を盗むものであっても構わぬと公言する姿勢は評価しないが、根元の部分では時代に即した考えであると思っている」
なるほど、だからこやつの周りには、若手が多いのだな、と反感をおぼえつつ法正は考えたが、つづく孔明のことばは意外なものであった。
「とはいえ、『悌道』を忘れてはならぬのだ。やはりいにしえより尊ばれる物には、尊ばれるだけの理由がある。能力のある者には、能力のもっとも発揮できる場を与えてやる。これは上に立つ者の義務だ。
しかし、能力ばかりを優先して配置すると、今度は周囲がやっかみ、能力のある者をかえって駄目にしてしまう場合がある」
「さすれば、才のある者に名のある年長者を付けてやればよい」
孔明は、法正のことばに、深くうなずいた。
「そのとおり。わが左将軍府でも、試験的に許靖を長史の地位に据えたのであるが、これがよかったようだ。
荊州人士は若手が多いから、どうしても益州人士の反感を買いやすい。荊州人士も、若いというところで、未熟な部分がある。そこを許靖や董和のような年長者が補助してくれるので、揉め事はだいぶ減っているように思う」
「そこまで考えての人事だったのか」
法正が素直に感心すると、孔明は困ったような顔をして笑った。
「この結論にたどり着くまでが長かったのだよ。わたし自身も、さまざまに苦労を重ねたはずなのに、実際に上に立って動こうとすると、どうしても理念だけが先行して、情の部分を忘れがちになる。だから冷たいと言われてしまうのだがな」
「いやいや、それは仕方あるまい。公平さを追及すれば、情の部分はどうしても切り捨てざるをえなくなる。たとえ一時は恨みを買ったとしても、よい結果を生みだせれば、恨みは消えよう。上に立つ者に必要なものは、恨みを買うこと自体のつらさに耐えられる強靭な精神なのだ」
法正が言うと、孔明も、身を乗り出してきた。
「まったくだ。恨みを買うことをおそれ、下におもねれば、主従関係にねじれが生じる。部下を丁重にあつかいすぎて、勘違いさせてはならぬし、かといって過度に恐れさせれもならぬ。むずかしいところだ」
「批判の対象でありつづけること、そして孤独であることを恐れてはならぬ。結局、道を阻むのは、政敵でも何者でもない、おのれの中にある恐れの心なのだ」
「そのとおり。かといって、孤独であることに慣れすぎてはならぬ。常に、他者の心を意識していなければ、狭い世界に閉じこもることになってしまう。
そうなれば、研鑽して得た知識も過去の者と為り下がり、無駄になってしまう」
「狭い世界とは、この巴蜀の地に閉じこもる、という意味か」
「そうではない。狭いとは、心のありようが狭くなる、ということだ。小さな価値観、小さな希望、小さな志。
小さな社会のなかで、すこしばかりの賛同者に囲まれて、多くのひとびとを否定する有り様を狭いと言っている。それはあまりに悲しかろう」
「悲しいとは」
「おのれの志をつよく持つということは、つまり志に反するものを否定する、ということでもある。もちろん、それは常にせめぎあって、互いに削りあいながら、うまく世の中に馴染んでいるものだ。
しかし、なかには頑なにおのれを守ろうとし、他者を否定し続ける者もある。そういった者の思考を突き詰めていくと、かならずと言っていいほど、その者が抱えている差別と偏見と、そしてその醜い心をもたざるをえなかった境遇にぶつかる。だから悲しいのだ」
「悲しくはなかろう。その者は、好んで心を変えぬのだ。狭い世界に閉じこもり、生涯を過ごすのも、その者の選んだ道。なにを悲しんでやる必要がある」
「そうだろうか。みながみな、同じように生きればよいとは思ってはおらぬが、おのれの中にある悲しみにすら気づかぬまま、世が大きく広く、ときに残酷であり、しかしうつくしいということを知らぬまま死ぬのだ。悲しいぞ」
「それはそうかもしれぬが、しかし悲しいなどと、いちいち気遣ってやる必要もあるまい。そういう頑固な連中は、たいがいが変革を好まぬ。われらの邪魔であろう」
「障害ではあるが」
いつしか法正は、声色を変えることすら忘れ、議論にふけっていた。
対する孔明も、めずらしくも話がぴたりと合う人物にめぐり合ったことで興奮し、目の前の渋い顔をした男が、似合わぬ甲高い声でしゃべりだしているのにも、たまーに、『われら』などと口にしていることにも、さほど気を払わない。
二人はすっかり話し込んでいた。

つづく……

(サイト・はさみの世界 初出 2006/04/12)

おばか企画・心はいつもきつね色 試験編・3

2020年10月28日 09時47分01秒 | おばか企画・心はいつもきつね色



左将軍府は、思ったよりもずっとせまい場所であった。
そこで働く者は総じて若く、みな、忙しそうに、あちこちをうろうろしている。
どの部屋をのぞいても、廊下を移動する法正には注意を払わない。
途中、許靖が庭の鯉にエサをやっているところや、董和がぶつぶつとこれからの仕事の段取りを復唱しているのに行きあったが、マスクをかぶっているおかげで、自分が法正だということは、ばれずに済んだ。
さて、肝心の軍師将軍はどこにいるだろうか。
廊下を適当に歩いていると、前方から、きんきんとした声が聞こえてきた。
見れば、軍師将軍の小生意気な主簿・胡偉度が、顔を朱に染めて、一室から出てくるところである。
「なーにが、『それならば仕方ない』ですか! 許長史だけのたくらみというのならばともかく、劉曹掾が絡んでいるのですから、油断大敵だというのに! 知りませんよ、わたしは!」
尻尾を踏まれた子犬のようにきゃんきゃんと喚く胡偉度にたいし、なにやら低い声がそれに応じた。
声の主は部屋の中にいるらしく、廊下で身をひそめる法正には、言葉が明瞭に聞きとれない。
しかし、声には確実に聞き覚えがあった。夢に出るほど憎らしい、軍師将軍その人のものである。
胡偉度が、足音も荒く遠ざかっていくのを見計らってから、法正は、足音をしのばせて、軍師将軍の部屋にちかづいた。
わたしはもしかして、間者としての才能も持っているのかもしれぬ。
軍師将軍の部屋の扉は、偉度が出て行ったままの状態で開けはなたれており、中をそっとのぞけば、孔明が、立ったまま、文机のうえの竹簡や、手紙などを整理していた。
「偉度か。戻ってきたのか? それはよい。莫迦なことをしたら、あとでおまえが後悔することになるのだからな」
孔明が、手をてきぱきと動きながら言うので、法正は、もしや、偉度が戻ってきたのかと思い、ぎくりとしたが、周囲を見回せば、だれもいない。
足音を忍ばせてきたつもりであったのに、孔明には、法正の足音が聞こえたようであった。
法正が返事をしないまま、どう対応しようかと考えているあいだに、孔明が顔をあげて、扉のほうを見た。
すぐに目が合い、法正はぎくりとする。
孔明も、その眉をぎゅっとしかめた。
「そなたは何者だ?」
いかん。何も見ないうちから見つかってしまった。
なんという間抜けさ加減。
このままつまみ出されるのはあまりに勿体ない。
なんとかよい言い訳を、と法正はすばやく知恵をひねり、答えた。

「あたらしく左将軍府に配置をされました者でございます。左将軍府事にごあいさつをと思いまして」
法正が、いつもの声を誤魔化して、ひくく唸るように言って拱手すると、孔明は、しかめた顔を元に戻し、左様か、ご苦労だな、と応じた。
しかし、机の上を整理する手はとめない。
孔明は、手を動かしながら、ふと思いついた顔をして、法正のほうを向いた。
「そうだ、そなた、左将軍府での初仕事を頼まれてみぬか」
思いもかけない誘いに、法正は戸惑いつつ、たずねる。
「かまいませぬが、なにをすればよろしいでしょうか」
「うむ、手紙を探してほしい。私的なものなのだが、あれがないと、返事をするのに困るものなのだ。手が空いていればでよいのだが」
法正は、どうやって孔明に近づくべきかを考えていたのだが、いまの時点で、良い策はなにも浮かんでいなかった。
それが、孔明のほうから、仕事を頼むと言ってきたのである。
まさにチャンス。これに乗らない手はない。
「それはもちろん。是非」
言いつつ、法正は孔明の執務室に入る。

そして、孔明の指示にしたがい、部屋のあちこちに所せましと並べられた竹簡や書物を片っ端から見てまわった。
探し物をするフリをして、竹簡や書物の内容を調べて見たのであるが、どれも公的なものばかりである。
それが、まるで兵卒がぴたりと整列しているように、うつくしく並んでいる。
法正も自分が神経質だと思っていたが、孔明の神経質の程度がここまでとは思っていなかったので、なんとなく敗北感をおぼえた。
「探してらっしゃる手紙というのは、どのようなものなのですか」
声色に気をつけながら法正が問うと、孔明は答えた。
「兄からの手紙だ」
きらり、とタケノウチマスクの下の法正の眼が光る。

軍師将軍は従兄が魏、兄が呉に仕えており、それゆえに、親族との連絡を慎重すぎるくらい慎重に最低限におさえている。
もちろん、他者の邪推や疑念を払うためであろう。
法正も、そのあたりのことを調べさせたことがあったが、じつは、疑いをかけられることを恐れて連絡をすくなくしているのではなく、どうやら単に仲が悪いから連絡がすくないらしいということを突き止めていた。
だが、それすらも偽装だったらどうなる。
この男のことだ。
そういう工作くらい、やってのけるであろう。
わたしがこやつだったら、そうする。
よいネタが得られるかもしれぬ。

孔明の探し物の仕方は、手際がよいのかなんなのか、散らばっていた書簡や竹簡をぜんぶまとめなおし、つぎからつぎへときれいな山にして、次に移っている。
だから孔明が移動したあとは、まわりのものはすべて、丁寧に整理整頓されているのであった。
「整理整頓だけは得意なのだ。やりすぎて、みなに嫌がられるが」
独り言のように孔明はいう。
そうであろうと法正は思う。
あまりに孔明がきちんと整理しすぎるので、一緒に探しものをしていても、こちらが散らかす一方のような気がして、居心地がわるいのだ。
孔明がこれでもない、それでもない、と探しているのを横目に、法正は、ほかになにかこやつの弱味になるようなものはないかと探ってみる。
『なんだこれは』
法正はひとつの書簡に行き当たったが、そこには、

『領収書 上様
○×○△△△×○
教育費として』

ハテ、暗号かと首をひねる法正であるが、孔明は、それを一緒に横から見ると、意外にも安堵したように言った。
「ああ、それだ。よかった、そこにあったのか。これで兄に二重請求だと証明できる」
「二重請求?」
「喬を引き取ったときに、兄より、いままでの教育費を寄越せといわれたので、一括して全部支払ったのであるが、最近になって、また同じ内容の請求書が届いたのだ」
孔明は、その書簡を見ると、なにやら後ずさりたくなるような、不気味な笑みを口はしに浮かべる。
「これで先方も、ぐうの音も出まい」
法正がそのとき思ったのは、『冷え切っとる』ということであった。
「ありがとう、これで助かった」
と、孔明はあらためて法正を向き直るのであるが、目と目が合うと、怪訝そうに首をひねる。
「おや、君と前に会ったことがあっただろうか」
「いいや!」
法正は、即座に、全力で否定した。
しかし、声が地声になってしまい、あせるものの、孔明は、それを緊張のあまり、声が引っくり返ったのだと受けとめたらしい。

ちょうどそのとき、左将軍府の門のすぐそばに、臨時設置された試験会場のほうより、試験終了をつげるベルが響きわたった。

旅立ち編につづく……

(サイト・はさみの世界 初出2006/03)

おばか企画・心はいつもきつね色 試験編・2

2020年10月28日 09時44分31秒 | おばか企画・心はいつもきつね色



法正は、混乱の中にいた。

なぜに法正ともあろう者が、わけがわからぬ状態に陥っているかといえば、このマスク、じつは法正の顔とあまり一致しておらず、視界がひどく狭い状態になっているのだ。
さらにマスクの内側にこもる熱のせいで、頭がぼーっとしており、まともな思考が働かないことがわざわいした。
そのため、悲しいことに、門扉に飾られた、『左将軍府事 義兄弟選考会』の文字が読めなかったのである。
マスクのせいで、顔ばかりが妙に熱い。
もしやこのマスク、発熱素材でできているのではあるまいな、とあやしんでみる。
これ以上、顔やせしたら、キツネどころか、ひっくり返した三角フラスコだ。
そうして、答案用紙を手にとって、そのてっぺんにある文字を見た法正は、首をかしげる。

『筆記試験・答案用紙』

はて、面妖な。
左将軍府では、陳情者に試験を受けさせてから、陳情を聞く仕組みにでもなっているのだろうか。
うむ、あの石橋を叩いたうえに十分に補強作業をさせ、耐震構造なんぞを調査してから、ようやく歩をすすめる、あの軍師将軍らしい発想ではある。
孔明の、若さにまかせて、はじけてみるということをしない、年齢に見合わず、妙に老練なところが、法正はきらいだ。
要領がよいというふうにさえ、思えてしまう。
一方の法正は、劉璋を追い出し、劉備を招き入れるという大博打を、中年になってからおこなっている。
劉備に仕えるまでの人生というのは、法正にとっては、人生のながい予行練習のようなものだった。
法正としては、いまこそが人生の春、いや、青春と言いかえてよいだろう。
だからこそ余計に、人が苦労して為した事業に、あとからやってきて乗っかった(ように見える)孔明が気に食わないのである。

軍師将軍のことはよい。この問題がなんだという。
適当に答えてはイカンのか?
周囲を見まわせば、どの顔も真剣だ。
そこまでして軍師将軍に陳情を聞いてほしいというのか。
ええい、軍師将軍よりも、わたしのほうが、ずっとずっとずーっと権限を持っているのだぞ。
それなのに、どいつもこいつも、娘や息子まで軍師将軍がよいという。
あやつとわたしの差はなんだ?  
出自か? 若さか? 顔か?
法正の脳裏には、温泉へ旅立つ息子が、声をかけても、ふいっと横を向いて返事をしてくれなかったことが浮かぶ。
悲しくなって思わず泣きたくなるが、ここは敵地・左将軍府。
ぐっと堪えて、涙がこぼれないように目に力をいれた。
前方で、
「ぎゃあ! 渋怖い!」
などという間抜けな声がするので見れば、試験中だというのに、こちらを振りかえって様子を探っていた費家の馬鹿息子であった。
法正はひやりとする。
もしや、費家の馬鹿息子、思ったよりは馬鹿ではなく、こちらを怪しんでいるのではないか?
いかん、これはあくまで陳情者のフリをしなければ。これほどの人があつまっているなかで正体を明かされ、マスクを奪われてみるといい。末代までの恥。それこそ自殺モノである。
それにしも、じつに面倒な。周囲の空気に呑まれて、なんとなく試験の会場まで来てしまったが、このままでは普通に陳情を聞く軍師将軍にあって、普通に帰ることになってしまう。それでは、なにもわからぬぞ。
せっかくこの目で確かめたいと思って、変装までしているというのに、それでは勿体なかろう。
ここはひとつ、得意の策を用いるとしようか。
法正は、とりあえず生真面目なところをみせて、試験にとりくんだ。



● 劉巴&許靖入魂の試験問題の代わりに、みなさまはこちらをドーゾ●

あなたのキツネチェック!

○の数を指折り数えてくださいませ。あなたのキツネ度がわかります。

○ ホウセイといえば、縫い物でも大学でもなく孝直だ
○ 仲達や曹操が主人公の漫画があるのなら、近いうちに法正が主役の漫画も登場するはずだと信じてやまない
○ ふくろうの「ホーホー」という鳴き声は、法正を讃えているものだとあえて主張してみせる
○ コー○―の無双シリーズに法正を加えるべく、詳細な計画案の書かれたユーザーアンケートを提出した(2006年時点)
○ 法正が長生きさえしていたら、丞相の座についたのは孔明ではなく、三国志演義の扱いも主役級になっていたはずだと語りだしたら一晩止まらない
○ 法正を讃えるポエムをつくったことがある、あるいはつくる予定だ
○ 敵は滅ぼせ。身内ごと。
○ 人間、ほどほどに残酷さもひつようだ
○ いざとなれば劉備のために盾となることも辞さない法正バンザイ
○ じつはわたしが法正だ

○が十個だった→ありえません。
もう一度、鏡の前でじっくりと「テクマクマヤコン」と唱えながら、冷静になってチャレンジしてみてください

○が九個~七個→ノイローゼかもしれません。え? 断じてチガウ? 失礼いたしました。
あなたは立派なキツネマニアです。これからも独自の世界を守りつつ、世に法正の素晴らしさをひろめてください。法正の未来はあなたの双肩にかかっています。

○が六個~四個→妥当なところで本物の法正好き? 
国語の教科書に掲載されていた「ごんぎつね」に泣いた日々をなつかしみつつ、法正のためにのこりの人生を歩いてみませんか。
え? 断る? 残念です… 

○が三個~一個→限りなく法正に似ているあなた。
しかし、もう一歩のところでマニアには届かない様子。あなたに足りないものは、思い切り? 大胆さ? それとも残酷さ? 憎まれ役をあえて買った感のある、法正の強靭な精神を参考に、残酷道をめざしてください。すべての道はローマに通ずのことわざどおり、いつか法正の境地がわかるかもしれません。

○がゼロ個→無関心。それは愛の対義語。
危険です。要注意です。法正は世に必須なビタミン、あるいは社会のスパイス。かれがいなくちゃ、劉備の人生は本当に変わっていたはず。まずは正史三国志を温かい目で読むことからはじめましょう。





ほうぼうで、来場者が机に向かって必死に手を動かしているなか、法正は、誰より早く筆記用具を机に置くことができた。
試験の出来栄えは完璧である。
そして、顔を上げると、試験官らしい、左将軍府の若者(さいわい、法正はその男を知らなかった。知っている人物であったら、正体がばれることが恐ろしくてなにもできなかっただろう)によく見えるように、手を挙げた。
若者が近づいてくると、法正は顔をしかめて、なるべくいつもの甲高い声に似ないよう、低い、くぐもった声で訴えた。
「すまぬ、急に腹が痛くなった」
「試験終了まで我慢できませぬか」
「無理だ。このままここに留まれば、とんでもないことになるぞ」
とんでもないこと、の一言が利いたらしい。
若者は大いに顔をしかめながらも、最終問題までおわっている答案用紙をちらりと見た。
「いかなる者であろうと、試験終了までは会場を出てはなりません。もし会場を出る場合は、失格ということになるのです」
融通が利かぬ。
袖の下を渡すにも、あまり効果のなさそうな、頑固っちい面構え。
さて、どうしたものかと、腹痛のフリをしつつ法正が考えていると、若者は、周囲に聞こえないよう、顔を近づけて、法正に言った。
「しかし、見れば、試験はすんでいる様子。試験番号は119番ですね。よろしい、ここに戻らないというお約束でしたら、試験を受け終わったということにしてあげましょう」
法正は、ほっと安堵し、腹をさすりつつ、エビのように前かがみになって、席を立った。
若者が、机の上の答案用紙を回収しているのをうしろに、会場をあとにする。
うむ、よい奴であった。
しかし、いかなる理由があれ、上からの規則を、勝手に破るとはけしからん。
わたしの部下であったなら、罷免だ、罷免。
そんなことを考えつつ、法正は左将軍府の中に潜入した。

つづく……

(サイト・はさみの世界 初出・2006/03)

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