はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

短編・笛伶(てきれい) 後編

2020年05月05日 10時10分05秒 | 短編・笛伶(てきれい)



翌日、董和は、あらかたの仕事をすませてから、時間を見計らって、またも休昭の塾へとむかった。
親ばか、ここに極まれり、といった感である。
母を亡くした子へ、愛情を惜しみなく注いできた。
母親がいない分を、自分がこなさねばと信じており、董和がいま、塾へ足を向けているのは、母親代わりとしてである。
そう、そうなのだ。
自分に言い訳しつつ、董和は、昨日と同様に、休昭の塾の中へと入って行った。
最初は、休昭の様子が気がかり、ということで、細部に目が届かないでいたが、訪れるのが二度目になったいまでは、この塾が、なんとなく片付きが悪い場所だな、ということに気づく。
教室の高窓の下に、董和が引きずってきた木箱も昨日のままであったし、枯れ落ちた葉も、そのままに、日陰ではすでに腐り始めており、最近、掃き清めた気配がない。
煤けた雰囲気、とでもいおうか、それも、つい最近のこと、という話ではなさそうだ。
ふと、建物を中心に見回っていると、木陰に隠れるようにして、額に斑点のような染みの目立つ老人が、切り株にすわって、ぼんやりしているのに出くわした。
面構えからして、あまり律儀そうでもない。
これは狡い男だな、と董和は勘のよいところで判断した。
すると、そこへ、昨日見た娘が、駆け寄ってくる。
「じいさま、たきぎを集め終わったよ。次は?」
「あとは、見えるところを適当に片しておけばええ。ところでおまえ、玉の輿に乗るのにちょうどいい、めぼしい男は見つかったか」
またえらく、遠慮も恥もない問いかけだな、と、董和が呆れていると、娘も、まるで悪びれず、うん、と可愛らしい顔を頷かせた。
「うん、二人。どっちがいいと思う、じいさま。ひとりは董和って、むかし益州の太守をやっていた人の息子なの。気が弱くて面白くないし、男らしくないけど、いい暮らしはしてそうじゃない?」
「董和?」
とたん、老人は、毛虫が背中に張り付いていたときのように、嫌悪もあらわに顔をしかめた。
「莫迦いうな、おまえ、董幼宰といったら、そのむかし、ほかならぬ、このじっさまを、賭博の罪で牢にぶちこんでくれた男じゃないか。それに、あいつは、とんでもない倹約家のうえに、お殿様に嫌われているからな、禄もたいしたことない。駄目だ、駄目」
董和は覚えていなかったが、成都の令のときに、あちこち賭場を摘発したことがあり、そのなかの逮捕者の一人が、その男であったようだ。
老人のことばに、娘は、同じく顔を歪ませ、口を尖らせる。
「そうなの? 金、持っていないんだ」
「そうだ、莫迦、もうちょっと人を見る目を養え。おまえはな、頭はよくないが、器量はとびきりいいときている。ちょっとでもいい暮らしをしたいのであれば、若いうちに、分別がまだついていない若造を捕まえて、玉の輿に乗るんだ。苦労なんかしたくねぇだろう」
「なあんだ、それじゃあ、もう構ってやる必要はないか」
「うん? 向こうはすっかりその気なのか」
老人は、思わず董和が蹴り飛ばしてやりたくなるほど、いやらしい笑みを浮かべて、痩せた肩を揺らした。
娘は目を細めて、きつく言う。
「なにもさせてやってないよ。ただちょっと、声をかけてやって、掃除を手伝ってやっただけ。でも、もういいや、勘違いされたらいやだから、もう無視することにしよう」
「そうそう、それがええ」
騙された、とぶつぶつと頬を膨らませ、不平をぶつぶつ言う娘の顔は、たしかに愛らしいことは愛らしいけれども、まちがいなく老人の血縁であろうことは、すぐに知れた。
小ずるそうな目が、そっくりであったからだ。
ふと、その娘の顔が、見ているほうがたじろぐほどに、ぱっと明るい、愛らしいものに戻った。
「じいさま、もうひとり来た。楊家の跡取り息子なんだって。あれならいいでしょう?」
『あれ』、といわれた青年は、ほかならぬ、先日、休昭に仕事を押し付けて帰ってしまった、調子のいい男であった。
楊家の子息か、と董和は納得する。
父親は劉璋のお気に入りで、禄高も、董和などとは比べ物にならないほど高い。
楊家の息子を見つけ、うれしそうに手を振る娘に、楊家の息子も顔をほころばせて、近づいてきた。
聞こえないように、となりの老人が、ぼそりと娘に言う。
「うまく捕まえろよ」
「わかってる」
そうして、娘は、可愛らしい顔を微笑ませて、楊家の息子に、子犬のようにじゃれついていく。
楊家の息子のほうも、すっかり娘に参ってしまっているようで、『捕まる』のは時間の問題のようだ。

董和は、その様子に、暗然としながらも、どこかで安堵しつつ、ため息をついた。
特訓はたしかに無駄になってしまったけれど、こんな娘をまともに相手にして、振り回されたなら、休昭はメチャクチャになってしまう。
深入りする前に、娘のほうで逃げてくれるのであれば、ありがたい。
娘が言葉どおり、あれを無視してくれればよい。可哀相ではあるが、あれには良い薬となろう。
さてはて、気の重い、と、まるで自分が失恋したかのように、がっくりと気力が抜けてしまった董和であるが、ふと、董和とはちょうど反対側の物陰に、見慣れた影がひとつあるのを見つけてしまった。
ああ、と董和は、また、ため息をついた。

要領の悪い息子よ、おまえも全部見てしまったのか。

休昭は、家から大切に持ってきた笛の入った袋を片手に、物陰から、なんとも表現しようのない、沈鬱な顔をして、楽しそうにしている娘と、楊家の息子を見つめていた。
決定的な理由もなく、唐突に好きになったり嫌われたりするのが、男女の常であるとしても、この失恋は痛かろう。
泣くことも出来ず、表情を凍りつかせ、そのまま立ち尽くしている息子に、裏から回って、励ましてやろうかとも思った董和であるが、それではいけない、と、おのれを叱って、足を門のほうへとあえて向けた。
ここで可哀相だからと手を差し伸べてしまったら、休昭は、何事にも自分の力で立ち向かえない男になってしまうだろう。
あれは、気が弱いのはたしかだが、芯のしっかりした子だ。
一人でも立ち直れるであろうと、信じてやらねば。
そうだ、帰りに市場に寄っていこう。
そしてじいやと一緒に、あれの好物でも作ってやろう。
こういうときは、美味いものを食べるのが一番だ。
そうして、董和は塾を後にした。





休昭は、がっくりと打ちひしがれた格好で、いつしか河原にやってきていた。
父の董和が、自分がまだ幼少のころに、よく遊びに連れに来てくれた河原である。
董和が、草笛を上手に吹くので、それがとっても格好よく見えて、自分も笛を吹きたいと思った。
董和は、激務のあいだを縫うようにして、息子に笛を教えた。

幼かったから、単なる激務ではないこと、命を狙われたり、脅迫を受けたりすることも、たびたびであったことは、あとから知った。
父がたまに、鎧装束に身を固めて出て行くことがあったが、あれはなぜだろうと思っていた。
暗殺されそうになって、怪我を負ったこともあるという。
それでもよく任務を勤めたので、人から慕われている。
あまりに仕事に励みすぎて、豪族たちの恨みを買い、讒言されて、巴東に左遷されたときなどは、数千もの民があつまって、劉璋に留任を願い出てくれた。
どこへ行っても、民から慕われる、立派な父だ。自慢の父である。
それは、いまだって変わらない。
父の身分が不当に低いことは、父のせいではないし、うちが貧乏なのも、父の働きがないからとか、無能だから、というわけではない。
だから、父を恨むのは間違っている。
おのれの女人を見る目がなかったのだ。
まさに『分別がなかった』だけのこと。

ふう、と暗く切ないため息をついて、休昭は、ずっと手に持っていた笛の袋を見た。
聞いてさえもらえなかった。
父が懸命に自分を稽古してくれたことを思うと、家に帰って、なんと言えばよいのかと、涙が出そうになった。
が、そこをぐっと堪えて、袋から笛を取り出す。
もう、これからは笛を吹かない。
これを最後にしようと、休昭は、娘の前で吹いてやる予定だった曲を吹き始めた。
董和がここで、同じように幼い息子に、草笛で聞かせてくれた、思い出深い古謡である。

夕暮れの河原に、風と一緒に踊るようにして、休昭の笛の音は響き渡った。
帰り支度の釣り人や、河原に散策に来ていた者などが、その音色に耳を傾けている。
人が集まってきたので、休昭はいささか照れつつも、つづけて懸命に吹いた。
そのときには、もう娘のことは頭になく、董和の、音楽とは、真心をこめて、天に向け、我はここにありと訴える厳かなものだ、という言葉が浮かんでいた。

演奏が終わると、周りで聞いていた人々は、口々に、うまいねえ、どこの楽人さんだろう、と休昭を褒めちぎった。
これほどに人から賞賛されるのは、勉強外では、はじめてのことであったから、おおいに照れつつも、休昭は素直に礼を言った。

その中で、ちょうど河原に散策にやってきたところらしい、自分とほぼ同年の少年が、にこにこと、人懐っこそうな顔をして、近づいてきた。
「なあ、きみ。きみはいつもここで演奏をしているのか。今日は練習かい。だとしたら、わたしは、ずいぶんよいところへ居合わせたのだな」
と、少年は、朗らかに、得したなぁ、などと言いながら笑う。
「とても素晴らしい演奏だったよ。もしや、宮城の楽人なのかい。その年でたいしたものだ。まだ十三、四だろう? え、ちがうのか、十六。ふぅん、それでは、わたしより二つほど下だな。
楽人じゃない? ならば、尚更すごいことではないか。きみ、それで身を立てたらどうだい」
「身を立てるつもりはありませぬ、笛は、これで仕舞いと思って吹いておりました」
すると少年は、ガハハと、華奢な見た目に似合わぬ豪快な笑い方をして、休昭の肩を叩いた。
「たった二つ年上だというだけだ、そんな改まった口調はよしてくれ。しかし、これで仕舞い、というのは、悪い冗談だな。さては、だれかと喧嘩でもして、自棄を起こしているのではないかい?」
終始、笑顔以外の表情を浮かべない、なんとも明るい雰囲気の少年は、どうだ、というふうに首を傾げる。
休昭は、元来人見知りがはげしいのであるが、少年の空気に引き込まれ、言った。
「そんなところだ。笛を見ると、思い出してしまう人が出来たので、もうやめようかと」
「なんだ、それは身内かい。それともだれか亡くなったのか。だったら、口は出せないが、もしや別な理由なのだとしたら、わたしは、きみが笛を吹くのをやめるのをやめさせるね。なぜだろうという顔をしているな。そりゃあ、きみは、わが家の恩人だからだよ」
「なにもしていないよ」
「いいや、いまさっき、きみはものすごいことをしてくれたのだ。実を言うと、わたしは家出中なのだ。つい先だって、荊州からこっちにきたばかりでね、荊州と言うのは、東呉の孫氏と曹公と劉左将軍とがごちゃごちゃと覇権争いをしていて、住むには落ち着かないところなのさ。
わたしには父母がなくて、伯父ひとりが親代わりなのだが、伯父上は、戦乱ばかりの荊州に住むのがすっかり嫌になって、わたしと一緒に益州に来たのだよ。ところがだ、まるでわれらが大好きなのか、今度は益州をくださいな、と、劉左将軍が益州からこっちに軍を率いてやってきている、というじゃないか。
だったら、荊州に帰るべきだとわたしが言ったら、伯父上は、危険だから駄目だと言う。
そこで喧嘩になってね、こうなったら一人でも、故郷に帰ってやろうと思っていたのだが、慣れぬ土地ゆえ、見当違いのところにきてしまった。さてどうしようかなと思っていたら、きみの笛の音が聞こえてきた、というわけだ。
で、ここで繋がるわけだよ。きみの笛の音を聞いていたら、伯父上は、わたしをここまで連れてくるのに必死だった。
もし伯父ひとりであったなら、荊州を動かなかっただろう。伯父上は、曹操が大きらいでね、わたしがこのままどこかに仕官する場合、曹操に仕官するのは嫌だと思って、一緒に族姑を頼ってここにきたのだ。
つまりは、すべてわたしの未来を思ってのことだった。
その苦労が突然思い出されてね、わたしは生意気を言ってしまった。家に戻って、伯父上に謝らねばという気持ちになった。
もしきみが、笛でわたしの心を立ち返らせてくれなかったら、もしかしたら、わたしは家出したはいいが、道に迷って、路傍の行き倒れになっていたかもしれない。
だから、きみはわたしの恩人というわけだ。で、恩返しをするために、わたしはきみが笛をやめようとするのをやめさせる、と言っているのさ。そんなに上手なのだから、勿体ないよ、きっといつか、きみの役に立つ」
よく喋る少年の、明るくはきはきした言葉を聞いているうちに、休昭は、胸のうちにあった陰鬱な気持ちが、ひとつひとつあぶくのように弾かれていくのをおぼえていた。
「ところでね、図々しいついでに頼みがあるのだがね、どうも、完全に道に迷ったようなのだ。きみの家の近くまででいいから、道案内を頼まれてくれると、たいそう助かるのだが」
「いいけれど、家の名前は?」
休昭が尋ねると、少年は、またも明るく声を立てて笑い、言った。
「すまない、言い忘れていたな。わたしの名は費文偉という。伯父の名は費伯仁だ」
「なんだ、近所じゃないか。わたしは董休昭。董幼宰の息子だよ。伯父君から、なにか聞いていないかい。うちの父と、きみの伯父君は、すでに知り合いのはずだよ。このあいだ、囲碁を一緒に打ったそうだから」
ああ、と文偉は、ぱっと顔を明るくする。
「そうか、きみは、あの董幼宰さまのご子息か。だったら、なおのこと、これは運命にちがいない。わたしたちは友達になろうじゃないか。
さて、日も暮れてきたことだし、どうだろう、道すがら、きみが笛をやめようと思った理由など、教えてくれたら面白いのだが」
「あまり面白くはないよ」
つい数刻前まで、休昭はひどく傷ついていたのだが、文偉と対峙しているあいだに、なぜだか傷がすっかり癒えてしまった。
さすがに胸は痛むけれども、娘のことを、文偉にならば、言えると思った。

そうして、新しくできた友達と一緒に、休昭は、父の待つ家へと帰っていったのであった。


おわり

御読了ありがとうございました!

(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/07/30)

短編・笛伶(てきれい) 前編

2020年05月05日 10時07分35秒 | 短編・笛伶(てきれい)
「なんですか、ぼっちゃま、お行儀のわるい」
と、じいやの声に我に返り、董和、字は幼宰は、食卓において、箸をとめて、思い出し笑いをしている、息子の董允、字は休昭をたしなめた。
「食事のときには食事に集中するがよい。今日も飢えずに食にありつけることを感謝するのだ」
「はい、父上」
休昭は、世にも稀な素直な息子であるから、おとなしく董和の指示に従うのであるが、しばらくもすると、またもにんまりと笑みをうかべて、箸を止めてしまう。
おや、これは、と想像をつけた董和は、じいやと顔を見合わせ、肩をすくめた。
休昭は、亡き愛妻の残した、たったひとりの息子であるが、今年で十六歳。
学芸優秀なため、董和はおおいに期待をかけていたのだが、心配なのは、この息子、どうもほかの十六の少年たちに比べると、やんちゃぶりに欠ける、というか、大人しい。
初心なのである。
いずれは自分とおなじ官吏になろうという息子であり、本人もそのつもりなのであるが、生き馬の目を抜くような官僚同士の熾烈な出世争いに、このような柔な心の持ち主が、耐えられるであろうかと、親としては心配なのであった。
それがどうしたことやら、どうやら、この息子に、惚れた相手が出来たようである。

食事が終わると、董和は、さっそくじいやに聞いてみた。
「允が惚れそうな相手に、心当たりはあるかね」
すると、じいやはすこし、寂しそうな顔をして、笑った。
「坊ちゃまは、最近では、あまりわたくしめにも、塾でのお話をしてくださいませぬので」
ふむ、と董和は思案し、それならばと、仕事の合間に脱け出して、息子の塾を覗いてみることにした。
このところ、仕事が妙に暇なのである。
まさに嵐の前の静けさというものであろう。
蜀の桟道を超えれば、そこはもう修羅、という世情のなか、成都だけは、奇妙なほど平和を謳歌しているのである。
張魯との争いに加えて、今度は劉左将軍が、巴蜀を狙っている、という話が流れて久しい。
もうすでに、何十万という兵が荊州を出て、こちらへむかっているはずだ。
だが、成都の政情が安定しているのは、この天然の要塞が落ちるはずがないと、民はみな信じているからである。
果たして、ほんとうにそうなのか…

それはともかく、蜀の桟道を軍隊が塞いでいるために、外から悪人などが入り込む余地がなく、おかげで成都の治安や陳情はすくないため、董和も暇なのであった。

さて、休昭の通う塾、というのは、士大夫の子息が通うのを常にしている塾であった。
四書五経はもちろんのこと、兵法から、老子、最新の思想に至るまで教えてくれる。
蜀は山岳に囲まれた険阻な土地であるがゆえに、文化が立ち遅れているのだと中原の者たちはおおいに勘違いをしているようであるが、そんなことはない。
蛮族に四方を囲まれているからこそ、蜀は国際的であり、逆に世界に向けて開けている。
ゆえに、思想的にも文化的にも、なんら中原に劣るところはないのであった。
休昭は、塾の中でも優秀な生徒であったが、ひとつ、気がかりなのは、あれだけ気立てのよい息子なのに、友だちを家に連れてくることもなければ、その口に話題が上ることもない、ということである。
幼少の頃は、近所の子供たちともあまり遊ばず、家で書を読むほうを好む子であった。
そのためか、友だちづくりが、いまも下手なのかもしれない。
おのれでも、たいした親ばかだ、これでは休昭が、どこか幼いのも当然ではないかと自嘲しつつ、それでも董和は、塾の前に立ち、その門をくぐった。
きちんと来意を告げれば、教室を案内してもらえることはわかっていた。
董和は名前も顔も知れている。
塾を経営する男とも顔見知りであるし、その親戚を劉璋に推挙したこともあるので、親切にしてもらえることはわかっていた。
だが、董和が来た、となれば、塾生たちはかしこまり、素顔を見せなくなってしまうだろう。
董和は、まるで泥棒のようだが、息子のため、と思いつつ、裏手にまわり、中の様子をうかがった。
ちょうど、おあつらえ向きに、教室の脇にちいさな格子付きの窓があり、高い位置にあるのだが、なにを入れておくものなのか、踏み台にぴったりな木箱までそばにある。
片付きの悪い。
しかし、よい塩梅だ、などと董和はいいながら、木箱を窓の下に置いて、中を覗いてみる。





塾の中にはずらりと文机と座が並べられていて、ちょうど兵法の解釈についての講義がなされていた。
休昭もちゃんとそれに参加して、熱心に老師の話しに聞き入っている。
よしよし、と頷きつつ、格子戸越しに見ていると、がらんごろんと鐘を持った下働きの爺やがやってきて、終業を告げる。
すると、そこは若い者だけあって、老師が出て行くと、とたんにわっと空気がゆるんだ。
そろそろ口の周りに青髭が生えてきた青年たちは、背を伸ばしたり、これから帰りにどこへ寄ろうか、などと相談したりしている。
しかし、休昭のまわりには、だれも寄ってこず、にぎやかな空気の中、ひとり机の上で、勉強の後片付けをしている。
やはり、あれには友がいないのか、と暗然としていると、後ろから、ぽんと休昭の肩を叩く若者があらわれた。
おや、なんだ、声をかけられるのが遅かっただけか、と思いきや、その若者は、
「休昭、すまぬが、そうじ当番の代行を頼まれてはくれぬか。今日は急用が出来てしまったのだ。おまえは暇であろう。すまぬ、頼んだぞ!」
と、実に無礼な決め付けを言い、休昭の返事も待たずに、身を翻して、ぱっと離れて行ってしまった。
休昭はというと、呼び止めようとするものの、背を向けられた時点であきらめてしまい、片づけを終えると、しょんぼりとではあるが、掃除をはじめるべく、掃除用具置き場へと足を運ぶ。
そうして、当然の如くがやがやと帰っていく学友に、たまに挨拶をされながらも、休昭はおだやかにそれに答え、そうしてたった一人で、教室の掃除を始めるのであった。

董和は、親としてその姿を不憫に思うと同時に、休昭に腹を立てた。
自らだれにも声をかけようとせず、そして、嫌な仕事を押し付けられても、抗弁すらできない。
その不甲斐なさに腹を立てたのだ。
男子たるもの、己の意志を決然と伝えられなくてどうする。
とはいえ、ここで格子越しにしかりつけても意味がない。
窓から離れて入り口のほうに回ると、ちょうどさきほど、休昭に掃除を押し付けていった青年が、塾から出てくるところであった。
「あいつは便利だよな、なんでも、『是、是』って言って、絶対に逆らわないのだ」
「親があの董幼宰というのが、嘘のように大人しいやつだよな。鳶が鷹を産んだのではない、あれは鳶が雀を産んだのだ」
などと悪口(あっこう)を叩いている。
怒りもこみ上げたが、同時に、あのような者たちの言いなりになっている休昭への不甲斐なさも思った。
同時に、休昭をそのように育ててしまった自分をも責めた。

さて、休昭はどうしたであろうと、なんだかんだと董和は心配になり、またも裏手にまわって、そっと教室を覗いて見ると、いままでの心配が杞憂であったかのように、明るい笑い声が聞こえてくる。
みれば、休昭のとなりに少女が立っており、さきほどまで休昭が持っていた箒を動かしながら、なにやら楽しげに話をしているのであった。
その表情を見て、董和は、すぐにその娘が、休昭の想い人であろうと見当をつけた。
おそらく羌族の血が入っているのだろう。
目鼻立ちのくっきりとした、華のある笑みを浮かべる娘である。
雛には稀な美貌、といった形容がぴったりくる娘であった。
あれは面食いであったか、と苦笑しつつ、たしかに、どんな男も惹きつけそうな魅力を備えた娘ではあるなと董和は納得する。
休昭は、照れながらも、掃除の手伝いをしてくれる娘に礼を言い、そして懸命に娘を楽しませる話をしようとしている。
しかし、傍から聞いている董和も、じれったくなるほど、その話に面白みはない。
娘はというと、これは気立てがよいのか、笑顔は作っているが、楽しそうかといえば、それは別だろう。
休昭は鋭敏な性質なので、相手を楽しませてあげられていない、ということに、気づくと、こんな話をはじめた。
「以前に笛が好きだと言っていたね。実は笛は、わたしの得意なのだよ」
すると、それまで愛想笑いをしていた娘の顔が、あきらかに乗ってきて、ぱっと明るくなった。
「そうなの? それでは、今度聞かせてくださいな。休昭さんなら、きっととても上手に吹くのでしょうね。だって、あんなにお勉強もできなさるのですもの」
いやあ、と照れつつも、休昭はつづける。
「うちに家宝の笛があってね、これは父上が成都の令を勤めていたときに、主公より拝領した品なのであるが、これを今度持ってきて、聞かせてあげよう」
「家宝の笛? すばらしい宝物があるのね。休昭さまのお屋敷は見たことがないけれど、きっとたいそう広くて立派で、家人もたくさんいるのでしょうね。お父上が、あんなに有名なのですもの」
ここで、休昭は、う、と言葉に詰まり(董和の家は、知名度に反して、かなり小ぶりで質素なものであった。しかも屋敷のほとんどは、董和がまだ結婚したてのころに、妻のために、せっせと大工から技を習って作ったというものなのだ)、娘のきらきらと期待に輝く目をみるや、調子にのって、うなずいた。
「うむ、まあ、そこそこだ」
そこそこ以下だと、なぜ言わぬ、と、家長として、見栄を張る息子に腹をたてた董和であるが、まさか父が格子越しに覗いているとも知らず、休昭は言った。
「よし、では明日、笛を持ってこよう」
「すてき! きっと綺麗な笛なのでしょうね、楽しみにしているわ」
と、娘は嬉しそうに言った。

董和は、休昭と娘のやりとりを聞き、複雑な気持ちで帰路についた。
たしかに休昭は笛が吹ける。巧いほうだ。
それというのも、董和も笛が得意であったからだ。
いつであったか、まだ休昭が幼い頃、河原につれていって一緒に遊んだ時に、草笛をぴい、と吹いてやったなら、大喜びしたので、気をよくした董和が、息子に、自分の得意を教えたのである。
じつは、笛は董和の父、つまり休昭の祖父も得意であった。
風流とはほどとおい家風でありながら、笛という典雅な趣味だけは、代々受け継がれていたのである。

劉璋から拝領した家宝の笛、というのも、出自の怪しいものだ。
董和がまだ成都の令であったころ、宴に招かれ、それぞれが余興をすることとなった。
董和と仲間たちは、滑稽芝居を演じることにして、董和は、山の神が化けている老婆に扮装して、満座の前で得意の笛を披露した。
老婆の扮装は、みなに大好評で、いつも真面目が服を着て歩いているような董和の変身ぶりによろこび、特にはしゃいでいた劉璋が、おまえは笛が得意のようだから、と、長いこと蔵にしまわれていたという笛をくれたのだ。
拝領したのはちがいないのであるが、実際に董和が吹いてみても、さすが楽人たちから見向きも去れずにほったらかしになっていただけあり、長い竹に、先のほうに龍の頭のついた装飾はすばらしいが、音色はいまひとつのシロモノであった。
ゆえに、董和はそれを滅多に使わず、うちにはそういうものがある、というだけに終わっていた。





そうして夜更け、屋敷に帰ってみれば、董和の部屋のとなりにある物置き部屋にて、休昭ががさごそと、あちこちを漁っている。
董和は、いつになく夢中になっている息子の背中に声をかけた。
「休昭、家宝の笛は見つかったかね」
とたん、休昭はぎくりとして動きを止め、蒼ざめた顔をして、父親を振り返る。
「父上、なぜにわたしの探し物を、ごぞんじなのでございますか?」
「父は何でも知っているのだ」
まさか、一部始終を、格子越しにすべて見られていた、とは知らない休昭は、すっかりうろたえて、蒼くなったり、赤くなったりと忙しい。
「あの笛では、あまりよい音色を出すことはできぬぞ」
「でも、その、家宝の笛は、見栄えがよいので」
やれやれ、と思いながらも、董和は厳しい顔を崩さない。
やはり息子と同じ、十六前後のときは、とかく見栄を張りたがった。
同年輩の者に、おのれの優れたところを認めてもらいたくて仕方なかったし、それが女人相手となれば、尚更であった。
だから、休昭の気持ちは、わからないでもない。
だが、父親として、言うべきは言わねばなるまい。
「音楽というものは、そもそも、楽器という道具をとおして、真心をこめて、天に、我はここにありと訴える厳かなものであるぞ。天がすでに用意してくださっている風の音や、雷の音、雨音、川のせせらぎ、動物の声、虫たちの鳴き声、それらをあえてかき消して発するものなのだ。
単に、己の優位さを見せ付けるためのものに、なんの意味があろうか。そのような動機で吹くのであれば、家宝の笛を持ち出すことは、まかりならぬ」
ここでいつもの休昭であれば、しゅん、としてしまい、なにも抗弁せず、わかりました、父上、申し訳ございません、と言って去っていくのであるが、その日はちがった。
「お言葉ではございますが、歌にしろ音楽にしろ、人の心の中に、己も鳥のように、心情を高らかに歌い上げたいという願いがあるからこそ、人はいつでも歌うこと、音楽に耳を傾けることを、やめないのではないでしょうか」
真っ直ぐ父の目を見て、休昭は力強く訴えてくる。
真面目な父の息子は、やはり真面目であった。
真剣に、あの塾の下働きの娘を気に入ってしまったようなのだ。
それに、言っていることも、もっともだと、董和を頷かせるものであった。
「そこまでいうのならば、允よ、笛ならば、その奥の木箱に納めてある。出して、父が納得するように、吹いてみるといい」
判り申した、と休昭は言って、笛を箱から出すと、ほどなく、ぴゅう、と笛を吹き始めた。

それを、腕を組み、瞑目して聞いていた董和であったが…

「休昭よ、笛を吹かなくなってから、どれくらいたつ」
「一年にはなりますか、このところ、勉強が忙しかったので」
と、気まずそうに休昭は答える。
本人も気づいたように、納得がいかない様子で顔をしかめている。
休昭は、親の贔屓を差し引いても、自分より楽才があると、董和は思っている。
たしかに音色は清らかで、心情に訴えるものがあった。
だが、問題がひとつ。
長い間、笛に触れていなかったがために、技術がすっかり錆びついてしまっているのだ。
気まずい沈黙が、親子の間に流れた。
親に初めて、といっていいほど、はっきり楯突いたあとだけに、休昭は、余計にしょんぼりしている。
こうなると、もう駄目である。
董和は息をつき、息子に言った。
「男子たるもの、斯様にしょぼけた顔をするでない。よろしい、これより、笛の勘を取り戻すべく、特訓をするぞ。父が見てやろう」
「父上」
てっきり、生意気を言うな、と怒られると思っていた休昭は、父親の言葉にびっくりし、いまにも泣きそうな顔をして目をうるませる。
「腹をすかせた子牛ではあるまいし、そのような目をするでない。ほら、さっそく笛を構えるのだ。今宵は徹夜になろうぞ」
事実、その日は父子して笛をぴーひゃらり、と吹きつづけ、ご近所から、うるさいと叱られるまで、特訓はつづいたのであった。

つづく……

(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/07/30)

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