いつだったか、たわいもない、いつもの会話のおりに、趙雲が口にしたことがあった。
地元の豪族だが、いまは権勢もおとろえて、一族もすくなく、ただ余生を狩猟にあてて暮らしている男がいたのだが、これが寄る年波には勝てず、とうとう、狩猟のために建てた、ちいさな家を手放すことになった。
だが、一族の中に、狩猟を楽しむ男子がいない。
山菜採りの拠点にするにも、山の奥にありすぎるし、なにより漢族より羌族のほうが数のおおい山河のなかにある。
風光明媚なじつにうつくしい土地であるが、蛮族をおそれ、漢族はあまり寄ってこない。
やわな男ではあつかいに困る。
かといって、そのまま朽ちるにまかせるのも惜しい。
そう頼まれて、趙雲が、その家を引き継ぐことになった。
最初は、あまり乗り気ではなかったが、実際に家に行ってみれば、これが快適である。
蛮族の土地だというが、こちらがなにか不埒な真似をしないかぎりは、友好的ですらあるし、それでいて、風景はこのうえなくうつくしく、神々の住まう土地のようである。
近くにおそろしいほど澄んだ水をたたえた湖があり、そこで顔を洗ったり、釣りを楽しんだり、なにもせず、ただじっとしているだけで、一日をつぶせるほどだ。
場所は成都より南西。
ほとんど蛮地と呼んでもさしつかえのない僻地。
※
あてもない旅だ。
行き着くまでに、どれだけの日数がかかるであろうと孔明はかんがえた。
馬に乗り、ときには舟にも乗って、ひたすら南へ向かう。
途中、いかにも地理にくわしそうな商人をつかまえて、湖の所在を聞けば、それは意外にあっさりと判明した。
湖の近辺には、漢族との交易の盛んな羌族が住んでいる。
これは涼州の羌族とはちがって、山水の豊かな土地に住んでいるせいか、性質がおだやかで友好的であるから、危険はないという。
しかし危険だと聞いた、というと、湖の場所を教えてくれた商人は、そりゃあ、あのあたりは虎が出ますから、とわらった。
孔明は、なるほどと納得する。
趙雲にとって、脅威なのは、動物や自然よりも、なにより人であるのだ。
だから、どんな人間が住んでいるのかを伝えたのだろう。
虎は、その領域を侵さぬかぎり、こちらをむやみやたらに襲ってこない動物だ。
なにせ、地上で一、二を争う強さを持っているのだから、わざわざ喧嘩を売って力をしめさずとも、人が逃げていくことをしっているから、悠然としていてよいわけである。
伴もつれず、たった一人の道行き、というのは、何年かぶりである。
偉度は、言いつけをよく守り、こっそり影をつけてもない様子だ。
宿も相部屋だったり、あるいは道行に、見知らぬ者と同道して、途中までたわいのない世間話をかわしたりと、一人でなければ経験できないことにめぐり合えるのが、新鮮である。
北上するのならばともかく、南下するのでは、刺客の目にもつかない。
もしもこのまま隠棲するならば、毎日が、こんなふうにおだやかなのだな、と孔明はおもう。
おなじことを、趙雲もおもったであろうか…いや、おもわなかっただろうな、きっと、逃げるように、ひたすら道をいそいだにちがいない。
何度か馬を乗り換え、渡し舟で川を渡り、やがて、あまり人里のない土地にやってきた。
人々の顔つきが、民族の境があいまいな、独特のものに変わっていく。
その土地の顔の特長というものはあるが、ここでは、孔明の、都会風を吹かせたうりざね顔は、とても目立つものであった。
これでは、あの男も目立つはずだ。
そう見当つけて問えば、浅黒い肌をした、素朴な顔をした地元の民は、そういえば、最近、立派な馬にまたがった、からだのおおきな人が、湖に住み着いた、と答えた。
ぴしゃりだ。
こちらの記憶力をあなどったなと、心のうちでひそやかに、会心の笑みを浮かべつつ、孔明は湖へと向かった。
※
さわさわと木々を揺らす風が流れるたびに、広漢の風と、ここの風は性質がちがうな、と孔明はおもった。
住む人が、おだやかな気質になるのもわかる。
緑のあざやかな、ただよう風までやわらかい土地であった。
広漢の終風村は、あれから村人たちも、ふるさとにもどる準備に入っているらしい。
真の平和が村人たちにもたらされるかどうか、すべては、あの驕慢で驕慢で驕慢で、ついでにもうひとつ驕慢な李巌が、手早く山賊をひっとらえることにかかっている。
魏の後ろ盾をなくした山賊だ。
これで時間がかかるようならば、今度こそ容赦せぬぞ、と孔明は、ここにはいない政敵にうなってみた。
馬が、この奇矯な乗り手にどうおもったか、片方の耳を、ぺん、と跳ねてみせた。
李巌のことをおもい出すと、はらわたが煮えるほどのおもいに捕らわれるので、とりあえずは忘れることにして、孔明は先を急いだ。
やがて、人家もまばらとなり、ぽつぽつとある段々畑に人の姿をたまに見かけるほかは、ほとんどだれとも顔を合わせないような山奥にやってきた。
あとは、ばったりと山野の王にあわないようにするばかりである。
湖というからには、水音がしないだろうかと耳を澄ませば、どこからか、悲しげな雉の、ケン、ケンという鳴き声が聞こえてくる。
地元の民に教えられた道を真っ直ぐいって、やがて孔明は絶句した。
道が絶えている。
いや、深さはそれほどでもないが、流れの早い川の真ん中に、岩がいくつか並んでおり、それが道の変わりになっているのだ。
すこし跳躍が必要である。
これは、訓練された騎馬でないかぎり、越えられまい。
事実、孔明が乗ってきた馬は、川のほとりで、ぴたりと足を止めて、それきりになってしまった。
ここから先は、どれくらいあるのだろうかと頭をめぐらせれば、川上の向こうに、山奥にふさわしからぬ、立派なしつらえの家がある。
そして、川は、高台にある湖より流れ落ちているのであった。
目標は決まった。
孔明は、とりあえず、馬をそのままにしておくのも気の毒だから、いちばん最後に見た農夫のもとまでもどり、事情を説明し、馬をあずかってもらうことにした。
その農夫は、遠方よりやってきた孔明をめずらしがって(なにせ言葉がほとんど通じないため、地面に枝で字を書いての交渉だった)、わずかな金で、これを請け負ってくれた。
そうして、孔明はふたたび川までもどり、湖の家まで向かった。
これほどまでに苦労するのである。
かならず連れもどすのだと、自分にいい聞かせながら。
つづく……
(サイト 「はさみの世界」(現・牧知花のホームページ) 初出 2005/10/14)
地元の豪族だが、いまは権勢もおとろえて、一族もすくなく、ただ余生を狩猟にあてて暮らしている男がいたのだが、これが寄る年波には勝てず、とうとう、狩猟のために建てた、ちいさな家を手放すことになった。
だが、一族の中に、狩猟を楽しむ男子がいない。
山菜採りの拠点にするにも、山の奥にありすぎるし、なにより漢族より羌族のほうが数のおおい山河のなかにある。
風光明媚なじつにうつくしい土地であるが、蛮族をおそれ、漢族はあまり寄ってこない。
やわな男ではあつかいに困る。
かといって、そのまま朽ちるにまかせるのも惜しい。
そう頼まれて、趙雲が、その家を引き継ぐことになった。
最初は、あまり乗り気ではなかったが、実際に家に行ってみれば、これが快適である。
蛮族の土地だというが、こちらがなにか不埒な真似をしないかぎりは、友好的ですらあるし、それでいて、風景はこのうえなくうつくしく、神々の住まう土地のようである。
近くにおそろしいほど澄んだ水をたたえた湖があり、そこで顔を洗ったり、釣りを楽しんだり、なにもせず、ただじっとしているだけで、一日をつぶせるほどだ。
場所は成都より南西。
ほとんど蛮地と呼んでもさしつかえのない僻地。
※
あてもない旅だ。
行き着くまでに、どれだけの日数がかかるであろうと孔明はかんがえた。
馬に乗り、ときには舟にも乗って、ひたすら南へ向かう。
途中、いかにも地理にくわしそうな商人をつかまえて、湖の所在を聞けば、それは意外にあっさりと判明した。
湖の近辺には、漢族との交易の盛んな羌族が住んでいる。
これは涼州の羌族とはちがって、山水の豊かな土地に住んでいるせいか、性質がおだやかで友好的であるから、危険はないという。
しかし危険だと聞いた、というと、湖の場所を教えてくれた商人は、そりゃあ、あのあたりは虎が出ますから、とわらった。
孔明は、なるほどと納得する。
趙雲にとって、脅威なのは、動物や自然よりも、なにより人であるのだ。
だから、どんな人間が住んでいるのかを伝えたのだろう。
虎は、その領域を侵さぬかぎり、こちらをむやみやたらに襲ってこない動物だ。
なにせ、地上で一、二を争う強さを持っているのだから、わざわざ喧嘩を売って力をしめさずとも、人が逃げていくことをしっているから、悠然としていてよいわけである。
伴もつれず、たった一人の道行き、というのは、何年かぶりである。
偉度は、言いつけをよく守り、こっそり影をつけてもない様子だ。
宿も相部屋だったり、あるいは道行に、見知らぬ者と同道して、途中までたわいのない世間話をかわしたりと、一人でなければ経験できないことにめぐり合えるのが、新鮮である。
北上するのならばともかく、南下するのでは、刺客の目にもつかない。
もしもこのまま隠棲するならば、毎日が、こんなふうにおだやかなのだな、と孔明はおもう。
おなじことを、趙雲もおもったであろうか…いや、おもわなかっただろうな、きっと、逃げるように、ひたすら道をいそいだにちがいない。
何度か馬を乗り換え、渡し舟で川を渡り、やがて、あまり人里のない土地にやってきた。
人々の顔つきが、民族の境があいまいな、独特のものに変わっていく。
その土地の顔の特長というものはあるが、ここでは、孔明の、都会風を吹かせたうりざね顔は、とても目立つものであった。
これでは、あの男も目立つはずだ。
そう見当つけて問えば、浅黒い肌をした、素朴な顔をした地元の民は、そういえば、最近、立派な馬にまたがった、からだのおおきな人が、湖に住み着いた、と答えた。
ぴしゃりだ。
こちらの記憶力をあなどったなと、心のうちでひそやかに、会心の笑みを浮かべつつ、孔明は湖へと向かった。
※
さわさわと木々を揺らす風が流れるたびに、広漢の風と、ここの風は性質がちがうな、と孔明はおもった。
住む人が、おだやかな気質になるのもわかる。
緑のあざやかな、ただよう風までやわらかい土地であった。
広漢の終風村は、あれから村人たちも、ふるさとにもどる準備に入っているらしい。
真の平和が村人たちにもたらされるかどうか、すべては、あの驕慢で驕慢で驕慢で、ついでにもうひとつ驕慢な李巌が、手早く山賊をひっとらえることにかかっている。
魏の後ろ盾をなくした山賊だ。
これで時間がかかるようならば、今度こそ容赦せぬぞ、と孔明は、ここにはいない政敵にうなってみた。
馬が、この奇矯な乗り手にどうおもったか、片方の耳を、ぺん、と跳ねてみせた。
李巌のことをおもい出すと、はらわたが煮えるほどのおもいに捕らわれるので、とりあえずは忘れることにして、孔明は先を急いだ。
やがて、人家もまばらとなり、ぽつぽつとある段々畑に人の姿をたまに見かけるほかは、ほとんどだれとも顔を合わせないような山奥にやってきた。
あとは、ばったりと山野の王にあわないようにするばかりである。
湖というからには、水音がしないだろうかと耳を澄ませば、どこからか、悲しげな雉の、ケン、ケンという鳴き声が聞こえてくる。
地元の民に教えられた道を真っ直ぐいって、やがて孔明は絶句した。
道が絶えている。
いや、深さはそれほどでもないが、流れの早い川の真ん中に、岩がいくつか並んでおり、それが道の変わりになっているのだ。
すこし跳躍が必要である。
これは、訓練された騎馬でないかぎり、越えられまい。
事実、孔明が乗ってきた馬は、川のほとりで、ぴたりと足を止めて、それきりになってしまった。
ここから先は、どれくらいあるのだろうかと頭をめぐらせれば、川上の向こうに、山奥にふさわしからぬ、立派なしつらえの家がある。
そして、川は、高台にある湖より流れ落ちているのであった。
目標は決まった。
孔明は、とりあえず、馬をそのままにしておくのも気の毒だから、いちばん最後に見た農夫のもとまでもどり、事情を説明し、馬をあずかってもらうことにした。
その農夫は、遠方よりやってきた孔明をめずらしがって(なにせ言葉がほとんど通じないため、地面に枝で字を書いての交渉だった)、わずかな金で、これを請け負ってくれた。
そうして、孔明はふたたび川までもどり、湖の家まで向かった。
これほどまでに苦労するのである。
かならず連れもどすのだと、自分にいい聞かせながら。
つづく……
(サイト 「はさみの世界」(現・牧知花のホームページ) 初出 2005/10/14)