※
梅がほころぶ美しい道を、しずしずと、雲を載せた車は移動する。
やわらかい風に、芽吹いたばかりの木々が揺れている。
耕されたばかりの畑からは、土の香りが立ちのぼっていた。
あらたな道へ入っていくというのに、心はすこしもときめかず、未来への夢も希望も、なにも思い浮かぶことはなかった。
行く手に待ち受けるものの、だいたいの予想がついているからであろう。
車が進み、袁家がそろそろ見えてくるというとき、遠くから、おおい、おおいと、声をかけてくるものがある。
車から身を乗り出して見ると、奇妙にちぐはぐな武具を身にまとった、幼馴染たちだった。
先頭には、一番の仲良しである夏侯蘭がいる。
彼らは駆けてくると、ゆっくりと進む車に近づいて、乗り込んでいる雲に顔を見せた。
「よかった、追いついた。おまえに」
夏侯蘭が言うと、別の車に乗っていた長兄が、すかさず、ぎろりと睨んだので、夏侯蘭は恐縮して、言い直した。
「若旦那にはいろいろお世話になったので、最後にちゃんとお別れをせねばと、みなで相談してやってきたのだ。
俺たちは、義勇軍に参加する」
雲はおどろいた。
かれらこそ、自分以上に、この土地に縛られている人間だろうと思っていたのである。
ところが、かれらは顔をきらきらと輝かせ、言うのだ。
「義勇軍で武功をたてれば、報酬は思いのままという。
せっかく男子に生まれてきたのだ。
この腕ひとつで、天下に名乗りを上げてみたい。
若旦那に稽古をつけてもらったおかげで、十分に自信がある。
常山真定に帰ってくるときは、将軍様にだってなっているかもしれぬ、なあ、そうだろう、みんな」
そういって、幼なじみたちは顔をあわせて笑った。
「いま、屯所で義勇兵の受付をしているのだ。
俺たちはこれから受付に行ってくる。道はちがってしまうが、達者でな、若旦那。
たまに俺たちのことを思い出したら、無事を祈ってくれよ」
じゃあな、といって明るく手を振るかれらのひとりに、雲は目を奪われた。
その腰に、粗末な身なりに似合わぬ帯飾りがついている。
波飛沫に跳ねる、向き合う二対の魚の意匠の帯飾りだ。
雲はおもわず呼び止めて、その帯飾りはどうしたのかと問うた。
「ああ、これか? うちの親父が、このあいだ辻に埋めたやつの持っていたものをひろったのさ。
死人の持ち物だが、戦場で困ったときに、役立つかもしれぬと、親父がくれたのだ」
そう言って、いいだろう、でもやらぬぞ、などと言って、仲間は歯を見せて、無邪気に笑う。
お前がどちらかを選べば、選ばれなかったほうとは、訣別することになるだろう。
長兄のこと、母のこと、これから妻になるはずだった袁家の娘のこと。
それぞれが、めまぐるしい速さで頭をよぎった。
だが、それも一瞬。
訣別することになってしまっても、かまわぬ、泣き言は言わぬ。
雲は車から飛び降りると、村の屯所へ目指して駆け出した。
長兄の、
「待てっ、どこへ行くつもりだ!」
という声が聞こえたが、もう振り返るつもりはなかった。
高価な重ね着を途中の地べたに投げ捨てて、雲はひたすら屯所を目指した。
村の屯所につくと、大勢の男たちがあつまっていた。
それをかき分けるようにして、息を切らせてやってきた、場違いなほどに身なりのよい少年に、役人だけではなく、その場に集まった村の男たちも、目を白黒させている。
視線を一身にあつめながらも、気にする素振りも見せず、雲は役人に、義勇軍に参加したいと告げた。
その迫力に気圧されたのか、世慣れたふうの、あごひげの立派な役人は言った。
「よい心がけだが、しかし、たしか、おまえさんは趙家の末子だろう。
袁家の婿になる身じゃなかったかね?」
その話は蹴る、と答える代わりに、雲は首を振った。
あの道は選ばない。
役人は、おのれの黒いあごひげを撫ぜつつ、もう片方の手で、器用に筆をうごかしながら、雲にたずねた。
「なにもここに名を載せたところで、かならず参加せねばならぬ、というものでもなし。
おまえさん、たしかこんど、袁家の旦那からあざなをもらうはずだと聞いていたが、もう貰ったか?」
それは、正式に婚姻する直前に、その場でもらうはずのあざなであった。
だが、婚姻を蹴って屯所に来てしまったので、当然、あざなはない。
だが。
「子龍だ。俺の名は趙子龍」
「趙、子龍か。ほう、字面もいいし、響きもわるくない。よいあざなをもらったな」
「兄にもらったのだ」
役人は、関心なさそうに、そうか、とだけ言った。
※
そののち、趙雲は戦場へおもむき、先に義勇軍に参加したはずの次兄の姿を捜しつづけた。
だが、見つけることはおろか、噂を聞くこともできなかった。
あのしゃれこうべの主が次兄だったのか、それとも、しゃれこうべの主が、次兄とおなじ帯飾りを持っていたのか、もはや確かめようがない。
わかっていることは、趙敬という人物が存在したということ。
その人物にあざなをもらったこと。
そして未来に、希望を与えてもらったことだけである。
もし次兄がどこかで生きているならば、自分があざなを授けた末弟の活躍を聞いて、きっと満足しているにちがいない。
次兄の言った、まばゆい光をめざし、趙雲は歩きつづける。
完
梅がほころぶ美しい道を、しずしずと、雲を載せた車は移動する。
やわらかい風に、芽吹いたばかりの木々が揺れている。
耕されたばかりの畑からは、土の香りが立ちのぼっていた。
あらたな道へ入っていくというのに、心はすこしもときめかず、未来への夢も希望も、なにも思い浮かぶことはなかった。
行く手に待ち受けるものの、だいたいの予想がついているからであろう。
車が進み、袁家がそろそろ見えてくるというとき、遠くから、おおい、おおいと、声をかけてくるものがある。
車から身を乗り出して見ると、奇妙にちぐはぐな武具を身にまとった、幼馴染たちだった。
先頭には、一番の仲良しである夏侯蘭がいる。
彼らは駆けてくると、ゆっくりと進む車に近づいて、乗り込んでいる雲に顔を見せた。
「よかった、追いついた。おまえに」
夏侯蘭が言うと、別の車に乗っていた長兄が、すかさず、ぎろりと睨んだので、夏侯蘭は恐縮して、言い直した。
「若旦那にはいろいろお世話になったので、最後にちゃんとお別れをせねばと、みなで相談してやってきたのだ。
俺たちは、義勇軍に参加する」
雲はおどろいた。
かれらこそ、自分以上に、この土地に縛られている人間だろうと思っていたのである。
ところが、かれらは顔をきらきらと輝かせ、言うのだ。
「義勇軍で武功をたてれば、報酬は思いのままという。
せっかく男子に生まれてきたのだ。
この腕ひとつで、天下に名乗りを上げてみたい。
若旦那に稽古をつけてもらったおかげで、十分に自信がある。
常山真定に帰ってくるときは、将軍様にだってなっているかもしれぬ、なあ、そうだろう、みんな」
そういって、幼なじみたちは顔をあわせて笑った。
「いま、屯所で義勇兵の受付をしているのだ。
俺たちはこれから受付に行ってくる。道はちがってしまうが、達者でな、若旦那。
たまに俺たちのことを思い出したら、無事を祈ってくれよ」
じゃあな、といって明るく手を振るかれらのひとりに、雲は目を奪われた。
その腰に、粗末な身なりに似合わぬ帯飾りがついている。
波飛沫に跳ねる、向き合う二対の魚の意匠の帯飾りだ。
雲はおもわず呼び止めて、その帯飾りはどうしたのかと問うた。
「ああ、これか? うちの親父が、このあいだ辻に埋めたやつの持っていたものをひろったのさ。
死人の持ち物だが、戦場で困ったときに、役立つかもしれぬと、親父がくれたのだ」
そう言って、いいだろう、でもやらぬぞ、などと言って、仲間は歯を見せて、無邪気に笑う。
お前がどちらかを選べば、選ばれなかったほうとは、訣別することになるだろう。
長兄のこと、母のこと、これから妻になるはずだった袁家の娘のこと。
それぞれが、めまぐるしい速さで頭をよぎった。
だが、それも一瞬。
訣別することになってしまっても、かまわぬ、泣き言は言わぬ。
雲は車から飛び降りると、村の屯所へ目指して駆け出した。
長兄の、
「待てっ、どこへ行くつもりだ!」
という声が聞こえたが、もう振り返るつもりはなかった。
高価な重ね着を途中の地べたに投げ捨てて、雲はひたすら屯所を目指した。
村の屯所につくと、大勢の男たちがあつまっていた。
それをかき分けるようにして、息を切らせてやってきた、場違いなほどに身なりのよい少年に、役人だけではなく、その場に集まった村の男たちも、目を白黒させている。
視線を一身にあつめながらも、気にする素振りも見せず、雲は役人に、義勇軍に参加したいと告げた。
その迫力に気圧されたのか、世慣れたふうの、あごひげの立派な役人は言った。
「よい心がけだが、しかし、たしか、おまえさんは趙家の末子だろう。
袁家の婿になる身じゃなかったかね?」
その話は蹴る、と答える代わりに、雲は首を振った。
あの道は選ばない。
役人は、おのれの黒いあごひげを撫ぜつつ、もう片方の手で、器用に筆をうごかしながら、雲にたずねた。
「なにもここに名を載せたところで、かならず参加せねばならぬ、というものでもなし。
おまえさん、たしかこんど、袁家の旦那からあざなをもらうはずだと聞いていたが、もう貰ったか?」
それは、正式に婚姻する直前に、その場でもらうはずのあざなであった。
だが、婚姻を蹴って屯所に来てしまったので、当然、あざなはない。
だが。
「子龍だ。俺の名は趙子龍」
「趙、子龍か。ほう、字面もいいし、響きもわるくない。よいあざなをもらったな」
「兄にもらったのだ」
役人は、関心なさそうに、そうか、とだけ言った。
※
そののち、趙雲は戦場へおもむき、先に義勇軍に参加したはずの次兄の姿を捜しつづけた。
だが、見つけることはおろか、噂を聞くこともできなかった。
あのしゃれこうべの主が次兄だったのか、それとも、しゃれこうべの主が、次兄とおなじ帯飾りを持っていたのか、もはや確かめようがない。
わかっていることは、趙敬という人物が存在したということ。
その人物にあざなをもらったこと。
そして未来に、希望を与えてもらったことだけである。
もし次兄がどこかで生きているならば、自分があざなを授けた末弟の活躍を聞いて、きっと満足しているにちがいない。
次兄の言った、まばゆい光をめざし、趙雲は歩きつづける。
完
※ あとがき ※
このお話は、個人サイトを運営時に、リクエストとしてお題をいただいた「趙雲の少年時代」のお話です。
趙雲は没年はわかっても生年がわからない人物なのですが、柴錬三国志での美少年ぶりがとても気に入っているので、年齢をあわせてみました。
ただし、あちらがさわやかな美少年だったのに対し、こちらはしゃれこうべが友だちという不思議少年。
闇の中から明かりのついた屋内を俯瞰する、というシーンを最初に思いついたのですが、お兄さんの正体にナゾをつけるつもりはありませんでした。
趙雲が、ラストにならないと喋らないのも、物語全体に静かな印象を与えたかったからです。うまく表現できたかは…どうでしょうね。
趙雲はわりと書きやすいので、とても楽しめて書くことができました。当時リクエストしてくださった方、どうもありがとうございました!(^^ゞ
そして長いお話を読んでくださったみなさま、どうもありがとうございました(*^▽^*)
趙雲は没年はわかっても生年がわからない人物なのですが、柴錬三国志での美少年ぶりがとても気に入っているので、年齢をあわせてみました。
ただし、あちらがさわやかな美少年だったのに対し、こちらはしゃれこうべが友だちという不思議少年。
闇の中から明かりのついた屋内を俯瞰する、というシーンを最初に思いついたのですが、お兄さんの正体にナゾをつけるつもりはありませんでした。
趙雲が、ラストにならないと喋らないのも、物語全体に静かな印象を与えたかったからです。うまく表現できたかは…どうでしょうね。
趙雲はわりと書きやすいので、とても楽しめて書くことができました。当時リクエストしてくださった方、どうもありがとうございました!(^^ゞ
そして長いお話を読んでくださったみなさま、どうもありがとうございました(*^▽^*)