はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
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風の終わる場所 37 静かなる湖のほとり・Ⅱ 1

2021年06月27日 10時06分24秒 | 風の終わる場所
むかし、所帯をもってもよいな、とおもうような女と、たった一度だけ、めぐり合ったことがある。
器量は十人並みで、身分も低い、下働きの女であったが、年に見合わず苦労をかさねた様子で、気遣いの細やかさが、ほかの娘たちより群を抜いていた。
内気な性質らしく、ほかの男の前では、言葉すら漏らすことが稀であったが、趙雲の前では、ふしぎと口数が多く、表情も柔らかかった。
内気だが、陰気というわけではなく、打ち解けてくると、馴れ馴れしいまでになった。
しかし、その落差がおもしろくて、趙雲も、娘の好きなようにさせていたのである。
派手な華やぎや、娘らしいみずみずしさの欠ける、色気のない色黒の娘。
それが、趙雲がおもい出せる、妻の候補として、みずからがかんがえた、唯一の娘であった。

その後、どうなったかというと、どうにもならなかった。
それというのも、趙雲は、そうなってもよいな、と漠然とかんがえていただけで、一度も、それらしい素振りを娘に見せていなかったからである。
娘のほうは、この、男ぶりはよいが、色気のない武将を、安心できる保護者のようにかんがえていたらしく、やがて、趙雲の部隊の、部将のひとりに求愛され、ほどよい幸福を手に入れた。
いまもしあわせに暮らしているはずである。

嫁ぐのだ、と聞いたとき、さすがにいささか気分が悪くなったが、長々と引きずるようなことはなかった。
おもうに、その娘のすべてを愛していた、というのではなく、こういう娘ならば、妻にしたら、気を使わなくてよいな、という計画に、気持ちがかたむいていたようにおもえる。
娘の仕草に胸をときめかすようなこともなければ、すべてを手に入れたいと、つよくおもうこともなかった。
おそらく、そういった心の動きが、こちらにないことを、あの娘も読んでいたから、心を開いたにちがいない。
となると、心を開いて素のままでいる娘に、いまの夫たる男が恋をしたのであるから、よいことをしたのだろう。
いや、善行を数えていたわけではない。





趙雲は、成都にもどる道すがら、過去のおのれのあれやこれやをかんがえて、整理をしていた。
もともと、あまり丈夫ではない孔明は、馬車に乗っての移動である。
そのかたわらを、村のそばで、ちゃんと大人しくしていた愛馬で随行し、調子のよい李巌が、いらざるちょっかいを出しにこないように見張るのだ。
とはいえ、これまでの数日をおもえば、奇妙に静かで平和な行軍であった。
李巌は、賢いところを見せて、劉封のほうまで牽制して、さわぎを起こす言動をしなかった。
どうやら、保身に回ることにしたらしい。
一方の孔明は、馬車のなかで、ほとんどを眠って過ごした。
微熱が出ているようで、道すがら、甘い水を汲んできて、薬を飲ませ、あるいは心地のよい木陰をさがして、休ませる。
まるで雛鳥に餌をはこぶ母鳥のようだと、李巌が言葉以上の悪意をこめてからかってきたが、これは無視した。
無視したけれども、自分たち以外は、すべて心をゆるせぬ『敵』の将兵ということで、趙雲は、いやでも、自分とかれらとの差を感じずにはいられない。
むしろ、いままで仲間内のなかにいることがおおかったせいか、おのれが、いかにふしぎな存在であるか、いまそれをつよく自覚することになった。
仲間内、つまりは孔明の信奉者たちは、孔明を中心にして動いている。
そんな中にあったから、自分が、いかに孔明の世話を焼きすぎるかが、目立たなかったのだ。
孔明以外とは、ろくに会話を交わさぬなかでの、数日におよぶ行軍である。
自然と、心は内側に深く入り込み、おのれと、人との差について、おもわずかんがえ込んでしまう。
おそらくは、それがいけなかったのだ。





成都にもどると、さすがに安堵したが、おのれを取り巻く状況の風向きは、よくない様子であった。
董和に後事を託し、職務放棄ではない形で出奔したつもりではあった。
が、問題が大きくなったため、協力してくれるはずの法正が、あっさり手のひらを返して、李巌に同調してしまったのである。
董和は、きちんと手つづきを踏んで、趙雲が広漢に出向する件が正当なものであるとしてくれたのだが、本人が直接、劉備に暇をもらったわけでもなく、手つづき自体も、代理で行われた、ということが、攻撃の槍玉に挙げられた。

趙雲は、あらためて李巌という男の、世渡りの上手さ、抜け目のなさをおもい知る。
李巌は、法正だけではなく、常日頃から、孔明をおもしろくおもっていない者と、つなぎをつくっていたのだ。
おそらくは、この策をもちいるにあたり、破綻した場合も、きちんとかんがえていたのである。
趙雲は孔明の主騎である。
今回の、いわば犠牲者は、孔明であるから、劉備の手前、孔明を攻撃できない。
だが、それでも孔明の力を削ぎたいのであれば、その主騎である趙雲を代わりに攻撃し、政治の表舞台から追い出そうと、動いてきたのだった。

趙雲は、ことの顛末を、きちんとおのれの言葉で、劉備に説明するつもりであった。
そうすれば、劉備はきっと、『いつものとおり』に孔明の味方となり、『正しい』判断を下してくれるだろうと信じていたのである。
だが、どういう手回しだったのか、劉備は、趙雲に会う前から、矢の雨のなか、趙雲が、劉備の子らを差し置いて、だれよりも孔明をかばったという話を、すでに知っていた。
劉備の周囲では(主に法正と繋がりのある者たちであったが)、李巌が、勝手に動いて、孔明の命を危険にさらしたということよりも、趙雲が、(劉封や、劉括とは、血が繋がってないとはいえ)主公の子よりも、いわば同僚といっていい人間を庇ったことのほうが、重大視されていた。
気持ちの問題ではあるが、これは遺憾だ、ということに、問題が摩り替えられていたのである。

趙雲は、李巌や孔明よりも、先に劉備に会うことをゆるされたのだが、おもわぬなりゆきに、ここで、らしくもなく、いきどおり、自制を失っていた。
これもいけなかった。

「おまえが儂の子を助けなかったことは、気にしてない」
と、劉備は、人払いをさせて、怒気をあらわにする趙雲に言った。
その、いままでとは距離の感じられる声音に、趙雲は、心の臓をつかまれたようになり、おどろいて顔をあげた。
劉備の表情は、いつもの、よく知る、陽気で、包容力のある男のそれではなかった。
趙雲は、怒りが一瞬にして冷め、事態が、すでにおのれの問題だけではなく、劉備や孔明を苦しめるまでに広がりつつあることをさとった。

趙雲は、ほかの武将とちがって、孔明の側に常にいるために、武人よりも文人との付き合いが、最近は深くなっていた。
見る者からすれば、文官とも武官ともとれぬ、曖昧なところにいる男なのである。
その曖昧さが、攻撃の標的になりつつあった。
つまり、武人が、文人に深く関わりすぎている、武人としての分を超えている、というのだ。
李巌は、自分の首をつなぐのに必死なので、持てる力を総動員して、自分の咎から人の目を逸らそうと、趙雲側の非を大きくとりあげて、攻撃をはじめている。
こうなると、趙雲は、もう戦い方がわからない。
李巌のように人付き合いも多くないから、頼りになるのは、孔明を中心とする荊州人士、あるいは左将軍府の面々だけなのである。
しかし、かなしいかな、蜀の現状では、政治力がより強いのは、法正を中心とする文官で、これと結びついている李巌は、孔明の力をもってしても、御するのが難しいのだ。
しかも、孔明は、いまだ本調子ではなく、先に趙雲を派遣し、そのあいだ、熱が取れるまで、休んでいる。
孔明の回復を待ってはいられない。
すぐに動かねば、このままでは、共倒れになる。

あせる趙雲に、劉備がなにか言ったが、聞こえなかった。
子供をかばわなかったことは、気にしていない、冷静になれと、さとされた記憶があるが、くわしい言葉までは覚えていない。
そんな趙雲を見て、劉備は、嘆息すると、顔をちかづけて、ゆっくりと、ことばを選ぶように、平伏する趙雲に言った。
「子龍、おまえを讒訴する者は、まるでおまえが孔明を担ぎ上げて、儂を追っ払おうとしているかのように言ってくる。だがな、儂は、いまのおまえの姿を見ていれば、そんなことは、これっぽっちもおもっていないとわかるぞ。
それに、俺の子の問題だって、揚げ足取りもいいところだ。おまえは、以前に、奥と子を、命をかけて助けてくれた。
どちらにしろ、封も、劉括っていうのも、二人とも無事なわけだし、それは、あいつらが言うように、難しくかんがえなくちゃいけねぇような問題じゃあねぇ、とはおもう」
だがな、と劉備は、子供に言い聞かせるような、どこかかなしそうな調子で、つづけた。
「子龍、おまえはあまりに生真面目すぎるのだ。心をおさえろ。いまのままでは、おまえは孔明を滅ぼす」

最初は、いわれたことの意味がわからなかった。
言葉を返せず、趙雲は、まじまじと、その意味をたどるために、劉備の顔を見つめた。
目の前にある劉備の顔には、軽蔑も怒りもなく、不出来な子をいたわるような、やさしいが、かなしい表情があった。

「気持ちはよくわかる。いや、芯からは判ってないかもしれねぇが、おまえがそこまでにおもいつめる理由は、わかる気がする。儂にも、すこし似たようなところがあるが…おまえは、あまりに踏み込みすぎだ。自分の気持ちに正直すぎる。嘘をつけ、と言っているわけじゃねぇんだが、なんというかな」
ええい、と劉備は、ことばをうまくさがせずに、いらだって、頭を振ると、ふたたび趙雲を真っ直ぐみすえて、言った。
「でも、おまえは、やっぱり間違っているのだ」
わかるだろ、と劉備から言われ、趙雲は、ただ、はい、と答えるしかできなかった。

趙雲は、李巌にいわれた言葉と、劉備からも言われたことばを、しばらく、ぐるぐると、頭のなかで繰り返していた。
終風村で、矢を射掛けられる直前に、李巌は、たしかにこう言ったのだ。
「趙子龍、わたしは予言する。いずれ貴殿は、おのれの心にすら裏切られるだろう。孤独のままの死を選ぶか、あるいは」
あるいは、龍と共に滅びるだろう。
神秘家をめかした口調であったが、これは、いまの現状を読み越してのことだったのか。

「それがしをかばうことで、李将軍の処罰が、とどこおることがございましょうか」
柄にもなくふるえているおのれの声が、ひどく遠くから聞こえてくるようにおもえた。
趙雲がたずねると、劉備は、それは、孔明の腕次第なところがあるな、と言葉をにごした。

李巌は、逃げ切るだろう。
孔明は、やはり人が好すぎる。
李巌が、そこまで人々のなかに、深く根回しをして、おのれへの攻撃の手をやめないなどと、想定していなかったのだ。
それを責めるわけにはいくまい。
孔明は、李巌より年若で、世間ずれしていない。
これまでの政敵である龐統は、ほぼ同年輩で、これも世間ズレしていなかったから、策謀を味方に対してめぐらすような男ではなかったし、法正は、老練なところはあるが、性質が直情径行であるから、行動が読みやすい。
李巌は、その点で言えば、変幻自在でつかみ所がなく、孔明がいままで対峙したことのない型の男なのである。
まだ、さわぎは、表沙汰になっていない。事態の全容を知るのも、ごくわずかな側近のみ。
いまならば、まだ、手の打ちようがある。

趙雲は、そのまま、ふたたびかしこまると、奏上した。
「主公にお願い申し上げます。たったいまより、この趙雲めの役職を取り上げ、一介の平民にしてくださいますように。俸禄も、拝領いたしました軍馬、荘園、屋敷、すべて返上いたします」
それを聞いた劉備は、なんだって、おまえはそう極端なのだ、とあわて、そんなことは受理できない、と言ったが、趙雲は、ひたすらに頑固なところを見せて、劉備に重ねて、位返上を申し出ると、宮城を出た。
それから、すぐさま、家屋敷を整理し、荘園の権利書を劉備に返上し、唖然とする陳到たちに別れを告げたあと、あまりにあっさりと、着の身着のまま、成都を出た。
早ければ、早いほうがよかろうと判断し、孔明とは、会わないまま出て行った。
引き止められるのは判っていたのもあるが、ほんとうのところは、李巌や劉備の言葉が邪魔をして、まともにその姿を見る自信がなかったのだ。
手紙を残すこともかんがえたが、女々しい文章を書いてしまいそうなので、やめた。

つづく……

(初出 旧・はさみの世界(現・牧知花のホームページ) 2005/10/15)
※追記※ 新連載との兼ね合いで、6月30日(水)に、この続きを更新します。
そう、まだつづく……! どうぞ見てやってね。
最終回は、7月3日(土)の予定です。


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