※
偉度はというと、費観の屋敷の中庭にて、主の姿を探すでもなく、ただ立っていた。
建安十二年の、初夏のことをおもい出していたのである。
風の音と木立のざわめきのなかに、あのとき、ひっきりなしに聞こえてきた蝉の声が聞こえやしないかと、耳を傾けていたのだ。
時間が止まったままだ。
留まりたいと願っているから、そこから動けないのか。
それとも芝蘭の夫をはじめとする、数々の、裏切って見捨てた命に呪縛されているために、動けないのか。
しばらくして、文偉は、ふわふわした足取りで部屋を出てきた。
その、いかにもふつうの青年らしい様子に、偉度はほっとする。
偉度にとって、文偉や休昭たちは、いまを生きている証であった。
「なんだ、せっかく席を立ってやったのに、もう出てきたのか、甲斐性なし」
わざと憎まれ口を叩くと、文偉は、大きく息を吐いた。
「いやはや」
「なにがいやはや、だ。言っておくがな、あの娘を遊び女のごとく扱ったなら、わたしばかりではない、あらゆるところにいるわたしの兄弟が、おまえに刃を向けるぞ」
夢見心地を彷徨っていた文偉は、偉度の言葉に、ふと真顔になって、顔をしかめた。
「おまえ、そんな脅迫があるか。怖い奴だな。それに、友達だろう? すこしくらい、いい気分を長続きさせるのを手伝ってくれたっていいじゃないか」
「あいにくと、そういう親切さは持ち合わせていない」
「やはり、偉度は偉度だな」
「なんとでも。で?」
「で、とは?」
「誤魔化すな。首尾だ。芝蘭は、なんと?」
「そんなことでよろしいの? と。いやはや」
偉度は首をかしげた。
『そんなこと』って、なんだ?
あれは、そんなに軽い娘ではないが。
「しかし、うまく行くとはおもわなかった。互いに立場が立場だからな。だが、おかげで、これから毎日が春のようだ。鞭で打たれた傷の痛みも忘れてしまったぞ」
「それは何よりだが…毎日って? 芝蘭は、呉へ帰る」
「わかっているとも。それは悲しいが、しかし、未来は拓けた。勇気を出すものだな。わたしはこれから毎日、東のほうを向いてすごすことにする。
もしかしたら、地平のかれ方から、かの女の手紙を携えた使者の姿を見つけることができるかもしれないからな」
「手紙? 使者?」
すると、文偉は満面の笑みを浮かべて、答えた。
「そうだ。偉度、聞いて驚け。芝蘭は、わたしと文通することを了解してくれたのだ!」
「…………………………………………ふーん」
文偉は、すっかり夢見心地で、さてはて、最初の手紙は何を書こうかな、などと浮かれている。
こいつ、ほんとうに女の経験があるのだろうな。
面相はわるくないから、モテている、ということではあるが…
と、呆れていた偉度であるが、ふと我に返る。
「待て。なぜそれをわたしに伝えた、この莫迦。わたしは、芝蘭の兄ではあるが、軍師の主簿でもあるのだぞ」
「わかっているとも。いまさら自おのれ紹介はいらぬ」
「ぜんぜんわかってない! 芝蘭は敵国の細作、そして、おまえは費家の跡取り。その二人が文通だと?」
「問題あるかな」
「あるに決まっているだろう! まったく、口のかるい! 事実を聞かなければ見過ごせたものを、知ってしまったからには」
「とめるのか」
と、文偉は、小雨降る日に、たった一人、置いてきぼりになって、さむさにふるえながら、かぼそい声をあげている子犬のような、かなしそうな顔をした。
これが演技ならば容赦しないが、本気なのだから、まいる。
「検閲せねばなるまいな」
「えー?」
文偉は声を引っくり返らせていやがったが、偉度は、かえってこうすることで、おたがいの身を守れるであろうと判断した。
文偉と芝蘭が直接やりとりするよりも、偉度を中継させれば、『兄妹』が手紙をやりとりしているというかたちをとることができる。
やれやれ、世話を焼かせてくれるものだ、と偉度は嘆息しつつも、いまを明るく生きている偉度と、過去を忘れて同じく生きようとしている、芝蘭たちの助けになれることを喜んだ。
とはいえ、その後、舞い上がりすぎているがために、あまりに舌足らずな文偉の文章に、わざわざ注釈を添えた手紙を、芝蘭に送り続けなければならないハメになるなどと、偉度は想像していなかったが…
※
さて、偉度は文偉を連れて成都にもどってきた。
もどったことの報告を、左将軍府にいるはずの孔明に伝えに行くと、代わりに董和が出てきて、孔明は宮城にいる、という。
董和は、文偉が無事にもどってきたことをなにより喜んでおり、息子の休昭とともに、あちこち傷だらけの文偉を、それこそ抱きかかえるようにして迎えて、おのが屋敷につれて帰った。
あいもかわらず、あきれるほどに仲の良い、とおもいつつ、偉度は、宮城の孔明を追いかけた。
実のところ、偉度は拍子抜けしていた。
成都は、今回の事件を受けて、蜂の巣をつついたような騒ぎになっているだろう、ほかならぬ、李巌と劉封の処遇をめぐって、紛糾しているだろうと、予想していたのだ。
ところが、成都は平穏そのもので、広漢の騒ぎなど、誰も知らない様子である。
いくらなんでも、静か過ぎる。
たとえ『なかったこと』として処理することに決まったとしても、なんらかの余波があってよいところだ。
李巌は上手く言い逃れしたようであるが、劉備に黙って孔明を攫い、あわよくば亡き者にせんと画策していたのは、まちがいないところなのである。
おかしい、おかしいと首をひねりながら、ふと大路を見れば、おどろいたことに、『李』の旗をかかげた一軍が、堂々と成都を出て行くところが見えた。
李巌が、ふたたび広漢にもどっていくのだ。
許された?
莫迦な。
あれだけのことをしておいて、なにも処罰をされなかったと?
いや、以前にも同じことがあった。
法正が、かつての政敵を、ことごとく捕らえて、一族もろとも処刑してまわったときも、その罪を問われなかった。
あのとき、不問に付すように、と指示を出したのは、ほかのだれでもない。劉備でなかったか。
いやな予感がした。
孔明に限って、失策はないだろうとはおもったが、それを超えて、いやな予感がした。
広漢に、ぐずぐずと留まっているべきではなかった。
孔明の伴をして、一緒に劉備の前に出るべきだったのだ。
※
宮城に駆けつけると、ちょうど、孔明が、宮城の、よく掃き清められた幅広のおおきな白い石段を、くだってくるところであった。
その顔を一瞥しただけで、偉度は、予感が的中したのだと、暗くおもった。
孔明の表情は、いつになく固かった。
偉度を見ると、笑顔を作ろうとしたのだが、強ばって失敗したのが見てとれる。
「なにゆえでございます」
前置きなく尋ねると、これまた、孔明も余計な説明をせず、答えた。
「してやられた。李将軍に、先に話をさせてしまったのが失敗であった。しかも、主公と差し向かいにしてしまったのだ」
「それだけでございますか? 軍師と、趙将軍の証言がふたつそろえば、李将軍や劉副軍中郎将への処罰は確定したでしょうに」
孔明は、ふいと顔をそらし、めったに見せない、きびしくもこわばった横顔を見せた。
「子龍はいない」
「いない? どちらへいかれたのですか、この肝心なときに? もしや、じつはあのとき、傷を負われていたのですか」
「成都にもどるなり、将軍職を返上するといって、主公がとめるのも聞かず、出て行った」
「なんですと?」
頭がまっしろになった。
事態についていけない。
有り得ない事態であった。
なぜ、李巌がゆるされ、趙雲が出奔せねばならないのか?
「ありえませぬ。なぜですか」
「偉度」
孔明は、息をつくと、どんな反論であろうと封じこめるような、きびしい口調で言った。
「これから、わたしの言うことをよく聞け。わたしはたった今より、休暇に入る。いつまでになるかは不明だが、左将軍府の手が足りなくなる分は、おまえがおぎなってくれ。
それと、ほかのみなにも伝えよ。だれであれ、わたしの後を追ってはならぬ。おまえも勿論のこと、この言いつけをよく守るように」
ますます偉度は混乱した。
「なにをおっしゃっているのですか。いったい、どちらへ行かれるというのです」
孔明は、偉度のほうを見ずに、成都の空の、もっと彼方を見やるようなまなざしで、答えた。
「詮索は無用」
「それは、あまりに無情なお言葉ではありますまいか。われらは、今日まで、軍師に尽くして参りましたものを、此度のことで、お怒りになっておられるのでしょうか」
偉度の声が震える。
怒りのためではない。
恐怖のためであった。
この人がいなくなってしまったなら、どうしたらよいのか。
想像もしなかったことだったからである。
幼子のような声を聞き、孔明の固い表情が、わずかにやわらいだ。
「そうではない。おまえたちに、怒りなどあるものか。むしろ、わたしは、おまえたちに累が及ぶことを恐れているのだよ。天地が引っくり返ってしまったような気分だ。だが、まだ取り返しはつく」
「もしや、主公は、李将軍のお言葉のほうを信じたのですか?」
「信じるもなにも、偉度、おまえの兄弟たちは、じつによくやってくれた。おまえの報告を聞き、すぐさま四方に手配して、劉括なる子の身元を調べてくれたのだ。
そしたら、なんのことはない。劉括は、主公のお子ではなかった。馬光年らしい男が、漢中のとある村より、劉括を一年ほど前に買い上げていたことがわかったのだ。劉括の両親も健在だ。まずししいうえに子沢山なのに、知恵遅れの子の養育に持て余してしまい、売ってしまったそうだ。あの子供は何も知らぬ。
馬光年のほうは、魏の細作で、かの女の形見を受け継いで、子供が主公に似ていることをいいことに、子であると、でっちあげたらしい。魏の細作である馬光年が、いつ、未来の主人を裏切ることを決めたのかはわからぬが、やはり、『例のお方』と繋がりがある様子だ」
「わが弟に所縁のある者たちとも、でございましょうか」
「関わりはあるだろう。曹家をかく乱し、おのが命脈の起死回生を計ったものとかんがえられる。まったく、ずいぶんと恨まれたものだな、わたしも、おまえも」
「では、そちらを探るのは、わたくしにお任せを。しかし、劉括も偽者とわかったのならば、なぜ?」
食い下がる偉度に、孔明は、かるく息をつくと、ようやく目を向けて、答えた。
その表情は、ひどく透明である。
まるで、これから死におもむく者のような顔ではないか。
「主公は、もちろんお怒りであったとも。そして、わたしをずいぶんいたわってくださった」
「では、なぜ? 以前の主公であれば、李将軍は決してゆるされなかったはず」
「だが、確たる証拠がない。馬光年は死んでしまったし、魏の公子を連れもどすわけにもいかぬ。劉公子は李将軍と口裏をきれいにあわせておるし、子龍の言葉がもしあったとしても、それとて証言のひとつにすぎぬ」
「では、呉より芝蘭たちを」
「いいや、そうではない。もう、そういう話ではないのだ。主公は、此度のことは、真偽が確定せぬが、李将軍と劉副軍中郎将のやりようはゆるせぬ。ゆえに、広漢の賊をすぐに討て。それで事態はおさまったことにする、と」
「それで軍師には我慢せよと?」
「いや、わたしが、不問に付してくれと頼んだのだ。そうでなければ、あやうかった。主公は、それはいけないとまでおっしゃってくださったが、わたしが頼んだのだよ。だから、おまえも騒いでくれるな」
偉度は途方に暮れた。
「わけがわかりませぬ。なぜに、こちらが引かねばならぬのですか」
「李将軍だよ、すべては奴なのだ。子龍が、職務を放棄し、広漢へ行ったことを持ちあげて問題にし、こちらの動きを牽制したのだ。それに、さも子龍に二心があるような讒訴をした。将軍職を返上しようとしているのも、まさにそのあかしである、とな」
「馬鹿馬鹿しい。まさか主公は信じなかったでしょう」
孔明は答えず、こわばった顔のまま、彼方をにらみつけている。
偉度は、ぞくりと背筋をふるわせた。
気づいたのだ。
なぜ、孔明が沈黙を守る道を選んだのか。
「まさか」
「矢の雨を受けた際、子龍がまっ先にだれを助けたのか、主公の耳に入れた者がいる。その行為が動かぬ証拠だと。もちろん、主公は半信半疑であったようだが…つまりは、すこし疑心がある、ということだ。わたしは、いままであの方のやさしさに、あまりに甘えすぎていたようだ」
「しかし、軍師が、だれより主公に忠義を捧げているのは、どんな者の目にも明らかではありませぬか。それは主公もわかっておられるはず。軍師、もし軍師で駄目だと言うのであれば、わたくしもその場にいたのです。わたしの口より、主公にご説明申し上げるというのは如何でしょうか」
偉度の提案に、孔明は、口元に笑みを浮かべながらも、首をふった。
「すまぬが、これに関しては、余人の力は及ぶまい。主公は、薄々と気づいておられたのかもしれぬ。だが、それでよしとおもっていらしたのだ。だが、李将軍の言葉で、お心が揺らいだ。主公が子龍を信じているのはまちがいないが、主公の周囲が、子龍を疑っているというのであれば、これは別の問題だ。
偉度、曹操が、いずれはおのれの血統に、皇帝を名乗らせようと動いていることは知っているな? そうなれば、江東の孫氏もその動きに同調しよう。われらもまた、対抗するために、それなりの準備が必要となる。主公も変わろうとなさっているのだ。いつまでも、以前のように、気心のしれた身内ばかりを贔屓にするやり方では、国力は伸びぬと、そう判断されておる」
「たしかに、李将軍を支持する向きはおおい。軍師に反発を抱く者たちが、その中心になっております」
「かれらを切るのではなく、取り込むことを、主公はかんがえておられるのだ。蜀は、領土が狭いために、どうしても人材がすくない。わたしにとっては敵であっても、忠義をしめす以上、かれらは、主公にとっての敵ではない」
「お待ちくださいませ。それでは、主公をこれまで支えつづけてきた、軍師のお立場は?」
「わたしの立場は何も変わらないよ」
と、孔明は偉度に目を向けた。
「われらは家族ではない。主従なのだ。わたしの敵は、わたしが立ち向かわねばならぬ。主公はあくまで、公平な立場を貫く。そうであればこそ、だれであれ、主公の前で存分に力を奮うことができるのだ。そうでなければ、天下を望むこともできまい」
「納得いきませぬ」
むくれる偉度に、孔明が声を立てて笑った。
「そこは納得せねばならぬぞ。おまえがそのように拗ねてしまえば、わたしは、だれを頼りに戦えばよいのだね」
偉度はむくれるのをやめ、顔を赤らめて、孔明を見た。
「なにやら軍師も、以前よりさらに、人たらし度が増されたような」
「主公が変わろうと努力なさっておられるのだ。わたしも、どんどん変わらねばなるまい。真の切磋琢磨とは、そういうことではないのかな」
はあ、と、それでも納得できず、生返事をする偉度に、孔明は笑みを引っ込めて、さとすように言った。
「偉度よ、これだけは先に言う。もしも、わたしの力がおよばず、戦いに負け、主公の前から去るようなことになっても、おまえは決して、主公を恨んではならぬぞ。
変わると一言で言っても、たやすいものではない。変化というものには、かならず痛みがともなうものなのだ。いま、だれよりも孤独なのは、おそらく主公だ。おまえならばわかるであろう」
「わからないとは、申し上げませぬ」
「おまえは好い男だ。努力すれば、もっと好き男となろう」
「そんなに誉めても駄目ですよ。わたしは、これが精一杯です」
「そういわず、やるだけのことはやってごらん。それと、礼がまだであったな。またも助けられた。ありがとう。いまふたたび、この成都の空を眺めることができるのも、おまえのおかげだ」
「それはそうでしょうとも。で、もうお一方への礼は、いつ言いに行かれるのですか」
「いますぐに。仕事のほうであるが、幼宰殿と許長史には書面にて事情を説明してある。手が足らぬようであれば、伊籍殿か糜竺殿にお願いしなさい。お二方にも、手紙を用意したから」
「相も変わらず、完璧な段取りでらっしゃる。お二方ならば、呼ばれなくてもやってきてくださるでしょう」
「頼んだ。土産は期待せずに待つように」
孔明は言いながら、偉度に背を向け去っていく。
その小さなつぶやきが、最後に風にのって聞こえてきた。
「やれやれ、今度は、わたしが追いかけねばならぬとは」
衣を風にはためかせながら、遠ざかるうしろ姿を、偉度はしばらく見送っていた。
つづく……
(旧サイト・はさみの世界(現・牧知花のホームページ)初出 2005/10/12)
偉度はというと、費観の屋敷の中庭にて、主の姿を探すでもなく、ただ立っていた。
建安十二年の、初夏のことをおもい出していたのである。
風の音と木立のざわめきのなかに、あのとき、ひっきりなしに聞こえてきた蝉の声が聞こえやしないかと、耳を傾けていたのだ。
時間が止まったままだ。
留まりたいと願っているから、そこから動けないのか。
それとも芝蘭の夫をはじめとする、数々の、裏切って見捨てた命に呪縛されているために、動けないのか。
しばらくして、文偉は、ふわふわした足取りで部屋を出てきた。
その、いかにもふつうの青年らしい様子に、偉度はほっとする。
偉度にとって、文偉や休昭たちは、いまを生きている証であった。
「なんだ、せっかく席を立ってやったのに、もう出てきたのか、甲斐性なし」
わざと憎まれ口を叩くと、文偉は、大きく息を吐いた。
「いやはや」
「なにがいやはや、だ。言っておくがな、あの娘を遊び女のごとく扱ったなら、わたしばかりではない、あらゆるところにいるわたしの兄弟が、おまえに刃を向けるぞ」
夢見心地を彷徨っていた文偉は、偉度の言葉に、ふと真顔になって、顔をしかめた。
「おまえ、そんな脅迫があるか。怖い奴だな。それに、友達だろう? すこしくらい、いい気分を長続きさせるのを手伝ってくれたっていいじゃないか」
「あいにくと、そういう親切さは持ち合わせていない」
「やはり、偉度は偉度だな」
「なんとでも。で?」
「で、とは?」
「誤魔化すな。首尾だ。芝蘭は、なんと?」
「そんなことでよろしいの? と。いやはや」
偉度は首をかしげた。
『そんなこと』って、なんだ?
あれは、そんなに軽い娘ではないが。
「しかし、うまく行くとはおもわなかった。互いに立場が立場だからな。だが、おかげで、これから毎日が春のようだ。鞭で打たれた傷の痛みも忘れてしまったぞ」
「それは何よりだが…毎日って? 芝蘭は、呉へ帰る」
「わかっているとも。それは悲しいが、しかし、未来は拓けた。勇気を出すものだな。わたしはこれから毎日、東のほうを向いてすごすことにする。
もしかしたら、地平のかれ方から、かの女の手紙を携えた使者の姿を見つけることができるかもしれないからな」
「手紙? 使者?」
すると、文偉は満面の笑みを浮かべて、答えた。
「そうだ。偉度、聞いて驚け。芝蘭は、わたしと文通することを了解してくれたのだ!」
「…………………………………………ふーん」
文偉は、すっかり夢見心地で、さてはて、最初の手紙は何を書こうかな、などと浮かれている。
こいつ、ほんとうに女の経験があるのだろうな。
面相はわるくないから、モテている、ということではあるが…
と、呆れていた偉度であるが、ふと我に返る。
「待て。なぜそれをわたしに伝えた、この莫迦。わたしは、芝蘭の兄ではあるが、軍師の主簿でもあるのだぞ」
「わかっているとも。いまさら自おのれ紹介はいらぬ」
「ぜんぜんわかってない! 芝蘭は敵国の細作、そして、おまえは費家の跡取り。その二人が文通だと?」
「問題あるかな」
「あるに決まっているだろう! まったく、口のかるい! 事実を聞かなければ見過ごせたものを、知ってしまったからには」
「とめるのか」
と、文偉は、小雨降る日に、たった一人、置いてきぼりになって、さむさにふるえながら、かぼそい声をあげている子犬のような、かなしそうな顔をした。
これが演技ならば容赦しないが、本気なのだから、まいる。
「検閲せねばなるまいな」
「えー?」
文偉は声を引っくり返らせていやがったが、偉度は、かえってこうすることで、おたがいの身を守れるであろうと判断した。
文偉と芝蘭が直接やりとりするよりも、偉度を中継させれば、『兄妹』が手紙をやりとりしているというかたちをとることができる。
やれやれ、世話を焼かせてくれるものだ、と偉度は嘆息しつつも、いまを明るく生きている偉度と、過去を忘れて同じく生きようとしている、芝蘭たちの助けになれることを喜んだ。
とはいえ、その後、舞い上がりすぎているがために、あまりに舌足らずな文偉の文章に、わざわざ注釈を添えた手紙を、芝蘭に送り続けなければならないハメになるなどと、偉度は想像していなかったが…
※
さて、偉度は文偉を連れて成都にもどってきた。
もどったことの報告を、左将軍府にいるはずの孔明に伝えに行くと、代わりに董和が出てきて、孔明は宮城にいる、という。
董和は、文偉が無事にもどってきたことをなにより喜んでおり、息子の休昭とともに、あちこち傷だらけの文偉を、それこそ抱きかかえるようにして迎えて、おのが屋敷につれて帰った。
あいもかわらず、あきれるほどに仲の良い、とおもいつつ、偉度は、宮城の孔明を追いかけた。
実のところ、偉度は拍子抜けしていた。
成都は、今回の事件を受けて、蜂の巣をつついたような騒ぎになっているだろう、ほかならぬ、李巌と劉封の処遇をめぐって、紛糾しているだろうと、予想していたのだ。
ところが、成都は平穏そのもので、広漢の騒ぎなど、誰も知らない様子である。
いくらなんでも、静か過ぎる。
たとえ『なかったこと』として処理することに決まったとしても、なんらかの余波があってよいところだ。
李巌は上手く言い逃れしたようであるが、劉備に黙って孔明を攫い、あわよくば亡き者にせんと画策していたのは、まちがいないところなのである。
おかしい、おかしいと首をひねりながら、ふと大路を見れば、おどろいたことに、『李』の旗をかかげた一軍が、堂々と成都を出て行くところが見えた。
李巌が、ふたたび広漢にもどっていくのだ。
許された?
莫迦な。
あれだけのことをしておいて、なにも処罰をされなかったと?
いや、以前にも同じことがあった。
法正が、かつての政敵を、ことごとく捕らえて、一族もろとも処刑してまわったときも、その罪を問われなかった。
あのとき、不問に付すように、と指示を出したのは、ほかのだれでもない。劉備でなかったか。
いやな予感がした。
孔明に限って、失策はないだろうとはおもったが、それを超えて、いやな予感がした。
広漢に、ぐずぐずと留まっているべきではなかった。
孔明の伴をして、一緒に劉備の前に出るべきだったのだ。
※
宮城に駆けつけると、ちょうど、孔明が、宮城の、よく掃き清められた幅広のおおきな白い石段を、くだってくるところであった。
その顔を一瞥しただけで、偉度は、予感が的中したのだと、暗くおもった。
孔明の表情は、いつになく固かった。
偉度を見ると、笑顔を作ろうとしたのだが、強ばって失敗したのが見てとれる。
「なにゆえでございます」
前置きなく尋ねると、これまた、孔明も余計な説明をせず、答えた。
「してやられた。李将軍に、先に話をさせてしまったのが失敗であった。しかも、主公と差し向かいにしてしまったのだ」
「それだけでございますか? 軍師と、趙将軍の証言がふたつそろえば、李将軍や劉副軍中郎将への処罰は確定したでしょうに」
孔明は、ふいと顔をそらし、めったに見せない、きびしくもこわばった横顔を見せた。
「子龍はいない」
「いない? どちらへいかれたのですか、この肝心なときに? もしや、じつはあのとき、傷を負われていたのですか」
「成都にもどるなり、将軍職を返上するといって、主公がとめるのも聞かず、出て行った」
「なんですと?」
頭がまっしろになった。
事態についていけない。
有り得ない事態であった。
なぜ、李巌がゆるされ、趙雲が出奔せねばならないのか?
「ありえませぬ。なぜですか」
「偉度」
孔明は、息をつくと、どんな反論であろうと封じこめるような、きびしい口調で言った。
「これから、わたしの言うことをよく聞け。わたしはたった今より、休暇に入る。いつまでになるかは不明だが、左将軍府の手が足りなくなる分は、おまえがおぎなってくれ。
それと、ほかのみなにも伝えよ。だれであれ、わたしの後を追ってはならぬ。おまえも勿論のこと、この言いつけをよく守るように」
ますます偉度は混乱した。
「なにをおっしゃっているのですか。いったい、どちらへ行かれるというのです」
孔明は、偉度のほうを見ずに、成都の空の、もっと彼方を見やるようなまなざしで、答えた。
「詮索は無用」
「それは、あまりに無情なお言葉ではありますまいか。われらは、今日まで、軍師に尽くして参りましたものを、此度のことで、お怒りになっておられるのでしょうか」
偉度の声が震える。
怒りのためではない。
恐怖のためであった。
この人がいなくなってしまったなら、どうしたらよいのか。
想像もしなかったことだったからである。
幼子のような声を聞き、孔明の固い表情が、わずかにやわらいだ。
「そうではない。おまえたちに、怒りなどあるものか。むしろ、わたしは、おまえたちに累が及ぶことを恐れているのだよ。天地が引っくり返ってしまったような気分だ。だが、まだ取り返しはつく」
「もしや、主公は、李将軍のお言葉のほうを信じたのですか?」
「信じるもなにも、偉度、おまえの兄弟たちは、じつによくやってくれた。おまえの報告を聞き、すぐさま四方に手配して、劉括なる子の身元を調べてくれたのだ。
そしたら、なんのことはない。劉括は、主公のお子ではなかった。馬光年らしい男が、漢中のとある村より、劉括を一年ほど前に買い上げていたことがわかったのだ。劉括の両親も健在だ。まずししいうえに子沢山なのに、知恵遅れの子の養育に持て余してしまい、売ってしまったそうだ。あの子供は何も知らぬ。
馬光年のほうは、魏の細作で、かの女の形見を受け継いで、子供が主公に似ていることをいいことに、子であると、でっちあげたらしい。魏の細作である馬光年が、いつ、未来の主人を裏切ることを決めたのかはわからぬが、やはり、『例のお方』と繋がりがある様子だ」
「わが弟に所縁のある者たちとも、でございましょうか」
「関わりはあるだろう。曹家をかく乱し、おのが命脈の起死回生を計ったものとかんがえられる。まったく、ずいぶんと恨まれたものだな、わたしも、おまえも」
「では、そちらを探るのは、わたくしにお任せを。しかし、劉括も偽者とわかったのならば、なぜ?」
食い下がる偉度に、孔明は、かるく息をつくと、ようやく目を向けて、答えた。
その表情は、ひどく透明である。
まるで、これから死におもむく者のような顔ではないか。
「主公は、もちろんお怒りであったとも。そして、わたしをずいぶんいたわってくださった」
「では、なぜ? 以前の主公であれば、李将軍は決してゆるされなかったはず」
「だが、確たる証拠がない。馬光年は死んでしまったし、魏の公子を連れもどすわけにもいかぬ。劉公子は李将軍と口裏をきれいにあわせておるし、子龍の言葉がもしあったとしても、それとて証言のひとつにすぎぬ」
「では、呉より芝蘭たちを」
「いいや、そうではない。もう、そういう話ではないのだ。主公は、此度のことは、真偽が確定せぬが、李将軍と劉副軍中郎将のやりようはゆるせぬ。ゆえに、広漢の賊をすぐに討て。それで事態はおさまったことにする、と」
「それで軍師には我慢せよと?」
「いや、わたしが、不問に付してくれと頼んだのだ。そうでなければ、あやうかった。主公は、それはいけないとまでおっしゃってくださったが、わたしが頼んだのだよ。だから、おまえも騒いでくれるな」
偉度は途方に暮れた。
「わけがわかりませぬ。なぜに、こちらが引かねばならぬのですか」
「李将軍だよ、すべては奴なのだ。子龍が、職務を放棄し、広漢へ行ったことを持ちあげて問題にし、こちらの動きを牽制したのだ。それに、さも子龍に二心があるような讒訴をした。将軍職を返上しようとしているのも、まさにそのあかしである、とな」
「馬鹿馬鹿しい。まさか主公は信じなかったでしょう」
孔明は答えず、こわばった顔のまま、彼方をにらみつけている。
偉度は、ぞくりと背筋をふるわせた。
気づいたのだ。
なぜ、孔明が沈黙を守る道を選んだのか。
「まさか」
「矢の雨を受けた際、子龍がまっ先にだれを助けたのか、主公の耳に入れた者がいる。その行為が動かぬ証拠だと。もちろん、主公は半信半疑であったようだが…つまりは、すこし疑心がある、ということだ。わたしは、いままであの方のやさしさに、あまりに甘えすぎていたようだ」
「しかし、軍師が、だれより主公に忠義を捧げているのは、どんな者の目にも明らかではありませぬか。それは主公もわかっておられるはず。軍師、もし軍師で駄目だと言うのであれば、わたくしもその場にいたのです。わたしの口より、主公にご説明申し上げるというのは如何でしょうか」
偉度の提案に、孔明は、口元に笑みを浮かべながらも、首をふった。
「すまぬが、これに関しては、余人の力は及ぶまい。主公は、薄々と気づいておられたのかもしれぬ。だが、それでよしとおもっていらしたのだ。だが、李将軍の言葉で、お心が揺らいだ。主公が子龍を信じているのはまちがいないが、主公の周囲が、子龍を疑っているというのであれば、これは別の問題だ。
偉度、曹操が、いずれはおのれの血統に、皇帝を名乗らせようと動いていることは知っているな? そうなれば、江東の孫氏もその動きに同調しよう。われらもまた、対抗するために、それなりの準備が必要となる。主公も変わろうとなさっているのだ。いつまでも、以前のように、気心のしれた身内ばかりを贔屓にするやり方では、国力は伸びぬと、そう判断されておる」
「たしかに、李将軍を支持する向きはおおい。軍師に反発を抱く者たちが、その中心になっております」
「かれらを切るのではなく、取り込むことを、主公はかんがえておられるのだ。蜀は、領土が狭いために、どうしても人材がすくない。わたしにとっては敵であっても、忠義をしめす以上、かれらは、主公にとっての敵ではない」
「お待ちくださいませ。それでは、主公をこれまで支えつづけてきた、軍師のお立場は?」
「わたしの立場は何も変わらないよ」
と、孔明は偉度に目を向けた。
「われらは家族ではない。主従なのだ。わたしの敵は、わたしが立ち向かわねばならぬ。主公はあくまで、公平な立場を貫く。そうであればこそ、だれであれ、主公の前で存分に力を奮うことができるのだ。そうでなければ、天下を望むこともできまい」
「納得いきませぬ」
むくれる偉度に、孔明が声を立てて笑った。
「そこは納得せねばならぬぞ。おまえがそのように拗ねてしまえば、わたしは、だれを頼りに戦えばよいのだね」
偉度はむくれるのをやめ、顔を赤らめて、孔明を見た。
「なにやら軍師も、以前よりさらに、人たらし度が増されたような」
「主公が変わろうと努力なさっておられるのだ。わたしも、どんどん変わらねばなるまい。真の切磋琢磨とは、そういうことではないのかな」
はあ、と、それでも納得できず、生返事をする偉度に、孔明は笑みを引っ込めて、さとすように言った。
「偉度よ、これだけは先に言う。もしも、わたしの力がおよばず、戦いに負け、主公の前から去るようなことになっても、おまえは決して、主公を恨んではならぬぞ。
変わると一言で言っても、たやすいものではない。変化というものには、かならず痛みがともなうものなのだ。いま、だれよりも孤独なのは、おそらく主公だ。おまえならばわかるであろう」
「わからないとは、申し上げませぬ」
「おまえは好い男だ。努力すれば、もっと好き男となろう」
「そんなに誉めても駄目ですよ。わたしは、これが精一杯です」
「そういわず、やるだけのことはやってごらん。それと、礼がまだであったな。またも助けられた。ありがとう。いまふたたび、この成都の空を眺めることができるのも、おまえのおかげだ」
「それはそうでしょうとも。で、もうお一方への礼は、いつ言いに行かれるのですか」
「いますぐに。仕事のほうであるが、幼宰殿と許長史には書面にて事情を説明してある。手が足らぬようであれば、伊籍殿か糜竺殿にお願いしなさい。お二方にも、手紙を用意したから」
「相も変わらず、完璧な段取りでらっしゃる。お二方ならば、呼ばれなくてもやってきてくださるでしょう」
「頼んだ。土産は期待せずに待つように」
孔明は言いながら、偉度に背を向け去っていく。
その小さなつぶやきが、最後に風にのって聞こえてきた。
「やれやれ、今度は、わたしが追いかけねばならぬとは」
衣を風にはためかせながら、遠ざかるうしろ姿を、偉度はしばらく見送っていた。
つづく……
(旧サイト・はさみの世界(現・牧知花のホームページ)初出 2005/10/12)