はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

反典略 その4

2019年04月06日 09時55分41秒 | 反典略


董氏の帯を渡された馬超は、しばし言葉も表情も失くして、押し黙っていた。
馬岱は、その場で蹴り倒されようと、殴り倒されようと、構わぬつもりで、じっと亀のように身体を曲げて、その前に蹲っていた。
だが、罵声の言葉も、もはや慟哭もなく、張魯の追っ手を切り伏せた返り血を浴びた、壮絶な姿をした馬超は、ただひとこと、うつろな表情で、こう言った。
「おまえが帰ってきて、うれしい」
馬岱は、その場にて、男泣きに泣いた。
講談で聞いた、劉備の配下の趙子龍という男は、ちゃんと嫡子を守って生きて帰ってきたという。
それなのに、自分は、二人とも救えず、一人でおめおめと戻ってきた。
だれより守らねばならぬ、従わねばならぬと、必死になってついてきたこのひとを、ほかならぬこの自分が、孤独の最奥へと、このひとを突き落としてしまったのだ。
そう言って、胸を叩いて泣いた。

この日より、馬超の顔から、明るい笑みが一切消えた。
そのかわりあらわれるものといえば、ひたすら容赦のない運命のつぶてに、自嘲するような、皮肉めいた、見る者を落ち着かなくさせる、乾いた笑みであった。
馬超は、馬岱が落ち込んでいるのを、幼い頃から共に育った者として、すぐに気づいたから、以前にも増して、この従弟になにかと声をかけ、ありとあらゆることを相談し、どんな些細なことでも打ち明けるようになった。
馬岱も、逆にこの敬愛する従兄の思いに気づいていたから、心では慟哭しながらも、まるで一切を忘れたかのように、あえておどけて振る舞った。
沈みこんでいる暇はなかった。
もはや馬超の『家族』は、涼州兵だけであった。
かれらを、いかに高く劉備に売るか、である。
そも、劉備という男が、噂や講談のように、共に志を同じくできる人間であるのか、それがわからない。
実際に手紙のやり取りをしたのは、龐統相手、あるいは孔明相手であった。

成都を包囲した劉備のまえにあらわれた馬超は、最高の礼をもって、大仰にかんじられるほどに、熱烈に迎えられた。
まずは軍師たる諸葛孔明があらわれ、ここまでやってきたことを労って、まるで家臣がするかのような丁寧な礼をしてきた。
孔明がそうしたのを見て、周囲の将兵、あるいは文官たちも、とまどいながら、馬超を皇帝のようにして迎えた。
馬超は、というと、それを戸惑いもせず、喜びもせず、乾いた心でながめていた。
なぜ、かれらがここまで歓迎するのかは、わかっていた。
いや、歓迎されてしかるべきではないか。自分は、ここに来るために、最愛のものを、ふたつも手放したのだから。
孔明というのは、涼州あたりには、なかなかいそうにない、雪のように白い肌をもつ、男とも女とも知れぬ雰囲気をもった、優美で典雅な男であった。
とはいえ脆さや弱さはそこになく、不気味なほど澄明で、力強い双眸が印象的な青年であった。
噂には聞いていたが、まだずいぶんと若い。
馬岱は、というと、さきほどから子龍、子龍と孔明に呼ばれている、ひどく男ぶりの良い武将を見て、ああ、これが、かの趙子龍か、と思い、複雑な思いにとらわれていた。
趙子龍は、想像とちがって、ずいぶん怜悧で、近づきがたく見えた。
もっと子供に好かれそうな、おだやかで、さわやかな笑みの似合う男を想像していたのだが。

そうして、馬超は孔明の案内によって、ついに劉備と対面する。
その胸にまず去来したのは、希望でも失望でも、戸惑いでもどちらでもなく、董氏が最後に言った、
ひとつの宿りには留まることはできない
という言葉であった。
その後、噂では、秋も董氏も、すぐさま馬超への報復として殺されて、見せしめの如く遺体はしばらく晒されていたそうである。
だが、不憫に思っただれかが、夜陰に乗じて、遺体を持ち去り、葬ってくれたとか。
それを聞いて、世の中というのは、最悪のところで、なぜかいつも、か細い糸のように、光を照らすな、と馬超は思った。

おまえは、こんな目に遭ったことはあるか。

馬超は、燦々と明るい太陽のような笑みを浮かべる劉備に、例の乾いた笑みで答えつつ、胸でそっと問いかけた。
そうして、自分を歓迎してくれることへの謝辞を述べ、今後の軍兵の動かし方や、いかに成都を攻撃するかの話を、孔明も交えてするのであるが、そのあいだも、投げやり、というのではないが、まるで魂だけが、別なところから自分を眺めているような感覚が抜けることはなかった。
馬超は、劉備には、失望はしなかったけれども、これもまた、ひとつの宿りなのだ、と思い、忠誠心というのは湧かなかった。
もとより、馬超という男は、翼の生えた駿馬なのである。いかなる英雄をも、その背に乗せることはない、気高い天馬なのだ。
おまえは、俺に自由をくれたのか、それとも、劉備という、あたらしい枷を与えてくれたのか。
董氏のことを思いながら、馬超は故郷とまったくちがった、険阻な山々のつらなる光景を前に問いかけてみるが、答が浮かぶことはなかった。

馬超はその後、客将でありつづけた。
劉備のもとに馬超があらわれるや、成都はわずか十日で降伏した。それほどに、『馬超がやってきた』ことは大きかったのである。
それからのちの馬超は、位こそ高位を得たものの、大きな功労を挙げることなく、四十七のときに病を得て死んだ、とされる。
それからも馬超の一族が厚遇されつづけたのは、ほかならぬ、この成都を包囲した際に、馬超の名の轟きによって、まるで魔法のようにその堅固な守りが消え、劉備が一国を得ることができたからである。
そのときの記憶が人々の中にあまりに鮮烈に残ったがために、馬一族で、蜀の位が下がることはなかった。
もちろん、人と並び立つことを嫌う馬超を、馬岱がさまざまに必死で支えたために、蜀に入ってからの馬超の日々が、穏やかなものであったのは、忘れてはならない。
とはいえ、あの馬超が、たった四十七歳の若さで、平凡きわまりなく人生を閉じた、という事実を信じかね、久しく、羌族のあいだには、馬超は生きているのではなかろうかという噂が、たびたび流れたそうではあるが。





風と空の下でなら、書物の内容が頭に入るかな、とおもった理であるが、かえって風にゆれるさわさわとした音に気をとられ、何も手がつかなかった。
わたしは武の才能もなければ、文の才能もないし、容姿もいまひとつぱっとしない。
そもそも、自分が生まれたいきさつからして、なんともはやで、父が、湯殿番の女に、ちょっとした出来心で手をつけて生まれたのが、そうだという。
ひとりだけ身分低い女を母に持つ彼は、あまたいる兄弟たちから列の離れたところにいる…と自分では思っていた。
すこしでも、兄の役に立とうと、勉強をはじめたが、かの魏の名軍師であったという郭嘉と同じ字、奉孝をもつというのに、自分で認めるほど、理の頭脳はうまく働かない。
だいたい、暗記が苦手であるし、大勢のまえで、人の耳目をあつめるような気の利いたことを言うこともできない。
家人らは、若さま、若さま、といって遇してくれるが、十七の理にとって、これでよいのかという、己への問いかけは、日々膨らむばかりであった。
生真面目で、思いつめやすい性格をしている理であったから、これでは駄目だと自分でつぶやきつつ、手にしていた書物を、ぽんと草原に投げて、ごろんと横になってみる。
珍しく、厚い雲の間に間に、青空が見えていた。
風がざわざわと、草原を流れていく。目を閉じていると、まるで水底に沈んでいるかのような錯覚さえ覚えるではないか。
「危ない!」
甲高い声がして、理は仰天して目をぱっと開き、起き上がろうとしたが、思わず身を凍らせた。
開いた目の前に、大きな馬の黒い腹があった。
凍りついたまま横になっていると、どん、と馬が地面に降り立った音が聞こえ、それから、馬の背にいた人間が、あわてて降りてくるのがわかった。
「なぜこのようなところにいるの?」
と、乗り手は言ったが、その声が、少女のものであることに、理は気がついて、おや、と顔をあげた。

顔をあげた途端、黒さの劣る髪を、馬の尻尾のように頭頂部で一つに結って、そのまま垂らしている、簡素な男物の衣裳に、女物の帯、という出で立ちの少女が、目の前にあった。
高い鼻梁と大きな瞳をもつ、どこか西方の異民族を思わせる風貌をした、うつくしい少女であった。
「怪我をしたの? だったら、乗せていってあげるわ。成都までだけれど」
と、少女は理に心配そうに尋ねる。物腰と、大人しく尻尾を振って、乗り手を待っている黒馬の馬具から見て、良家の子女というのはすぐにわかった。
「怪我をして、倒れていたのではないよ。ちょっと疲れたから、横になっていたのだ」
理は、傍らに投げ捨てるようにしていた書をちらりと見る。少女も、それで納得したらしく、草の上にあったそれを拾って、小さく笑みをこぼした。
「そうなの? わたしも学問はきらい。叔父上は、学問は女人にも必要だから、読み書きだけではなく、読めるところまででよいから、四書五経は目を通しておきなさいとおっしゃるけれど、そんな気になれないの。叔父上は、わたしが父に似た、といって嘆かれるわ。父上も、学問に暗かったから、生きている間に、いろいろと苦労なさったのですって」
「奇遇だね、うちの父も、若い頃は無茶ばかりして、私塾に通ってはいたけれど、ろくに勉強しなかったので、あとでずいぶんツケを払うことになったとおっしゃっていたよ。四十過ぎて、長兄がお生まれになったあたりから勉強をしなおしたが、若い頃とちがって、頭がうまく働かないので、大変だったということだ」
「学問なんて、学問が好きな人がやれば言いと思うわ。わたしは、こうして馬に乗っているほうが好き。叔父上は、駄目だ、駄目だとおっしゃるけれど、本当は、わたしがいちばん父上に似ているから、嬉しいのよ。その証拠に、あの馬だって、下さったの。父上の馬よ。老馬だけど、よく言うことをきく、よい子なの」
と、少女は得意そうに言う。
すると黒馬は、少女の誉め言葉に答えるようにぶるる、と鼻を鳴らした。
「利巧だね。貴女の言葉がわかっているようじゃないか。うらやましいな。父は一人っ子であったし、義兄弟もみな死んでしまわれた。父親代わりになってくださった方も、たまに手紙を下さる程度であるから、わたしには、そんな贈り物をくれる人がいない」
すると少女は、そうなの? と同情するように、悲しそうな顔をみせた。
「でも、気落ちすることないわ。わたしだって、兄弟はいるけれど、みんな母さまがちがうから、仲が良かったり、悪かったりよ。叔父上は、馬超の名を決して穢す真似はするなと口を酸っぱくしておっしゃるけれど、わたし、父上は、きらい」
「きみの父君は、馬超…威侯なのか?」
そこで理は、ようやく少女の名前を聞いていなかったし、自分も名乗っていなかったことに気づいた。少女も同じであったらしく、あっ、となって、あわてて答える。
「ごめんなさい、名乗っていなかった。わたしは」
と、名乗ろうとする少女を、理は留めた。
「待って、こうしないか。わたしたちは、互いに名乗らないでおこう。だって、だれもいない郊外で、こうして二人で会っているなんて誤解されたら、面倒じゃないか。互いに、知らないまま、仲良く別れるほうが、気持ちがいい」
「そうね、名前は相手を縛るものね。でもすこしずるい気もするわ。あなたは、わたしの父を知っているけれど、わたしは知らないのですもの」
「父の名は言えないのだよ、すまないが。でも、わたしも君と一緒で、父上が好きではない。わたしの姓だけ言おうか。劉だよ」
「劉? どこの劉? まさか主公の劉氏? でも主公に似ていないから、ちがうわね」
理は、馬超の娘が、好きに判断してくれたのでほっとした。
「そうだ、わたしも、わたしの父が好きではないよ。これでおあいこだろう? わたしは、父が母をあまり好きじゃなかったから、母の変わりに父を嫌っているのだ」
少女は、理のことばにおどろいたようだ。父を嫌うなどという言葉が、当時、徹底的に染み付いていた孝の観点からすれば、決して口にしてはならぬ類のことがらであった。もちろん、少女の先ほどの告白も、おなじくらいに重いものであるが。
「おどろいた」
と少女は率直にいい、しまったかな、と思っている理の横に並ぶように座って、言った。
「わたしもなの。父上は、母上を好かれていなかった。なのに、妾にして、わたしを産ませたの。ほかの兄弟たちの母上にも、みんなそう。母上は、父上に、『だれでもよい』と言われたのですって。
冷たくされたことはなかったけれど、酷い御方だと、死ぬまでその言葉を気にしておられたわ。父上も、何を考えてそうおっしゃったのかしら。こんな屈辱的な言葉を、女人に向けるものではなくってよ。そう思わない? 
叔父上に聞いてみたのだけれど、難しいお顔をなさって、答えて下さらなかったわ。ただ、父上は、おまえにこの帯を与えたことだけは、感謝しなければいけないよとおっしゃるの」
「帯?」
そうして、少女の腰にある、こまかい刺繍の施された、どこか古びた帯に目を転じる。
「高価なものではないけれど、合わせやすいので、よく締めるものなの。女物よね。きっと父上は、この帯の最初の主が、とても好きだったのだわ。父上は、わたしにこの帯をくださったときに、『あれの代わりに、平凡でもよい、幸福な人生を歩め』とおっしゃったわ。きっと、曹操に殺されたという一族のだれかの物だったのではないかしら」
「それじゃあ、父君は、きっと君のことが好きだったのだね」
「でも、だめよ。母上に、あんな酷いことをおっしゃって。だから、わたしは母上の代わりに、父上を嫌ってさしあげるの。あなたと一緒よ」
一緒、と言われて、理は、なぜだかくすぐったいような気持ちになった。
「では、あまりここにいると、本当に噂になったらいけないわ。わたしはもう行くわね。さようなら、劉さん」
と、少女は立ち上がると、ぱたぱたと膝や腰をはたいて、黒馬のところへ戻っていく。
「あ」
と、理は、思いもかけず声をたてて、少女を呼び止めていた。
馬の轡に手をかけていた少女は、馬の尾っぽよりなお長く美しい髪を揺らして、振り返った。
「どうなさったの?」
「わたしは、たぶんまた、たまにここに勉強に来ると思う。もし見かけたら、声をかけてくれないか。もし見かけたら、でよいから」
すると少女は、にっこりと笑って、答えた。
「ええ、いいわ。わたし、殿方で、叔父上以外に、こんなに喋りやすい方ってはじめて。貴方も、わたしを見たら、声をかけてね」
そうして少女は去っていったが、理は、その颯爽としたうしろ姿が、草原の彼方に消えてもなお、少女の姿を追いかけていた。


その後、少女と理をめぐる話はさまざまにあるのだが、そのことを史書は伝えず、ただ結果のみを伝える。
すなわち、馬超の娘は、安平王劉理の妻になった、と。
正史三国志『馬超伝』において、陳寿もそこで、馬超の伝をしめくくっている。


おしまい

御読了ありがとうございました!

反典略 その3

2019年04月03日 09時30分17秒 | 反典略
馬超は、自分に付き従い、張魯の元に寄せていた羌族の部将の中から、もっとも信頼できる者に、直に劉備にあてた手紙をしたためた。
内容が漏れたならば、非常に危険の高いものである。夜陰に乗じ、使者を走らせ、張魯にはその動きを悟られないようにした。
ところが、張魯とて、馬超をただの男だと見なしていたわけではない。
いや、ただ者ではないと見なしていたからこそ、つねに馬超の身辺を、信者たちに見張らせていた。そうして、馬超がひそかに外部に密書を出したことを知ったのである。

馬超は、張魯の疑いを招かぬように、いつもと変わらずに過ごしていた。
市井にでかけては酒を呑み、城外へ出ては将兵らとともに狩りを楽しんだ。
そうして、馬岱たちとともに、ほんの一時、狩りをするために屋敷を空けた。
屋敷には、わずかな家人と、董氏と子の秋だけが残された。
大きな猪を狩り出して、意気揚々と引き上げてきた馬超であるが、なにやら様子がおかしい。
さまざまな苦難に遭ってきただけに、己が身に迫る危険を察するのに、馬超は特殊な勘がはたらくようになっていた。
もしや、と屋敷に駆けつけたときには、すでに董氏と秋は、どこぞへ連れ去られたあとであった。
残された家人が言うには、
「天師さまがお二人を特別におもてなししたい」
と使者がやってきて、なかば強引に連れ去ったという。
やられた、と馬超は思い、おのれの迂闊さを呪った。
すぐさま張魯のもとへと駆けつけたが、居留守をつかって出てこない。
密書のことが張魯にばれたのだ、そして妾と子を人質に取られた。
馬超に忠実な、羌族の将兵たちは、これぞ張魯の卑劣な裏切りであるとして、いますぐに、屋敷に攻め込むべきだと口々に言った。
馬超もすっかりその気になり、いそぎ帰って、武装をととのえ、いざ、というときになって、張魯の様子を探りに行っていた斥候が帰ってきた。
張魯の屋敷は、四方を兵に囲まれ、その指揮は、もっとも馬超と対立のはげしかった、楊柏がしている、という。信者たちも、馬超が天師を襲う、というので、それぞれが武器を手にしはじめ、このままでは逆に、攻められるどころか、攻められそうな勢いだ、というのだ。
馬超の軍隊は、特に騎馬戦において無類のつよさをほこり、城内戦には不慣れであった。
それに、馬超には、軍師というものが決定的に欠けていた。
そも、馬超の性質が、人の話を聞き、咀嚼して指示を出す、というものではなかった。馬超の軍では、馬超がすべてものを考え、馬超が指示をだし、馬超の言うというとおりに動いた。
そのため、こうした知謀の必要な局面には、ひたすら弱い。
しかも、天のいかなる計らいなのか、その状態の最中において、ほかならぬ、密書の返事がかえってきた。
それは、劉備の代理という、軍師の諸葛孔明からの手紙によるもので、もしも張魯から出奔し、ともに成都を包囲してくれるのであれば、こちらとしてもできうる限りの待遇を用意する、ということ、われは共に曹賊という敵がある。われらが主公は、貴殿ら降将とあつかわない、客将としてもてなしたいと申されている、というものであった。
手紙には、美辞麗句をうまく繋げただけの、上っ面なところが薄く、この通りにすれば、それがいちばんよいのではなかろうかと、納得させるなにかがあった。
皮肉なものである。張魯を攻めるために準備を整えたつもりで周囲を見渡せば、これは、いかにも、いまから張魯の元を去り、劉備のところへ飛んでいくのにもふさわしい格好ではないか。
だが、張魯に捕らわれた、董氏はどうなる。子の秋は?
「おまえたち、この手紙を持ち、先に劉備のもとへゆけ。わたしは、後からゆく」
馬超がそう言い出したとき、将兵たちは一斉にいろめきたち、若が残られるというのであれば、われらも一歩も場を動かぬ、と騒いだ。
中には、馬超が、妾のために、千載一遇の機会を逃すことに対し、異議をとなえるものさえ出始めた。
それを、逆に情がない、と責める者もあり、これから先、もっと心をひとつにしなければならない者同士が、いがみ合う空気が生まれてしまった。
それを危うしとみた馬岱は、馬超に言った。
「もしも董氏と秋を救わんとなさるのであれば、どうぞ俺にその役目を。兄者はみなと先にご出立ください。張魯や楊柏どもも、まさか俺が単騎で潜りこもうとは、夢にも思っておらぬでしょう」
馬岱の言葉に、馬超は手を差し伸べ、そして答えた。
「その言葉はありがたい。しかし、だ。おまえは、わたしに残された、たったひとりの肉親なのだぞ。おまえまで失ってしまったら、わたしはどうすればよい?」
「必ず生きて戻ります。それゆえ、どうぞ、この機会を逃してはなりませぬ。もしここでぐずぐずと留まれば、張魯はかならず兄者を捕らえ、曹操に引き渡しましょう。俺は、兄者に、身を守るために妾と子を犠牲にした男という汚名は着せぬ。さあ、お早く!」
馬岱は、それでも渋る馬超を、叱りつけるようにして説得し、ほかの将兵たちに、急いで劉備の元へ行くようにと告げると、自分は、あえて武装を解いて、五斗米道の信者になりすまして、貧民たちと一緒に、張魯の屋敷に紛れ込むことに成功した。

もともと、馬超とちがい、馬岱の父母は漢族で、その顔立ちも、肌の黒さはあるけれど、羌族のそれとはちがって見えた。だから疑われることもなかったのである。
張魯の周辺は、あきらかに物々しく、容易に奥深くに入り込めそうにない。
楊柏はぬかりなく、特に張魯の周りに兵士を配置していた。
だが、かえって、兵士の多くいるところこそが、董氏の隠されている場所だというのがわかった。
ほどなく、馬超が手勢をすべて引き連れ、出奔した、という知らせが遅まきながら入ってきた。
これに楊柏は喝采をあげ、やはり、あれは天下の裏切り者、だれとも轡を並べ立てることのできぬ男ぞ、と言って、去っていく馬超を追撃するようにと下知した。

馬岱にとっては、幸運な出来事であった。
楊柏ごとき、そして張魯の側近ごときに、あまたの修羅を駆け抜け、最強とうたわれた青州兵を基盤とする曹操軍と対峙してもなお、まったく引けをとらなかった馬超と、その軍兵である。追っ手など、たやすく蹴散らしてくれるにちがいない。
馬岱は、信者に紛れて、五斗米道の施設の内部に入り込んだ。
宮殿のように入り組んだつくりとなっており、入ってすぐは、信者たちのための施設で、その宿舎もある。
清くあれ、という信条から、大勢が暮らしているわりには、建物の傷みはすくなく、掃除も行き届いている。
大勢で暮らすということへの配慮も行き届いており、屋敷のところどころには植樹がされていて、空間は狭いながらも、隠れる場所、目につかない場所がほどよく作られている。
朝から晩まで集団の中にいて、ひとりになることがすくない生活では、こうした空間があるとないとでは、だいぶ余裕がちがってくる。張魯はその点を、非常に理解した男であった。
木陰がまた、馬岱の役に立った。
見つからないように隠れるには打ってつけで、この慎重にして大胆な青年は、大勢の信者を難なくやりすごし、そして、建物の奥に、まるで皇帝のように住まっている張魯の居住する建物内へと侵入して行った。

おそれていた馬超が、妾と子を捨てて出奔した、ということが伝わり、張魯の危機に激昂し、武装していた信者たちも落ち着いて、兵卒のほとんどは、それを追うために出払っていたが、まだ屋敷内には、数名の兵卒たちが残っていた。
兵卒たちの姿は、ちょうどよく馬岱の目印となった。
兵卒たちが多く見張っている一室。
あれが董氏と秋のいる部屋にちがいない。
部屋を見張る兵卒の数は二人。
馬岱は徒手空拳であったが、ひたひたと、足音のひとつも立てずに兵卒たちに近づくと、まず、疾風の如く一人に襲い掛かって、悲鳴もあげさせないまま、腰の剣をすばやく奪って咽喉を裂き、つづいて、突然の襲撃に、うろたえて腰を抜かしているもう一人の兵卒を、我に返る前に、すばやく同じく首を跳ねとばした。
部屋には錠がかかっていたが、鍵は、殺した兵卒のひとりが持っていた。
最後に手をかけた男が倒れたとき、思わぬことに鎧が床にくずれる大きな音がしてしまったので、もしかしたら、人が駆けつけてくるかもしれない。
ゆっくりしている暇はなかった。
馬岱は、鍵を開くと、部屋の中に入った。
部屋には、見慣れた董氏と、馬岱にとっては、はとこに当たる秋の姿があり、ほっとしたことに、二人とも無事であった。
助けにきてくれた、と喜ばれることを想定していた馬岱であったが、思いもかけぬことに、あらわれた馬岱の姿を見るなり、董氏は、悲鳴にも似た声をあげて言った。
「なぜ戻ってきたの!」
なぜもなにもない、助けにきたのだ、と馬岱が説明をすると、董氏は、嬉しさと、大きな悲しみとの、はざまにあるような顔をして、首を振った。
「貴方と行くことはできません。あなたは私と共に、ここから出ることができるとお思い? まだ物のよくわからぬ秋も一緒に? わたしたちの価値は、殿がここを出ないことにあった。殿はもう、劉備のもとへ向かわれたのでしょう? ならばもう、わたしたちはよいのです」
「もうよい、とはどういうことだ? さあ、問答している暇はないぞ、早くここから逃げるのだ」
「いいえ」
と、董氏は強く首を振り、母にぴったりとくっつく秋とともに、真っ直ぐと、ぞっとするくらい透明な眼差しを向けてきた。
「張魯に捕らわれて、わたしたちは、はじめて、今日まで自分たちが生き残った理由を悟りました。わたしたちは、今日の、このときのために生き残った。二百の魂が、わたしたちを、殿の礎のひとつになるようにと、あえてわたしたちを守り、残したのです。いまこそ、わたしたちの役目を果たすとき。
岱どの、あなたは早く、殿を追ってください。でなければ、あなたこそ、張魯の軍兵に追いつかれてしまう。血のつながった貴方を失ったら、殿は二度と立ち直れはしないでしょう」
「莫迦な、そなたたちを失っても同じことぞ。早くするのだ」
苛立った馬岱の耳に、倒した兵卒が倒れた音を聞いて、どやどやと人が集まってくる物音が聞こえてきた。
それは董氏も気づいたらしく、なにをするかと思いきや、いきなりおのれの帯を解くと、馬岱に差し出した。
「殿がここをついに出られた、と聞いて、わたしたちが、どれだけ喜んだか、おわかりになりますか? あなたとて、喜んでおられるはず。殿はひとつの宿りに留まることの出来ないお方。それでこその錦馬超なのです。
天下の馬超を旅立たせることができるのですから、わたしは少しも悲しくもないし、恐ろしくもない。最後に、涼州の女の誇りを見せるという仕事が残っているだけなのです。さあ、岱どの、早く行って! これを、殿に、わたしを」
と、ここで董氏が言葉に迷ったのが、馬岱にはわかった。
董氏は、わたしを忘れないで欲しい、といおうとして、思いとどまったのである。
董氏は、ふっと自嘲の笑みにも似た、あまりに寂しすぎる笑みを浮かべると、馬岱に言った。
「これをわたしだと思ってと、お伝えください。いつも、わたしと秋は、あなたさまを守っておりますと。もしも、あなたさまが、立ち止まってしまわれたら、わたしたちは、貴方を、それこそ馬のように鞭打ちますよと言っていた、と」
馬岱がなおもためらっていると、董氏は帯を押し付けて、いきなり、大声で叫んだ。
「さあ、張魯め、わたしたちを捕らえて、殿を苦しめようとした小心者! 天師が聞いて呆れる。結局、錦馬超をも、おまえは御すこともできなかった! やってきなさい、愚かものたち! わたしたちは、馬超の妻と子として、おまえたちに誇りというものをみせてやりましょう!」
その声に仰天したのは馬岱だけではない。
もちろん、張魯を守っていた兵卒たちも同様で、大勢の気配が、この部屋に集ってくるのがわかる。
もはや、一刻の猶予もなかった。
馬岱は、帯を握りしめると、董氏と秋を残して、ひとり、部屋を飛び出した。
兵卒たちが、見張りが死んでいる、と叫んだのが聞こえる。と、涙で視界のぼやけた馬岱の耳に、はっきりと、董氏の最後の声が聞こえた。
「さようなら!」

つづく……

反典略 その2

2019年03月30日 10時01分59秒 | 反典略



馬超はひとりでいることが多くなり、馬岱や董氏にも口を利くことがすくなくなった。
もっとも親しいふたりは、隠し事のできない、明朗な性格である馬超のこの変化に、はっきりと、その内面に、はげしい葛藤が渦巻いていることを悟った。
とはいえ、馬岱は、二百名の親族が処刑されたさい、おのれも父母や兄弟をすべて亡くしており、もはやそのときから、自分の家族は馬超に捧げたのだというくらいに、自分の一切を馬超に捧げていたから、その挙搓、行動に、口を出すことはなかった。
もはや、馬超が決めたことに、ひたすら従うしかない。
一方の董氏はといえば、これは、一族は、馬氏ではない、というので難を逃れていた。
故郷へ帰れば、ちゃんと老父母も健在で、姉を心配した弟が、たびたび馬超のもとへ出向いてきたり、あるいはほかの兄弟たちが手紙をよこしたりしてくれる。
馬岱も、暗に董氏に、帰郷すべきであるとほのめかしたが、故郷の集落より、ほとんど攫われるようにして連れ去られ、馬超の妻となってから、董氏は、おのれのいる場所は、馬超のそば以外にほかにない、と決めていた。
もちろん、息子の秋のこともあったが、それ以上に、夫を見捨てて、子供のため、己の命のために、このもっとも苦しい時期に姿を消してしまうことを、彼女は、彼女の誇りにかけて、その判断を拒んだのである。
馬超は、息子と遊ぶこともなくなり、馬超の仮の宿りに、だれかが訪れることもなくなった。

あきらかに、馬超は完全な孤立をはじめていた。
張魯の側近たちとの親交が途絶えがちになるにつれ、馬超の周囲にあらわれたのは、ほかならぬ、五斗米道の信者たちであった。
馬超は、外界で起こっていることのすべてを知りたがり、曹操のことも含め、その背後にいる公孫氏の動向、はるか南方にいる孫氏のこと、荊州を足がかりに、一気に勢力を伸ばし、地盤を固めつつある劉備のこと、巴蜀に籠もる劉璋のこと、そしてもっとはるか西域にひろがるさまざまな民族のこと、すべてに耳をかたむけた。
「西域というのは、若い頃、ちょっとした冒険のつもりで行ったことはあるが、あの砂地のさらに果てには、漢にまさるとも劣らぬ大帝国があるそうな。そこまでいければ、きっと楽しかろうな」
などと、言って笑い、それはできぬ相談ではあるが、とさびしそうに付け加えるのであった。
馬超は二百名の命という重石に、足を縛られた、翼のある駿馬であった。
彼らの犠牲を無視して、もはや残された一族だけで、故郷から遠く離れることなどできなかったのである。
そんな馬超の寂しげな言葉を聞き、いっそ忘れてしまえ、どこか遠くへいってしまおうと、何度馬岱は言いたくなったか知れない。
だが、そこは、馬超の胸にある、鳴り止まぬ慟哭を知るだけに、口にすることはできないのであった。

さて、信者たちからさまざまな情報をあつめ、おそらく張魯と肩を並べられるほどに情報通となった馬超が、もっとも気にしたのは、劉備という男の名であった。
劉備というのは、もともと地盤のしっかりあった、公孫氏や、爆発的な勢いで中原を制覇した曹氏、そしてじわじわと地元の豪族たちと婚姻や折衝で結びつき、地盤を作り上げた孫氏とちがって、どこか向こう見ずな、それでいて妙に颯爽としたところのある男であった。
とはいえ、いまは劉璋と連合し、張魯を征伐せんとする『敵』である。その敵将に、馬超はもっとも興味をひかれた。
劉備をめぐる、義兄弟の話は、講談師が語るものがたりのなかでも人気なほどで、最近では、曹操の誘いを高潔に蹴り飛ばし、劉備の元に帰ってきた関羽の話につづけ、七年間もの歳月を耐え忍び、『伏たる龍』なる名を持つ諸葛孔明という、いっぷう変わった名前をもつ軍師を迎えてからの、まるで御伽噺にも似た冒険譚もはやっているらしい。
ふさぎがちで、出かけるにしても、たいがい一人の馬超が、たまに市井へ出かけることがあったが、どこに行くかといえば、講談師のことろであり、余興をもとめる民草にまじって、劉備と義兄弟たちの話に聞き入り、そしてお話が解散になったあとも、講談師のところへ行って、その話はどこまでほんとうなのか、と聞くのである。
そうして馬超は、ほかならぬその劉備が、荊州の豊穣な富を基盤に、『曹賊に狙われている巴蜀を助けるため』、漢中を目指して向かってくる動きがある、ということを知る。
やがて馬岱と董氏は、馬超の口から、『劉備』という男の名を、もっとも聞くようになっていくのであった。

劉備という男ほど、毀誉褒貶の激しい男はない。
ある者はいくじなし、優柔不断だといい、ある者は、冷徹で怜悧、得たいが知れないという。
何度も何度も地盤を失い、裏切られては、だれかに拾われ、それでもまだ立ち上がり、そうしていまの地位を保っている。
講談師の言うとおり、襄陽人士(その代表が孔明であるが)を味方につけることができた、ということも大きいのであろうが、なにより馬超と共通するのは、家族を人質にとられたり、あるときは失うことがありさえしても、負けることなく、決してだれにも真に膝を屈することなく、英雄としての気概を捨てなかったところである。
馬岱などは、関羽の、曹操のあまたの誘いを退けて、堂々と恩をかえして義兄のもとに帰還した、というその話に尊敬と憧れを抱いたし、董氏は、長坂における戦いで、妻子を混乱で見失った際に、その臣下の趙子龍という男が、みごと御子をまもって帰還した、という話をうらやましく聞いた。
いつしか、彼らのなかでは、劉備という人物に対しての、期待めいたものが育ちつつあった。
それは張魯への失望…いや、正確にいえば、張魯を中心とする『宗教団体』との性質の合わなさが明確になるにつれ、大きくなっていった。

五斗米道に救いを求めてやってくる信者や、商人たちから、どうも連合している劉備と劉璋の動きが、おかしいという話が出てくるようになった。
それまで、劉備と劉璋の両方は、おなじ劉氏(元のご先祖が同一かどうかはともかく、生まれ育った家の格式には、格段の差があるのであるが)ということもあり、そして敵がおなじく曹操ということもあり、はためにはうまく行っているように見えた。
しかし、まともな観点からすれば、劉備がたとえ曹操を連合して叩いたとして、そのままおとなしく荊州に帰るとは思えない。劉璋は、すっかり劉備という男を信じきっており、そんなことはない、と断言しているのであるが、劉備の野心が大きいというよりは、劉璋に見切りをつけた、劉璋の家臣たちが、劉備と通じ、巴蜀の主人を交代させようと陰謀している、というのである。
劉備自身は、東呉の動きがあやしく、いまは蜀よりも帰還をえらびたい、と主張しているようであるが、それを引き止めた、劉璋の配下の張松が、じつは劉備に深くつうじており、それが露見して処刑された、という話まで飛び込んできた。
それに乗じ、劉璋は、劉備との一切の交際を絶つようにと、全将兵に通達したのである。
これは、張魯から、その勢力を守ってやったと思っていた劉備には、忘恩甚だしい話であった。
劉備はひどく激怒し、とうとう両勢力は戦闘態勢に入りつつある、という。

おおかたの意見は、劉備不利、ということであった。
なぜかといえば、劉備はその軍師たる、龐統という男を戦乱の最中に亡くしている。
龐統の名は、馬超もよく知っており、曹操が赤壁において孫権と対峙しているときから、なにかとこまめに手紙をよこし、曹操の動きを知らせてくれる男であったからだ。
聞けば、たいそうな権謀術数の持ち主で、世では鳳凰の雛、とまで呼ばれていたそうであるが、志半ばにして、無念の戦死を遂げてしまい、これが劉備には大きな痛手になっている、というのである。しかも、地形からして、蜀は険阻きわまりなく、難攻不落の天然の要塞。
戦下手、と評判のある劉備では、とてもではないが攻めきれまい、というのが大方の意見なのであった。
龐統の戦死をうけ、荊州から援軍がかけつけ、成都包囲のための準備がすすめられつつある、という。それでもなお、天然の要害・巴蜀の攻略は容易ではない。

だが。
この対決により、一時の平和を授かった張魯の周囲では、どちらが勝つか、ということに話題が集中していた。
劉璋が勝ったなら、これは御しやすい。
だが、劉備が万が一、勝ったなら? 
劉備と張魯のあいだに接点はなく、むしろ劉備と張魯は、民草の平和をともに願うものでありながら、一方では天に祈り、一方では剣を取った者、根元はおなじ考えであるというのに、そこに至るまでに選ぶ道がまったくちがう男。まさに水と油なのである。
劉備とでは、うまくいかない。
もし、劉備が勝ってしまった場合、張魯にとっても、これは危うい事態となる。
ならば、そうなる前に、劉備の不倶戴天の敵、曹操と結ぶべきではないか。

むろん、馬超は、張魯のこの考えをすばやく察知した。そして、みずからもまた、独自におのれの道を切り拓くべく、うごきはじめた。

つづく……

反典略 その1

2019年03月27日 09時57分10秒 | 反典略
建安十六年。
たび重なる羌族への締めつけと、のしかかる重税に悲鳴をあげた民の怨嗟の声を受け、涼州の英雄で、みずからもまた、羌族の血を引く馬超は、韓遂ら、有力氏族たちと連合し、叛乱を起こした。
怨嗟の声をあげたのは、羌族ばかりではなく、この乾燥した厳しい土地にすまう漢族もおなじである。
そして、漢族と羌族の双方の血をひき、その風貌も誇らしく美しい馬超は、かれらの旗頭にすえるのに、ぴったりな男であった。
本人もそれを熟知していた。
そうして、太陽のように燦々と輝きを放てとばかり、派手な鎧で身を飾り、はなばなしく戦場を駆け抜けた。
これで実力がなければ、あわれな道化師の死体が、草原を、町へ帰っていく行軍の穂先に、さらしものとして掲げられていたところであろう。が、そうはならなかったところに、馬超という名前の伝説が、早くに生まれた原因がある。
馬超の武勇は、誇張でも、勢いだけのものでもなかった。
一時は、曹操をして、遷都を考えさせるほどに馬超らの勢いはすさまじかった。

これは、洛陽も目前ではないかと、馬超たちの周辺で、楽観的な空気さえ流れ始めた頃であった。
かずかずの苦難を乗り越え、そして自らの運命を切り拓いてきた曹操という男の器量に対し、度量はあったが、若すぎた馬超のあいだに、勝敗の差が出たといってよい。
連続する勝利は、楽観を呼び、そこに弛緩を生じさせた。
その弛緩こそが、馬超の命取りとなってしまう。
勢いに乗るべしとする馬超と、慎重にと進言する韓遂の意見の対立がめだってきたのであった。
馬超と韓遂のあいだが、進軍するにつれ、不和になりつつある、との情報を手に入れた曹操は、家臣たちと謀り、韓遂に誤字を修正した箇所ばかりの手紙を送りつける。
それを目にした馬超は、修正したのは、ほかならぬ韓遂ではないかと疑い、この疑惑に怒った韓遂と完全に決裂。
ここに連合はやぶれ、馬超は敗退した。
馬超はあきらめず、羌族を中心とした北方の蛮族に呼びかけ、ふたたび叛乱を起こす。
それほどに馬超の羌族においての名声は、高いものであったのだ。
涼州の民も、『あの錦馬超』ならばと、ふたたびかれに期待をかけたのだ。

そうして、二度目の波に馬超は乗ることができた。
一時は、自らを征西将軍と名乗り、ふたたび盛り返す勢いをみせた。
しかし、こんどは、馬超の独走におののいた者たちによって、馬超は帰る土地を締め出され、故郷を追われることとなってしまう。第一戦において、曹操がみせた反逆者への残酷な仕打ちが、ぎりぎりのところで、あまたの民、そして将兵たちを竦ませた。
結局、馬超はここでも、曹操にまけてしまったのだ。
その後の馬一族は悲惨であった。
曹操は、叛乱した馬超の一族をゆるさず、すぐさまその家族をすべて捕らえると、二百あまりいた氏族をすべて処刑にした。
馬超は、たった一人のこった従弟の馬岱、そして妾の董氏とともに、鶴鳴山において『五斗米道』を主催する、新興宗教の教祖・張魯のもとへと、身を寄せるしかなくなってしまったのである。





董氏は、長年馬超に連れ添っていた妾のひとりであり、馬超とのあいだに、秋、という息子をもうけていた。
羌族の娘で、くるぶしまで届くほどの長く美しい黒髪を持っており、その男勝りな気性と美貌が馬超の気に入り、攫われるようにして、氏族の集落から連れ帰られた。
しかし、董氏のほうでも馬超の男ぶりの良さや、強引ながらも優しい面に惹かれて、結局、ふたりは仲むつまじくなった。
馬超は、当時の武将としては、ごくごくふつうに、複数の妻を持っていたが、勝気で物怖じせず、忍耐強い董氏は、特に気に入りであった。
よほどでないかぎり文句も言わないので、戦場にも連れて行っていたから、おかげで董氏だけが、曹操の手から逃れることができたのであった。
馬超は董氏の生んだ息子の秋をとても可愛がっており、秋、秋、と言ってしょっちゅう、その手に抱いては、暇さえあれば外に連れ出して、共に空を眺めたり、大地の風を嗅いだりした。
そうして張魯のもとで待つ妻のもとに戻り、夜はその手料理に舌鼓を打って、従弟の馬岱と酒をともにする。
三人には不文律があった。
それは決して、亡くなった一族のことを口にしてはならない、ということであった。
だれが言い出したことではない。もし口にしてしまえば、場が暗くなる、などという単純なものではなかった。
二百名、という、あまりに重過ぎる人命の犠牲は、残されたたった三人では、とてもではないが、耐えて抱えていることができなかったのである。

張魯は、貧民を中心に、生き神さまとさえ崇められているほどの人格者で、天師さま、天師さま、と呼ばれ、みなに好かれていた。
張魯は、この乱世にあっても、やはり劉璋や劉表の、幼少をさほど苦労せずに過ごしている裕福な士大夫とおなじで、三代目の教祖として、幼いころから特別に育てられていた。
そのあたり、やはり長子として、ほかの兄弟たちとは別待遇で育った馬超と、気が合ったのであろう。
それに張魯は、武勇に長け、正義感の人一倍つよい馬超を気に入っていた。馬超のほうも、曹操に追われる己をかばってくれた張魯に感謝していたし、束の間の、夢のように平穏な生活を、気に入っていた。
とはいえ、馬超の生活の場は、つねに戦場であった。
家族も恋人も友も、つねに戦場で得てきた。
戦場こそが、かれの家であり、固定されて動くことのない、穏やかな時間こそが、仮の宿りなのである。
一方の張魯としては、馬超のように切羽詰った事情がなかった。
つまり、『羌族の代表』としての強迫性である。
逆にあったのは、『五斗米道』(すでに『天師道』と呼ばれつつあったが)の教祖として、自分を頼ってきた、流民たちの生活をいかに守るか、という責任である。
馬超は、自分に期待して、数多くの兵卒を預けてくれたひとびとの心を、その言葉を忘れていなかった。
だから、志半ばで、このまま戦うことを止めるわけにはいかなかったのである。
馬超はおのれの心を隠すことはしなかったし、宴や議事の場でも、そも、信者たちが貧しい生活にあえいでいるのは、天下の乱れ、曹操の圧政が原因である、それをつぶさねばならぬ、と訴えた。
もちろん、大本の腐敗は漢王室にこそあるのであるが、そこを攻撃できるほどに馬超は勇気がなかった。
当時において、漢王朝はいまだに大地における我らの『父』であり、我らは帝の『赤子』なのである。子は父を批判『できない』。つまりこの場合の勇気とは、儒の気風強くのこる時代において、父を罵倒する勇気のことである。
そうであるがゆえに、あえて責任を曹操に向けた。
もちろん、現実をしっかり見据えている者たちは多く、いや、ほとんどの世情に長けた者は、世の乱れの要因は、曹操などという人物ひとりで説明がつかないものだということを知っていた。
それをいまさら曹操に帰することすら、時代遅れだという気風が出来上がりつつあった。

『五斗米道』は多くの流民を、五斗の米さえ寄進すれば、だれであれ受け入れ、食客としてやしなう宗教団体であった。
であるから、救いをもとめ、各地から多くの民がやってくる。
だからこそ、情報の集り方もハンパではない。
張魯は、鶴鳴山という中原からすればド田舎の山にひっこんでいる身でありながら、中原の士大夫顔負けの情報を、その耳にあつめていた。
もちろん、張魯の元につどっていた、ほかの武将も同様である。
そのために、『時代遅れの田舎者』である馬超と、時代をよく知る武将たちとでは、衝突することもたびたびであった。
馬超は、長子たるゆえか、世渡りが下手であったといわざるを得ない。
この不満を、五斗米道内に同志をつくることで解決しようとせず、直接、張魯に訴えた。

困ったのは、張魯のほうである。
張魯は、たしかに馬超に安息の場を与えてくれたものの、張魯自身に野望はなかった。
彼は己をたよってきた信者の安息こそが第一であり、馬超を迎え入れたのも、貧窮した民を迎え入れるのと、さほど変わらぬ感覚であったのである。
そこが、宗教者と、生まれながらの武人の、意識の差であった。
そこで、張魯は腹心の武将、楊柏に相談することにした。
じつは、馬超の男ぶりのよさにほれ込んでいた張魯は、自分の娘のひとりを、妾しかいない馬超に妻として、与えようとしたことがある。
しかし、それを反対したのは、楊柏という将軍であったのだ。
この楊柏、将軍という肩書きこそあるが、もともとが貧農の息子である。それが張魯にひろわれ、そのご恩返しとばかりに懸命に働いて、働いて、ついに将軍という肩書きがもらえるまでに、出世したのである。
「二百名ものおのれの家族を見捨て、たった一人の妾と子供、そして従弟だけしか救えなかった男、それだけしか愛せなかった男でございますぞ、それが、他人を愛せる男と申せましょうか」
張魯は、直感の人であると同時に、感受性のつよい、思索のひとであった。
であるから、楊柏のことばを、最初は跳ね除けたものの、よくよく事実と照らし合わせれば、そのとおりであると思うようになっていた。
もとより、名門の馬家の御曹司である馬超からすれば、兵卒は使うもの、という意識がつよい。
しかし、最下層から伸し上がってきた楊柏からすれば、兵卒は、同胞であった。
同胞を、天下の情勢に照らし合わせても、勝ち目のない戦に送り出すわけには行かない。
だからこそ衝突したし、敬愛する張魯が、馬超と縁続きになり、曹操ににらまれ、処刑された二百名とおなじ運命をたどらせるわけにはいかない、と思ったのである。
張魯は、楊柏の心をよく知っていたので、娘の婚儀をとりやめた。
そして一層、楊柏を重用するようになっており、徐々に馬超への感心は薄れつつあった。
このあたりから、張魯と馬超のあいだに、馬超と韓遂のときと同様の、不協和音がながれはじめるのである。

やがて馬超は、たびかさなる動議の場において、つねに孤立するようになっていった。
張魯に不平不満を訴えるが、聞き入れられるところは少ない。
しかも、張魯というのは、面倒くさがりというわけではなかったが、やはり苦労知らずで育っているがゆえに、人の和を乱しすぎる人間が苦手で、理解できないのであった。
馬超は、まさに理解できない不穏分子であり、楊柏側の、馬超をなんとかすべしという進言が重なったこともあり、だんだんと、馬超を曹操へ引き渡すべきではないかという考えが、浮かび上がってきたのである。

とはいえ、馬超もまったくの愚か者ではない。
いや、愚か者であったほうが、どれけかよかっただろう。
馬超は、己を取り巻く環境が、日に日に悪くなっていくことに、敏感に気づいていた。己を締め付ける麻縄が、じょじょにきつくなり、身動き取れなくなっていく感覚である。
もがけばもがくほど、逃げることができない。
これは、自由を愛する馬超にとっては、おそるべき事態であった。
張魯の脳裏に、馬超を曹操へ引き渡す、という考えが浮かぶのと同様に、張魯から逃げて、よそへと出奔すべきではないかという考えが、馬超の脳裏にも浮かび始めていた。

つづく……

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