はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

風の終わる場所 35 静かなる湖のほとり・2

2021年06月20日 10時09分04秒 | 風の終わる場所


家の扉は開いていた。
訪問する者といえば、飢えた猿くらいのものなのだろう。
扉をくぐろうとした途端、なつかしい土と肥料のにおいがした。
隆中ではおなじみだったにおいである。
「子龍、いるか?」
声をかけても返事はない。
先の住人の道具であろう農具、あるいは狩猟のための罠などが壁にかかっている。
つい最近、それぞれが手入れされたあとがある。
まさか、ここで農夫として、あらたに人生をはじめるつもりなのか。
農夫になるのにも、それなりの学習が必要だ。
農夫を舐めてはいけない。
常山真定の名家の末っ子として、土いじりなんぞしたこともなく過ごしてきたくせして、いまさら農夫なんぞになれるものか。
人の気も知らないで、着々と、自分のことばかりを先に進めてきたわけか。
だんだん腹が立ってきた。
すると、戸口のほうで、がたごとと、物音がする。
虎でなければ、虎のようだといわれたあの男だろう。
孔明は振り返り、声を荒げた。
「ひどいではないか!」
目をとがらせて振りかえった先には、捕らえたばかりのうさぎを片手に持った趙雲の、唖然とした顔がそこにあった。
「いつ?」
「さっきだ。なんだ、幽鬼の類いではないぞ。ちゃんと生きた本人だから、納得がいくまで、とっくりとながめるがいい。おっと、ながめたそのあとに、帰れというのは無しだからな。
それと、いきなりではあるが、咽喉が渇いたので、なにか飲ませてくれないか。やれやれ、家人がだれもいないので、ぜんぶおのれでしなければならないのか、面倒な」
孔明が、桶に汲んであった水を、手近にあった器にわけて口にしていると、言葉どおり、じっとこちらをながめている趙雲と目が合った。
その顔には、はっきりと動揺がある。
とがらせていた目をやわらげて、孔明は言った。
「わたしの記憶力をあなどってはならぬ。特に、あなたの言ったことを、わたしが忘れることはない」
「そうか」
「そうさ。なにもない。わたしはすべてを知っているのだよ。ところで、山奥にあるにしては、よい家ではないか。開いているところからお邪魔させてもらったが、こちらが入り口でよかったのか? 
ふむ、ほかに部屋は書斎と、寝室のふたつのみ。これでは家人は必要ないか。ぜんぶ自分の手の届く範囲にあるのだもの」
「なかなかに快適だ」
「そのようだね」
孔明は、家を見まわすのをやめ、立ち尽くしているのもなんなので、ちかくにあった座に腰かけた。

趙雲の反応を見ようと、わざとぺらぺらと言葉をならべてみたのだが、反応はにぶい。
いまひとつである。
その趙雲はというと、捕らえたうさぎを藁のうえに置いて、それから、血と泥でよごれた手を洗い、狩猟用具の手入れと片づけを、もくもくとこなした。
孔明も、しばらくその姿を観察していた。
これは、知らない姿だな、と孔明はおもいながら見ていた。
孔明の知っている趙雲というのは、宮城に行けば、熱心に兵卒の訓練を指導しているか、あるいは厩で馬の世話をしているかのどちらかだった。
趙雲は、自邸においても、公務につながるなにかをしていた。
書を読んだり、あるいは武芸の稽古をしたり、目をかけている部将たちの相談に乗ったり。
いま見せている姿は、まったくの私的な姿である。
これは、知らない。
同時に、いままで、これほど長く、公私共に、おのれのそばにつなぎとめていたのだとおもう。
長年つづけてきた緊張がほぐれて、いま、気の抜けた状態にあるのかもしれない。
だが、ここに留まることを、ゆるすわけにはいかないのだよ。

不意に、道具を片づけおえた趙雲が、口を開いた。
「おもしろいか?」
「あなたを見ているのが? そうだね、おもしろい」
「公務はどうした。幼宰殿が悲鳴をあげているだろうに」
「手配はした。気になるのか」
「それなりに」
「つめたいことだな。われらは、もはや過去の人になっているのかな」
「俺は、いつもこうだ」
「つまらない嘘をつくものじゃない。子龍、一緒に帰ろう。長くここに留まれば留まるほど、われらの立場は悪くなる」
「われらではない、俺が、だろう。李巌はどうした」
「今回のことは、すべて不問に付すように、主公にお願いした」
趙雲は、手をとめて、眉をしかめて、孔明を振り返った。
山野を駆けまわっていたらしく、日焼けをしている。
その性格からして、悩みを忘れようと、一本気に狩猟に集中したにちがいない。
真正面からその顔を見れば、なつかしささえ、湧いてくる。
「なぜ」
「なぜだって? 聞きたいか。知っているのじゃないのか。だからこそ、ここに逃げ出したのだろう?」
趙雲は、顔をしかめたまま、ふい、と顔をそむけた。

消えかけていた怒りが、またもどってきた。

「まったく、近来にない大失態だ。だれのおかげで、こんな失態を演じることになったのだとおもう? あなたが、いきなり、将軍職を返上つかまつる、なんて言いだすからだ。裏切り者!」
孔明の言葉に、趙雲は、ぎゅっと眉をしかめて、耐えるような顔で言った。
「そんなふうに言うな。裏切ったわけじゃない」
「いいや、あなたは逃げたのだ。みごとな裏切りじゃないか。わたしはあの日まで、死がおとずれないかぎり、あなたが居なくなるなんてことを、夢にもおもってこなかった。それが、いきなりこれだからな。
こちらは混乱して、李巌の良いようにさせてしまった。主公と李巌を、わたしより先に二人だけで話させてしまったのだ。あの男め、あなたが、主公よりもわたしに忠誠を尽くすあまり、先走りが過ぎるようだと上奏したのだ。
ああ、もっとはっきり言うならば、わたしとあなたが、さも主公に対して二心があるような物言いだったようだよ。その場にいなかったから、これは憶測なのだけれども」
「それだけだったのか」
「さてね。繰り返すが、わたしはその場にいなかったから、どれだけの言葉が交わされたのかはわからない。だが、主公の顔色が、あきらかに悪くなっていた。あなたが将軍職を返上する、なんて言ったからだぞ。わたしを裏切ったうえに、主公のお心を乱した。最悪だ!」
「そうだな」
沈痛な表情を浮かべる趙雲に、孔明は、そこいらにある物を投げつけたいほどのいらだちをおぼえた。
「『そうだな』? それだけか? ほかに言うべきことは?」
「すまない。もし俺が責任を取ってすむことならば…そうだな、共に成都に帰り、どのような咎も受けるが」
「あなたにおりる罰なぞない。子龍、あらためて問う。なぜ逃げた? わたしは、いつかはこの日が来るであろうことは、覚悟していたぞ」
「覚悟?」
怪訝そうにいう趙雲に、孔明はおおきくうなずいた。
「そうだ。わたしは知っていたよ。だが、甘かったことは認めよう。主公が、あえてあなたをわたしから離そうとなさらなかったのは、わたしに対する信頼なのだとおもっていた。
ところが、あなたがこんなふうに、まるで、わたしのそばにいること事態に非があるかのように去っていってしまっては、さも何かがあったように見えてしまって、わたしとしても、立場がないではないか」
趙雲が、ふたたび口を開く気配があったので、孔明はすばやくそれを封じた。
「いかなる反論は無用ぞ!」
いらだちとともに、大きく息をはき出した。
「いまのは正論だからな。反論なんぞ、出来るはずもない。ちがうか」

薄暗い山中の家に、重い沈黙が落ちる。
そろそろ日暮れも近いのか、差し込む陽光の色に、闇の濃さが混じってきた。
孔明は、地に落ちるおのれの影が、立ち尽くす趙雲の影と交わるのを見ながら、息を落ち着けると、たずねた。
「ずっとここで暮らすつもりか? たしかに、ここならば、天下がどうなろうと、あまり関係なさそうだな」
趙雲はその問いには答えず、孔明の側に立った。
「教えてくれ。主公は、それ以上のことは、おまえには、なにもおっしゃらなかったのか?」
孔明は、趙雲の言葉の意味がわからず、たずねかえした。
「……『おまえには』?」
「ならばいい。じきに日が落ちる。急げば、日没の前に、ここより一番ちかい宿にたどり着く」
「一人で帰れと? 断る」
「帰ったほうがいい」
「なぜだ。理由を言え。第一、ここへたどり着くのもかなり時間がかかったのだぞ。さらに、日没前の視界の悪くなる時間に道に迷ったら、虎に食われてしまう。きっとそうなる。それでもよいか?」
「よくはないが、虎なんぞ、そうおいそれと姿を現さぬ。それに、おまえみたいに、食べるところが少ない奴なんぞ、わざわざ襲わないから、安心して迷え」
「怒らせて追い出そうという手も効かぬぞ。今宵はここに泊まって行く。いや、帰るというまで、ここに留まるつもりだ。覚悟しろ」
孔明が決然として言うと、趙雲はため息をついた。
「なんだって、そう俺にこだわる。俺よりも、もっと心をくだかねばならぬ者が、山ほどいるだろう」
「一見正論だが、それもちがう。むしろ、なぜにそこまで帰らぬと言い張るのかがわからぬ。わたしを成都に追い返したいのであれば、きちんと納得する理由を述べてみよ」
「それはできない」
「泊まり確定だ。布団はあるか? 風呂は? ないのであれば、いますぐそこの湖で身体をあらう。夕餉のしたくは頼んだぞ」

孔明としては、これほどまでに歯切れの悪い趙雲というのを、目の当たりにするのが初めてだった。
だから、強気な態度を装っていても、実のところ、突破口が浮かばなかった。
趙雲は、なにかを隠している。
主公になにか言われたのか。
主公が、わたしには言わず、趙雲には言ったことがある。
それが原因か。
それをつかめないかぎりは、頑固なところを見せて、ここからテコでも動くまい。
それから、すこしでも機会を得るべく、孔明は、なるべく趙雲の心が波風立つように、わざとわがままを口にしたのであるが、趙雲は、実に忠実な家令のように、孔明のわがままのひとつひとつを、いつにも増して言葉少なに、丁寧に、応えた。
こちらも向こうを理解しているが、向こうもこちらを理解しているということだ。
やりにくいこと、このうえない。
それに、せまい家であるが、こまめに世話をしてもらえるので、妙に居心地がよい。
邪険にされるならば、怒りを力にして奮起もできるが、親切にされれば、大人しくしているしかない。
じっくり時間をかけて、追い出されているようなものだ。

夕餉が終わっても、会話もろくに弾まず、気まずいままに、孔明は書斎側に作られた寝台のうえで、布団にくるまって眠った。





夜半に、ふと側に立つ者の気配をおぼえて、あわてて目を開いたが、しかしだれもそこにはいなかった。
そっと足音を忍ばせて隣の部屋をのぞきみれば、趙雲の姿がない。
戸口が半開きになっており、そこから外をのぞけば、怖いくらいに間近にせまっているまっしろい月の下、しずかに波立つ湖の畔に、その姿はあった。
趙雲は、ずっと黙って立っていた。
孔明もまた、その姿をしばらく黙ってながめていた。

つづく……

(旧サイト・はさみの世界(現・牧知花のホームページ) 初出・2005/10/14)


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