はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

桔梗の家 6 おまけ・おばか企画・奇矯の家 

2018年07月05日 09時18分46秒 | 桔梗の家
(?_?)あらすじ(?_?)
なんだか他人にはよくわからぬ理由より喧嘩に至った孔明と趙雲であるが、これまた他者には入り込めぬさまざまな事情により、あっさりと仲直り。しかし風呂上りの孔明と、傍らの趙雲という取り合わせに、なにやら大いなる誤解をした偉度は、趙雲にノーマルな(?)道を歩ませようと画策している陳到と屋敷を脱出。そして二人の決死行が始まった…


「親父さん、しっかり! ほらっ、ひずめの音が近づいてきた!」
偉度の声をどこか彼方のもののように聞きながら、陳到はショックのあまり硬直して、動かなくなっていた。
さきほど見た、風呂上りらしい孔明の、妙に艶めかしい姿と、傍らの趙雲、という取り合わせが頭から離れない。いったい、なにがあったのだ、と尋ねるまでもなく、孔明の姿から、だいたいの予想はつくではないか。

戦中ならわかる。
いや、わかるというと行き過ぎだが、生と死の間をぎりぎりで日々を過ごす中、昂じる緊張をどこかでほぐしたくて、手近なところで済ませる者がいることは知っているとも。
具体的な名前まで知っちゃっている自分が困ったものだが、まあ、それは置いておき、いままで、完璧すぎるくらい完璧、あとは嫁を貰えばなお結構、という上司が、じつはそういう嗜好であったと見せ付けられて、金縛りにならない者がいようか。
断じて否! 
なんたるこっちゃ。
この左将軍府の悪鬼が、おかしな画策をしていたのは知っているが、まさかまさか、本当にそうだなんて、誰か嘘だと言ってくれい!

金縛りになっている陳到を、ずるずると引きずりながら、偉度は、懸命に逃げた。
というのも、陳到より、よほど二人の性格を、良くも悪くも(一部に誤解があるが)知り抜いている偉度は、孔明はともかくとして、趙雲が、つぎにどんな行動に出るか、予想がついたからである。
そして、予想通り、屋敷から逃げ出したあと、まさにその屋敷の方角から、ぱっぱかと、雷鳴の如く足音を響かせて、向かってくる騎馬がひとつ。
「ぎゃあ、やっぱり来たっ! スリーピー・ホロウか、これは! 首を狩られたくなかったら、親父さん、自分の足で歩け!」
「♪きーみーにもぉーし つーばさがぁあー ひーとつしーかなーくてもぉー」
「錯乱状態の癖して、妙に反応するな! だいたい、それは浜崎あゆみの『Endress sorrow』だろうが。ロウしか合ってない!」
「『スターリングラード』『真夜中のサバナ』」
「そりゃジュード・ロウ! ミニ知識を披露する余裕があるなら、置いていく! ではな!」
「偉度っち、ひどい…というか、いつの間にか、おばか企画にシフトしていたのか…って、ぎゃあ! あちらの世界の住人が、ものすさまじい形相で、馬に乗ってやってくる!」
偉度が、陳到を捨てて、駆け去ろうとする直前、趙雲は、馬上より弓を番えて、偉度の行く手を矢でさえぎった。
ざあっと偉度の顔より血の気が失せる。
「なんて腕だ。こちらがどのくらいの速度で前進するかを計算にいれて、当たらないようにわざと放ったのか…」
「てゆうか、諦めたほうがいいって」
「諦められるか! 軍師ならば、我らが闇に葬られることはないでしょうよ。だが、趙将軍は、正直よくわからない。あの人、軍師よければすべてよし、ということろがあるからな」
「そりゃあ、おまえだって、似たようなものだろう」
「程度が違う。むしろ、わたしのほうが、周囲に優しく出来る自信があるよ。あの人は、徹底的になんというか」
怒涛の如く追いかけてきたひずめの音が、ぴたりと止まり、そして、ゆっくりと近づいてきた者が、偉度と陳到の前に影を作る。
「軍師に不利なものは、排除するのに、ためらいがないというか…」
「そのとおり。よくわかっているな、偉度」
全身から殺気をただよわせた趙雲が、ゆらりと近づいてくるのを、偉度と陳到は、あわあわと口をぱくぱくさせた状態で、身動きもできずに、見ているしかできない。
まさに蛇に睨まれたカエル状態である。げろげーろ。
「おまえたち、なにゆえ逃げるのだ。俺は武骨者だが、おまえたち二人をもてなすくらいのことはできるぞ」
「逃げると申しましょうか、遠慮したと申しましょうか」
「遠慮とな? なにを遠慮したというのだ。俺は、ただ軍師と話をしていただけだぞ」
妙にやさしい声音で、趙雲が言う。
ひきつりながらも、偉度は懸命に反論した。
「話、だけでございますか」
「話以外に、なにをするというのだ」
いや、それは、と偉度が口をもごもごとさせて、言葉を濁していると、となりにいた陳到が口を開いた。
「そりゃ、ずばり、軍師将軍を相手に…(自主規制・陳到が何を言ったかは、つぎの趙雲の反応で各自ご想像いただければ幸いです・はさみの)…されたのでは?」
「あっ、莫迦! なんたる直接話法!」
偉度の制止の声もむなしく、陳到が答えるやいなや、趙雲は、さっと顔色を変え、槍をつがえて、するどい銀の刃を一閃させた。





趙雲が去っていくと、偉度は、緊張がほぐれ、ほっと深くため息をついた。
「ああ、怖かった。殺されるかと思った。しかし、あの様子では、進展はなかった、ということか。ちぇっ、期待したのに」
となりでは、陳到が、しくしくと顔を覆って、娘のように泣いている。
なぜかといえば、陳到の髻が、すっぱりと切られて、地面に落ちていたからであった。
「首が落ちなかっただけ、めっけものだよ、親父さん。あんなにずばりいう人があるかい」
陳到は、だって、だってと泣きながら言う。
「なんだか、無理に手篭めにした娘に謝っている男の気分だな。というか、下手人は趙将軍だけど」
「なんと、偉度、おまえはどこぞの娘に、無理強いをしたことでもあるのか?」
急に元気になって、噛み付いてくる陳到に、偉度は、深い憂いを含んだ目をして答えた。
「そんなこと、しやしないよ。ただの比喩さ。人にされて嫌だったことは、だれにもしないと決めているんだ」
「む。そ、そうか」
「そうさ。しかし、その頭で家に帰ったら、奥方も銀輪たちもびっくりするでしょうよ。さあ、泣いてないで、参りましょう」
「どこへ」
「オーノー、783-640(ナヤミムヨー)のリー○゛21へさ」
「しかし娘たちの教育ローンがあるから、もう懐に余裕が」
「それはほら、連帯責任ということで、わたしが持ちましょう。いつか返してくだされば結構です。どうせ、金なんて、使いもしないのに、やたらたくさん残っていて、無駄になっている状態だからね」
「偉度っちー」
目をうるませる陳到と共に、偉度は発毛専門の成都支店へと、連れ立って歩いて行った。





やれやれ、これで、ありもしないことを噂される危険はなくなった、と安堵しながら、趙雲が自邸に戻ると、帰ったとばかり思っていた孔明が、やはり書斎に残っていて、さきほどの書物を熱心に読みふけっていた。
さきほどは、暗殺するならば、と言ったが、こいつを失脚させたいなら、毎日のように好きそうな書物を机にひろげておけば、出仕しなくなって、あっという間に信頼をなくしておしまいだ、と趙雲は呆れつつ考えた。
「俺は休みだが、おまえも今日は休みだったのか」
「休みにした。安と楊の奥方の騒ぎは、すでに左将軍府に届いていたからな。それに、このあいだの代休もまだ取っていなかったし。今日は仕事もさほど滞っておりませぬゆえ、ゆっくりお休みください、だと。それより、咽喉が渇いた」
「なにか持ってくる」
「うん」
書物から顔を上げないまま、わがままを口にする孔明であるが、いつものことでもあるので、趙雲は頓着しない。
そして、みずから外にこさえた氷室にて氷をとってくると、清水に入れて、孔明の元へと戻った。

書物に熱心に目をむけたままの孔明は、生返事のままそれを受け取ると、指先の感触の、あまりの冷たさに仰天して、ようやく顔を起こす。
「おどろいた。氷か。氷室なんて、いつ作ったのだ。あいかわらず、屋敷は質素なのに、馬と食にはこだわるのだな」
「別に。黄漢升のじいさまが、長生きの秘訣は食にある、と言っていたからな。すこし真似てみた」
冷たい感触を喜びつつ、器の中で、からりと音を立てて水に溶ける氷を見て、孔明は目を細める。
「美しいものだな。こうして暑いときに見る氷は、儚くて、水晶のように美しい。ところで、偉度と陳到は?」
「あいつらは元気だ」
「そうか。わたしはてっきり、二人を呼び戻すために、出て行ったのかとばかり」
「あいつらのことはともかく、どこまで進んだ」
「あとすこしで読み終わるよ」
それほど夢中になるのであれば、貸してやろうというつもりであった趙雲であったが、もう読み終わる、の孔明の言葉に、さすがに顔色を失った。
趙雲も懸命に読んではいた。
が、内容が難解で、進んでは、副読本をひらいて意味を掴んで、またさらに進んでは、意味がつかめなくなり、途中に戻る、といったことを繰り返し、ようやく何日もかけて、中盤に進んだところであったのだ。
趙雲の顔色が変わったのを敏感に読み取り、孔明は言った。
「子龍、わたしが書物を読むのが早いのは、毎日のように文字と書物に埋もれているからだよ。あなたがとっさに襲撃されても、すばやく反応を返せるのと同じで、これも反覆による訓練の結果なのだと思う」
「そういうものだろうか」
真剣に考える趙雲に、孔明は笑みをこぼした。
「そうさ。あなたになにもかも、そう完璧にこなされては、わたしの立場がなくなってしまう。わたしがあなたに勝るところといえば、書物に拠る知識を駆使した作業と、そうだな、弁舌くらいかな。
わたしは武においてあなたに守られているが、わたしはあなたを文官として、政治的なことがらをすべて駆使して守っている。わたしに付いて行こうなんて考えなくていい。あなたがついて行くべき者は、主公だ」
「それはわかっている」
だが、と趙雲が反論しようとすると、孔明は笑いながらつづけた。
「そんなに眉間に皺を寄せて深く考え込むことじゃないさ。互いに欠けているところがあればこそ、わたしたちはうまくやってこられたのではないかね。わたしは、あなたを従えていると思ったことはない。いつも共にいる同胞なのだと思っている」
と、孔明は、またも声をたてて笑った。
「なにが可笑しいのだ」
「とはいえ、わたしに基準を置こうとする、その気概は買う」
「それはどうもありがとう」
「冗談だよ」
孔明は器の中にある氷を、からからと溶かして遊びながら、言った。
「なんだか久しぶりに声をたてて笑った気がする。不思議だな。どうしてあなたには、こう自然と、なんでも話せてしまうのかな。気負いを感じなくてよいから、ついつい甘えてしまうのだが」
「たまには世間でいうところの『諸葛孔明』を演じるのを止めてみろ。それでは疲れてしまうだろう」
「そうだな、わかっているのだけれど、人の前に出ると、反射的に体が動いてしまうのだ。これも反覆作業の積み重ねかな」
「普通に振る舞え、といっても、むつかしかろうな。とはいえ、おまえは、演出が過剰にすぎる」
「わかっているのだけれどね、癖はすぐに改められぬといおうか」
と、孔明は、すこし寂しげに笑った。
「本音ばかりを語って、生きていくなんてことができたら、幸せだろうか。人のことをまったく考えなければ、きっと幸せなのだろうな」
「そんなやつ、きっとだれにも相手にされやしないさ。本音をどうしても語れない時だってあるだろう」
「気になる言葉だな、子龍。わたしに言えないことがある、というとこか」
「おまえとて、俺に言えないことがあるだろう」
「ああ、はぐらかされた。その本音とやらを聞くことができる日は、くるのかな」
「ない」
「そうかい。つまらないな」
「悪い癖だぞ。言葉遊びになっている。すこし眠っていけ。客室の寝台を使うといい。掃除させてある」
「おや、一人でか」
「一人でだ!」
「怒るな。これも冗談だ。さて、それでは、言葉に甘えさせてもらうとしようか」
と、伸びをしながら、孔明は立ち上がると、勝手知ったる人の家。案内もなしに、客室のほうに向かっていく。

ふと、孔明が立ち止まって、振り返った。
笑みを浮かべてはいるものの、目は真剣にじっと趙雲を見つめている。
「どうした」
「いや、肝心なことを言うのを忘れていたからだ。ありがとう、子龍」
「なにが」
「いろいろ」
「変な奴だな」
「初めからそうさ。それでは、お休み」
そういって客室に向かう孔明を見送り、趙雲は、軽く息をつき、孔明がしるしの替わりに置いていた桔梗の花を目印にして、書物に目を落とした。
以前より、すんなりと字句の意味が理解できたのは、おそらく気のせいではないだろう。


おしまい
2005年8月のおはなしでした。

桔梗の家 5

2018年07月04日 10時06分57秒 | 桔梗の家


さてはて、ぬれねずみのまま出仕するわけにもいかない。
とはいえ、楊の家にて着替えをするのも、安に対しての公平性が失せる気もするし、この界隈に、知り合いがいただろうか、それより、このまま自邸に帰るかな、と迷っていた孔明であるが、つんつんと袖を引っ張られ、顔を向ければ、見覚えのある老爺が、かしこまっている。
「軍師さま、このままではお体が冷えて、お風邪を召してしまいます。どうぞわれらが主人のお屋敷にて、更衣をなさってくださいませ」
それは、趙雲の屋敷にいる家人のひとりであった。
趙雲の屋敷はこのあたりである。
趙雲の屋敷は、広い敷地に立派な厩舎を持ち、馬専用の井戸まで掘らせているのだが、人間の屋敷はちっぽけで、あいも変わらず最低限のものしかそろえていない、質素なしつらえである。
喧嘩をしている、という事情を知らない老爺は、好奇と同情の眼差しをいっぱいに受けている孔明が気の毒でならないらしく、さあ、さあ、と言って、渋る孔明の手を引っ張るようにして、己が主の屋敷へと連れて行く。
そして、目立たぬようにと、裏口から孔明を中へと導いた。





今日は、よく風呂に入る日だな、と思いながら、孔明は、世話好きの老爺が用意してくれた白い簡素な服に身を包む。
一回りほど大きなそれは、どうやら趙雲のものであるらしい。背丈はわずかに高い程度なのに、手足は向こうのほうが長いのだな、武人だからだろうか、などと考えながら、濡れた髪をぬぐっていると、老爺が、へえへえと畏まりながら、やってくる。
そして、
「主はいま、朝の遠駆けに出ておりまして、もうじき戻ってくるかと思います」
という。
顔をあわせるのも気まずいし、かといって、朝から湯を借りておきながら、黙って去るのも礼儀知らず。
さて、困った、と孔明は、老爺に案内されて客間に向かうが、その途中、ちょうど、庭にすこしだけ出っ張った位置にある、典雅な格子状の窓を持つ部屋の、窓辺に置いてある机に目が向いた。
窓辺には、背の高い、濃い紫色の、釣鐘型の花、桔梗が咲いている。
桔梗は、きりりとした風情の花である。
好きなのだろうか。似合うな、と思いつつ、机を見れば、その上には、一幅の書物がひろげられている。
「これは、だれが読んでいるのかね」
「ご主人さまでございます」
ほう、と興味を引かれ、孔明は部屋に入り、書物を見る。
関羽は春秋左氏を好んで読む。子龍もそれに刺激されたのかな、と内容を見て、孔明はおどろいた。
孔明もまだ手に入れていない、許都の学者の、法家のあらたな解釈を述べた書物であった。士大夫のあいだでも、読み応えがあると評判になっているものである。
孔明はつよく興味を引かれ、開かれた書物に、しるしの代わりにと、窓辺に咲いていた桔梗の花を一本取って置いておき、最初から書物を読み始めた。
かねがね読みたいと思っていたものだけに、夢中になって読みふけった。

あまりに夢中になっていたので、いつしか、背後に人が立っているのに、気づかなかった。

「おまえを暗殺するときには、餌の代わりに書物を目の前にぶら提げておけば、難なく首を取れそうだな」
呆れの混ざった声にあわてて振り返れば、趙雲が、部屋の入り口に立っていた。
これは、と気まずく思いつつ、事情を説明しようとする孔明に、趙雲は言った。
「爺さんから事情は聞いた。この部屋は冷える。生乾きの髪のままでいると、風邪を引くぞ」
指摘されて、はじめて孔明は、自分の姿のみっともなさに気が付いた。
借りた服を着たままで、髪は結いもせずに、濡れたまま、ろくに乾かしていない。肩には、垂れる雫を受け止めるために、手ぬぐいを掛けてある状態だ。
不覚。
「すまぬ」
「いや」

気まずい沈黙が流れた。

孔明としては、おのれの不様な格好をともかくなんとかしたいのであるが、沈黙が破れないために、身体を動かすこともできない。
そらぞらしく、世話になったと笑えるほど、趙雲は孔明のなかで軽い存在ではないのだ。そもそも、孔明ほどに、愛想笑いの下手な者はいないだろう。
「その書は」
と、沈黙を破ったのは趙雲であった。
「魏で話題になっていると聞いて、懇意にしている馬商人のつてで手に入れたものだ」
「よく手に入ったな。みなが、これを手に入れようとしているのに」
「運が良かったのだろう。それほどに話題になっているとは知らなかった」
言いながらも、趙雲は、気まずそうに顔をそらす。よほど嫌われたな、と孔明は本人を目の前にして、寂しく思いながら立ち上がろうと膝を浮かせようとしたとき、趙雲の言葉がつづいた。
「いや、いまのは嘘だ」
「嘘?」
孔明は、めずらしい趙雲のことばに、あらためて座りなおす。趙雲は、孔明の正面に座って、腕を組み、気むずかしい顔をして、あれこれと言葉を選んでいる様子だ。辛抱強く待っていると、趙雲はゆっくり言葉をつむいだ。
「嘘というか、俺はいま、北方でいちばん話題になっている書物を数点、手に入れてくれと頼んだのだ。そしたら、それを寄越してきた」
「それは嘘ではないだろう」
「いや、嘘だ」
「なにが嘘なのだ?」
「だから、たまたま読みたかったから、書物を手に入れたわけではない。読む必要があったから、馬商人に無理を言って仕入れてもらったものなのだ」
「馬商人も面食らっただろうよ。書物は走らぬぞ」
孔明の冗談にも、趙雲はすこしも反応せず、むずかしい顔をして、またも言葉を選んでいる。
なんだ、この緊張感は、と孔明が次の言葉を待っていると、ふたたび口が開いた。
「昨日の話なのだが」
「うむ」
「まずは謝る。わけのわからぬことを言った」
「うむ」
「だが」
「だが?」
「おまえもひどい。楊の処分は決めたのか」
なんだ、楊のほうの味方だったのか、と孔明は思いつつ、答えた。
「処分なぞ、なにもない。あれはあれで、暴走する若いのを抑える重要な役目を担っているのだ。それが見えぬ安は愚か者だ。非凡なものが突出するのは仕方ないが、安は度が過ぎる。安は左将軍府より、揚武将軍の元に異動させ、刀筆吏からやり直しをさせるつもりだ」
すると、趙雲は拍子抜けしたように、愁眉をひらいた。
「なぜそれを言わぬ」
「人事のことだからな。決裁をおろすまでは、たとえあなたといえど、教えるわけにはいかぬ」
「そうか…だが、ならばなぜあんなことを言った。俺はてっきり、おまえも、安とやらと同じように考えているのかと思ったのだ」
「わたしは何か言ったか」
「楊は、桔梗からつくる咳止めの薬を作るのがうまい。そこにある桔梗の株も、楊が分けてくれたものだ。調練場では、なにかと声を張り上げるからな、咽喉が嗄れたときには重宝するのだ」
「付き合いがあったのか」
「付き合いがあってもなくても、昨日のあれだけを聞けば、俺は怒った」
「あれって?」
孔明が首をかしげると、趙雲は、深いため息をついて、言った。
「あの者も年であるし、安の指摘も、もっともなところではあるのだが、と」
「それが?」
「つまり、おまえは、年配者には、もう用がないと、安という奴の考えに賛同しているのではないかと思ったのだ」
「いや、それは」
「少しは思ったのだろう。そうでなければ、あの言葉は出ない」
「そうかな」
「そうだ。それを思うと、情けないやら、恐ろしいやらだ。おまえは己がどれだけ非凡か判っておらぬな」
「よくわからぬ」
趙雲は、またもため息をつきつつ、頭を振った。
「つまりだ、おまえは考えたことがなかったかもしれないが、おまえについて行くのは、なかなか骨が折れるのだ。いいか、この場合の付いていくは、単に足が速い、とかいう意味ではないぞ」
「それはわかる」
「おまえについて行くには、あるいは辛うじて肩を並べていられるようにするには、槍や剣だけに頼っているだけではむつかしいのだ」
察しの良い孔明は、その言葉で、机の書物の意味を理解した。
「それで、書を読んでいたのか? わたしのために? なぜにそこまで」
「たわけ。そこまでせねば付き合えぬほどに、おまえの能力は日々向上しているからだ。つまりだ、もっとはっきり言えば、伏したる龍に付き合うためには、凡人の俺では、相当の努力をせねばならぬということだ」
「だれが凡人だって? 謙遜に過ぎるぞ」
「武芸においては堂々と胸を張れるさ。だから将軍職を拝領しておるのだ。だが、文の領域になるとやはり凡人だろう」
「それをいえば、わたしなんぞは武においては凡人以下だ。徴兵に志願しても、断られるだろうな」
「そうだろうな」
「まだ怒っているのか?」
「少し。おまえが、もし安とやらの考えに、いくらかでも賛同しているのであれば、俺の能力がそのうち衰えたら、年だから仕方ないと捨てられるのではと」
「そんなこと、するものか」
「本当か」
「あたりまえだ。だれが、だれを捨てるって? わたしがそのような薄情者だと?」
「そう言うふうに聞こえた」
「いまもまだ、そう思っているのか」
「いいや。まくし立てたあと、莫迦を言ったと思った」
「なんだ、わたしを、やはり信じていてくれたのではないか」
「そういうことか?」
「そうだ。なら、互いに誤解をしていた、というわけだな」
孔明は、体から、潮が引くように、重い気持ちが軽くなっていくのをおぼえた。
なんだ、そういうことだったのか、良かった、わたしの足元は、最初から崩れてなんていなかった。
考えすぎもいいところだ、と安心して、思わず声を立てて笑ってしまう。
それを見て、趙雲もまた、おかしな奴だな、と言いながら、やはり笑った。
「では、こうしよう、子龍、わたしは己の中にある、醜い部分をあなたにさらけだし、不愉快にしたことを詫びる。真摯に反省し、居丈高な考えを改めることを誓おう。二度とそんなことは言わない」
「俺はどうすればいい」
「あなたはわたしを不安にさせたことを詫びる。そして、わたしがまた愚かなことを口にしたら、怒って去るのではなく、諭して欲しい。わたしは、一言一句、洩らさず聞くとも」
「わかった。誓おう」
そうして、また目が合うと、なにやらおかしくなって笑い出す二人であるが、ふと視線を感じ、見れば、趙雲宅の庭先で、ぽかんとしている偉度と陳到が立っていた。
「軍師…もしや」
「もしや? なんだ、偉度、馬車は直ったのか」
「いいえ、お邪魔いたしました。本当にお邪魔でございました。われらは退散いたしますので、つづきをどうぞ」
「つづき? 何を言っている。遅くなったが」
口をぽかんとあけたまま、硬直している陳到を、首根っこをつかまえて引きずるように去ろうとする偉度に、左将軍府へ行くぞ、と言いかけて、孔明は、首をひねる。
「おかしなやつだな。つづきとは何だろう」
見れば、隣の趙雲は顔を険しくして、外に出ようと、身づくろいをしているところであった。
「あなたまでどうした。いまさらあわてても、遅刻は遅刻だぞ」
「ちがう。偉度を追いかける。でなければ、おまえ、明日から往来を歩けなくなるぞ」
「もしや、このひどい格好を言いふらされるとか? それは困る」
「……ともかく、俺は偉度と叔至を追いかける。では、またいずれ」
趙雲は言うと、窓からぱっと庭に飛び降り、そのまま鷹のような素早さでもって、偉度と陳到を追いかけて行った。
そのうしろ姿をぽかんと見送りながら、付いていくのが困難なのは、実はこちらなのではなかろうかと、孔明は、ふと考えた。
そんな孔明をよそに、桔梗は、窓辺で凛とした顔を、太陽に向けていた。



いったんおしまい。
おばか企画・奇矯の家につづく……

桔梗の家 4

2018年07月03日 09時49分46秒 | 桔梗の家


陳到が趙雲の屋敷にむかうと、ちょうど趙雲が、遠駆けに出かけようとしているところであった。
汗をかくことを予想してか、飾らぬ粗末な衣に身を包み、帯剣をした趙雲の姿には、無駄な肉というものがなにひとつなく、肌の張りや艶も以前と変わらない。ふつう、この年齢になれば、青年のときのすらりとした肢体を失うかわりに、恰幅がよくなり、重々しい貫禄がついてくるものだが、趙雲の身体は、時がぴたりと止まったように、なにも変わらない。
鍛えてはいるものの、妙に気になってきた腹の肉を、無意識につまみつつ、陳到は趙雲に声をかけた。
「おはようございます、趙将軍、遠駆けでございますか」
ああ、おはよう、と生返事をして、趙雲は答える。不機嫌そうだな、と陳到は思ったが、馬上の趙雲の顔色は冴えず、ろくに眠っていないのがわかる。
これは深刻だな、と思いつつ、陳到はさらに声をかける。
「ご一緒させていただいても、かまいませぬか」
「すまぬが、今日は一人にしてくれ」
ぴしゃりとした物言いまで、昔から変わらない。
普通は、尖がったところも世間の波に揉まれて、研磨されるところなのだが。
「いや、しかし、お顔の色がすぐれませぬぞ。落馬でもされたら如何されます」
「大事無い。今日はすぐ帰る」
「いえいえ、叔至めもお供おたします。結婚の話」
「叔至、すまぬが、一人になりたいのだ。その話もあらためてくれ」
お待ちを、と声を掛ける間もなく、趙雲は馬首をかえし、ぱっぱかと駆け去ってしまった。
陳到はあわてて自らも騎乗し、趙雲を追いかける。
しかし、趙雲は、陳到が追いかけてくることも想定していたらしく、複雑に道を行き、とうとう成都を出る前に、まかれてしまった。どの門を通り、どの道へ向かったか、わからない。
左将軍府の悪鬼が、なにをしているのだと怒り出す様を想像し、陳到は、しょんぼりとうなだれた。

偉度が陳到に持ちかけたのは、単純な作戦であった。
趙雲が、朝の日課として、遠駆けをすることは知っている。
その行路も、いつも同じなのだ。
途中で、立ち往生している孔明の馬車と行き会えば(孔明は偉度が連れてくる)、趙雲の性格からして、それを無視する、ということはできまい。
話をしなければ、なにも動かないのだ。ともかく顔を合わさせ、話をさせよう、そしてあわよくば、仲直り、という。
しかし、偉度の思惑は、予想外の落ち込みを見せ、排他的になっていた趙雲の、人を寄せ付けない悪い面がつよく出てしまったがため、破綻したのであった。

結婚の話はおいといて、と言おうとしたのに、と陳到は、この無邪気な男には似合わず、暗い顔をしてため息をつく。
いまから、偉度が嫌味を、さんざんに浴びせてくるだろうことは、想像が付いた。
このまま自分も、どこか遠くへ行ってしまいたい。
いやいや、そんなことしたら、あの悪鬼め、わが家に入り込み、娘たちにいらざるちょっかいをかけるかも知れぬ。それだけは防がねば。
まあ、それはともかく、孔明を連れてきているだろう偉度のところへいき、作戦は失敗だと伝えに行かねば。
気が重い、と陳到がつぶやくと、騎乗していた馬も、その気分が移ったのか、深いため息をついた。


孔明は、がちゃがちゃと金具が派手に鳴り続けているので、目を覚ました。
覗き込めば、偉度が、苛立ちもあらわに、馬車の金具と格闘しているところであった。
孔明は手先が器用で、工房へも、好んで視察に行く。工人たちに気さくに声をかけ、自分も加わって手伝うほどなのを、偉度は知っていたので、いつまでも孔明を留めておくのに、車輪を壊れていないままにしてはおけぬ、と考えた。
親父さんはまだか、と思いながら、えいやっ、と車輪を壊したものの、壊し方が不味く、本当に直らなくなってしまったのだ。
金具を一瞥するや、孔明は言う。
「それはもうだめだな、偉度、すまぬが、おまえは職人たちを呼んで、これを修理に出してくれ」
といいつつ、孔明は馬車から降りていく。
その姿に、偉度はあわてて声をかけた。
「お待ち下さいませ。どちらへ」
「ここからならば、左将軍府へ徒歩で行くのも、たいした距離ではあるまい。おまえはあとからゆっくり来るがよい。かえってすまなかったな」
「いえ、あの」
と、偉度は道の向こうから、いまにも趙雲が来てくれることを願ったが、その姿は現れず、孔明は済まないといいながら、偉度を残して左将軍府へとむかってしまった。
孔明を引き止める上手な理由も思いつかず、偉度は壊れた車輪と、馬たちだけに取り残されるかたちとなってしまった。





伴もつけずに歩く孔明の姿はかなり目立ったが、本人は人の目を集めるのに慣れてしまっており、気恥ずかしさも感じず、どころか、いろいろ物思いに耽りながら歩いている。
道すがら、途中までご一緒にと、声を掛けてくる馬車もあったのだが、断った。
孔明は、襄陽にいたときから、ともかく歩くのが好きだった。歩きながら考えると、余計な考えがそぎ落とされ、純粋に思索の中だけに閉じこもることが出来る。
部屋に閉じこもって考えるより、より健全な思考に耽ることが出来るのだ。
それでもやはり、昨日のことを考えながら歩いていると、ある屋敷の前に、朝から人だかりができている。
露天商が出ているわけでもなし、なんであろうと、好奇心にさそわれて覗いてみれば、例の楊と、その横に、白髪まじりの婦人がおり、どうやら楊の妻らしい。楊の妻女は、身づくろいもまだ途中のようで、乱れた髪をしたままなのだが、目の前にいる、裕福そうな流行の召し物を纏った若者につっかかっている。
その若者とは、見れば、安なのであった。
「さあ、言ってご覧! うちの主人は、きちんと皆様のお役にたっているというのに、この青二才、なんて言ったの! さあ、もう一度言ってご覧!」
楊は、いきりたつ妻を懸命に宥めるのであるが、妻は、抑えようとする夫の手を、わずらわしそうに、乱暴に跳ね除けて、牙を剥かんばかりに安に怒鳴っている。
安はといえば、これは左将軍府において、職場で同僚・先輩を相手にがあがあと、家鴨のようにわめくのとは勝手がちがう様子で、言葉を返せないでいる。
それでも、強気なところを見せ、楊の妻から、目を逸らさないではいたが。
「さあ、皆の前で言ってご覧!」
楊の妻は、集っている人々を指して言った。
人々は、この妙な取り合わせの喧嘩に、すっかり夢中である。
集ってきた人々の、それぞれの会話の断片から繋ぐと、左将軍府に出仕する楊のところへ、安が、たまたま通りがかった。
楊の姿を見た安は、いつもの如く憎まれ口を叩いたのだが、その声が大きく、屋敷のなかにいた楊の妻に、話が聞こえてしまったのが騒ぎの元。楊の妻は、以前より、夫から、
「あたらしく入ってきた若者と馴染めない」
と愚痴っていたことから、これが我が夫を悩ます男かと飛び出してきて、こうして、闘鶏のような騒ぎとなっているのであった。
安が口ごもっているので、楊の妻女は言った。
「言いたくないというのなら、わたしが言って差し上げましょう。貴方は、わたしの主人を、『俸禄どろぼう』と言ったのです! なんて人なの、ろくでなし! うちの主人は、きちんと毎日、皆様のお役に立っているというのに、年長者に向かって、礼儀知らずな!」
ありえない、とまくし立てる楊の妻に、集っている人々も、そのとおり、まったくだ、この小僧は生意気だ、と声が挙がる。
孔明も同感であったが、安は、やはり否定されれば頑なになり、妙に燃えてしまう男であった。
往来に集っている人々を睨みつけ、それから楊と楊の妻に、つんと顎を逸らすような仕草をすると、こう言い放ったのである。
「しかし、事実でございましょう。あなたさまは、もう御歳なのです。周りの迷惑も考えて、こちらの鬼婆のような女房殿と、ご隠居されたほうがよろしいのでは」
まあ、と楊の妻女は絶句し、袖で顔を隠すと、屋敷の中に駆けていってしまった。
その哀れな後姿を見送る楊の顔には、めずらしく怒気が浮かんでいる。
「わたしのことならば、如何な愚弄も我慢できよう。しかし、妻を侮辱するのは許さぬぞ!」
「無礼はどちらなのでございますか。いきなり、往来で呼び止められて、このように衆目にさらされたあげくに、あのように罵倒されたのでございます。理不尽なのは、そちら様でございましょう」
「なんと世間知らずな言葉よ。そもそもは、貴殿の礼節のない態度に原因があろう。すこしは恥を知ったらどうだ!」
「このわたしに説教をなさるか、左将軍府のお荷物が!」
「なんと!」

孔明は、人前で両者を叱れば、両者共に恥をかくであろうと、じっと、人の垣根のうしろの、目立たないところで、この光景を眺めていたのであるが、安と楊の言い争いが深刻になっていくのを見て、これはいかんと前に出た。
孔明の姿が突如としてあらわれたので、楊も安も、口論の途中であったが、言葉を止めて、あんぐりと口を開けている。
「両者とも、やめぬか! このような往来で醜態をさらすとは、まさに無礼であるぞ!」
しかし、将軍、と安が食い下がろうとしたそのとき、孔明は安の背後に、水桶を持って戻ってきた楊の妻の姿を見た。
いかん。
避けようと頭では考えたものの、体が動かなかった。鍛えていない証左である。
それはともかく、安に掛けられるはずの水は、勢いよく標的を外れて、安の前に立っていた孔明に、ざばりと頭から掛かった。
孔明が最初に考えたのは、ただの水だろうな、ということである。
「愚か者め、このお方は、軍師将軍だぞ!」
楊が妻を叱ると、楊の妻は、ええ、と素っ頓狂な声をあげ、がらん、と水桶を地面に落とした。
そして蒼白になって、すぐさま濡れた地面に平伏し、ご容赦を、とやってくる。
こうなると、孔明は怒るわけにも行かない。
「水のことはよい。それより、安、楊」
はい、と二人は、まるで囚人のように蒼ざめた面持ちで、孔明の強ばった声に返事をする。
孔明は、額から髪を伝わって落ちる雫をぬぐいつつ、精一杯、厳粛さを装って、言った。
「両名とも、本日は、出仕はまかりならぬ。しばし休んで、頭を冷すがよいぞ」
でも、と安がまたも食い下がろうとするので、孔明はぎろりと、それこそ、これまでに、ありとあらゆる論敵を封じ込めてきた、得意の睨みをきかせた。
とたん、安は竦みあがり、言葉をなくして、そのまま、わかりましたと頭を下げた。

つづく……

桔梗の家 3

2018年07月02日 20時16分55秒 | 桔梗の家
「楊という男がいるだろう、枝江の楊の、分家筋の男なのだが」
「いるな。あの人の良い男だろう。咳止め薬を煎じるのがうまい男だ」
「揚武将軍の口利きで入った、安(あん)という男がいるのだが、これがなかなか奇矯な男といおうか、楊の仕事ぶりが気にくわないらしく、やたらとつっかかって、揉め事ばかり起こしている」
「なぜ」
「楊の仕事の遅さが気に食わないらしい。やはり、あの者も年であるし、安の指摘も、もっともなところではあるのだが」
「遅いというのは、それで周囲の仕事が滞るというほどなのか」
「そうなのだろう」
「だろう、とはどういうことだ。おまえが監督しているのではないのか。なぜそのような配置にしている。年だからと判っているのならば、配置替えをするなどの策を講じればよかろう。なぜにそのまま放置している。まさか、主公にそのことを相談に来たのか」
「揚武将軍が絡むからな」
「揚武将軍はどうでもよい。安とやらがどのような男かは知らぬが、物のわからぬ男だ。で、そいつをいかに閑職に追いやる相談だろうな」
「左将軍府の人事に絡むことだ。すまないが、話すことはできない」
「ならば、なぜそのような話を俺にする。年だからといって楊を罷免するか、あるいは安を閑職に追いやるか、おまえがどう考えているかは、俺にわからん。ただ、正直なところを言わせて貰えば、おまえは俺が思った以上に切り換えが早すぎる。いまのおまえには、付いて行くのが困難だ」


それから趙雲は、顔色と同時に、言葉をも失った孔明に、一気に言葉をまくし立てた。孔明は、記憶力のよいところをみせて、趙雲の吐き出した言葉のひとつひとつを検討してみたが、それは、ほとんど文脈の読み取れぬ、言葉の羅列にしか過ぎない。
と、すれば、やはり、それ以前の会話の中に、あれほど怒った原因があるのだろう。
怒気もあらわに踵を返した趙雲のうしろ姿を、ただぼう然と見送るしかなかったわけであるが、いまさらながら、なぜに呼び止めなかったのかと悔やまれる。
あのとき、追いかけて、どういうことなのかと尋ねれば、いま、これほど深く悩みはしなかっただろう。
時間がたてば経つほど、酸のように強い言葉に、本音が紛れてしまう。後から追いかけるのがむずかしい。
実のところ、孔明は追いかけて、なおも拒絶されることを恐れて、足を竦ませたのである。
この自分が、と己をわらってみるが、やはり、現状があるのは、らしくもなく、その場で動くことができずに、問題の解決を先送りしてしまったのがいけなかったからだ。
以前ならば、すぐさま追いかけて、どういうことなのだと尋ねただろうに、なにを遠慮したのだろう。


ひどい寝汗をかいており、その不快さで目が覚めた孔明は、自分が、昨夜、更衣もせずに寝入ってしまっていたことに気づいた。机に突っ伏すような形で眠っていたために、背中から首筋にかけて強ばっている。
家人に命じて、湯を用意させ、身体の汗を流した。
孔明の顔が腫れていたこともあり、家人たちは、具合が悪いのかと心配したようだが、孔明が暗い思いつめた目をしているのを見て、だれも何も言わない。
みな、孔明の気性をよく知っており、孔明が殻に閉じこもっているときは、どんな言葉をかけても無駄だということが、わかっていたのである。
汗をかいたことで、眠ったはずなのに、疲労が取れていない。
濡れた髪からこぼれる水滴を拭き取りながら、孔明は、これが執着というものなのだろうかと考えていた。
叔父に対する敬愛と思慕は、執着ともちがうものであるし、徐庶にたいする友情も、強かったのにはちがいないが、これほど激しいものではなかった。
こんなふうに、誰かを失うことを恐れ、夜もまともに眠れず、ようやく寝入ったかとおもえば、そっくりそのままの場面を丁寧に再現してみせて、しかも冷静に分析までしている夢を見る。目が覚めたとき、悪夢を見たのではなく、現実なのだということを思い出して、落胆したほどである。

いままで、人が、異性なり、財産なり、地位なりに執着する、そもそもの執着の感覚が理解できなかった。どこかで、執着のあまりに失敗を重ねる人を見て、軽蔑すらおぼえていた。
なんのことはない。この気持ちを知らねば、苦しみは理解できない。
これは女々しい感情なのだろうか。そも、女々しい、という言葉自体が、なにやらおかしい。女のほうが、よほど割りきりが良い。
わたしは、なにをしている? あれほど怒った、というのであれば、こちらが気に障ることをしたのだ。
いま抱いているのは、罪悪感だろうか。
いや、不安だろう。
磐石だと信じていた足元が、いつのまにかひび割れて、脆くなっていたのに、気づかないでいたのだろうか。
だとしたら、いつからひび割れが始まっていたのだろう。
それすら気づけず、だから、いまもって、どう傷つけたのかがわからないでいる。
そうだ、傷つけたのだな、と孔明は深く嘆息した。
そうかといって、原因もわからないまま、頭を下げるのはおかしい。
いま頭を下げてしまえば、おそらくあの男のことだ。恐縮し、許してくれるだろうが、本音は隠してしまうだろう。
そうして、日々に紛れて、なかったことになってしまっているうちに、どんどん距離が離れていくのだ。
こんな途方に暮れた気持ちは、生まれて初めて覚えるものではないか。
いままで、こんなに、どうしたらよいかわからないことなど、一度もなかった。
いや、そうではない。どうしたらよいか、わからないことは、よくあったではないか。それを解決してこられたのは、いつも助け舟が出されていたからだ。
逆にこう言うべきなのだ。
いままで、こんなに孤独を覚えたことなど、一度もなかった。





「朝風呂とは、いいご身分ですな」
髪を乾かしながら、自邸ということで、身づくろいもいい加減に部屋に戻ってきた孔明は、自室でもって、衣に香を焚き染めている偉度の姿に仰天した。
「おまえこそ、早いではないか」
「夜明け前にこちらに参りました。昨夜は、あまりよく眠れなかったでしょう」
と、振り返った偉度は、衣一枚を軽く纏っただけで、洗い髪のままの孔明の姿に、言葉を詰まらせ、あわてて目を逸らした。
気まずく思いつつも、孔明も、衝立の陰に隠れ、とりあえず、簡単に髪を整える。
「驚いた。油断しすぎですぞ」
「おまえこそ、朝早くから、なぜわたしの部屋にいる」
「軍師の様子が気になりまして。ご安心くださいませ。いまさら、軍師のそのようなお姿を見ましても、偉度はなんとも思いませぬ」
「朝から恐ろしいことを言うな。おまえなんぞ、誘惑するか」
「そう願いたいところでございますな。誘惑するなら、ほかの方になさい」
「誰のことも、誘惑なんぞせぬ。ところで、何をしている」
「何って、香を焚き染めております。よい薫りでしょう。これは、趙将軍のお好きな香でして、この衣も、趙将軍のお好きな色でございます」
「ふうん?」
衝立越しに、孔明は髪を手早く整えつつ、顔だけを出して偉度を見る。
「偉度、なぜ知っている」
「なにをでございますか」
「誤魔化すな。それと、その衣は、今日は着ない。そういう気分ではないからだ。それと、此度の件について、おまえの口出しは無用ぞ。伝えたからな。守れよ」
「ご機嫌斜めでございますな。夢見が悪かったのでしょう。どんな夢を見たのです」
「おまえは、わたしに近すぎるな」
孔明が苛立ちを隠さずに言うと、着ないと言っているにも関わらず、帯と衣を一式そろえたものを、衝立越しに偉度が投げてくる。着ない、とは言い切ったものの、ほかに着ていくものを考えている余裕が、いまの孔明にはなかった。
仕方ない、とぶつぶつ言いながらそれでも衣に袖を通していると、偉度の、妙に明るい声が聞こえてきた。
「近いとおっしゃる。それならば、偉度を消しておしまいになるか」
「莫迦を申すな。おまえを消す理由がどこにもない」
そう答えると、衝立越しに、偉度が笑いながら、やはりそうでしょうね、と言っているのが聞こえた。わけのわからぬやつだ、と孔明は思いつつ、帯を締める。
「偉度よ、なぜおまえが、子龍の好きな衣の色を知っている」
「聞いたわけではありません。顔を見ればわかります」
「どんな顔だ」
「それは、いつもあなた自身が、目の前で見ておられるでしょう」
やれやれ、こうなると、偉度の言葉は迷宮のようにうねって、孔明は煙に巻かれたように、ひとりぼっちにされてしまう。
これさえなければ、偉度はよい青年に成長したと、胸を張って、みなに紹介できるのであるが、と孔明は嘆息する。
そんな孔明の心も知らず、偉度は孔明の身支度が整うと、子犬のようにまとわりついて、あれやこれやと世話をやき、左将軍府に向かう御者も、みずから買って出た。
これはこれなりに、気を使ってくれているのだ。人に細やかな気遣いをできるようになったのだ。たいしたものだと誉めてやらねばならぬ。
なぜだか目が妙に笑っているのが気にかかるが、と思いつつ、孔明は、偉度に御者をまかせた。
寝不足なのもあり、しばらく、居心地のよい馬車の中で、偉度が焚き染めた香の薫りを楽しみながら、うとうとしていた。


ふと馬車が止まり、左将軍府についたのかと目を開けば、何のことはない。いつの間にやら、左将軍府とはほどとおい、閑静な市街地にいた。孔明は身を乗り出して、御者台の偉度に声をかける。
「なぜこんなところにいるのだ。早く左将軍府へゆけ」
「申し訳ございませぬ、道を間違えてしまったようで」
「おまえが? ずいぶんな間違えようだが」
そこは、士大夫の屋敷のならぶ、いわば高級住宅地であった。
そこかしこの屋敷から、朝の気配を思わせる匂い、人々の動きが伝わってくる。下町の猥雑な賑わいとは、趣が異なる。
御使いをたのまれたらしい急ぎ足の坊主が、馬車の前を駆けて行き、孔明と目が合うと、ぺこりと頭を下げて去っていった。
ぴいと甲高い音色に顔を上げれば、厚い雲の合間に見える空の下、雲雀が飛んでいくのが見えた。よい朝である。
「偉度、道がわからぬのであれば、わたしが御車をつとめるが」
「いえ、とんでもございませぬ。それが、どうも馬車の調子がわるいようなのです」
そう言って、偉度は身軽にひらりと御者台から飛び降りて、車輪を確かめる。
ずっと立ち止まっている馬車に、それぞれの省庁へ出かける官吏が、立派な馬車のしつらえに、いったい何者かという視線を投げて寄越し、中にいる孔明を見るや、あわてて礼を取る。
あるいは、わざわざ馬車から降りて、挨拶をしてくる者までいた。
彼らから逃げるわけでもないが、孔明は、馬車の中に深く身を沈ませ、偉度が車輪の修理を終えるのを待った。
眠っていないことが、ここで祟ってきたのか、こめかみのあたりがじんじんと痛む。
今日は、これで仕事になるだろうか。日々の仕事の忙しさにまぎれて忘れてしまうが、人と比べれば、脆い体質であることにはちがいない。
座に持たれこむようにして、深いため息をつく孔明であるが、その傍らで、壊れてもいない車輪を、懸命にいじったフリをしている、偉度の姿には気づかないでいた。

つづく……

桔梗の家 2

2018年07月02日 10時07分15秒 | 桔梗の家


一方、調練場において、趙雲は、その日、何十回目かのため息をついた。
あまりの数の多さに、最初は不審な目を向けていた部将たちも、趙雲の鬱鬱たる気分が移ってきたのか、だんだん不安な面差しになり、どこかうつむき加減である。
そんななか、空気に流されることなく、いつもどおりの、むしろ邪悪さすら感じられる無邪気さを発揮しているのが、陳到であった。
「将軍、如何なされたのです。そのように落ち込まれると、ほかの者まで沈んでしまいます」
ああ、と生返事をして顔を上げる趙雲であるが、あいもかわらぬ陳到の、好奇心に満ち満ちた顔を見ると、ウンザリしたように顔を戻し、またため息をついた。

趙雲は、宮城に用があり、朝からいなかった。
そのまま屋敷に帰るだろうと見ていた部将たちは、夕刻も近くなって、趙雲がふらりと現われたことに、まず驚き、そして、妙に張り切って、声を張り上げ、兵卒たちに号令をかけるのを見て、無理して元気を振り絞っているような有様に、さらに首をかしげた。
日課をこなしたあと、さて、帰宅するか、という段になったものの、やはり趙雲は、様子がおかしい。
兵卒たちから離れると、暗い顔をして、なにかをしようとするのだが、内面でさまざまな葛藤が起こっているらしく、途中で仕草を止めては、我に返り、自分がなにをすべきかを考え、それに取り掛かろうとすると、また物思いに耽って、ため息をつき、落ち込む、といったことを、繰り返しているのだ。
良くも悪くも趙雲というのは、兵卒はもちろんのこと、部将たちの前でも、感情をあからさまに見せない男である。
その平板な態度が冷たく取られてしまうこともあるが、趙雲の部隊は似たもの同士が集っており、密接なつながりはないものの、しがらみに縛られることもない。それが良い方向に働き、趙雲の部隊は、風通しの良い、役目を務めやすい部隊でもあった。
それが、どうしたことか、大将が、いつになく激しく落ち込んでいる。
宮城から帰ってきたあと、というだけに、部将たちは最悪のことを思い浮かべた。
つまり、将軍職を解かれた、あるいは降格されたのではないか、と。
だから、本来ならばみな帰宅するところを、趙雲が重たい口を開いてくれるのを待って、たいした仕事もないのに、ほぼ全員が、兵舎をうろうろ、そわそわしている状態であった。
そんな中、陳到が代表して趙雲に声をかけたので、部将たちはほっとしつつ、そしらぬ顔をして、それぞれの役目をつとめながら、耳だけは聡くして、趙雲の言葉に集中している。

「今日は主公とお会いになったのですか」
「主公はお元気であった」
「それはようございました。で、なぜに趙将軍は、それほど落ち込まれているのです」
「落ち込む…そうだな。叔至、俺はどうかしているな」
「ほかにも、どなたかにお会いになったのですか」
「うむ。たまたま軍師に」
その言葉を聞くや、それまで真剣に耳を傾けていた部将たちは、なあんだ、といわんばかりに、ぞろぞろと帰宅の準備をはじめた。
それを尻目に、趙雲は、またもため息をつき、額を抑えるような仕草をして、言った。
「軍師に会ったのだ。で、立ち話をしていたのだが、あれの話に、ひっかかることがあって、つい声を荒げて、意味もなく叱りつけてしまった」
「はあ」
陳到がちらりと周囲を見ると、たくさん残っていた部将たちは、みな帰宅して、いなくなっており、がらんとした兵舎には、趙雲と陳到だけが残されている。夕闇迫る成都の空で、烏がカァ、と鳴いた。
部将たちにとって、孔明に関する趙雲の話というのは、いつもの話であり、いちいち気にすることもない話だと思われているのだ。
「どうかしているな。心を飲み込めばよいものを、黙っておれなくなって、意味のない言葉を投げつけるだけ投げつけて、そのまま帰ってきてしまったのだ」
そこまで言うと、なにを思い出したのか、趙雲はうつむき加減に自嘲気味の笑みを浮かべ、そして言った。
「今度ばかりは、もう駄目かも知れぬ」
「駄目、とおっしゃると」
「言葉どおりだ。呆気ないものだな」

そのとき、陳到の脳裏にあったのは、趙雲が孔明にかまける時間が減れば、いよいよ結婚を考えるのでは、という期待であった。
さっそく、前々から目をつけていた寡婦、あるいは妙齢の娘たちの親兄弟に話を持っていこう。
うまくすれば、来年にも、第一子が生まれ、月下氷人をつとめた自分が、その字をつける役目を、担うことができるかもしれない。
趙雲を縁付け、そして生まれた子の親代わりになる、というのが、陳到のささやかな野望であった。

「しかし、軍師は、将軍の能力を買っておられるわけでございますし、これで駄目、ということにはなりますまい」
「能力、か。そうだな」
またも趙雲は意味ありげな笑みを浮かべ、またまた、ため息をついた。
陳到は、これほどに弱弱しい趙雲を見たのは、初めてであった。
もし、趙雲に恨みを持つ説客がいまあらわれたとしたら、趙雲はあっさり降伏しただろう。
「くわしくは判りませぬが、軍師には軍師の考えがあり、将軍とはちがう、ということなのでは。叔至めの意見を言わせていただきますと、趙将軍は、軍師に、あまりに近くありすぎます。お二人とも、いささか距離をとられて、互いの生活という物を作らねば、人としての本分から、離れてしまいますぞ」
この場合の、陳到の本分というのは、結婚して、子を為して、血を繋ぐ、ということである。
いつもであれば、趙雲は陳到の小言にも、あまり耳を傾けず、右から左へ、という様子なのだが、その日はめずらしく、きちんと返答がかえってきた。
「そういうことなのかもしれぬ」
これは、夢への第一歩だな、と手ごたえをおぼえつつ、一番星がまたたく頃まで、陳到はこんこんと、趙雲に結婚の素晴らしさ、子を持つしあわせを説き、趙雲は、そうかもな、そうなのかな、と聞き続けていた。





今日はもう遅いので、朝一番に、趙雲の妻にぴったりと狙っていた候補者の家へ行き、ちゃっちゃと話を進めるべきであろう。
あの頑固に結婚の話を蹴り続けていた男が、すこしその気になっているのだ。
律義者だから、話が半分も決まってしまえば、気が乗らなくなっていても、仕方ないとあきらめて、妻を迎えることだろう。
さあ、忙しくなってきた、と陳到が上機嫌で屋敷に帰ってみれば、ちょうどだれかが、人の家の門を、くぐろうとするところであった。
だれかと見れば、陳到が目の仇にしている、左将軍府の悪鬼・胡偉度であった。
しまった。どこかの酒家で時間を潰してこよう、と陳到は馬首をめぐらせるが、偉度は、気配ですぐに陳到を見つけてしまった。
「陳将軍、お話がございます」
「あとにしてくれ。わたしは忙しい」
「嘘をおっしゃい、暇なくせに。大切なお話なのです。趙将軍と軍師のことで」
やはりな、と陳到は心の中でつぶやき、偉度を無視して、馬を歩かせる。
胡偉度は、なにやら邪な想念でもって、陳到のささやかな夢を挫こうとしている、いやーな青年なのである。
偉度は、陳到が話を聞かないつもりなのを見てとると、門に一歩、足を踏み入れ、言った。
「ならば、陳将軍ではなく、奥方にお話をさせていただきます」
ぴたり、と陳到は足を止め、偉度を振り返る。
「なんだと?」
「奥方にお話をさせていただくと申し上げました。どうぞ、どこへなりとお行きになってください。さようなら」
と、偉度はしれっとして、陳家の門をくぐっていく。
すると、表の物音でわかったのか、家の中の者が、出迎えのために玄関に集っている気配がある。足音の軽さから見て、陳到の愛娘の四人であることは、すぐにわかった。父親が帰ってきたと思っているのか。
陳到はあわてて馬を下りると、玄関に手をかけようとする偉度を押し止めた。
玄関がちらりと開いて、娘たちが顔を覗かせるので、あわててその前にたち、偉度が見えないようにする。
「見ちゃいけません! 病気になってしまう! おまえたち、家に入ってなさい!」
「人を悪気の塊のように…こんばんは、姑娘がた」
陳到の娘たちは、みな、面食いである。そして、なぜだか父親と仲の悪い偉度を気に入っている。
偉度はそれを知り尽くしているので、陳到の娘たちに、あまりよそでは見せない微笑みを浮かべてみせる。そうして、娘たちがきゃあきゃあ言いながら奥に消えていくのを、イライラして見送る陳到を見るのが、偉度の楽しみなのだ。
「あいもかわらず性悪者よ。屋敷には通さぬぞ。で、話とは?」
「門前払いよりマシな程度な扱いですが、まあよろしいでしょう。ずばり申し上げます。趙将軍と軍師が、なにやら喧嘩をなさった様子。この仲直りの手伝いをお願いしたいのです」
「なぜ、わたしがそのような仲立ちをせねばならぬ」
偉度は、ふうっと気障ったらしく(と、陳到には感じられた)ため息をつくと、垂れてきた前髪をかき上げて、言う。
「判っておられぬようですな。どうせ、これを機に、趙将軍に嫁を、などと、くだらぬことを考えていたのでしょう」
「なにがくだらぬ」
「よろしいか。趙将軍が軍師と仲たがいされたら、まともにあおりを食らうのは、貴方がたではありませぬか。趙将軍が、位の低さにもかかわらず、主公やほかの将軍方からも厚遇されているのは、軍師との結びつきがあればこそ。軍師と袂を別たれた趙将軍は、そのほかの猪将軍と同じ存在になり下がり、いまの特別なお立場ではなくなる」
「なにをいう。趙将軍ほどの武勇と知略をお持ちの方が、失脚なんぞするものか」
「そう、趙将軍の能力は高い。それゆえ、軍師の下から離れたとしても、そのまま失脚なさることはないでしょう。
ただし、このまま順調にいけば、我らが軍師将軍は、揚武将軍を継ぐか、あるいはさらに上位の地位につく。そうなった場合、あまりに事情を知りすぎている、己に反する者を、いくら軍師とはいえ、重用するでしょうかね」
「む」
「あんたもわたしも、昔は同じ穴のムジナだったじゃありませんか。知りすぎた者がどうなるか、そんなことは考えなくったって結論を出せるでしょう。軍師のことだから、罪をかぶせて失脚させるような、阿漕な真似はしやしないでしょうが、まあ、失脚寸前のところでなんとか首がつながる状態になるでしょうね。
そうなったら、あんたがただって、同じ立場に立たされる。趙将軍は、ああいう気性の方だから、それでも文句は言わないかもしれない。でも、あんたはどうです、それでもよいと?」
陳到は、むむむ、とうなりつつ、挑発するように、妙に艶めかしい笑みを浮かべている偉度を見据えた。
悔しいが、偉度の言うとおりである。
「嫁は二の次か」
「そうそう。いまはささやかな幸福よりも、大義のために、あの二人の仲直りをさせることが先決。大義が為されれば、あなたの夢もあとから追いかけてきましょうぞ。あなたの話に耳を傾けるくらいだ。趙将軍の様子は、どうやら最悪のようですな」
「一言多い。しかし、たしかに落ち込んでおられるのには、ちがいない」
「ふむ…すこし知恵を絞るか。よろしいですね。協力をお願いいたしましたよ」
「悔しいが仕方なかろう。しかしおまえ、よい策でもあるのか」
「まあ、ないこともない。準備が整いましたら、お知らせいたします。それまでは、妙に浮ついて、嫁探しなどなさいませぬよう」
釘を刺された陳到は、うー、と餌を貰い損ねた犬のようにうなっていたが、偉度は頓着せず、さっと踵を返して、自邸へと戻っていった。




「わかってないね」
ふん、と鼻を鳴らしながら、偉度はひとり、夜を歩く。
孔明の性格からして、たとえ趙雲に嫌われるようなことになったとしても、決して見捨てるような真似はしない。孔明は、己を守ってくれた者に、厚い情を持ち続ける。裏切られても、それは変わらないだろう。
まあ、趙雲が孔明を嫌う、という前提からして、おかしな話だ。
趙雲が孔明を嫌うことなどあるはずがないのだ。それはまさに、自分自身の半分を殺してしまうのと同じくらい、重い行為になるのだから。
事実、いま喧嘩をしていても、趙雲は落ち込んでいるという。
孔明と袂を分かとうとするほどの怒りではなかった、という証左である。

やれやれ、互いに離れてしまえば、それこそ窒息しかねないくらいに苦しい思いをするとわかっているのに、どうして喧嘩なんぞするのだろう。

陳到の親父さんは、出来る男ではあるが、武芸の才に見合わず、あきれるほどに凡人なのだ。二人の間にあるものが、単なる主従以上の深く強いものであることを、理解していない。
あの二人に関しては、第三者が介入できる隙間はないのだ。
陳到の夢を、偉度は知っているし、こちらのことを嫌う理由もわからないでもないが、しかし、嫌われようと憎まれようと、譲れない一点というものは存在する。
さてはて、趙雲と孔明であるが、前向きに考えれば、これはよい機会かも知れない。

雨降って地固まる。よき策を練らねばな。

妖しげな笑みを浮かべつつ、偉度は夜闇の中に消えていった。

つづく……

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