(?_?)あらすじ(?_?)
なんだか他人にはよくわからぬ理由より喧嘩に至った孔明と趙雲であるが、これまた他者には入り込めぬさまざまな事情により、あっさりと仲直り。しかし風呂上りの孔明と、傍らの趙雲という取り合わせに、なにやら大いなる誤解をした偉度は、趙雲にノーマルな(?)道を歩ませようと画策している陳到と屋敷を脱出。そして二人の決死行が始まった…
「親父さん、しっかり! ほらっ、ひずめの音が近づいてきた!」
偉度の声をどこか彼方のもののように聞きながら、陳到はショックのあまり硬直して、動かなくなっていた。
さきほど見た、風呂上りらしい孔明の、妙に艶めかしい姿と、傍らの趙雲、という取り合わせが頭から離れない。いったい、なにがあったのだ、と尋ねるまでもなく、孔明の姿から、だいたいの予想はつくではないか。
戦中ならわかる。
いや、わかるというと行き過ぎだが、生と死の間をぎりぎりで日々を過ごす中、昂じる緊張をどこかでほぐしたくて、手近なところで済ませる者がいることは知っているとも。
具体的な名前まで知っちゃっている自分が困ったものだが、まあ、それは置いておき、いままで、完璧すぎるくらい完璧、あとは嫁を貰えばなお結構、という上司が、じつはそういう嗜好であったと見せ付けられて、金縛りにならない者がいようか。
断じて否!
なんたるこっちゃ。
この左将軍府の悪鬼が、おかしな画策をしていたのは知っているが、まさかまさか、本当にそうだなんて、誰か嘘だと言ってくれい!
金縛りになっている陳到を、ずるずると引きずりながら、偉度は、懸命に逃げた。
というのも、陳到より、よほど二人の性格を、良くも悪くも(一部に誤解があるが)知り抜いている偉度は、孔明はともかくとして、趙雲が、つぎにどんな行動に出るか、予想がついたからである。
そして、予想通り、屋敷から逃げ出したあと、まさにその屋敷の方角から、ぱっぱかと、雷鳴の如く足音を響かせて、向かってくる騎馬がひとつ。
「ぎゃあ、やっぱり来たっ! スリーピー・ホロウか、これは! 首を狩られたくなかったら、親父さん、自分の足で歩け!」
「♪きーみーにもぉーし つーばさがぁあー ひーとつしーかなーくてもぉー」
「錯乱状態の癖して、妙に反応するな! だいたい、それは浜崎あゆみの『Endress sorrow』だろうが。ロウしか合ってない!」
「『スターリングラード』『真夜中のサバナ』」
「そりゃジュード・ロウ! ミニ知識を披露する余裕があるなら、置いていく! ではな!」
「偉度っち、ひどい…というか、いつの間にか、おばか企画にシフトしていたのか…って、ぎゃあ! あちらの世界の住人が、ものすさまじい形相で、馬に乗ってやってくる!」
偉度が、陳到を捨てて、駆け去ろうとする直前、趙雲は、馬上より弓を番えて、偉度の行く手を矢でさえぎった。
ざあっと偉度の顔より血の気が失せる。
「なんて腕だ。こちらがどのくらいの速度で前進するかを計算にいれて、当たらないようにわざと放ったのか…」
「てゆうか、諦めたほうがいいって」
「諦められるか! 軍師ならば、我らが闇に葬られることはないでしょうよ。だが、趙将軍は、正直よくわからない。あの人、軍師よければすべてよし、ということろがあるからな」
「そりゃあ、おまえだって、似たようなものだろう」
「程度が違う。むしろ、わたしのほうが、周囲に優しく出来る自信があるよ。あの人は、徹底的になんというか」
怒涛の如く追いかけてきたひずめの音が、ぴたりと止まり、そして、ゆっくりと近づいてきた者が、偉度と陳到の前に影を作る。
「軍師に不利なものは、排除するのに、ためらいがないというか…」
「そのとおり。よくわかっているな、偉度」
全身から殺気をただよわせた趙雲が、ゆらりと近づいてくるのを、偉度と陳到は、あわあわと口をぱくぱくさせた状態で、身動きもできずに、見ているしかできない。
まさに蛇に睨まれたカエル状態である。げろげーろ。
「おまえたち、なにゆえ逃げるのだ。俺は武骨者だが、おまえたち二人をもてなすくらいのことはできるぞ」
「逃げると申しましょうか、遠慮したと申しましょうか」
「遠慮とな? なにを遠慮したというのだ。俺は、ただ軍師と話をしていただけだぞ」
妙にやさしい声音で、趙雲が言う。
ひきつりながらも、偉度は懸命に反論した。
「話、だけでございますか」
「話以外に、なにをするというのだ」
いや、それは、と偉度が口をもごもごとさせて、言葉を濁していると、となりにいた陳到が口を開いた。
「そりゃ、ずばり、軍師将軍を相手に…(自主規制・陳到が何を言ったかは、つぎの趙雲の反応で各自ご想像いただければ幸いです・はさみの)…されたのでは?」
「あっ、莫迦! なんたる直接話法!」
偉度の制止の声もむなしく、陳到が答えるやいなや、趙雲は、さっと顔色を変え、槍をつがえて、するどい銀の刃を一閃させた。
※
趙雲が去っていくと、偉度は、緊張がほぐれ、ほっと深くため息をついた。
「ああ、怖かった。殺されるかと思った。しかし、あの様子では、進展はなかった、ということか。ちぇっ、期待したのに」
となりでは、陳到が、しくしくと顔を覆って、娘のように泣いている。
なぜかといえば、陳到の髻が、すっぱりと切られて、地面に落ちていたからであった。
「首が落ちなかっただけ、めっけものだよ、親父さん。あんなにずばりいう人があるかい」
陳到は、だって、だってと泣きながら言う。
「なんだか、無理に手篭めにした娘に謝っている男の気分だな。というか、下手人は趙将軍だけど」
「なんと、偉度、おまえはどこぞの娘に、無理強いをしたことでもあるのか?」
急に元気になって、噛み付いてくる陳到に、偉度は、深い憂いを含んだ目をして答えた。
「そんなこと、しやしないよ。ただの比喩さ。人にされて嫌だったことは、だれにもしないと決めているんだ」
「む。そ、そうか」
「そうさ。しかし、その頭で家に帰ったら、奥方も銀輪たちもびっくりするでしょうよ。さあ、泣いてないで、参りましょう」
「どこへ」
「オーノー、783-640(ナヤミムヨー)のリー○゛21へさ」
「しかし娘たちの教育ローンがあるから、もう懐に余裕が」
「それはほら、連帯責任ということで、わたしが持ちましょう。いつか返してくだされば結構です。どうせ、金なんて、使いもしないのに、やたらたくさん残っていて、無駄になっている状態だからね」
「偉度っちー」
目をうるませる陳到と共に、偉度は発毛専門の成都支店へと、連れ立って歩いて行った。
※
やれやれ、これで、ありもしないことを噂される危険はなくなった、と安堵しながら、趙雲が自邸に戻ると、帰ったとばかり思っていた孔明が、やはり書斎に残っていて、さきほどの書物を熱心に読みふけっていた。
さきほどは、暗殺するならば、と言ったが、こいつを失脚させたいなら、毎日のように好きそうな書物を机にひろげておけば、出仕しなくなって、あっという間に信頼をなくしておしまいだ、と趙雲は呆れつつ考えた。
「俺は休みだが、おまえも今日は休みだったのか」
「休みにした。安と楊の奥方の騒ぎは、すでに左将軍府に届いていたからな。それに、このあいだの代休もまだ取っていなかったし。今日は仕事もさほど滞っておりませぬゆえ、ゆっくりお休みください、だと。それより、咽喉が渇いた」
「なにか持ってくる」
「うん」
書物から顔を上げないまま、わがままを口にする孔明であるが、いつものことでもあるので、趙雲は頓着しない。
そして、みずから外にこさえた氷室にて氷をとってくると、清水に入れて、孔明の元へと戻った。
書物に熱心に目をむけたままの孔明は、生返事のままそれを受け取ると、指先の感触の、あまりの冷たさに仰天して、ようやく顔を起こす。
「おどろいた。氷か。氷室なんて、いつ作ったのだ。あいかわらず、屋敷は質素なのに、馬と食にはこだわるのだな」
「別に。黄漢升のじいさまが、長生きの秘訣は食にある、と言っていたからな。すこし真似てみた」
冷たい感触を喜びつつ、器の中で、からりと音を立てて水に溶ける氷を見て、孔明は目を細める。
「美しいものだな。こうして暑いときに見る氷は、儚くて、水晶のように美しい。ところで、偉度と陳到は?」
「あいつらは元気だ」
「そうか。わたしはてっきり、二人を呼び戻すために、出て行ったのかとばかり」
「あいつらのことはともかく、どこまで進んだ」
「あとすこしで読み終わるよ」
それほど夢中になるのであれば、貸してやろうというつもりであった趙雲であったが、もう読み終わる、の孔明の言葉に、さすがに顔色を失った。
趙雲も懸命に読んではいた。
が、内容が難解で、進んでは、副読本をひらいて意味を掴んで、またさらに進んでは、意味がつかめなくなり、途中に戻る、といったことを繰り返し、ようやく何日もかけて、中盤に進んだところであったのだ。
趙雲の顔色が変わったのを敏感に読み取り、孔明は言った。
「子龍、わたしが書物を読むのが早いのは、毎日のように文字と書物に埋もれているからだよ。あなたがとっさに襲撃されても、すばやく反応を返せるのと同じで、これも反覆による訓練の結果なのだと思う」
「そういうものだろうか」
真剣に考える趙雲に、孔明は笑みをこぼした。
「そうさ。あなたになにもかも、そう完璧にこなされては、わたしの立場がなくなってしまう。わたしがあなたに勝るところといえば、書物に拠る知識を駆使した作業と、そうだな、弁舌くらいかな。
わたしは武においてあなたに守られているが、わたしはあなたを文官として、政治的なことがらをすべて駆使して守っている。わたしに付いて行こうなんて考えなくていい。あなたがついて行くべき者は、主公だ」
「それはわかっている」
だが、と趙雲が反論しようとすると、孔明は笑いながらつづけた。
「そんなに眉間に皺を寄せて深く考え込むことじゃないさ。互いに欠けているところがあればこそ、わたしたちはうまくやってこられたのではないかね。わたしは、あなたを従えていると思ったことはない。いつも共にいる同胞なのだと思っている」
と、孔明は、またも声をたてて笑った。
「なにが可笑しいのだ」
「とはいえ、わたしに基準を置こうとする、その気概は買う」
「それはどうもありがとう」
「冗談だよ」
孔明は器の中にある氷を、からからと溶かして遊びながら、言った。
「なんだか久しぶりに声をたてて笑った気がする。不思議だな。どうしてあなたには、こう自然と、なんでも話せてしまうのかな。気負いを感じなくてよいから、ついつい甘えてしまうのだが」
「たまには世間でいうところの『諸葛孔明』を演じるのを止めてみろ。それでは疲れてしまうだろう」
「そうだな、わかっているのだけれど、人の前に出ると、反射的に体が動いてしまうのだ。これも反覆作業の積み重ねかな」
「普通に振る舞え、といっても、むつかしかろうな。とはいえ、おまえは、演出が過剰にすぎる」
「わかっているのだけれどね、癖はすぐに改められぬといおうか」
と、孔明は、すこし寂しげに笑った。
「本音ばかりを語って、生きていくなんてことができたら、幸せだろうか。人のことをまったく考えなければ、きっと幸せなのだろうな」
「そんなやつ、きっとだれにも相手にされやしないさ。本音をどうしても語れない時だってあるだろう」
「気になる言葉だな、子龍。わたしに言えないことがある、というとこか」
「おまえとて、俺に言えないことがあるだろう」
「ああ、はぐらかされた。その本音とやらを聞くことができる日は、くるのかな」
「ない」
「そうかい。つまらないな」
「悪い癖だぞ。言葉遊びになっている。すこし眠っていけ。客室の寝台を使うといい。掃除させてある」
「おや、一人でか」
「一人でだ!」
「怒るな。これも冗談だ。さて、それでは、言葉に甘えさせてもらうとしようか」
と、伸びをしながら、孔明は立ち上がると、勝手知ったる人の家。案内もなしに、客室のほうに向かっていく。
ふと、孔明が立ち止まって、振り返った。
笑みを浮かべてはいるものの、目は真剣にじっと趙雲を見つめている。
「どうした」
「いや、肝心なことを言うのを忘れていたからだ。ありがとう、子龍」
「なにが」
「いろいろ」
「変な奴だな」
「初めからそうさ。それでは、お休み」
そういって客室に向かう孔明を見送り、趙雲は、軽く息をつき、孔明がしるしの替わりに置いていた桔梗の花を目印にして、書物に目を落とした。
以前より、すんなりと字句の意味が理解できたのは、おそらく気のせいではないだろう。
おしまい
2005年8月のおはなしでした。
なんだか他人にはよくわからぬ理由より喧嘩に至った孔明と趙雲であるが、これまた他者には入り込めぬさまざまな事情により、あっさりと仲直り。しかし風呂上りの孔明と、傍らの趙雲という取り合わせに、なにやら大いなる誤解をした偉度は、趙雲にノーマルな(?)道を歩ませようと画策している陳到と屋敷を脱出。そして二人の決死行が始まった…
「親父さん、しっかり! ほらっ、ひずめの音が近づいてきた!」
偉度の声をどこか彼方のもののように聞きながら、陳到はショックのあまり硬直して、動かなくなっていた。
さきほど見た、風呂上りらしい孔明の、妙に艶めかしい姿と、傍らの趙雲、という取り合わせが頭から離れない。いったい、なにがあったのだ、と尋ねるまでもなく、孔明の姿から、だいたいの予想はつくではないか。
戦中ならわかる。
いや、わかるというと行き過ぎだが、生と死の間をぎりぎりで日々を過ごす中、昂じる緊張をどこかでほぐしたくて、手近なところで済ませる者がいることは知っているとも。
具体的な名前まで知っちゃっている自分が困ったものだが、まあ、それは置いておき、いままで、完璧すぎるくらい完璧、あとは嫁を貰えばなお結構、という上司が、じつはそういう嗜好であったと見せ付けられて、金縛りにならない者がいようか。
断じて否!
なんたるこっちゃ。
この左将軍府の悪鬼が、おかしな画策をしていたのは知っているが、まさかまさか、本当にそうだなんて、誰か嘘だと言ってくれい!
金縛りになっている陳到を、ずるずると引きずりながら、偉度は、懸命に逃げた。
というのも、陳到より、よほど二人の性格を、良くも悪くも(一部に誤解があるが)知り抜いている偉度は、孔明はともかくとして、趙雲が、つぎにどんな行動に出るか、予想がついたからである。
そして、予想通り、屋敷から逃げ出したあと、まさにその屋敷の方角から、ぱっぱかと、雷鳴の如く足音を響かせて、向かってくる騎馬がひとつ。
「ぎゃあ、やっぱり来たっ! スリーピー・ホロウか、これは! 首を狩られたくなかったら、親父さん、自分の足で歩け!」
「♪きーみーにもぉーし つーばさがぁあー ひーとつしーかなーくてもぉー」
「錯乱状態の癖して、妙に反応するな! だいたい、それは浜崎あゆみの『Endress sorrow』だろうが。ロウしか合ってない!」
「『スターリングラード』『真夜中のサバナ』」
「そりゃジュード・ロウ! ミニ知識を披露する余裕があるなら、置いていく! ではな!」
「偉度っち、ひどい…というか、いつの間にか、おばか企画にシフトしていたのか…って、ぎゃあ! あちらの世界の住人が、ものすさまじい形相で、馬に乗ってやってくる!」
偉度が、陳到を捨てて、駆け去ろうとする直前、趙雲は、馬上より弓を番えて、偉度の行く手を矢でさえぎった。
ざあっと偉度の顔より血の気が失せる。
「なんて腕だ。こちらがどのくらいの速度で前進するかを計算にいれて、当たらないようにわざと放ったのか…」
「てゆうか、諦めたほうがいいって」
「諦められるか! 軍師ならば、我らが闇に葬られることはないでしょうよ。だが、趙将軍は、正直よくわからない。あの人、軍師よければすべてよし、ということろがあるからな」
「そりゃあ、おまえだって、似たようなものだろう」
「程度が違う。むしろ、わたしのほうが、周囲に優しく出来る自信があるよ。あの人は、徹底的になんというか」
怒涛の如く追いかけてきたひずめの音が、ぴたりと止まり、そして、ゆっくりと近づいてきた者が、偉度と陳到の前に影を作る。
「軍師に不利なものは、排除するのに、ためらいがないというか…」
「そのとおり。よくわかっているな、偉度」
全身から殺気をただよわせた趙雲が、ゆらりと近づいてくるのを、偉度と陳到は、あわあわと口をぱくぱくさせた状態で、身動きもできずに、見ているしかできない。
まさに蛇に睨まれたカエル状態である。げろげーろ。
「おまえたち、なにゆえ逃げるのだ。俺は武骨者だが、おまえたち二人をもてなすくらいのことはできるぞ」
「逃げると申しましょうか、遠慮したと申しましょうか」
「遠慮とな? なにを遠慮したというのだ。俺は、ただ軍師と話をしていただけだぞ」
妙にやさしい声音で、趙雲が言う。
ひきつりながらも、偉度は懸命に反論した。
「話、だけでございますか」
「話以外に、なにをするというのだ」
いや、それは、と偉度が口をもごもごとさせて、言葉を濁していると、となりにいた陳到が口を開いた。
「そりゃ、ずばり、軍師将軍を相手に…(自主規制・陳到が何を言ったかは、つぎの趙雲の反応で各自ご想像いただければ幸いです・はさみの)…されたのでは?」
「あっ、莫迦! なんたる直接話法!」
偉度の制止の声もむなしく、陳到が答えるやいなや、趙雲は、さっと顔色を変え、槍をつがえて、するどい銀の刃を一閃させた。
※
趙雲が去っていくと、偉度は、緊張がほぐれ、ほっと深くため息をついた。
「ああ、怖かった。殺されるかと思った。しかし、あの様子では、進展はなかった、ということか。ちぇっ、期待したのに」
となりでは、陳到が、しくしくと顔を覆って、娘のように泣いている。
なぜかといえば、陳到の髻が、すっぱりと切られて、地面に落ちていたからであった。
「首が落ちなかっただけ、めっけものだよ、親父さん。あんなにずばりいう人があるかい」
陳到は、だって、だってと泣きながら言う。
「なんだか、無理に手篭めにした娘に謝っている男の気分だな。というか、下手人は趙将軍だけど」
「なんと、偉度、おまえはどこぞの娘に、無理強いをしたことでもあるのか?」
急に元気になって、噛み付いてくる陳到に、偉度は、深い憂いを含んだ目をして答えた。
「そんなこと、しやしないよ。ただの比喩さ。人にされて嫌だったことは、だれにもしないと決めているんだ」
「む。そ、そうか」
「そうさ。しかし、その頭で家に帰ったら、奥方も銀輪たちもびっくりするでしょうよ。さあ、泣いてないで、参りましょう」
「どこへ」
「オーノー、783-640(ナヤミムヨー)のリー○゛21へさ」
「しかし娘たちの教育ローンがあるから、もう懐に余裕が」
「それはほら、連帯責任ということで、わたしが持ちましょう。いつか返してくだされば結構です。どうせ、金なんて、使いもしないのに、やたらたくさん残っていて、無駄になっている状態だからね」
「偉度っちー」
目をうるませる陳到と共に、偉度は発毛専門の成都支店へと、連れ立って歩いて行った。
※
やれやれ、これで、ありもしないことを噂される危険はなくなった、と安堵しながら、趙雲が自邸に戻ると、帰ったとばかり思っていた孔明が、やはり書斎に残っていて、さきほどの書物を熱心に読みふけっていた。
さきほどは、暗殺するならば、と言ったが、こいつを失脚させたいなら、毎日のように好きそうな書物を机にひろげておけば、出仕しなくなって、あっという間に信頼をなくしておしまいだ、と趙雲は呆れつつ考えた。
「俺は休みだが、おまえも今日は休みだったのか」
「休みにした。安と楊の奥方の騒ぎは、すでに左将軍府に届いていたからな。それに、このあいだの代休もまだ取っていなかったし。今日は仕事もさほど滞っておりませぬゆえ、ゆっくりお休みください、だと。それより、咽喉が渇いた」
「なにか持ってくる」
「うん」
書物から顔を上げないまま、わがままを口にする孔明であるが、いつものことでもあるので、趙雲は頓着しない。
そして、みずから外にこさえた氷室にて氷をとってくると、清水に入れて、孔明の元へと戻った。
書物に熱心に目をむけたままの孔明は、生返事のままそれを受け取ると、指先の感触の、あまりの冷たさに仰天して、ようやく顔を起こす。
「おどろいた。氷か。氷室なんて、いつ作ったのだ。あいかわらず、屋敷は質素なのに、馬と食にはこだわるのだな」
「別に。黄漢升のじいさまが、長生きの秘訣は食にある、と言っていたからな。すこし真似てみた」
冷たい感触を喜びつつ、器の中で、からりと音を立てて水に溶ける氷を見て、孔明は目を細める。
「美しいものだな。こうして暑いときに見る氷は、儚くて、水晶のように美しい。ところで、偉度と陳到は?」
「あいつらは元気だ」
「そうか。わたしはてっきり、二人を呼び戻すために、出て行ったのかとばかり」
「あいつらのことはともかく、どこまで進んだ」
「あとすこしで読み終わるよ」
それほど夢中になるのであれば、貸してやろうというつもりであった趙雲であったが、もう読み終わる、の孔明の言葉に、さすがに顔色を失った。
趙雲も懸命に読んではいた。
が、内容が難解で、進んでは、副読本をひらいて意味を掴んで、またさらに進んでは、意味がつかめなくなり、途中に戻る、といったことを繰り返し、ようやく何日もかけて、中盤に進んだところであったのだ。
趙雲の顔色が変わったのを敏感に読み取り、孔明は言った。
「子龍、わたしが書物を読むのが早いのは、毎日のように文字と書物に埋もれているからだよ。あなたがとっさに襲撃されても、すばやく反応を返せるのと同じで、これも反覆による訓練の結果なのだと思う」
「そういうものだろうか」
真剣に考える趙雲に、孔明は笑みをこぼした。
「そうさ。あなたになにもかも、そう完璧にこなされては、わたしの立場がなくなってしまう。わたしがあなたに勝るところといえば、書物に拠る知識を駆使した作業と、そうだな、弁舌くらいかな。
わたしは武においてあなたに守られているが、わたしはあなたを文官として、政治的なことがらをすべて駆使して守っている。わたしに付いて行こうなんて考えなくていい。あなたがついて行くべき者は、主公だ」
「それはわかっている」
だが、と趙雲が反論しようとすると、孔明は笑いながらつづけた。
「そんなに眉間に皺を寄せて深く考え込むことじゃないさ。互いに欠けているところがあればこそ、わたしたちはうまくやってこられたのではないかね。わたしは、あなたを従えていると思ったことはない。いつも共にいる同胞なのだと思っている」
と、孔明は、またも声をたてて笑った。
「なにが可笑しいのだ」
「とはいえ、わたしに基準を置こうとする、その気概は買う」
「それはどうもありがとう」
「冗談だよ」
孔明は器の中にある氷を、からからと溶かして遊びながら、言った。
「なんだか久しぶりに声をたてて笑った気がする。不思議だな。どうしてあなたには、こう自然と、なんでも話せてしまうのかな。気負いを感じなくてよいから、ついつい甘えてしまうのだが」
「たまには世間でいうところの『諸葛孔明』を演じるのを止めてみろ。それでは疲れてしまうだろう」
「そうだな、わかっているのだけれど、人の前に出ると、反射的に体が動いてしまうのだ。これも反覆作業の積み重ねかな」
「普通に振る舞え、といっても、むつかしかろうな。とはいえ、おまえは、演出が過剰にすぎる」
「わかっているのだけれどね、癖はすぐに改められぬといおうか」
と、孔明は、すこし寂しげに笑った。
「本音ばかりを語って、生きていくなんてことができたら、幸せだろうか。人のことをまったく考えなければ、きっと幸せなのだろうな」
「そんなやつ、きっとだれにも相手にされやしないさ。本音をどうしても語れない時だってあるだろう」
「気になる言葉だな、子龍。わたしに言えないことがある、というとこか」
「おまえとて、俺に言えないことがあるだろう」
「ああ、はぐらかされた。その本音とやらを聞くことができる日は、くるのかな」
「ない」
「そうかい。つまらないな」
「悪い癖だぞ。言葉遊びになっている。すこし眠っていけ。客室の寝台を使うといい。掃除させてある」
「おや、一人でか」
「一人でだ!」
「怒るな。これも冗談だ。さて、それでは、言葉に甘えさせてもらうとしようか」
と、伸びをしながら、孔明は立ち上がると、勝手知ったる人の家。案内もなしに、客室のほうに向かっていく。
ふと、孔明が立ち止まって、振り返った。
笑みを浮かべてはいるものの、目は真剣にじっと趙雲を見つめている。
「どうした」
「いや、肝心なことを言うのを忘れていたからだ。ありがとう、子龍」
「なにが」
「いろいろ」
「変な奴だな」
「初めからそうさ。それでは、お休み」
そういって客室に向かう孔明を見送り、趙雲は、軽く息をつき、孔明がしるしの替わりに置いていた桔梗の花を目印にして、書物に目を落とした。
以前より、すんなりと字句の意味が理解できたのは、おそらく気のせいではないだろう。
おしまい
2005年8月のおはなしでした。