偉度は、すっかり疲れきって、左将軍府の中庭に出ると、とりあえず、だれもいないことを確かめてから(なぜ『とりあえず』かといえば、だれに聞こえても、構わないや、という心があったからである)おもい切り叫んだ。
「どいつもこいつも、莫迦ばっかりだ!」
偉度の言う、どいつもこいつもとは、左将軍府の面々全員である。
軍師のいない穴を埋めるために、総出で仕事をしているというのに、人の顔を見れば、軍師はまだか、軍師はまだかと聞いてくる。
うざったい。
そのうえ、仕事がとどこおれば、とどこおったで、軍師がいれば、といちいち嘆息する。
まったくもって、うざったい。
董和は、なんだかここ数日で白髪が増えた気がする、などとぼやくし、許長史は、隙あれば早退しようとするし(お陰で見張りをつけなくてはならない)、伊籍の元気はからまわり、糜竺だけが、このひとは相変わらずで淡々と業務をこなすが、老眼が進んでしまっているために、夕刻間近になると、頭痛がするからといって、書簡に目を通せなくなる。
仕方なく、元気の有り余っている浮かれた面々を狩り出して、左将軍府の仕事の手伝いをさせるのであるが、これが役立たず。
面子もよろしくない。
文通に舞い上がって、いまだに地に足のついていない文偉(立っているだけ)、蜀に馴染む努力の一環としてやってきた馬岱(いるだけ)、なぜだか野次馬なところを見せて顔を出している劉巴(ほんとうに顔を出すだけ、見ているだけ。だれかの間者じゃあるまいな?)。
唯一の救いといえば、おどろいたことに、休昭が地道にこつこつ築いてきた力を発揮し、父の補佐をみごとに勤めていることであろうか。
まあ、文偉も休昭も、本来の職場から離れての手伝いであるから、あとになって法正らがうるさかろう。
そのために、兄弟たちを動かして、かれらの口を閉ざさせるためのネタを仕入れ中。
いまのところ、かかってくるのは小ネタばかり。
だからこそ、偉度は叫ぶ。
「どいつもこいつも!」
「莫迦という方が、莫迦だ、という話もあるが」
と、気炎を吐く偉度に対して、単調とすらいえる声がかかった。
振り返れば、柘植の木の横に、いつ帰ってきたのか、蒋琬が立っていた。
愛用の長剣を背負って、旅装も解かぬままの姿である。
使えるヤツが帰ってきた。
偉度の心はぱあっと明るくなった。
「いつもどったのだ?」
「いまさっきだ。文偉の屋敷が襲われたあと、もう何事も起こらぬであろうと成都を出たが、早計であったようだな。話は、幼宰さまから聞いた」
「ならば、軍師がいないために、左将軍府は、ボロボロだということも知っているだろう。公琰、免官になった身だというのはわかっているが、この非常事態だ。中を手伝ってはくれまいか」
「それは」
と、蒋琬が答えかけたところで、中のほうから、バンザーイ、バンザーイという、浮かれた万歳三唱が聞こえてきた。
「なんだ? とうとう狂ったか?」
偉度が中に向かおうとすると、やはり淡々とした様子をくずさぬ蒋琬が言う。
「狂ったのではない。軍師がおもどりになったと伝えただけだ」
「まことか!」
偉度が蒋琬を振り返り、念を押すと、ほとんど年齢は変わらぬものの、妙に重々しい雰囲気をもつ男は、うむ、と答えた。
「いまさっき、お屋敷にもどられたところに行きあって、御挨拶申し上げたところだ」
「どのような様子であった? お一人か?」
「お元気であったぞ。いつもの軍師であった。趙将軍も、ともにもどられた。そうそう、趙将軍は、軍師のお屋敷にいる。なんでも、位から屋敷から荘園から田畑に至るまで、ぜんぶ主公に返上したので、無一文だそうだからな。理由は聞いたが、さて、大胆なことをされるものだ」
「そうだよ。大変だったのだ。そうか、趙将軍ももどられたか」
偉度は、いらだちをそのままよろこびにかえて、気持ちを高揚させた。
さあ、こうなれば、がたがたしている左将軍府を一気に押し上げて、軍師を立派にお出迎えするのだ。
「軍師は、すぐこちらにいらっしゃるだろうか?」
「いや、まずは主公に御挨拶してくると仰っていた」
「ああ、そうか。順序としては、そうであろうな。将軍の位返上の話は、主公は受理していないわけであるし、現状復帰が最優先だ」
左将軍府の奥からは、がやがやと、さまざまな安堵の声が聞こえてくる。
まったく、どいつもこいつも、軍師がいなくちゃ、なにもできないのか、自立しろ、と、偉度はぐちぐち言ってみる。
そのじつ、自立していないのは、偉度がいちばんなのであるが。
「ところでな、偉度。軍師にはすでにご報告したのだが、李将軍と法揚武将軍の動きを牽制するためのネタを集めてきたぞ。おまえにも伝えてくれと言われた」
「なんだって? おまえ、そのために、ずっと旅に出ていたのか?」
「そうではない。これは、ただのついでだ」
「ついで? なんの?」
偉度の問いに、蒋琬は、わずかに首をかしげて、それでも表情を変えず、答えた。
その耳には、意外に洒落者なところをみせて、ちいさな玉の耳飾りがぶら下がっている。
それが、動くたびに、ちいさな音をたてた。
「言わなかったか。わたしは、軍師に言われて、諸国の見聞の旅を続けている。ただ見てまわるのだけでは身に付かないことがあるので、かならず、その土地の問題点を探り出し、なにかひとつを解決して、それからつぎへ移動するようにという、宿題を頂いているのだ」
「軍師の恐怖の世直し旅か。むかし、徐元直と飲んでいるときに、ふと、やってみようかと話になって、実行してみたら、これが意外に有用だった、若者は、このようにして諸国を旅するべし、と思い込んだというやつであろう。
あのひと、自分がやってよかったからといって、見所のある者に同じ事をさせるのだ。たいがいは、途中で逃げ出してしまう」
「おかしいな。わたしも面白い旅だとおもうが」
と、蒋琬は、なぜ逃げるのか、わからない、と首をかしげた。
「それはともかく、今回もそのひとつだったのだが、涼州にほどちかい市場で、どうも李将軍の一族らしい男が、羌族の玉を大量に買占め、取引値を、不正に釣り上げているのに行き会った。
相手が相手なので、今回は、あえて調査のみをして、どう動くか、軍師に裁定をあおぐつもりであったのだが、役に立つであろうか」
「玉の取引か。そういえば、近頃、玉の値が高騰しているな。羌族からの仕入れ値は以前とかわらず、財にものをいわせて大量に買い付け、その値段を釣り上げて売りさばく。そうして築いた資金は、李将軍が方々にばらまく賄賂に消えている、というわけだな」
「法揚武将軍の奥方は、特に玉に目がないお方ゆえ、そのあたりも探れるかとおもうが」
「ほう、揚武将軍まで届くか。それはよいな。さっそく手配する。ありがとう、公琰」
「なんの、これで助けになるのであれば、お安い御用だ。じつを言うと、李一族の、このところの勢いの良さは、日の昇るがごとしだな。迂闊に手を出すのは、無位無官のわたしでは、あやういとおもっていたところなのだよ」
「李将軍か。面倒なヤツが台頭してきたものだ」
偉度が言うと、蒋琬も、それに応じて頷いた。
「李将軍は、軍師に傾向が似ておられる。華やかなところ、人好きのするところ、弁舌の切れのよさ、家柄の良さ、すべて似ておるし、なにより、荊州においては、軍師より、李将軍を評価する向きが多い」
「たしかに、実力はあるだろうが、策を張り巡らせ過ぎる。うぬぼれ屋だ」
「そう簡単に断じてはならぬ。軍師に我らがいるように、李将軍にも、同じような者たちが付いているのだ。油断するなよ」
「気になる話だな。どういう連中だ?」
「いま調査中だ。さて、わたしは、もう一度、軍師のお屋敷に行って、おまえの兄弟たちに話をしてくる。
それと、趙将軍からの言伝だが、心配をかけてすまなかった、とのことだ」
「ほう、では、将軍も、以前のようにもどられたのだな」
「お元気だったぞ。どういう意味かはわからぬが、特におまえに、『気の毒ではない』と伝えてくれ、と」
へ、と間の抜けた返事をして、偉度は、しばし、趙雲の伝言の意味をかんがえた。
そのあいだ、蒋琬は、踵を返して、頭を悩ませる偉度に、首だけを振り向かせて、笑顔を浮かべた。
蒋琬は、喜怒哀楽のどれも、滅多に表に出さないから、たまに見せる少年のような笑顔には、本人がおもっている以上の破壊力がある。
「なんだかわからぬが、よかったな。やはり、おまえや、あのお二人が元気でないと、わたしも成都にもどる意欲がなくなる」
「ああ、そうかい。涙が出るほどうれしいよ。言うのを忘れていたが、お帰り。無事でなにより」
偉度が言うと、蒋琬は、背を向けて歩きながら、手だけを振って、それに応えた。
※
孔明の姿を認めるや、劉備は書簡をたぐる手をとめて、周囲にいた者たちすべてを下がらせた。
かれらの去っていく足音、衣擦れの音を聞きながら、孔明は劉備に拱手する。
「孔明、ただいまもどりましてございます」
「うん、おもったより、早かったな」
劉備は言うと、うれしそうに、すこし声をたててわらった。
それから、何気ないふうを装って、尋ねてくる。
「で、子龍は」
「はい。いまは山暮らしの所為で、いささか見苦しい身なりをしておりますゆえ、明日、あらためて挨拶にと」
「そうかい。元気ならばいい。位返上だの、屋敷はいらねぇだのっていう話は、わるい冗談だった、ってことにしてあるからな。そう伝えてくれ」
「それはもう。ご厚情、痛み入りまする」
うん、と劉備は頷く。
孔明は、それから、旅の途上の出来事や、あるいは僻地における人の暮らしぶりなどを、面白おかしく劉備に聞かせた。
劉備は、熱心に耳を傾け、孔明の話に、いちいち大きく頷いては、そうだよなぁ、そうしなければいけねぇな、と答えた。
時間もだいぶ経ったので、そろそろ席を立とうとしたところであった。
「孔明」
孔明に、劉備は静かに問うた。
「教えてくれ。儂は、まちがっているだろうか」
「いいえ」
と、孔明は、即座にきっぱりと答えた。
「主公は、すこしもまちがってはおられませぬ。あえてだれがまちがっているのかと問えば、それはわたくしでございましょう」
その言葉に、劉備はなにを想像したのか、眉をしかめた。
孔明は、あえて目を逸らさず、まっすぐとその視線を受け止めた。
「わたしはすべてを引き受ける覚悟を決めました。いま、わたしが突き放せば、あるいは子龍は、あきらめ、あるいはおもいなおして、世間で言うところの正道に立ちもどるやもしれませぬ」
「わかっているのか」
「わかっております。それでも何故でしょうか。わたしは、まちがっているとおもいながらも、まちがっている、と言い切ることに、戸惑いをおぼえてしまうのです」
孔明の言葉に、ますます劉備は顔をしかめる。
そのなかに、わずかに嫌悪の表情が浮かぶのは、かなしいことではあるが、仕方があるまい。
この人とて、好き好んで、こちらを見通しているわけではないのだ。
劉備は、おこったような顔をして、しばらく孔明をまっすぐ見つめていたが、やがて、息をついて、言った。
「開き直ったら、駄目だ。つねにおのれをいましめて行け」
その言葉に、孔明は静かな笑みをこぼす。
「主公はおやさしい」
「やさしいのかどうか、自信はねぇが、ただ、儂には、張飛や関羽がいるからな。あいつらが儂の命にも等しいというように、おまえらもそうなのかもしれないとおもったのだ。理解することはできねぇぞ」
「わかっております」
「いやな目をするものだな、孔明。おまえ、儂に殺されても構わないくらいの心持ちで来たのだな」
「わたしの決めたことは、主公を裏切ることでもございますゆえ。喩え、この場でお手打ちになっても、孔明は恨みはいたしませぬ」
「莫迦。儂がそれではいやだ。まったく、どうしておまえたちは、そうなんでもかんでも重く捉えてしまうのか。もうちょっと要領のいいヤツは、こんなにあけすけに正直に打ち明けないものだ」
その言葉に、孔明が、つい笑みを漏らすと、劉備は、あきらめたように、首を振った。
「それが、出来ないのだな、おまえたちは」
「ご同情はいりませぬ」
と、孔明は、明るい、しかしキッパリとした口調で答えた。
「これで、わたしは満足しているのです。まちがっていることかもしれませぬ。でも、不幸ではない」
「いいや、自分が不幸だということ、まちがっている、ということは忘れるな。でないと、どんどん世間からずれていく」
「それでも、あえて申し上げます。わたしは、不幸ではない」
「口をはさむなと」
劉備はそう言うと、残念そうに、ちいさなため息をついた。
「そうか。ならば、この話はもう打ち切りだ。だが、最後に言う」
「はい」
劉備は、腕をほどくと、その長い手を、両膝に当てて、身を乗り出すように、孔明に言った。
「おまえがそこまで言うのであれば、儂は、もう何も言わない。だが、昔のように、おまえばかりをかばうこともしない。
儂は、蜀の人間ぜんぶの父になろうとおもう。おまえの敵にあたる人間も、そいつが正しいとおもうことをやっていたら、おまえのためにならないことでも、儂はかばってやるし、誉めてやる。
孔明、おまえが、心のなかに、秘密を背負って生きるというのなら、世間というやつと戦って、勝ってみろ。もしも、儂が見て、おまえが勝ったとおもったら、儂は、おまえへの褒美として、儂の持っているものぜんぶを、おまえにゆずろうとおもう」
孔明は、劉備のおもわぬ言葉に、ぎょっとし、蒼ざめた。
「ぜんぶとは軽率な。わたしに劉氏の血なぞ、一滴も入っておりませぬ。軽々しく、斯様なことをおっしゃってはなりませぬ」
「軽々しくは言ってねぇよ。儂は本気でそう決めたのだ。隆中でおまえに会ったとき、儂はおまえに賭けることにした。その賭けは、まだ続いているのだ。これを止めるつもりはねぇ。
孔明、かならず勝てよ。そうしたら、儂は、おまえに関するすべてのことはゆるすことができるだろう。あいつにも、そう伝えてくれ。賭けに勝てたなら、おまえの判断が正しかったという証明になるのだから、とな。
それから、この話は、賭けの結果が出るまで、もうしないからな。素振りすら、見せてくれるな」
孔明はうつむき、まるで叱られた子供のように、はい、と答えるのが精一杯だった。
※
孔明は、宮城を出たあと、自邸に真っ直ぐもどる気持ちにはなれず、途中で、人気のない川べりに立った。
嵐の音にも似た、太い音を絶えずたてて流れる、にごった川の姿を、見るともなしに見つめる。
劉備が、どんなおもいで、賭けなどと言ったのかはわからない。
こちらを奮起させるためか、あるいは、困難な道をあえて示して、気持ちを変えさせるためだったのか。
心を、忠のためと、情のために、それぞれ綺麗に二つに分けることができたなら、どれだけ楽だっただろう。
そうしたら、人の苦しみの大半は、消えてなくなってしまうものだろうに。
世間に勝て、などと、ずいぶん大きな条件を付けてくれるものだ。
おのれの政敵に、敵国の者たちに、民に、そして、自分にすら勝てと、劉備はそう言ったのだ。
為すべき事はひとつ。
勝つしかあるまい。
川面を踊る風が、やがて街をも越えて、遠くあの村へ帰って行くように見えた。
風が終わるというあの村で、たしかに、ひとつの旅に決着がついたのだろう。
だが、まだ歩みは、止めてはならない。
ふと、道の向こう側から、見慣れた姿が、こちらに向かってくるのが見えた。
帰りが遅いので、心配して迎えにきたのだろう。
孔明は、愁眉をひらいて、安堵の笑みを浮かべると、そちらへ向けて歩き出した。
話さねばならないことが、たくさんある。
劇終
(初出 旧・はさみの世界(現・牧知花のホームページ) 2005/10/15)
いままでご愛読くださったみなさま、どうもありがとうございました!
明日からは、しばらく新シリーズ「奇想三国志」の番外編を連載します。
くわしくは、またあらためて!
「どいつもこいつも、莫迦ばっかりだ!」
偉度の言う、どいつもこいつもとは、左将軍府の面々全員である。
軍師のいない穴を埋めるために、総出で仕事をしているというのに、人の顔を見れば、軍師はまだか、軍師はまだかと聞いてくる。
うざったい。
そのうえ、仕事がとどこおれば、とどこおったで、軍師がいれば、といちいち嘆息する。
まったくもって、うざったい。
董和は、なんだかここ数日で白髪が増えた気がする、などとぼやくし、許長史は、隙あれば早退しようとするし(お陰で見張りをつけなくてはならない)、伊籍の元気はからまわり、糜竺だけが、このひとは相変わらずで淡々と業務をこなすが、老眼が進んでしまっているために、夕刻間近になると、頭痛がするからといって、書簡に目を通せなくなる。
仕方なく、元気の有り余っている浮かれた面々を狩り出して、左将軍府の仕事の手伝いをさせるのであるが、これが役立たず。
面子もよろしくない。
文通に舞い上がって、いまだに地に足のついていない文偉(立っているだけ)、蜀に馴染む努力の一環としてやってきた馬岱(いるだけ)、なぜだか野次馬なところを見せて顔を出している劉巴(ほんとうに顔を出すだけ、見ているだけ。だれかの間者じゃあるまいな?)。
唯一の救いといえば、おどろいたことに、休昭が地道にこつこつ築いてきた力を発揮し、父の補佐をみごとに勤めていることであろうか。
まあ、文偉も休昭も、本来の職場から離れての手伝いであるから、あとになって法正らがうるさかろう。
そのために、兄弟たちを動かして、かれらの口を閉ざさせるためのネタを仕入れ中。
いまのところ、かかってくるのは小ネタばかり。
だからこそ、偉度は叫ぶ。
「どいつもこいつも!」
「莫迦という方が、莫迦だ、という話もあるが」
と、気炎を吐く偉度に対して、単調とすらいえる声がかかった。
振り返れば、柘植の木の横に、いつ帰ってきたのか、蒋琬が立っていた。
愛用の長剣を背負って、旅装も解かぬままの姿である。
使えるヤツが帰ってきた。
偉度の心はぱあっと明るくなった。
「いつもどったのだ?」
「いまさっきだ。文偉の屋敷が襲われたあと、もう何事も起こらぬであろうと成都を出たが、早計であったようだな。話は、幼宰さまから聞いた」
「ならば、軍師がいないために、左将軍府は、ボロボロだということも知っているだろう。公琰、免官になった身だというのはわかっているが、この非常事態だ。中を手伝ってはくれまいか」
「それは」
と、蒋琬が答えかけたところで、中のほうから、バンザーイ、バンザーイという、浮かれた万歳三唱が聞こえてきた。
「なんだ? とうとう狂ったか?」
偉度が中に向かおうとすると、やはり淡々とした様子をくずさぬ蒋琬が言う。
「狂ったのではない。軍師がおもどりになったと伝えただけだ」
「まことか!」
偉度が蒋琬を振り返り、念を押すと、ほとんど年齢は変わらぬものの、妙に重々しい雰囲気をもつ男は、うむ、と答えた。
「いまさっき、お屋敷にもどられたところに行きあって、御挨拶申し上げたところだ」
「どのような様子であった? お一人か?」
「お元気であったぞ。いつもの軍師であった。趙将軍も、ともにもどられた。そうそう、趙将軍は、軍師のお屋敷にいる。なんでも、位から屋敷から荘園から田畑に至るまで、ぜんぶ主公に返上したので、無一文だそうだからな。理由は聞いたが、さて、大胆なことをされるものだ」
「そうだよ。大変だったのだ。そうか、趙将軍ももどられたか」
偉度は、いらだちをそのままよろこびにかえて、気持ちを高揚させた。
さあ、こうなれば、がたがたしている左将軍府を一気に押し上げて、軍師を立派にお出迎えするのだ。
「軍師は、すぐこちらにいらっしゃるだろうか?」
「いや、まずは主公に御挨拶してくると仰っていた」
「ああ、そうか。順序としては、そうであろうな。将軍の位返上の話は、主公は受理していないわけであるし、現状復帰が最優先だ」
左将軍府の奥からは、がやがやと、さまざまな安堵の声が聞こえてくる。
まったく、どいつもこいつも、軍師がいなくちゃ、なにもできないのか、自立しろ、と、偉度はぐちぐち言ってみる。
そのじつ、自立していないのは、偉度がいちばんなのであるが。
「ところでな、偉度。軍師にはすでにご報告したのだが、李将軍と法揚武将軍の動きを牽制するためのネタを集めてきたぞ。おまえにも伝えてくれと言われた」
「なんだって? おまえ、そのために、ずっと旅に出ていたのか?」
「そうではない。これは、ただのついでだ」
「ついで? なんの?」
偉度の問いに、蒋琬は、わずかに首をかしげて、それでも表情を変えず、答えた。
その耳には、意外に洒落者なところをみせて、ちいさな玉の耳飾りがぶら下がっている。
それが、動くたびに、ちいさな音をたてた。
「言わなかったか。わたしは、軍師に言われて、諸国の見聞の旅を続けている。ただ見てまわるのだけでは身に付かないことがあるので、かならず、その土地の問題点を探り出し、なにかひとつを解決して、それからつぎへ移動するようにという、宿題を頂いているのだ」
「軍師の恐怖の世直し旅か。むかし、徐元直と飲んでいるときに、ふと、やってみようかと話になって、実行してみたら、これが意外に有用だった、若者は、このようにして諸国を旅するべし、と思い込んだというやつであろう。
あのひと、自分がやってよかったからといって、見所のある者に同じ事をさせるのだ。たいがいは、途中で逃げ出してしまう」
「おかしいな。わたしも面白い旅だとおもうが」
と、蒋琬は、なぜ逃げるのか、わからない、と首をかしげた。
「それはともかく、今回もそのひとつだったのだが、涼州にほどちかい市場で、どうも李将軍の一族らしい男が、羌族の玉を大量に買占め、取引値を、不正に釣り上げているのに行き会った。
相手が相手なので、今回は、あえて調査のみをして、どう動くか、軍師に裁定をあおぐつもりであったのだが、役に立つであろうか」
「玉の取引か。そういえば、近頃、玉の値が高騰しているな。羌族からの仕入れ値は以前とかわらず、財にものをいわせて大量に買い付け、その値段を釣り上げて売りさばく。そうして築いた資金は、李将軍が方々にばらまく賄賂に消えている、というわけだな」
「法揚武将軍の奥方は、特に玉に目がないお方ゆえ、そのあたりも探れるかとおもうが」
「ほう、揚武将軍まで届くか。それはよいな。さっそく手配する。ありがとう、公琰」
「なんの、これで助けになるのであれば、お安い御用だ。じつを言うと、李一族の、このところの勢いの良さは、日の昇るがごとしだな。迂闊に手を出すのは、無位無官のわたしでは、あやういとおもっていたところなのだよ」
「李将軍か。面倒なヤツが台頭してきたものだ」
偉度が言うと、蒋琬も、それに応じて頷いた。
「李将軍は、軍師に傾向が似ておられる。華やかなところ、人好きのするところ、弁舌の切れのよさ、家柄の良さ、すべて似ておるし、なにより、荊州においては、軍師より、李将軍を評価する向きが多い」
「たしかに、実力はあるだろうが、策を張り巡らせ過ぎる。うぬぼれ屋だ」
「そう簡単に断じてはならぬ。軍師に我らがいるように、李将軍にも、同じような者たちが付いているのだ。油断するなよ」
「気になる話だな。どういう連中だ?」
「いま調査中だ。さて、わたしは、もう一度、軍師のお屋敷に行って、おまえの兄弟たちに話をしてくる。
それと、趙将軍からの言伝だが、心配をかけてすまなかった、とのことだ」
「ほう、では、将軍も、以前のようにもどられたのだな」
「お元気だったぞ。どういう意味かはわからぬが、特におまえに、『気の毒ではない』と伝えてくれ、と」
へ、と間の抜けた返事をして、偉度は、しばし、趙雲の伝言の意味をかんがえた。
そのあいだ、蒋琬は、踵を返して、頭を悩ませる偉度に、首だけを振り向かせて、笑顔を浮かべた。
蒋琬は、喜怒哀楽のどれも、滅多に表に出さないから、たまに見せる少年のような笑顔には、本人がおもっている以上の破壊力がある。
「なんだかわからぬが、よかったな。やはり、おまえや、あのお二人が元気でないと、わたしも成都にもどる意欲がなくなる」
「ああ、そうかい。涙が出るほどうれしいよ。言うのを忘れていたが、お帰り。無事でなにより」
偉度が言うと、蒋琬は、背を向けて歩きながら、手だけを振って、それに応えた。
※
孔明の姿を認めるや、劉備は書簡をたぐる手をとめて、周囲にいた者たちすべてを下がらせた。
かれらの去っていく足音、衣擦れの音を聞きながら、孔明は劉備に拱手する。
「孔明、ただいまもどりましてございます」
「うん、おもったより、早かったな」
劉備は言うと、うれしそうに、すこし声をたててわらった。
それから、何気ないふうを装って、尋ねてくる。
「で、子龍は」
「はい。いまは山暮らしの所為で、いささか見苦しい身なりをしておりますゆえ、明日、あらためて挨拶にと」
「そうかい。元気ならばいい。位返上だの、屋敷はいらねぇだのっていう話は、わるい冗談だった、ってことにしてあるからな。そう伝えてくれ」
「それはもう。ご厚情、痛み入りまする」
うん、と劉備は頷く。
孔明は、それから、旅の途上の出来事や、あるいは僻地における人の暮らしぶりなどを、面白おかしく劉備に聞かせた。
劉備は、熱心に耳を傾け、孔明の話に、いちいち大きく頷いては、そうだよなぁ、そうしなければいけねぇな、と答えた。
時間もだいぶ経ったので、そろそろ席を立とうとしたところであった。
「孔明」
孔明に、劉備は静かに問うた。
「教えてくれ。儂は、まちがっているだろうか」
「いいえ」
と、孔明は、即座にきっぱりと答えた。
「主公は、すこしもまちがってはおられませぬ。あえてだれがまちがっているのかと問えば、それはわたくしでございましょう」
その言葉に、劉備はなにを想像したのか、眉をしかめた。
孔明は、あえて目を逸らさず、まっすぐとその視線を受け止めた。
「わたしはすべてを引き受ける覚悟を決めました。いま、わたしが突き放せば、あるいは子龍は、あきらめ、あるいはおもいなおして、世間で言うところの正道に立ちもどるやもしれませぬ」
「わかっているのか」
「わかっております。それでも何故でしょうか。わたしは、まちがっているとおもいながらも、まちがっている、と言い切ることに、戸惑いをおぼえてしまうのです」
孔明の言葉に、ますます劉備は顔をしかめる。
そのなかに、わずかに嫌悪の表情が浮かぶのは、かなしいことではあるが、仕方があるまい。
この人とて、好き好んで、こちらを見通しているわけではないのだ。
劉備は、おこったような顔をして、しばらく孔明をまっすぐ見つめていたが、やがて、息をついて、言った。
「開き直ったら、駄目だ。つねにおのれをいましめて行け」
その言葉に、孔明は静かな笑みをこぼす。
「主公はおやさしい」
「やさしいのかどうか、自信はねぇが、ただ、儂には、張飛や関羽がいるからな。あいつらが儂の命にも等しいというように、おまえらもそうなのかもしれないとおもったのだ。理解することはできねぇぞ」
「わかっております」
「いやな目をするものだな、孔明。おまえ、儂に殺されても構わないくらいの心持ちで来たのだな」
「わたしの決めたことは、主公を裏切ることでもございますゆえ。喩え、この場でお手打ちになっても、孔明は恨みはいたしませぬ」
「莫迦。儂がそれではいやだ。まったく、どうしておまえたちは、そうなんでもかんでも重く捉えてしまうのか。もうちょっと要領のいいヤツは、こんなにあけすけに正直に打ち明けないものだ」
その言葉に、孔明が、つい笑みを漏らすと、劉備は、あきらめたように、首を振った。
「それが、出来ないのだな、おまえたちは」
「ご同情はいりませぬ」
と、孔明は、明るい、しかしキッパリとした口調で答えた。
「これで、わたしは満足しているのです。まちがっていることかもしれませぬ。でも、不幸ではない」
「いいや、自分が不幸だということ、まちがっている、ということは忘れるな。でないと、どんどん世間からずれていく」
「それでも、あえて申し上げます。わたしは、不幸ではない」
「口をはさむなと」
劉備はそう言うと、残念そうに、ちいさなため息をついた。
「そうか。ならば、この話はもう打ち切りだ。だが、最後に言う」
「はい」
劉備は、腕をほどくと、その長い手を、両膝に当てて、身を乗り出すように、孔明に言った。
「おまえがそこまで言うのであれば、儂は、もう何も言わない。だが、昔のように、おまえばかりをかばうこともしない。
儂は、蜀の人間ぜんぶの父になろうとおもう。おまえの敵にあたる人間も、そいつが正しいとおもうことをやっていたら、おまえのためにならないことでも、儂はかばってやるし、誉めてやる。
孔明、おまえが、心のなかに、秘密を背負って生きるというのなら、世間というやつと戦って、勝ってみろ。もしも、儂が見て、おまえが勝ったとおもったら、儂は、おまえへの褒美として、儂の持っているものぜんぶを、おまえにゆずろうとおもう」
孔明は、劉備のおもわぬ言葉に、ぎょっとし、蒼ざめた。
「ぜんぶとは軽率な。わたしに劉氏の血なぞ、一滴も入っておりませぬ。軽々しく、斯様なことをおっしゃってはなりませぬ」
「軽々しくは言ってねぇよ。儂は本気でそう決めたのだ。隆中でおまえに会ったとき、儂はおまえに賭けることにした。その賭けは、まだ続いているのだ。これを止めるつもりはねぇ。
孔明、かならず勝てよ。そうしたら、儂は、おまえに関するすべてのことはゆるすことができるだろう。あいつにも、そう伝えてくれ。賭けに勝てたなら、おまえの判断が正しかったという証明になるのだから、とな。
それから、この話は、賭けの結果が出るまで、もうしないからな。素振りすら、見せてくれるな」
孔明はうつむき、まるで叱られた子供のように、はい、と答えるのが精一杯だった。
※
孔明は、宮城を出たあと、自邸に真っ直ぐもどる気持ちにはなれず、途中で、人気のない川べりに立った。
嵐の音にも似た、太い音を絶えずたてて流れる、にごった川の姿を、見るともなしに見つめる。
劉備が、どんなおもいで、賭けなどと言ったのかはわからない。
こちらを奮起させるためか、あるいは、困難な道をあえて示して、気持ちを変えさせるためだったのか。
心を、忠のためと、情のために、それぞれ綺麗に二つに分けることができたなら、どれだけ楽だっただろう。
そうしたら、人の苦しみの大半は、消えてなくなってしまうものだろうに。
世間に勝て、などと、ずいぶん大きな条件を付けてくれるものだ。
おのれの政敵に、敵国の者たちに、民に、そして、自分にすら勝てと、劉備はそう言ったのだ。
為すべき事はひとつ。
勝つしかあるまい。
川面を踊る風が、やがて街をも越えて、遠くあの村へ帰って行くように見えた。
風が終わるというあの村で、たしかに、ひとつの旅に決着がついたのだろう。
だが、まだ歩みは、止めてはならない。
ふと、道の向こう側から、見慣れた姿が、こちらに向かってくるのが見えた。
帰りが遅いので、心配して迎えにきたのだろう。
孔明は、愁眉をひらいて、安堵の笑みを浮かべると、そちらへ向けて歩き出した。
話さねばならないことが、たくさんある。
劇終
(初出 旧・はさみの世界(現・牧知花のホームページ) 2005/10/15)
いままでご愛読くださったみなさま、どうもありがとうございました!
明日からは、しばらく新シリーズ「奇想三国志」の番外編を連載します。
くわしくは、またあらためて!