はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

風の終わる場所 エピローグ やかましい左将軍府のあたり

2021年07月03日 10時49分09秒 | 風の終わる場所
偉度は、すっかり疲れきって、左将軍府の中庭に出ると、とりあえず、だれもいないことを確かめてから(なぜ『とりあえず』かといえば、だれに聞こえても、構わないや、という心があったからである)おもい切り叫んだ。

「どいつもこいつも、莫迦ばっかりだ!」

偉度の言う、どいつもこいつもとは、左将軍府の面々全員である。
軍師のいない穴を埋めるために、総出で仕事をしているというのに、人の顔を見れば、軍師はまだか、軍師はまだかと聞いてくる。
うざったい。
そのうえ、仕事がとどこおれば、とどこおったで、軍師がいれば、といちいち嘆息する。
まったくもって、うざったい。

董和は、なんだかここ数日で白髪が増えた気がする、などとぼやくし、許長史は、隙あれば早退しようとするし(お陰で見張りをつけなくてはならない)、伊籍の元気はからまわり、糜竺だけが、このひとは相変わらずで淡々と業務をこなすが、老眼が進んでしまっているために、夕刻間近になると、頭痛がするからといって、書簡に目を通せなくなる。

仕方なく、元気の有り余っている浮かれた面々を狩り出して、左将軍府の仕事の手伝いをさせるのであるが、これが役立たず。
面子もよろしくない。
文通に舞い上がって、いまだに地に足のついていない文偉(立っているだけ)、蜀に馴染む努力の一環としてやってきた馬岱(いるだけ)、なぜだか野次馬なところを見せて顔を出している劉巴(ほんとうに顔を出すだけ、見ているだけ。だれかの間者じゃあるまいな?)。
唯一の救いといえば、おどろいたことに、休昭が地道にこつこつ築いてきた力を発揮し、父の補佐をみごとに勤めていることであろうか。

まあ、文偉も休昭も、本来の職場から離れての手伝いであるから、あとになって法正らがうるさかろう。
そのために、兄弟たちを動かして、かれらの口を閉ざさせるためのネタを仕入れ中。
いまのところ、かかってくるのは小ネタばかり。
だからこそ、偉度は叫ぶ。
「どいつもこいつも!」
「莫迦という方が、莫迦だ、という話もあるが」
と、気炎を吐く偉度に対して、単調とすらいえる声がかかった。

振り返れば、柘植の木の横に、いつ帰ってきたのか、蒋琬が立っていた。
愛用の長剣を背負って、旅装も解かぬままの姿である。
使えるヤツが帰ってきた。
偉度の心はぱあっと明るくなった。
「いつもどったのだ?」
「いまさっきだ。文偉の屋敷が襲われたあと、もう何事も起こらぬであろうと成都を出たが、早計であったようだな。話は、幼宰さまから聞いた」
「ならば、軍師がいないために、左将軍府は、ボロボロだということも知っているだろう。公琰、免官になった身だというのはわかっているが、この非常事態だ。中を手伝ってはくれまいか」
「それは」
と、蒋琬が答えかけたところで、中のほうから、バンザーイ、バンザーイという、浮かれた万歳三唱が聞こえてきた。
「なんだ? とうとう狂ったか?」
偉度が中に向かおうとすると、やはり淡々とした様子をくずさぬ蒋琬が言う。
「狂ったのではない。軍師がおもどりになったと伝えただけだ」
「まことか!」
偉度が蒋琬を振り返り、念を押すと、ほとんど年齢は変わらぬものの、妙に重々しい雰囲気をもつ男は、うむ、と答えた。
「いまさっき、お屋敷にもどられたところに行きあって、御挨拶申し上げたところだ」
「どのような様子であった? お一人か?」
「お元気であったぞ。いつもの軍師であった。趙将軍も、ともにもどられた。そうそう、趙将軍は、軍師のお屋敷にいる。なんでも、位から屋敷から荘園から田畑に至るまで、ぜんぶ主公に返上したので、無一文だそうだからな。理由は聞いたが、さて、大胆なことをされるものだ」
「そうだよ。大変だったのだ。そうか、趙将軍ももどられたか」
偉度は、いらだちをそのままよろこびにかえて、気持ちを高揚させた。
さあ、こうなれば、がたがたしている左将軍府を一気に押し上げて、軍師を立派にお出迎えするのだ。

「軍師は、すぐこちらにいらっしゃるだろうか?」
「いや、まずは主公に御挨拶してくると仰っていた」
「ああ、そうか。順序としては、そうであろうな。将軍の位返上の話は、主公は受理していないわけであるし、現状復帰が最優先だ」
左将軍府の奥からは、がやがやと、さまざまな安堵の声が聞こえてくる。
まったく、どいつもこいつも、軍師がいなくちゃ、なにもできないのか、自立しろ、と、偉度はぐちぐち言ってみる。
そのじつ、自立していないのは、偉度がいちばんなのであるが。

「ところでな、偉度。軍師にはすでにご報告したのだが、李将軍と法揚武将軍の動きを牽制するためのネタを集めてきたぞ。おまえにも伝えてくれと言われた」
「なんだって? おまえ、そのために、ずっと旅に出ていたのか?」
「そうではない。これは、ただのついでだ」
「ついで? なんの?」
偉度の問いに、蒋琬は、わずかに首をかしげて、それでも表情を変えず、答えた。
その耳には、意外に洒落者なところをみせて、ちいさな玉の耳飾りがぶら下がっている。
それが、動くたびに、ちいさな音をたてた。
「言わなかったか。わたしは、軍師に言われて、諸国の見聞の旅を続けている。ただ見てまわるのだけでは身に付かないことがあるので、かならず、その土地の問題点を探り出し、なにかひとつを解決して、それからつぎへ移動するようにという、宿題を頂いているのだ」
「軍師の恐怖の世直し旅か。むかし、徐元直と飲んでいるときに、ふと、やってみようかと話になって、実行してみたら、これが意外に有用だった、若者は、このようにして諸国を旅するべし、と思い込んだというやつであろう。
あのひと、自分がやってよかったからといって、見所のある者に同じ事をさせるのだ。たいがいは、途中で逃げ出してしまう」
「おかしいな。わたしも面白い旅だとおもうが」
と、蒋琬は、なぜ逃げるのか、わからない、と首をかしげた。
「それはともかく、今回もそのひとつだったのだが、涼州にほどちかい市場で、どうも李将軍の一族らしい男が、羌族の玉を大量に買占め、取引値を、不正に釣り上げているのに行き会った。
相手が相手なので、今回は、あえて調査のみをして、どう動くか、軍師に裁定をあおぐつもりであったのだが、役に立つであろうか」
「玉の取引か。そういえば、近頃、玉の値が高騰しているな。羌族からの仕入れ値は以前とかわらず、財にものをいわせて大量に買い付け、その値段を釣り上げて売りさばく。そうして築いた資金は、李将軍が方々にばらまく賄賂に消えている、というわけだな」
「法揚武将軍の奥方は、特に玉に目がないお方ゆえ、そのあたりも探れるかとおもうが」
「ほう、揚武将軍まで届くか。それはよいな。さっそく手配する。ありがとう、公琰」
「なんの、これで助けになるのであれば、お安い御用だ。じつを言うと、李一族の、このところの勢いの良さは、日の昇るがごとしだな。迂闊に手を出すのは、無位無官のわたしでは、あやういとおもっていたところなのだよ」
「李将軍か。面倒なヤツが台頭してきたものだ」
偉度が言うと、蒋琬も、それに応じて頷いた。
「李将軍は、軍師に傾向が似ておられる。華やかなところ、人好きのするところ、弁舌の切れのよさ、家柄の良さ、すべて似ておるし、なにより、荊州においては、軍師より、李将軍を評価する向きが多い」
「たしかに、実力はあるだろうが、策を張り巡らせ過ぎる。うぬぼれ屋だ」
「そう簡単に断じてはならぬ。軍師に我らがいるように、李将軍にも、同じような者たちが付いているのだ。油断するなよ」
「気になる話だな。どういう連中だ?」
「いま調査中だ。さて、わたしは、もう一度、軍師のお屋敷に行って、おまえの兄弟たちに話をしてくる。
それと、趙将軍からの言伝だが、心配をかけてすまなかった、とのことだ」
「ほう、では、将軍も、以前のようにもどられたのだな」
「お元気だったぞ。どういう意味かはわからぬが、特におまえに、『気の毒ではない』と伝えてくれ、と」
へ、と間の抜けた返事をして、偉度は、しばし、趙雲の伝言の意味をかんがえた。

そのあいだ、蒋琬は、踵を返して、頭を悩ませる偉度に、首だけを振り向かせて、笑顔を浮かべた。
蒋琬は、喜怒哀楽のどれも、滅多に表に出さないから、たまに見せる少年のような笑顔には、本人がおもっている以上の破壊力がある。
「なんだかわからぬが、よかったな。やはり、おまえや、あのお二人が元気でないと、わたしも成都にもどる意欲がなくなる」
「ああ、そうかい。涙が出るほどうれしいよ。言うのを忘れていたが、お帰り。無事でなにより」
偉度が言うと、蒋琬は、背を向けて歩きながら、手だけを振って、それに応えた。





孔明の姿を認めるや、劉備は書簡をたぐる手をとめて、周囲にいた者たちすべてを下がらせた。
かれらの去っていく足音、衣擦れの音を聞きながら、孔明は劉備に拱手する。
「孔明、ただいまもどりましてございます」
「うん、おもったより、早かったな」
劉備は言うと、うれしそうに、すこし声をたててわらった。
それから、何気ないふうを装って、尋ねてくる。
「で、子龍は」
「はい。いまは山暮らしの所為で、いささか見苦しい身なりをしておりますゆえ、明日、あらためて挨拶にと」
「そうかい。元気ならばいい。位返上だの、屋敷はいらねぇだのっていう話は、わるい冗談だった、ってことにしてあるからな。そう伝えてくれ」
「それはもう。ご厚情、痛み入りまする」
うん、と劉備は頷く。
孔明は、それから、旅の途上の出来事や、あるいは僻地における人の暮らしぶりなどを、面白おかしく劉備に聞かせた。
劉備は、熱心に耳を傾け、孔明の話に、いちいち大きく頷いては、そうだよなぁ、そうしなければいけねぇな、と答えた。

時間もだいぶ経ったので、そろそろ席を立とうとしたところであった。
「孔明」
孔明に、劉備は静かに問うた。
「教えてくれ。儂は、まちがっているだろうか」
「いいえ」
と、孔明は、即座にきっぱりと答えた。
「主公は、すこしもまちがってはおられませぬ。あえてだれがまちがっているのかと問えば、それはわたくしでございましょう」
その言葉に、劉備はなにを想像したのか、眉をしかめた。
孔明は、あえて目を逸らさず、まっすぐとその視線を受け止めた。
「わたしはすべてを引き受ける覚悟を決めました。いま、わたしが突き放せば、あるいは子龍は、あきらめ、あるいはおもいなおして、世間で言うところの正道に立ちもどるやもしれませぬ」
「わかっているのか」
「わかっております。それでも何故でしょうか。わたしは、まちがっているとおもいながらも、まちがっている、と言い切ることに、戸惑いをおぼえてしまうのです」
孔明の言葉に、ますます劉備は顔をしかめる。
そのなかに、わずかに嫌悪の表情が浮かぶのは、かなしいことではあるが、仕方があるまい。
この人とて、好き好んで、こちらを見通しているわけではないのだ。

劉備は、おこったような顔をして、しばらく孔明をまっすぐ見つめていたが、やがて、息をついて、言った。
「開き直ったら、駄目だ。つねにおのれをいましめて行け」
その言葉に、孔明は静かな笑みをこぼす。
「主公はおやさしい」
「やさしいのかどうか、自信はねぇが、ただ、儂には、張飛や関羽がいるからな。あいつらが儂の命にも等しいというように、おまえらもそうなのかもしれないとおもったのだ。理解することはできねぇぞ」
「わかっております」
「いやな目をするものだな、孔明。おまえ、儂に殺されても構わないくらいの心持ちで来たのだな」
「わたしの決めたことは、主公を裏切ることでもございますゆえ。喩え、この場でお手打ちになっても、孔明は恨みはいたしませぬ」
「莫迦。儂がそれではいやだ。まったく、どうしておまえたちは、そうなんでもかんでも重く捉えてしまうのか。もうちょっと要領のいいヤツは、こんなにあけすけに正直に打ち明けないものだ」
その言葉に、孔明が、つい笑みを漏らすと、劉備は、あきらめたように、首を振った。
「それが、出来ないのだな、おまえたちは」
「ご同情はいりませぬ」
と、孔明は、明るい、しかしキッパリとした口調で答えた。
「これで、わたしは満足しているのです。まちがっていることかもしれませぬ。でも、不幸ではない」
「いいや、自分が不幸だということ、まちがっている、ということは忘れるな。でないと、どんどん世間からずれていく」
「それでも、あえて申し上げます。わたしは、不幸ではない」
「口をはさむなと」
劉備はそう言うと、残念そうに、ちいさなため息をついた。
「そうか。ならば、この話はもう打ち切りだ。だが、最後に言う」
「はい」
劉備は、腕をほどくと、その長い手を、両膝に当てて、身を乗り出すように、孔明に言った。
「おまえがそこまで言うのであれば、儂は、もう何も言わない。だが、昔のように、おまえばかりをかばうこともしない。
儂は、蜀の人間ぜんぶの父になろうとおもう。おまえの敵にあたる人間も、そいつが正しいとおもうことをやっていたら、おまえのためにならないことでも、儂はかばってやるし、誉めてやる。
孔明、おまえが、心のなかに、秘密を背負って生きるというのなら、世間というやつと戦って、勝ってみろ。もしも、儂が見て、おまえが勝ったとおもったら、儂は、おまえへの褒美として、儂の持っているものぜんぶを、おまえにゆずろうとおもう」
孔明は、劉備のおもわぬ言葉に、ぎょっとし、蒼ざめた。
「ぜんぶとは軽率な。わたしに劉氏の血なぞ、一滴も入っておりませぬ。軽々しく、斯様なことをおっしゃってはなりませぬ」
「軽々しくは言ってねぇよ。儂は本気でそう決めたのだ。隆中でおまえに会ったとき、儂はおまえに賭けることにした。その賭けは、まだ続いているのだ。これを止めるつもりはねぇ。
孔明、かならず勝てよ。そうしたら、儂は、おまえに関するすべてのことはゆるすことができるだろう。あいつにも、そう伝えてくれ。賭けに勝てたなら、おまえの判断が正しかったという証明になるのだから、とな。
それから、この話は、賭けの結果が出るまで、もうしないからな。素振りすら、見せてくれるな」
孔明はうつむき、まるで叱られた子供のように、はい、と答えるのが精一杯だった。





孔明は、宮城を出たあと、自邸に真っ直ぐもどる気持ちにはなれず、途中で、人気のない川べりに立った。
嵐の音にも似た、太い音を絶えずたてて流れる、にごった川の姿を、見るともなしに見つめる。
劉備が、どんなおもいで、賭けなどと言ったのかはわからない。
こちらを奮起させるためか、あるいは、困難な道をあえて示して、気持ちを変えさせるためだったのか。
心を、忠のためと、情のために、それぞれ綺麗に二つに分けることができたなら、どれだけ楽だっただろう。
そうしたら、人の苦しみの大半は、消えてなくなってしまうものだろうに。

世間に勝て、などと、ずいぶん大きな条件を付けてくれるものだ。
おのれの政敵に、敵国の者たちに、民に、そして、自分にすら勝てと、劉備はそう言ったのだ。
為すべき事はひとつ。
勝つしかあるまい。

川面を踊る風が、やがて街をも越えて、遠くあの村へ帰って行くように見えた。
風が終わるというあの村で、たしかに、ひとつの旅に決着がついたのだろう。
だが、まだ歩みは、止めてはならない。

ふと、道の向こう側から、見慣れた姿が、こちらに向かってくるのが見えた。
帰りが遅いので、心配して迎えにきたのだろう。
孔明は、愁眉をひらいて、安堵の笑みを浮かべると、そちらへ向けて歩き出した。

話さねばならないことが、たくさんある。



劇終
(初出 旧・はさみの世界(現・牧知花のホームページ) 2005/10/15)

いままでご愛読くださったみなさま、どうもありがとうございました!
明日からは、しばらく新シリーズ「奇想三国志」の番外編を連載します。
くわしくは、またあらためて!



風の終わる場所 38 静かなる湖のほとり・Ⅱ 2

2021年06月30日 10時01分21秒 | 風の終わる場所


趙雲が成都を出る準備をして、実際に、南西の僻地へ向かう数日のあいだ、孔明は、李巌たちを向こうにまわし、すこしでも陰謀を追及しようと懸命になっていた。
しかし、趙雲が、位返上を申し出て、成都を去ったことを知るや、これを守るために、孔明は、陰謀を追及することをあきらめて、その代わり、李巌らも、趙雲の罪をあえて問わないとする取引をしたことは、趙雲は知らなかった。





それと知っていて、この地を選んだわけでもないのに、湖には、龍が住むという伝説がある、と聞いたとき、趙雲は、おのれの名・雲(古来、中国では、雲は龍の化身であるとされていた)が呼ぶのか、龍という物に、縁がありつづけるな、とおもった。
前にも何度か足を運んだことがあり、湖の清澄な美しさと、周囲の静けさが気に入って、もしも天下が安定して、隠居できるようになったらば、ここに住むのがよいとおもっていた。
まさか、こんなに早く、その時期が来るとはおもっていなかったが。

あきれるほどに、自分に、欲がなかったことに気づく。
主公は、おまえは生真面目すぎる、といったが、当たっているだろう。
地位や俸禄はどうでもいい。
おのれの身を名誉と恩賞の数々で飾るより、たったひとつのことに集中できれば、それでよかった。
無位無官になったということは、つまりは主公と別れた、ということ。
つまりは、またも、おまえを選んだことになるのかなと、趙雲は、すでに遠く離れた者に問いかけた。
ずっと胸に隠してきたものが、知られてしまったのであれば、どうして成都に留まれよう。
もちろん、いちばん奥に秘めているものは、だれもまだ気づいていないだろう。
なにせ、本人すら、こうなって、ようやく気づいたくらいなのだから。
せめてもの救いは、当の相手が、それに気づかなかったことだ。
もし知られてしまったなら、それこそ生きて行くのは難しい。
主公の言葉は、限りなく正しい。
このままでは、俺は、おまえを滅ぼす。
だれより味方でなければならなかったのに、最悪の害毒になってしまっていたのだ。
どうしてこうなってしまったのか、いつからそうなっていたのか。

趙雲は、過去に遡ってかんがえるのであるが、女に関しても男に関しても、すべてひっくるめて、現在の兆候を示すようなおもい出が見当たらない。
唐突に、孔明に始まり、そして孔明に終わっているのである。

あれが例外だったのか。
それとも、自分が生真面目すぎて、ほかにはもう、気持ちが向かなくなっているだけなのか。
どちらにしろ、離れてさえしまえば、害もおよぶまい。
あれの側には偉度もいることだし、おそらくは大丈夫だ。

無理に自分を納得させながら、それでも、これから先の死ぬまでのあいだ、おそらくこんな僻地にいても、風の噂を懸命においかけて、その名を求めるようになるのだろうなと、趙雲は、暗然としておもった。
たった一人になり、もう趙雲は、おのれの心を裏切ることはしなかった。
なにもかも、忘れるために狩猟に熱中し、数日を過ごした。
なんとかなるだろうかと、おぼろげにおもい始めていたころに、孔明がやってきた。





神秘的な湖のほとりにおいて、風に、結っていない黒髪をなびかせ、となりに立っている孔明は、ますます性の境の曖昧な存在に見えた。
美女のよう、と形容するには、線が固かったし、美男、というには、しなやかな印象が強すぎる。
どちらにも取れ、どちらにも取れない、それでいて、ふしぎと人を惹き付けるその姿をひさしぶりに間近で見て、自分が、そもそもなぜ、こうも強烈に心をかたむけつづけていたのか、その理由をおもい出した。
欲とは程遠いところに生きているために、孔明の外貌に性が現れないのである。
外貌の美しさだけに惹かれたのではない。
もしそうであれば、世の、どんなそしりをも免れまい。
そうではなく、惹かれたのは、その肉体の中に眠る、ひたすら光輝に満ちた精神に、であった。
美しい玉石の輝きに魅せられたように、あるいは、天空にまたたく星を飽きずに見入るように、その心から汲みだされる言葉、行動、仕草、そのほか、さまざまなすべてに惹かれたのだ。
どんなに最悪の状況にあろうと、絶望しようと、この光さえあれば、恐ろしいものなどなにもなかった。
闇のなかにわずかにともる、その光のうつくしさは、それまで、目を開いていても見えず、耳が聞こえていても聞かない、という状態であった自分に、この世のほんとうのすばらしさを教えてくれたのだった。
つまりは、孔明が趙雲に、おのれという人間の形を教えてくれたのであり、おのれを取り巻く世界の形を教えてくれたのだ。
おのれを導くものを愛するのは、これは当然のことではないか。
たしかに、道義からすれば、間違った心の在り様かもしれない。
それでも、内に恥と恐れを抱えつつ、これから先を生きるのだ。

「すべて知っていた」
と、孔明はいったが、あえて趙雲は、心のなかで、大きく否定してみせる。
すべては知らないし、知らせるつもりもない。
完全に心を受け止められないにしても、命をくれるという、それだけで十分であった。
救われないだろうかと孔明は嘆くが、救われなかろうと、これでよいとおもう。
たった一人、無明の闇の中を歩いていた人生にもどるよりは、どんなに苦労しようと、蔑みの中にいようと、共に生きていけることのほうが、どれだけ幸福なことか。
「おまえは贅沢だ」
と、趙雲が言うと、孔明は首をかしげて、そうだろうか、と言った。

だれより、ただ生きていてくれるだけで嬉しいとおもう気持ちもほんとうだが、もちろん、焼け付くような感情だって、ないわけではない。
だが、これは、たとえ死んでも、悟らせない。
ただ願うことといえば、相手が、自分と同じような幸福を味わうよりは、むしろ悲しみを共有してくれればいい、ということである。


静かなる湖のほとり 了
次回、最終回!「やかましい左将軍府のあたり」、おたのしみに。

(サイト・旧はさみの世界(現・牧知花のホームページ) 初掲載 2005/10/15)

風の終わる場所 37 静かなる湖のほとり・Ⅱ 1

2021年06月27日 10時06分24秒 | 風の終わる場所
むかし、所帯をもってもよいな、とおもうような女と、たった一度だけ、めぐり合ったことがある。
器量は十人並みで、身分も低い、下働きの女であったが、年に見合わず苦労をかさねた様子で、気遣いの細やかさが、ほかの娘たちより群を抜いていた。
内気な性質らしく、ほかの男の前では、言葉すら漏らすことが稀であったが、趙雲の前では、ふしぎと口数が多く、表情も柔らかかった。
内気だが、陰気というわけではなく、打ち解けてくると、馴れ馴れしいまでになった。
しかし、その落差がおもしろくて、趙雲も、娘の好きなようにさせていたのである。
派手な華やぎや、娘らしいみずみずしさの欠ける、色気のない色黒の娘。
それが、趙雲がおもい出せる、妻の候補として、みずからがかんがえた、唯一の娘であった。

その後、どうなったかというと、どうにもならなかった。
それというのも、趙雲は、そうなってもよいな、と漠然とかんがえていただけで、一度も、それらしい素振りを娘に見せていなかったからである。
娘のほうは、この、男ぶりはよいが、色気のない武将を、安心できる保護者のようにかんがえていたらしく、やがて、趙雲の部隊の、部将のひとりに求愛され、ほどよい幸福を手に入れた。
いまもしあわせに暮らしているはずである。

嫁ぐのだ、と聞いたとき、さすがにいささか気分が悪くなったが、長々と引きずるようなことはなかった。
おもうに、その娘のすべてを愛していた、というのではなく、こういう娘ならば、妻にしたら、気を使わなくてよいな、という計画に、気持ちがかたむいていたようにおもえる。
娘の仕草に胸をときめかすようなこともなければ、すべてを手に入れたいと、つよくおもうこともなかった。
おそらく、そういった心の動きが、こちらにないことを、あの娘も読んでいたから、心を開いたにちがいない。
となると、心を開いて素のままでいる娘に、いまの夫たる男が恋をしたのであるから、よいことをしたのだろう。
いや、善行を数えていたわけではない。





趙雲は、成都にもどる道すがら、過去のおのれのあれやこれやをかんがえて、整理をしていた。
もともと、あまり丈夫ではない孔明は、馬車に乗っての移動である。
そのかたわらを、村のそばで、ちゃんと大人しくしていた愛馬で随行し、調子のよい李巌が、いらざるちょっかいを出しにこないように見張るのだ。
とはいえ、これまでの数日をおもえば、奇妙に静かで平和な行軍であった。
李巌は、賢いところを見せて、劉封のほうまで牽制して、さわぎを起こす言動をしなかった。
どうやら、保身に回ることにしたらしい。
一方の孔明は、馬車のなかで、ほとんどを眠って過ごした。
微熱が出ているようで、道すがら、甘い水を汲んできて、薬を飲ませ、あるいは心地のよい木陰をさがして、休ませる。
まるで雛鳥に餌をはこぶ母鳥のようだと、李巌が言葉以上の悪意をこめてからかってきたが、これは無視した。
無視したけれども、自分たち以外は、すべて心をゆるせぬ『敵』の将兵ということで、趙雲は、いやでも、自分とかれらとの差を感じずにはいられない。
むしろ、いままで仲間内のなかにいることがおおかったせいか、おのれが、いかにふしぎな存在であるか、いまそれをつよく自覚することになった。
仲間内、つまりは孔明の信奉者たちは、孔明を中心にして動いている。
そんな中にあったから、自分が、いかに孔明の世話を焼きすぎるかが、目立たなかったのだ。
孔明以外とは、ろくに会話を交わさぬなかでの、数日におよぶ行軍である。
自然と、心は内側に深く入り込み、おのれと、人との差について、おもわずかんがえ込んでしまう。
おそらくは、それがいけなかったのだ。





成都にもどると、さすがに安堵したが、おのれを取り巻く状況の風向きは、よくない様子であった。
董和に後事を託し、職務放棄ではない形で出奔したつもりではあった。
が、問題が大きくなったため、協力してくれるはずの法正が、あっさり手のひらを返して、李巌に同調してしまったのである。
董和は、きちんと手つづきを踏んで、趙雲が広漢に出向する件が正当なものであるとしてくれたのだが、本人が直接、劉備に暇をもらったわけでもなく、手つづき自体も、代理で行われた、ということが、攻撃の槍玉に挙げられた。

趙雲は、あらためて李巌という男の、世渡りの上手さ、抜け目のなさをおもい知る。
李巌は、法正だけではなく、常日頃から、孔明をおもしろくおもっていない者と、つなぎをつくっていたのだ。
おそらくは、この策をもちいるにあたり、破綻した場合も、きちんとかんがえていたのである。
趙雲は孔明の主騎である。
今回の、いわば犠牲者は、孔明であるから、劉備の手前、孔明を攻撃できない。
だが、それでも孔明の力を削ぎたいのであれば、その主騎である趙雲を代わりに攻撃し、政治の表舞台から追い出そうと、動いてきたのだった。

趙雲は、ことの顛末を、きちんとおのれの言葉で、劉備に説明するつもりであった。
そうすれば、劉備はきっと、『いつものとおり』に孔明の味方となり、『正しい』判断を下してくれるだろうと信じていたのである。
だが、どういう手回しだったのか、劉備は、趙雲に会う前から、矢の雨のなか、趙雲が、劉備の子らを差し置いて、だれよりも孔明をかばったという話を、すでに知っていた。
劉備の周囲では(主に法正と繋がりのある者たちであったが)、李巌が、勝手に動いて、孔明の命を危険にさらしたということよりも、趙雲が、(劉封や、劉括とは、血が繋がってないとはいえ)主公の子よりも、いわば同僚といっていい人間を庇ったことのほうが、重大視されていた。
気持ちの問題ではあるが、これは遺憾だ、ということに、問題が摩り替えられていたのである。

趙雲は、李巌や孔明よりも、先に劉備に会うことをゆるされたのだが、おもわぬなりゆきに、ここで、らしくもなく、いきどおり、自制を失っていた。
これもいけなかった。

「おまえが儂の子を助けなかったことは、気にしてない」
と、劉備は、人払いをさせて、怒気をあらわにする趙雲に言った。
その、いままでとは距離の感じられる声音に、趙雲は、心の臓をつかまれたようになり、おどろいて顔をあげた。
劉備の表情は、いつもの、よく知る、陽気で、包容力のある男のそれではなかった。
趙雲は、怒りが一瞬にして冷め、事態が、すでにおのれの問題だけではなく、劉備や孔明を苦しめるまでに広がりつつあることをさとった。

趙雲は、ほかの武将とちがって、孔明の側に常にいるために、武人よりも文人との付き合いが、最近は深くなっていた。
見る者からすれば、文官とも武官ともとれぬ、曖昧なところにいる男なのである。
その曖昧さが、攻撃の標的になりつつあった。
つまり、武人が、文人に深く関わりすぎている、武人としての分を超えている、というのだ。
李巌は、自分の首をつなぐのに必死なので、持てる力を総動員して、自分の咎から人の目を逸らそうと、趙雲側の非を大きくとりあげて、攻撃をはじめている。
こうなると、趙雲は、もう戦い方がわからない。
李巌のように人付き合いも多くないから、頼りになるのは、孔明を中心とする荊州人士、あるいは左将軍府の面々だけなのである。
しかし、かなしいかな、蜀の現状では、政治力がより強いのは、法正を中心とする文官で、これと結びついている李巌は、孔明の力をもってしても、御するのが難しいのだ。
しかも、孔明は、いまだ本調子ではなく、先に趙雲を派遣し、そのあいだ、熱が取れるまで、休んでいる。
孔明の回復を待ってはいられない。
すぐに動かねば、このままでは、共倒れになる。

あせる趙雲に、劉備がなにか言ったが、聞こえなかった。
子供をかばわなかったことは、気にしていない、冷静になれと、さとされた記憶があるが、くわしい言葉までは覚えていない。
そんな趙雲を見て、劉備は、嘆息すると、顔をちかづけて、ゆっくりと、ことばを選ぶように、平伏する趙雲に言った。
「子龍、おまえを讒訴する者は、まるでおまえが孔明を担ぎ上げて、儂を追っ払おうとしているかのように言ってくる。だがな、儂は、いまのおまえの姿を見ていれば、そんなことは、これっぽっちもおもっていないとわかるぞ。
それに、俺の子の問題だって、揚げ足取りもいいところだ。おまえは、以前に、奥と子を、命をかけて助けてくれた。
どちらにしろ、封も、劉括っていうのも、二人とも無事なわけだし、それは、あいつらが言うように、難しくかんがえなくちゃいけねぇような問題じゃあねぇ、とはおもう」
だがな、と劉備は、子供に言い聞かせるような、どこかかなしそうな調子で、つづけた。
「子龍、おまえはあまりに生真面目すぎるのだ。心をおさえろ。いまのままでは、おまえは孔明を滅ぼす」

最初は、いわれたことの意味がわからなかった。
言葉を返せず、趙雲は、まじまじと、その意味をたどるために、劉備の顔を見つめた。
目の前にある劉備の顔には、軽蔑も怒りもなく、不出来な子をいたわるような、やさしいが、かなしい表情があった。

「気持ちはよくわかる。いや、芯からは判ってないかもしれねぇが、おまえがそこまでにおもいつめる理由は、わかる気がする。儂にも、すこし似たようなところがあるが…おまえは、あまりに踏み込みすぎだ。自分の気持ちに正直すぎる。嘘をつけ、と言っているわけじゃねぇんだが、なんというかな」
ええい、と劉備は、ことばをうまくさがせずに、いらだって、頭を振ると、ふたたび趙雲を真っ直ぐみすえて、言った。
「でも、おまえは、やっぱり間違っているのだ」
わかるだろ、と劉備から言われ、趙雲は、ただ、はい、と答えるしかできなかった。

趙雲は、李巌にいわれた言葉と、劉備からも言われたことばを、しばらく、ぐるぐると、頭のなかで繰り返していた。
終風村で、矢を射掛けられる直前に、李巌は、たしかにこう言ったのだ。
「趙子龍、わたしは予言する。いずれ貴殿は、おのれの心にすら裏切られるだろう。孤独のままの死を選ぶか、あるいは」
あるいは、龍と共に滅びるだろう。
神秘家をめかした口調であったが、これは、いまの現状を読み越してのことだったのか。

「それがしをかばうことで、李将軍の処罰が、とどこおることがございましょうか」
柄にもなくふるえているおのれの声が、ひどく遠くから聞こえてくるようにおもえた。
趙雲がたずねると、劉備は、それは、孔明の腕次第なところがあるな、と言葉をにごした。

李巌は、逃げ切るだろう。
孔明は、やはり人が好すぎる。
李巌が、そこまで人々のなかに、深く根回しをして、おのれへの攻撃の手をやめないなどと、想定していなかったのだ。
それを責めるわけにはいくまい。
孔明は、李巌より年若で、世間ずれしていない。
これまでの政敵である龐統は、ほぼ同年輩で、これも世間ズレしていなかったから、策謀を味方に対してめぐらすような男ではなかったし、法正は、老練なところはあるが、性質が直情径行であるから、行動が読みやすい。
李巌は、その点で言えば、変幻自在でつかみ所がなく、孔明がいままで対峙したことのない型の男なのである。
まだ、さわぎは、表沙汰になっていない。事態の全容を知るのも、ごくわずかな側近のみ。
いまならば、まだ、手の打ちようがある。

趙雲は、そのまま、ふたたびかしこまると、奏上した。
「主公にお願い申し上げます。たったいまより、この趙雲めの役職を取り上げ、一介の平民にしてくださいますように。俸禄も、拝領いたしました軍馬、荘園、屋敷、すべて返上いたします」
それを聞いた劉備は、なんだって、おまえはそう極端なのだ、とあわて、そんなことは受理できない、と言ったが、趙雲は、ひたすらに頑固なところを見せて、劉備に重ねて、位返上を申し出ると、宮城を出た。
それから、すぐさま、家屋敷を整理し、荘園の権利書を劉備に返上し、唖然とする陳到たちに別れを告げたあと、あまりにあっさりと、着の身着のまま、成都を出た。
早ければ、早いほうがよかろうと判断し、孔明とは、会わないまま出て行った。
引き止められるのは判っていたのもあるが、ほんとうのところは、李巌や劉備の言葉が邪魔をして、まともにその姿を見る自信がなかったのだ。
手紙を残すこともかんがえたが、女々しい文章を書いてしまいそうなので、やめた。

つづく……

(初出 旧・はさみの世界(現・牧知花のホームページ) 2005/10/15)
※追記※ 新連載との兼ね合いで、6月30日(水)に、この続きを更新します。
そう、まだつづく……! どうぞ見てやってね。
最終回は、7月3日(土)の予定です。

風の終わる場所 36 静かなる湖のほとり・3

2021年06月26日 05時43分42秒 | 風の終わる場所


朝になり、孔明は、昨夜はなにをしていたのかと問おうとおもったが、止めた。
趙雲は、あれからまた寝台にもどったようだが、ほとんど眠っていないことは、顔色からうかがえた。
言葉もずっと少なくなり、孔明もまた、それに応えるかのように、沈黙を守った。
こうなれば持久戦である。
せまい空間において、たがいの気配だけをそこに感じるような、奇妙な時間がつづいた。

沈黙を破ったのは趙雲のほうであった。
「今日も帰らないつもりか」
「そうだ」
「そうか」
このみじかいやり取りのあと、趙雲はなにをおもったか手早く路銀などをあつめると、
「今宵は、俺が宿をとる」
と言って、孔明を置いて出て行った。
あまりのことに、これでは意味がないと唖然としたまま、孔明は二晩目をむかえることとなった。






終風村(いまや、孔明にとっては呪われた村に等しい)での出来事を、静寂の中でおもいだしてみる。
たいがいが、ろくなものではないが、あのとき、趙雲は、なぜあんなことを唐突に口に出したのか。
『俺は、おまえを選んだのだ』
そんなことは、とっくの昔に知っていた。
いまさら、おのれの選択に気づいて動揺しているのか。
もしそうだとしたら、趙雲もまた、おおきな勘ちがいをしている。
「主公に忠節を誓うわたしを選んだということは、すなわち、主公を選んだも同等ということではないか、たわけもの。李巌ごときの言葉に惑わされて、なんとする。なにを恥じ、なにを怖じる必要があろうか」
闇に向かって悪態をつくが、これが、どこぞの宿にいる男に聞こえるはずもない。
まったく、散歩がてら遊びに来た虎に襲われたならどうしてくれる、とおもいつつ、孔明は目を閉じた。






夜半過ぎ、またも孔明は人の気配をおぼえて目を覚ました。
家にはだれもいない。
さすがに戸口の戸締りもしっかりした。
山賊にしてはしずかだ。
おかしいとおもって窓から外を眺めれば、あきれたことに、趙雲がそこに立っているのであった。
宿をとりそこね、しおしおともどってきたのか。
ならば、おおいに笑ってやるところである。
そうして、出迎えに行こうとした孔明であるが、戸口の閂を外す段になり、ふと、足が前に進まなくなった。
あたりがあまりにしずかすぎるからであろうか。
月光に照らされたしずかな闇のなかで、いま、手に取るように、趙雲の心がわかった気がした。
幻想ではなく、たしかにわかった。
もどろう。
そうおもい、一度は寝台に足を運びかけたが、孔明は、また足を止めて、いらだちとともに、ちいさく声をあげ、そのまま一気に、閂をはずした。

闇を飛ぶ羽虫の羽音すら聞こえるほどのしずけさである。
扉を開く音が聞こえなかったわけではあるまい。
しかし、趙雲は振り返らなかった。

戸口に立っていると、逃げ場をうしなった風が、家のなかに向かって入り込む。
そのつめたさに身震いすると、ようやく、湖の畔の趙雲が、背を向けたままではあるが、口をひらいた。
「風邪を引く。もどれ」
「家の主が外でぼんやりしているのに、客のわたしが、中で眠るのも落ち着かない。宿はどうした」
「空いていたさ。なんとなく気になってもどってきた。声がふるえている」
「冷えるからな」
孔明は、肩に羽織っただけの上衣を、風で飛ばないようにおさえつつ、趙雲のそばに立った。
湖を渡る風に、結わないままの黒髪が踊った。
水分をふくんでいるのか、風はつめたく、重い。
「おまえは、人の言うことを聞かない奴だよな」
と、近づいてきた孔明に、趙雲が言った。
その声色には、あきらめがふくまれている。
「よく聞くほうだとおもうが」
「現に聞いてないだろう」
「場合によって変わる。あなたがもどれば、わたしももどろう」
「どっちに」
「家と成都、両方だ」
それに対する返事はなかった。

いらだちや怒りは、もうなかった。
夜半だというのに、月明かりのせいで、どこかあかるい湖のふしぎなしずけさをながめつつ、孔明は、夢の中にいるような錯覚さえおぼえた。
だからだろうか。
心は澄みきっている。
趙雲のことをいま、恐ろしいくらいに把握しているのと同様に、趙雲も、こちらを読んでいるのだろうということが判った。

「わたしたちは、救われないのだろうか」
かたちのくずれた月を映す湖をながめつつ、そんなことをつぶやくと、ようやく趙雲が顔を向けてきた。
「人と人の組み合わせというものがあるだろう。兄弟、夫婦、主従、なんでもよい。人が連合した時に発生する形であるが、これは、縁によって引き合わされるものだ。
それを継続させるのは、欲であったり、恩であったり、義理であったり、さまざまだ。惰性というものも、あるかもしれないな。
おもうに、主公や関羽殿、張飛殿のように、屈託のないあかるい組み合わせもあれば、李巌や、劉公子のように、うらみによって結びつく場合もある」
「そうだな」
孔明は、湖から目を逸らし、此方を見ている趙雲の視線を、真っ向から受けた。
「主公に、このままでは、おまえは破滅をすると言われたのだろう」

趙雲が、いささか驚いたように言葉をつまらせた。
孔明は、ちいさく息をつくと、肩に羽織る上衣の裾が、風をはらんで大きくふくらむのをなおしつつ、言った。

「破滅をおそれて、わたしを捨てるのか」
趙雲は答えず、ただ黙ったまま、湖のほうに目を向けた。
しかし、孔明は、目をまっすぐに向けてつづけた。
「わたしを捨てるつもりならば、いますぐ殺してしまうがいい。そして、この地のどこへなりと、逃げればよいのだ」
さすがに仰天したのか、趙雲がふたたび孔明に目をもどした。
「なにを言い出す」
「わたしを選んだのだろう? その覚悟でついてこい、といっている。わたしを取って破滅するか、あるいはわたしを殺してどこへでも行け。それ以外はゆるさぬ」
「莫迦なことを。おまえの言葉遊びに付き合っている気分ではないのだ」
「遊びで斯様なことを口にできるとおもうか、趙子龍!」
孔明がつよくいうと、趙雲はおどろいたように、目を開いた。
「わたしは、おそらくあなたの胸に抱えるものを、完全に受け止めることはできないだろう。だが、その代わりに、わたしの命を与えると言っている。捨てるならば、殺してから行け」

趙雲は、言葉をなくして、孔明をじっと見つめていた。
視線を恐ろしいとおもったのは、初めてだった。
だが、ここで引いてはならない。
もしもここで目を逸らしたなら、言葉が嘘だということになってしまうと、孔明はおのれをはげました。

「あなたは、わたしにとっては、ただの主騎、盾ではない。これよりわたしの歩まねばならぬ道は、とてもではないが、一人では歩ききれない。だから伴に行って欲しいと、言葉を変えて、わたしは何度もあなたに言ってきた。
なのに、それを無視して、勝手におもい悩み、去ってしまうのであれば、最初から、わたしを守ったりするな! 主公にのみ忠義を捧げる、つめたい人間のままであればよかったのだ!」
「滅茶苦茶だ」
「滅茶苦茶なものか。言葉を重ねれば、重ねるほどに腹の立つ! 主公の言葉は絶対か? 主公の言葉を恐れて逃げたのか? では、わたしはどうなる!」
「主公は、破滅する、などとはおっしゃらなかった」
「だが、その顔色からすれば、似たようなことを言われたのだろう? 子龍、あえて言う。主公とわたしか、どちらか選ばねばならない日は、遅かれ早かれやってきた。 われらが目指している道というのは、そういう道なのだ。
主公はつねに、家臣たちの頂点にあって、公平さを保った裁定者でなければならない。主公に従うのであれば、わたしのそばにいることはできぬぞ。主公の判断を狂わせてしまうからな」
趙雲は、どこかかなしそうに、唇をゆがめて、つぶやいた。
「いま、この場で、俺に、情を取るか、それとも情を捨てるか、どちらかを選べというのだな」
「そうだ」
「情を捨てたなら、おまえを殺さねばならぬのか」
「そうだ」
「そんなことが、できるわけなかろう」
「でも、選べ。わたしはあなたに命を与えていた。先刻、気分に任せて決めたのではない。もうずっと前からそうだった。気づかなかったのか」

趙雲は、深く目をつむると、かんがえた。
しばらくかんがえたあと、静かに、ゆっくりと答えた。

「気づいていたのかな。だから、これほどまでに悩むのか」
「悩んでいたのは、あなた一人ではない。わたしは、ある時期から、主公と距離を置いていた。主公は、わたしに格別な想いがあるようだが、それに甘えて、そのまま、おたがいの想いの居心地のよさに溺れてしまっていては、余人も入り込めず、せまい関係の中だけで夢がついえてしまうとおもったからだ。それでは、たがいにたがいの可能性を潰しあってしまう。
主公はわたしを信じてくださる。だからこそ、子のように尽くすのではなく、最上の家臣として、最大の忠をしめすのだと決めたのだ。それがなによりの恩返しなのだとおもった。
だが、そうは決めても、これはなかなかに辛かった。ときには、主公を付き放すような真似もしなければならなかった。気まずさや、心苦しさに耐えかねて、もういいではないかとおのれを誤魔化し、以前のように振る舞おうかとおもったこともたびたびだ。でも、耐えられたのは、だれのお陰だとおもう。
わたしが悩んでいたことに、気づいていただろう。あなたがいるからこそ、いまのわたしがあるのだ。それを捨てるというのであれば、わたしを殺して行くがいい。どちらにしろ、一人残されたままで、生きていけるとはおもえない」
「おもいつめすぎだ」
「あいにくと、不器用でね、物事を簡単にかんがえることができないのだ。それでも、まだもどらぬと言うのか」
「俺は主公にとって害になるばかりではなく、いずれはおまえにとって、最悪の存在になるかもしれぬ。俺の所為で、おまえは破滅するかもしれない。わかっているだろう。俺をそばに置くのは危険だ」
「おもいつめているのは、あなたのほうだ。李巌のことばにまどわされて、自分の心を読みまちがえているだけなのだ。わたしは、すべて判っていると言っただろう。破滅するならばそれでよし。余計な約束も誓いもいらぬ。死ぬならば共に死のう。それでよい」
「おまえは莫迦だ」
「なんとでも言え。こればかりはゆずらぬ。ほかの誰でもない、このわたしが共に生きるのだ。破滅することなぞあるものか。子龍、わたしを選べ」

山野を駆け、湖の表面を撫でる風が吹きぬけていった。
どれくらい、時間が経っていたかはわからない。
しばらく、たがいに黙って、胸の内側の声と戦っていた。

「どんな命令だ」
趙雲がさきに口をひらいた。
それは、ここ数日の、こわばった、張りのないものではなかった。
弱弱しさすらあったものの、以前のような、親しみのこもったものであった。
「俺がいま、是と言ったなら、きっと生涯、とんでもない重荷を背負って、生きることになるのだろうな」
「当たり前だ。ほかのだれをも抱えられないくらいに重いぞ。その代わり、わたしは、あなたの全てを背負って生きて行く。ほかの誰も、心の内に入れさせない。それがあなたへの代償だ」
趙雲が、口を開きかけたのを、孔明は、手ぶりで止めさせた。
「言うな。聞かない。でも判っている。わたしはもしかしたら、あなたにひどいことをしようとしているのかもしれない。うらむのならば、うらんでもいい。好きなだけうらんでくれ」
「うらみはしない。これは、俺の勝手だからな」
「ほら、そうやって、自分を責めるなというのだ。弱点なんてなにもないとおもっていたのに、意外な弱点だな。自分を責める前に、わたしの悪口を言うことにしたらどうだ」
それを聞いて、ようやく趙雲の顔に、笑みが浮かんだ。
かたくなだった顔に、ひさしぶりにやさしげな表情が浮かんだので、孔明は、ほっとする。
同時に、おもった。
うらみもなにもかも、敢えて受けよう。
こちらこそ、うらむまい、と。
「そんな自虐的なはげましがあるか。まったく、おまえは変な奴だ」
「いまのは誉め言葉として受け止めておくよ」

やがて、地平の彼方に、ほの白い光が見えてきた。
夜明けである。
鏡面のように澄んだ湖が、幾千万の宝石を浮かばせているように、朝陽をうけて、きらきらとかがやきはじめた。
その息を呑むうつくしい光景に、二人してだまって、日の昇るのを見つめていた。

「地元の者に聞いたのだが」
と、波間に生える朝陽を見つめたまま、趙雲がいった。
「伝説によれば、この湖には、龍が住んでいるそうだ」
「そうか」
「もしも、このまま職を離れて、ここで暮らすことになったなら、湖を見るたびに、おまえのことを思い出すようになるのだなと、そうおもっていた」
「だから、夜中に湖を眺めていたのか」
そんなところだ、と趙雲はちいさく、聞こえるか聞こえないかの声で答えた。
「いまの言葉で、いままでの怒りはぜんぶ忘れられるな」
孔明は、何日かぶりに声をたてて、あかるく笑った。


静かなる湖のほとりⅡ・1につづく……


(初出 旧サイト・はさみの世界(現・牧知花のホームページ) 2005/10/14)

風の終わる場所 35 静かなる湖のほとり・2

2021年06月20日 10時09分04秒 | 風の終わる場所


家の扉は開いていた。
訪問する者といえば、飢えた猿くらいのものなのだろう。
扉をくぐろうとした途端、なつかしい土と肥料のにおいがした。
隆中ではおなじみだったにおいである。
「子龍、いるか?」
声をかけても返事はない。
先の住人の道具であろう農具、あるいは狩猟のための罠などが壁にかかっている。
つい最近、それぞれが手入れされたあとがある。
まさか、ここで農夫として、あらたに人生をはじめるつもりなのか。
農夫になるのにも、それなりの学習が必要だ。
農夫を舐めてはいけない。
常山真定の名家の末っ子として、土いじりなんぞしたこともなく過ごしてきたくせして、いまさら農夫なんぞになれるものか。
人の気も知らないで、着々と、自分のことばかりを先に進めてきたわけか。
だんだん腹が立ってきた。
すると、戸口のほうで、がたごとと、物音がする。
虎でなければ、虎のようだといわれたあの男だろう。
孔明は振り返り、声を荒げた。
「ひどいではないか!」
目をとがらせて振りかえった先には、捕らえたばかりのうさぎを片手に持った趙雲の、唖然とした顔がそこにあった。
「いつ?」
「さっきだ。なんだ、幽鬼の類いではないぞ。ちゃんと生きた本人だから、納得がいくまで、とっくりとながめるがいい。おっと、ながめたそのあとに、帰れというのは無しだからな。
それと、いきなりではあるが、咽喉が渇いたので、なにか飲ませてくれないか。やれやれ、家人がだれもいないので、ぜんぶおのれでしなければならないのか、面倒な」
孔明が、桶に汲んであった水を、手近にあった器にわけて口にしていると、言葉どおり、じっとこちらをながめている趙雲と目が合った。
その顔には、はっきりと動揺がある。
とがらせていた目をやわらげて、孔明は言った。
「わたしの記憶力をあなどってはならぬ。特に、あなたの言ったことを、わたしが忘れることはない」
「そうか」
「そうさ。なにもない。わたしはすべてを知っているのだよ。ところで、山奥にあるにしては、よい家ではないか。開いているところからお邪魔させてもらったが、こちらが入り口でよかったのか? 
ふむ、ほかに部屋は書斎と、寝室のふたつのみ。これでは家人は必要ないか。ぜんぶ自分の手の届く範囲にあるのだもの」
「なかなかに快適だ」
「そのようだね」
孔明は、家を見まわすのをやめ、立ち尽くしているのもなんなので、ちかくにあった座に腰かけた。

趙雲の反応を見ようと、わざとぺらぺらと言葉をならべてみたのだが、反応はにぶい。
いまひとつである。
その趙雲はというと、捕らえたうさぎを藁のうえに置いて、それから、血と泥でよごれた手を洗い、狩猟用具の手入れと片づけを、もくもくとこなした。
孔明も、しばらくその姿を観察していた。
これは、知らない姿だな、と孔明はおもいながら見ていた。
孔明の知っている趙雲というのは、宮城に行けば、熱心に兵卒の訓練を指導しているか、あるいは厩で馬の世話をしているかのどちらかだった。
趙雲は、自邸においても、公務につながるなにかをしていた。
書を読んだり、あるいは武芸の稽古をしたり、目をかけている部将たちの相談に乗ったり。
いま見せている姿は、まったくの私的な姿である。
これは、知らない。
同時に、いままで、これほど長く、公私共に、おのれのそばにつなぎとめていたのだとおもう。
長年つづけてきた緊張がほぐれて、いま、気の抜けた状態にあるのかもしれない。
だが、ここに留まることを、ゆるすわけにはいかないのだよ。

不意に、道具を片づけおえた趙雲が、口を開いた。
「おもしろいか?」
「あなたを見ているのが? そうだね、おもしろい」
「公務はどうした。幼宰殿が悲鳴をあげているだろうに」
「手配はした。気になるのか」
「それなりに」
「つめたいことだな。われらは、もはや過去の人になっているのかな」
「俺は、いつもこうだ」
「つまらない嘘をつくものじゃない。子龍、一緒に帰ろう。長くここに留まれば留まるほど、われらの立場は悪くなる」
「われらではない、俺が、だろう。李巌はどうした」
「今回のことは、すべて不問に付すように、主公にお願いした」
趙雲は、手をとめて、眉をしかめて、孔明を振り返った。
山野を駆けまわっていたらしく、日焼けをしている。
その性格からして、悩みを忘れようと、一本気に狩猟に集中したにちがいない。
真正面からその顔を見れば、なつかしささえ、湧いてくる。
「なぜ」
「なぜだって? 聞きたいか。知っているのじゃないのか。だからこそ、ここに逃げ出したのだろう?」
趙雲は、顔をしかめたまま、ふい、と顔をそむけた。

消えかけていた怒りが、またもどってきた。

「まったく、近来にない大失態だ。だれのおかげで、こんな失態を演じることになったのだとおもう? あなたが、いきなり、将軍職を返上つかまつる、なんて言いだすからだ。裏切り者!」
孔明の言葉に、趙雲は、ぎゅっと眉をしかめて、耐えるような顔で言った。
「そんなふうに言うな。裏切ったわけじゃない」
「いいや、あなたは逃げたのだ。みごとな裏切りじゃないか。わたしはあの日まで、死がおとずれないかぎり、あなたが居なくなるなんてことを、夢にもおもってこなかった。それが、いきなりこれだからな。
こちらは混乱して、李巌の良いようにさせてしまった。主公と李巌を、わたしより先に二人だけで話させてしまったのだ。あの男め、あなたが、主公よりもわたしに忠誠を尽くすあまり、先走りが過ぎるようだと上奏したのだ。
ああ、もっとはっきり言うならば、わたしとあなたが、さも主公に対して二心があるような物言いだったようだよ。その場にいなかったから、これは憶測なのだけれども」
「それだけだったのか」
「さてね。繰り返すが、わたしはその場にいなかったから、どれだけの言葉が交わされたのかはわからない。だが、主公の顔色が、あきらかに悪くなっていた。あなたが将軍職を返上する、なんて言ったからだぞ。わたしを裏切ったうえに、主公のお心を乱した。最悪だ!」
「そうだな」
沈痛な表情を浮かべる趙雲に、孔明は、そこいらにある物を投げつけたいほどのいらだちをおぼえた。
「『そうだな』? それだけか? ほかに言うべきことは?」
「すまない。もし俺が責任を取ってすむことならば…そうだな、共に成都に帰り、どのような咎も受けるが」
「あなたにおりる罰なぞない。子龍、あらためて問う。なぜ逃げた? わたしは、いつかはこの日が来るであろうことは、覚悟していたぞ」
「覚悟?」
怪訝そうにいう趙雲に、孔明はおおきくうなずいた。
「そうだ。わたしは知っていたよ。だが、甘かったことは認めよう。主公が、あえてあなたをわたしから離そうとなさらなかったのは、わたしに対する信頼なのだとおもっていた。
ところが、あなたがこんなふうに、まるで、わたしのそばにいること事態に非があるかのように去っていってしまっては、さも何かがあったように見えてしまって、わたしとしても、立場がないではないか」
趙雲が、ふたたび口を開く気配があったので、孔明はすばやくそれを封じた。
「いかなる反論は無用ぞ!」
いらだちとともに、大きく息をはき出した。
「いまのは正論だからな。反論なんぞ、出来るはずもない。ちがうか」

薄暗い山中の家に、重い沈黙が落ちる。
そろそろ日暮れも近いのか、差し込む陽光の色に、闇の濃さが混じってきた。
孔明は、地に落ちるおのれの影が、立ち尽くす趙雲の影と交わるのを見ながら、息を落ち着けると、たずねた。
「ずっとここで暮らすつもりか? たしかに、ここならば、天下がどうなろうと、あまり関係なさそうだな」
趙雲はその問いには答えず、孔明の側に立った。
「教えてくれ。主公は、それ以上のことは、おまえには、なにもおっしゃらなかったのか?」
孔明は、趙雲の言葉の意味がわからず、たずねかえした。
「……『おまえには』?」
「ならばいい。じきに日が落ちる。急げば、日没の前に、ここより一番ちかい宿にたどり着く」
「一人で帰れと? 断る」
「帰ったほうがいい」
「なぜだ。理由を言え。第一、ここへたどり着くのもかなり時間がかかったのだぞ。さらに、日没前の視界の悪くなる時間に道に迷ったら、虎に食われてしまう。きっとそうなる。それでもよいか?」
「よくはないが、虎なんぞ、そうおいそれと姿を現さぬ。それに、おまえみたいに、食べるところが少ない奴なんぞ、わざわざ襲わないから、安心して迷え」
「怒らせて追い出そうという手も効かぬぞ。今宵はここに泊まって行く。いや、帰るというまで、ここに留まるつもりだ。覚悟しろ」
孔明が決然として言うと、趙雲はため息をついた。
「なんだって、そう俺にこだわる。俺よりも、もっと心をくだかねばならぬ者が、山ほどいるだろう」
「一見正論だが、それもちがう。むしろ、なぜにそこまで帰らぬと言い張るのかがわからぬ。わたしを成都に追い返したいのであれば、きちんと納得する理由を述べてみよ」
「それはできない」
「泊まり確定だ。布団はあるか? 風呂は? ないのであれば、いますぐそこの湖で身体をあらう。夕餉のしたくは頼んだぞ」

孔明としては、これほどまでに歯切れの悪い趙雲というのを、目の当たりにするのが初めてだった。
だから、強気な態度を装っていても、実のところ、突破口が浮かばなかった。
趙雲は、なにかを隠している。
主公になにか言われたのか。
主公が、わたしには言わず、趙雲には言ったことがある。
それが原因か。
それをつかめないかぎりは、頑固なところを見せて、ここからテコでも動くまい。
それから、すこしでも機会を得るべく、孔明は、なるべく趙雲の心が波風立つように、わざとわがままを口にしたのであるが、趙雲は、実に忠実な家令のように、孔明のわがままのひとつひとつを、いつにも増して言葉少なに、丁寧に、応えた。
こちらも向こうを理解しているが、向こうもこちらを理解しているということだ。
やりにくいこと、このうえない。
それに、せまい家であるが、こまめに世話をしてもらえるので、妙に居心地がよい。
邪険にされるならば、怒りを力にして奮起もできるが、親切にされれば、大人しくしているしかない。
じっくり時間をかけて、追い出されているようなものだ。

夕餉が終わっても、会話もろくに弾まず、気まずいままに、孔明は書斎側に作られた寝台のうえで、布団にくるまって眠った。





夜半に、ふと側に立つ者の気配をおぼえて、あわてて目を開いたが、しかしだれもそこにはいなかった。
そっと足音を忍ばせて隣の部屋をのぞきみれば、趙雲の姿がない。
戸口が半開きになっており、そこから外をのぞけば、怖いくらいに間近にせまっているまっしろい月の下、しずかに波立つ湖の畔に、その姿はあった。
趙雲は、ずっと黙って立っていた。
孔明もまた、その姿をしばらく黙ってながめていた。

つづく……

(旧サイト・はさみの世界(現・牧知花のホームページ) 初出・2005/10/14)

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