はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

浪々歳々 最終回

2020年05月03日 09時53分31秒 | 浪々歳々







こじれるまえに出て行くべきではなかろうか、と孔明のほうをちらりと見ると、いささかやつれ気味の青白い端正な横顔に、さきほどまでの余裕はなく、じっと趙雲と貞姫の様子を観察している。
そうして、孔明は、深刻なときにそうする癖として、きつく眉根をよせて、つぶやいた。
「いかんな、これは」
しかし、動こうとはしないのである。
「亮くん、やはり出て行くべきではないかね。趙将軍と夫人は、常日頃から反目しているのだろう? われらが出て行って、仲裁すべきではないかね」
そうだな、と孔明は言って、じっと趙雲たちから目をそらさずに、こぼれる前髪の束の先を、細い指先でもって弄ぶ。物を考えているときの孔明の癖である。
「われらの目的は、そもそも地主の邪な思惑から娘を助けることであった。そうだな?」
「そうだよ。だが、こうなると夫人の存在が大きいね」
「彼女の一声ですべてが決まるか。とはいえ、私まで出て行ったら、問題はさらにこじれるであろう。良くん、頼まれて欲しいのだが」
と、孔明は馬良に言った。

一方の趙雲は、貞姫と冷たい火花を散らしている最中であった。
地主一行と村人は、思わぬなりゆきに沈黙を守っている。
「そなたはほんとうに腹が立つ!」
と、貞姫は手にしていた布を趙雲に投げつけた。趙雲はそれを難なく受け止める。そうして手にした布を、丁寧に畳みながら、言った。
「そちらの地主は、か弱き村人を相手に、くだらぬ賭けをしたそうでございます。劉玄徳の妻である貴女様が、そのような賭けに入ってはなりませぬ。もちろん、ただ田舎を散策するつもりであったのでしょうな?」
「わらわが何をしようと勝手であろうが!」
「勝手ではありませぬ。貴女様の軽率な行動は、主公の名誉を傷つけます。それを黙ってみているわけにはまいりませぬ」
「なぜ決め付けるのじゃ! 将軍、そなたがわらわの何を知っている、と言うのじゃ! なにも知らぬであろうが! 奥向きでは、籠の中に閉じ込められたような息のつまった生活しかさせてもらえぬ、外に出れば出たで、軽率だのなんだのと責められる! わらわはこれでは人質ではないか!」
「人質ではございませぬ。大切な主公の奥方でございます」
ふたたび金切り声がひびきわたるかな、と予想した馬良であるが、しかしそうではなく、貞姫は泣きそうな顔をして、責めるように趙雲を見ている。

孔明は、馬良に素早く言った。
「いいかね、あくまで自発的にそう言った、というふうにするのだ。だれかに智恵をつけられて言った、というふうにはさせてはならぬ」
「むずかしいものだね」
「これが、当初の目的をいちばんに果たせる魔法の言葉だ。効果は絶大だぞ。さあ、頼む。いや、待ってくれ」
と、孔明は懐からまゆずみを取り出した。愛用の品らしい。
「亮くん、化粧までしているのか」
「病気のときや眠れない日がつづいたときだけね。相手に好印象を与える顔をつくる決め手は眉だよ。だから、とりあえず顔を洗うことと、眉を整えることだけは怠ってはいけない。それはともかく、きみのその眉は目立つから、これを塗って隠して行きたまえ。さあ、それでは頼んだよ」
孔明にうながされ、馬良は、内心はどきどきしながらも、あくまで自然に見えるように、茂みから出て、趙雲のそばへと向かった。

雲は、足音で馬良がそばに来たことがわかったようだ。振り向かずに、すばやく尋ねてきた。
「隠れていろと言ったはずだが?」
「軍師からお言葉を預かってまいりました。軍師が、夫人にこう言えと」
と、馬良が孔明から預かってきたことばを耳打ちすると、貞姫たちから視線をはずさないでいた趙雲が、はじめて振り返った。
「なんだ、それは」
「軍師曰く、コトをもっとも丸く治めることのできる言葉なのだそうです。将軍、演技力がためされておりますぞ。さっきのような下手なのは、ナシです」
「わかっている」
といいつつ、どこか緊張した面持ちで、趙雲は顔の筋肉を苦労していろいろ調整しつつ、なんとか笑みらしきものをつくって、貞姫に微笑みかけた…つもりだろうが、ぎくしゃくした歪んだ顔になった。
そうして、ほとんど棒読みで、言う。
「しかし残念ですな。この布は、奥方様によくお似合いになると思ったのですが」
とたん、それまで崩れそうなほど心細げな表情をうかべていた貞姫が、ふと表情をやわらげた。
「将軍、もしかして、そなたがその布をそのように仕立てよと指示したのか」
「そういうわけではありませんが、この布を織った職人をよく知っておりまして、けして悪気でこのように仕立てたのではございませぬ。奥方様ほどのご器量ならば、この布をうまく服にしあげて、着こなせるのではと思ったのでございますが」
「そう思うか。まことに?」
「それは」
運がよければ、と言いかけているのを察した馬良は、とっさに背後から小声で言った。
「趙将軍、お答えにならずとも結構です。笑顔だけでいいのですよ。笑顔、笑顔!」
「顔が引きつる!」
「そこを我慢なさい。ことを丸く治めるのには貴殿の笑顔が必要なのです!」
趙雲は仕方ない、というふうに軽く息をはくと、貞姫のほうに向き直って、とりあえず、笑みらしいものを向けた。
もとが端正なのでとりあえず様になってはいるものの、やはり嘘の気配がただよったうさんくさい笑みである。
しかし貞姫は急に大人しくなった。
「そうか。ならば、この布は受け取ることにしよう。わらわは帰る。将軍はもちろん、わらわとともに帰るのであろうな?」
と、貞姫はちらりと上目遣いに趙雲を素早く見て、それからすぐに顔を怖くしかめた。

そうして、はじめて馬良は、孔明が、急に深刻な表情になった理由を悟った。
これはたしかにまずい。
隣の趙雲を見ると、ともに帰ろうといわれて、渋っている。
どう対処すべきかと茂みを振り返ると、孔明が馬良においでおいでをしている。
すっかり伝令役となった馬良は、貞姫たちにその存在が知られていないのを幸い、孔明のもとへ戻った。
「子龍に、姫とともに帰れと伝えてくれないか。私たちは大丈夫だと。ただし、慎重に、と」
「大丈夫かい、亮くん。夫人のあの様子からすると」
みなまで言わせず、孔明は馬良の言葉を止めた。
「子龍は気づいていない。教えてはだめだ。あの男のことだから、事実を知ったとたんに、不器用であるから、態度がおかしくなる。あの姫は敏感にそれを悟るだろう。そうなったときのほうが恐ろしい。知らないままでいいのだ。あとの対処はわたしが考える」
「我らが考えて、どうにかなるものだろうか」
「どうにかせねばなるまいよ。まったく、ノンビリ落ち込んでいる場合じゃなかった。大変なことだぞ。良くん、わかっているとは思うが」
「もちろんだ。誰にも言わない」
「信頼しているよ。何度もすまないが、子龍に、先刻の指示を頼む」
馬良が趙雲のもとに戻って、孔明の指示を伝えると、趙雲はやはり嫌そうにしたが、しかし貞姫たちをそのまま置いておくわけにもいかず、しぶしぶ、というふうに貞姫たちと帰ることとなった。





そのあとどうなったかといえば、地主の要求は、布の献上という時点で果たされたので、狐につままれたような面持ちの村人と地主に、ことは治まった。
双方、これ以上の騒ぎはならぬ、と言って諭し、地主はまだ娘を得られなかったことに未練があるようであったけれども、騒ぐ理由がないので、くやしそうにしながら、おのれの屋敷に帰っていった。

孔明と馬良はふたりして連れ立って臨烝へ帰ることになった。
道中は、さして見るべきものはなく、趙雲のことがあるので、どちらかといえば重い気分で帰路をたどることとなった。
孔明はしきりに、
「自分の問題にばかり捕らわれていたのは未熟だった」
と反省し、一方で、
「江東の人間とは、とことん相性がわるい」
とこぼしていた。
とりあえず、孔明はこの休暇で、持ち前の明るさを取り戻し、めでたしめでたしになるはずであったが…

貞姫のことに関しては、歴史が後日談を語る。
なので、あえてここでは語らない。





そんな休暇があったのも忘れていた、数年後のある日のことである。
孔明は成都の郊外を、みずから馬車を引いて、となりに養子の喬をのせて走っていた。
それというのも、最近、成都の郊外に、機織技術の抜きんでている集落がある、と聞いたからであった。
できれば彼らを街中に移住させ、貿易の要となる錦の質を向上させようというのが孔明の狙いであった。
何度か役人を差し向けて、移住をうながしていたのだが、彼らはなかなか首を縦に振らない。
どうも移住してきたばかりで、また土地を動かねばならないということと、成都は、主が変わったばかりで政情が不安定だということが、彼らをしぶらせているようである。
ただ、非常に腕がよい職人がそろっていると聞いたので、それは惜しいと思った孔明は休暇を利用して、自分で村におもむくことにしたのだ。

段々畑のあるのどかな農道を走っていたときに、となりの喬が、手綱をひく孔明の袖を引いた。
みると、あぜ道で、老人たちが作業の手をとめて休憩をしているのである。
なんてことのない風景であったが、何が気になるのだろうと馬をとめると、老人たちもこちらに気づいた。
そうして喬は馬を下り、あぜ道をのぼっていく。
孔明はそれから、ゆっくりとその後を追って、あぜ道をつづいた。
身なりのよい少年が近づいてきたので、老人たちは愛想よく目を細めていたが、あとからやってきた孔明をみて、
「あっ!」
と声をあげた。おや、自分が何者か知っているのかな、と思った孔明であるが、老人のつぎの言葉は意外なものであった。
「いつかの機織職人!」
「は?」
「やっぱりそうだ! あんた、なんで成都にいるの!」
もしもその場に馬良がいたなら、彼らが、孔明が機織をしているときに、集まってくる村人に解説をして暇つぶしをしていた老人たちだということが、すぐにわかっただろう。

よくよく聞くと、あの村は、結局地主の横暴に耐えかねて、村ごと土地を捨てて逃げ出したのだ。
彼らはもともと洛陽の機織職人集団であったのが、やはり戦乱に追われ、ながれながれて荊南にいた。
だからこそ、さほど土地に執着もなかった。
そうして益州こそ平和な土地と信じて、やってきた。
その後、培った機織の技術をつかって、なれない土地で生計をたてていた。
孔明が事情を説明したところ、説得するまでもなく、彼らは
「腕のよい職人でもある人ならば、われらのことをわかってくださるだろう」
とよろこんで、移住に承諾してくれた。

そうして、かれらが作った蜀錦は周辺諸国でも名高い貴重な貿易品となり、蜀が三国のなかでもっとも貿易の盛んな国として、栄えるのに役立ったのである。


おわり

御読了ありがとうございました。

(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/08/06)

浪々歳々 11

2020年05月03日 09時52分24秒 | 浪々歳々


「おや」
悶々としていた馬良は、思わず声をあげた。
小川の上流から、箸が流れてきたのである。
なんだかどこかの昔話のようだな、と思いつつ、馬良は、おそらく上流に、人がいるのであろうと思い、誘われるようにして歩いていった。
ほどなく、馬のいななきが聞こえてきた。
草むらから覗くと、なんとも派手な一団が小休止をしているのが見えた。
まず、繋いである馬の、馬具からして煌びやかである。
その周囲にいる人間の衣裳も、ありとあらゆる染料を混ぜ込んで、そのまま乾かしたような、なんとも悪趣味な色合い。
金具という金具は、しつこいほどにすべてに金が塗られており、それが陽光にびかびかと光っている。
二十人ほどの男女の一団で、みな若い。
しかし、護衛の男たちや士大夫ふうの若者、侍女風の娘たちにいたるまで、みな奇抜な髪型、髯、服装をしている。
もしかしたら、これはどこかの流行なのかもかれも知れぬと思いつつ、馬良がどこの旅芸人かしら、と思っていると、ひとつだけ品のよい婦人用の馬車の帳がぱっと開き、中から、美しいが、きつい目をした娘が出てきた。
「その村というのは、じきに着くかえ?」
娘が姿をあらわすと、周囲の者たちは、一斉にそちらを向いた。
一団の長なのか。
娘が馬車を降りようとすると、士大夫ふうの男が、となりにいる少年の頭をこづいて、手伝え、という身振りをする。
少年が、それに気づいて娘のそばに来たときには、もう娘は地面に足をつけていた。
「もう降りた。荊南の男は、みなとろくて、きらいじゃ」
「もうしわけございませぬ。これ、貞姫さまに謝罪いたせ」
小太りの士大夫がさきほどの少年をさらにこづいて、頭を下げさせる。
しかし、貞姫は、つんと顎をそらして、それを無視した。

馬良は膝から力が抜けるのがわかった。

貞姫。
ほかならぬ、孫権の妹にして、劉備の妻。
それが、なんでこんなところに?

馬良は、貞姫と直接、言葉を交わしたことがない。
まだ十代の年若い、少女と言ってもおかしくない娘であるが、扱いづらい気性の娘で、夫である劉備すら気をつかって、その元に通うのを遠慮しているほどだ、という噂も聞こえていた。
劉備の遠慮をいいことに、思うままに振る舞い、そのわがままを止めることのできる者がいないのだ。趙雲がその任に当たっているが、苦労している様子なのは、道すがら聞いた話でわかっている。
まさか、江東へ帰ろうとしているのでは、と馬良は咄嗟に思ったが、その割には武人の姿が少なすぎる。
ものものしい緊迫感もなければ、隠密というふうでもない。
むしろ逆だ。目立ちすぎる。

馬良の疑問をよそに、貞姫は伸びをして、周囲を見回した。
「まったくなにもないところだけれど、かえって気が休まるの。ここには、あれはならぬ、これはならぬと五月蠅く言ってくる石頭もおらぬし」
そういって、貞姫は声をたてて笑った。
石頭というのはおそらく趙雲のことだろう。
なにを思い出しているのか、口では辛辣にこき下ろしながらも、表情はどこか楽しげである。
侍女のひとりが、姫、とたしなめるのを、貞姫は顔をきつくしてかえって叱る。
「よいではないか、わらわには、グチをこぼす自由もないのか。この者たちは信頼できる」
「ありがたきお言葉」
ぺこりと士大夫は頭を下げる。
貞姫は満足そうに、しかしどこか冷たさを感じられる笑みを浮かべた。
孔雀のように華やかではあるが、驕慢ゆえの残酷さを秘めた姫である。
劉備の人柄を思い、これは合わぬだろうなと、男として馬良は劉備に同情した。
女は、若くてきれいであればよい、というものではない。
「そなたの妻となる娘も、今日の日を指折り数えていたであろうな。しかしわらわに献上する布ができていたなら、その話もフイとなる。おもしろい趣向じゃな」
小太りの士大夫が、このあたり一帯の地主、というわけだ。
一団の悪趣味な派手さも、地方のなりあがり者にありがちな、勘違いの贅沢、ということか。
貞姫のことばに、それはまあ、と地主はあいまいな笑みを浮かべる。
どうも貞姫にいいふうに言って、うまく誤魔化しているようであった。
士大夫のとなりで、自分のことが話題になっているにもかかわらず、ぼんやりした少年は、機織名人の娘より年下のようだ。
しっかりした娘であったから、たしかに少年のよい連れ添いにはなりそうであるが、しかし好いてもない相手のために苦労はしたくないであろう。
「愚息の妻になることを渋っております娘も、貞姫さまがひとことおっしゃってくだされば、心を変えることでしょう」
「当然じゃ。わらわの言葉に逆らえるものなど、この地にはおらぬ」
士大夫の言葉に、貞姫は声を立てて笑った。





馬良はあわててその場から離れ、村へと戻っていった。
孔明と趙雲にこのことを知らせなければならない。
走りながら、馬良は考えた。
知らせて、それで、逃げるのだ。
いや、そんなこと、あの二人の気性からしてできるはずがない。
だが、ここで顔を合わせたらどうなることか。
下手に貞姫と対立したら、江東の孫権が黙ってはいない。最悪の場合、外交問題だ。
みなのためにと、僻村の娘とはいえ、その人生をみすみす犠牲にさせることなど、ほかの軍師ならばともかく、孔明にはできない。
どうしたらよいのか。
あの一団は、小休止がおわれば、すぐにここにやってくる。

馬良が村に帰ると、孔明は眠っていたが、趙雲は起きていた。
「お休みにならなかったのですか?」
「すこし眠ったから問題はない。それより従事、さきほど、畑に出ていた農夫が知らせてくれたのであるが」
「私も見ました。地主と、孫夫人が連れ立ってこちらに向かっております」
「まったく、俺が留守のあいだに、こっそりお忍びというわけか」
趙雲は苦りきった顔で言う。
相手が地主だけならばともかく、貞姫自ら参上となると、さすがに趙雲も解決策がないらしい。
「われらは退散したほうが、かえって面倒にならないのでは?」
「そうしたら、村の者はだれが守る。あの姫のことだ。たとえ布を気に入ったとしても、地主に肩入れをしているのであれば、娘や村人を脅して、言いなりにさせるに決まっている」
「軍師はどちらに?」
「いま眠っている。仕方ない。起こしてともに策を練ろう」

しかし、対策を練っている暇はなかった。村人が飛び込んできて、地主たちがやってきたと告げた。
仕方なく馬良は趙雲とともに隠れ、村人は孔明の織った布を献上することになった。
「策があると言っていなかったか」
茂みのよこで、ぼそりと趙雲がたずねる。
意地悪で言っているのではないが、馬良はしどろもどろになりつつ答えた。
「あったようですが、その」
「事態が変わったからな。しかし布を気に入って、大人しく帰る、という展開は期待できんかな」
趙雲は茂みから、やってきた地主と貞姫一行をじっと見つめている。
今日が期日であると、さきほど川辺で見た小太りの地主がいい、村人が、かしこまりながら、孔明の織った布を差し出した。
地主たちの異様なまでの煌びやかさと、村人の、質素ながらも感じのよいたたずまいが対照的である。
地主はおっかなびっくりと一団を見ている村人に、本日はお忍びで、さる高貴なお方がいらっしゃっている。その方にいまから布をお見せするので、待っているがよい、と宣言した。
馬良からすれば、あれほどにぎやかな趣味を持っている一団ならば、もしかしたら布を気に入るのでは、と淡い期待をした。
地主がうやうやしく布を差し出し、貞姫が馬車の帳の中から、手だけを出してそれを受け取った。
集まってきた村人同様に、固唾をのんで様子を見ていた馬良であるが、ほどなく、帳のなかから、貞姫本人が出てきた。
眦がつりあがり、怒りに燃えた声がわんわんと晴れた空にひびきわたる。
「いったい、だれがこんな奇妙なものを作ったのじゃ! これで服をつくって、わらわに恥をかかせようというのか!」

「だめだ」
趙雲がため息とともに言うと、茂みから立ち上がった。そうして、馬良に
「ここにいて、隠れていてくれ」
と、いいざま、自分は貞姫たちのところへと向かって行った。

そのあいだにも、貞姫は村人に詰め寄っている。
「この布を作ったという娘を、いますぐ連れてまいれ! わらわに恥をかかせようという、いやらしい性根を叩きなおしてくれようぞ!」
村人は、なんとかその剣幕をおさめようとするのであるが、貞姫はまったく人の話を聞かない。
激昂すると、視野が狭くなる性質らしく、趙雲が近づいて行っても、そうと気づかない様子である。ちょうどその背後からかける形で、趙雲が声をかけた。
「いったいなにをそう騒がれておいでですか。みなが怯えておりましょう」
場違いなまでに落ち着いた声に、ぎょっとして貞姫は顔をあげる。
ふりかえって、気の強そうな顔に、はじめて少女らしい、羞恥の色が走った。

「おやおや、ずいぶんな騒ぎになっているな」
ノンビリとした声がして、振り返ると、髪を解いたままの孔明が、いつのまにか馬良のとなりにいた。
「亮くん、寝ていたのじゃなかったのかい」
「あんな金切り声をあげられて、眠っていられるはずがない。やあ、これはまた頭痛の種がきたな」
孔明はそう言いつつも、さほど困っているふうではない。
豊かな黒髪をうしろで緩くひとつにしばっただけの孔明は、前髪に落ちるハンパな髪束をかきあげつつ、趙雲と貞姫から目をはずさない。
「趙将軍をお助けするべきではないかな」
「まだ様子を見よう。子龍になにか考えがあるのかも知れぬ。それにしても、あの姫にも呆れたものだな。あの布の素晴らしさがわからぬとは」
孔明はそう言って、貞姫の態度をあきれている。
それについては、貞姫は非難されるべきではない、と思った馬良は黙っていた。

趙雲のほうはというと、呆れ顔で周囲を見回し、さいごに貞姫を見た。
貞姫と、その侍女たちは怯えうろたえ、地主一行は、正体のわからぬ男の登場に、怪訝そうにしている。
それらの視線を一身にあつめながらも、趙雲の態度は不動である。
「趙子龍、なぜそなたがここにいるのじゃ」
なんとか矜持を保たせようと、貞姫はつんと顎をそらして言う。
しかしあまり効果はあがっていないようだ。
趙雲は、貞姫を見下ろすような位置から、拝跪することもなく、立ったまま、答えた。
「休みをいただいたので、この村の旧知に会いにきたのでございます」
「嘘が下手だな。いや、つけないのか」
と、馬良のとなりの孔明がつぶやいた。
事実、貞姫は顔を赤くして、詰め寄った。
「嘘をつくな! 殿は、子龍の旧知はすくない、とおっしゃっておられた!」
「でも、いるのです。ともかく、それがしはここにいて、貴女様はここにいる。お尋ねしたいのであるが、もちろん、主公のお許しをいただいてのことでしょうな?」
「そのようなこと、そなたに関係ない!」
「関係はございます。それがしは留営司馬。奥向きの管理をまかされております。それがしの留守に、貴女様に勝手をされてはこちらも面目が立ちませぬ」
すると、貞姫は、眦をつよくして、鼻を鳴らした。
「では、わらわを家畜のように、縄で縛って連れ帰るとよい。できるものならばな」
「そうしてもよろしいのであれば、そういたしますが」
趙雲はそう言って、一歩、前へ踏み出す。
すると、あれほどまでに強気であった貞姫の顔に、はっきりとおびえと、同時に不可解なまでの悲しげな表情があらわれた。
劉備の夫人、といはいっても、まだ少女の幼さを残しているのだ。
趙雲にいじめられているとでも勘違いしているのだろうか。

つづく……

(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/08/06)

浪々歳々 9

2020年05月03日 09時50分25秒 | 浪々歳々
せまい村なのであっという間に噂がひろがり、

「なんだかすごい職人がいる」

というので、老いも若きも、農作業や家事の片手間に、ちょっと足を伸ばしてきて、こわごわと機屋をのぞきにやってくる。
ほかに娯楽のない農村であるがゆえに、盛り上がり方もはんぱではない。
その指の、素人離れした動きに感心した村人たちが、
「都から落ち延びてきた先祖代々の職人ではないか」
「ただの職人にしては立派すぎる。あれは養蚕の女神の遣いだ」
といった的外れな噂を好き勝手に口にしては、それぞれ想像をふくらませ、家に帰って行く。
家路に帰る途中で、空想は止まらなくなるらしく、さらに尾ひれ・せびれ・コバンザメまでくっつけた話を家族にするものだから、次の日になると、観衆はさらに増えだした。

ひまな老爺たちは、機屋の外の日の当たる場所に陣取り、したり顔をして、あらたにやってくる村人に解説をはじめる。
いま糸を取り替えただの、鳳凰の羽根の部分にとりかかっただの、疲れて肩を回しているだの…
なにより厄介なのは、集落のどこにでもいる悪ガキたちで、彼らが、戸口の外にまるっきり眼を向けない孔明の気を引くために、石を投げようとするのを止めるのが、馬良の仕事になっていた。

孔明の『天才の技には集中が必要』、という言葉は本気であった様子で、もともと集中力が高いのであるが、それを極限まで高めて、機織に向かっている。
もともと、ちゃらんぽらん、という言葉とはほど遠い性格であったが、馬良は、これほどすさまじい集中力を見せる孔明を初めて見た。
真剣なあまり、鬼気迫っている。

ときおり、なにが可笑しいのか、布をじっと見つめたまま、くすくすと声を立てて笑うのであるが、それを見ると、村人たちと一緒に、馬良もぞおっとして、思わず戸口から身を引いてしまう。

孔明の悪い癖として、ひとたび集中をはじめると、寝食を完全にわすれるのであるが、このときもそうであった。
馬良は何度も声をかけたが、孔明は返事すらしなくなる。

花嫁と花婿の家族は、見知らぬ人がこんなに頑張ってくれているのに、自分たちばかりゆっくりしているのは悪いから、と、
食事も寝所も湯も、こまめに世話をしてくれるのであるが、その恩恵にあずかっているのは馬良ばかりであった。
彼らにしてみれば、助けてくれる、というのはありがたいけれど、
やはり見ず知らずの人で、その腕もよくわからないから、信用してよいのか、それとも覚悟を決めねばならないのか、どちらにしてよいのかわからずに、祈るような気持ちでいるらしい。

例の花嫁も、落ち着かずにそわそわと機屋にやってきては、作業を見にやってくるし、花婿のほうも、馬良と一緒に、孔明の作業の邪魔にならないように、村人たちがあまり騒がないように注意をしている。
馬良は馬良で、孔明が集中のあまり、途中で体を悪くしないだろうかと心配をしていた。
そうならないよう、少しでも孔明を休ませようと思うのだが、孔明は、何を言っても気の無い生返事ばかりをかえしてくる。
それでまた、花嫁花婿一家は、よい職人にありがちな偏屈さかげんであるが、体はほんとうに大丈夫だろうかと、不安そうにする。
そんな周囲の不安と期待を一身にあつめつつ、孔明は機織に向かっているのだ。
どこにいても、みなの視線の中心にいる人だな、と馬良は感心する。

司馬徳操の私塾でもそうであった。

ほかの門弟たちが、お互いの暗記の知識を披露し合ったり、薀蓄を披露したりしているときでも、孔明は、人の輪からはなれて、書を読みふけっていた。
兄弟子たちは、からかって、それほど集中して読んでいるのならば、すっかり暗記をしてしまっただろうと、孔明に書物の暗誦を要請するのであるが、孔明はそれを鼻で笑い飛ばし、

「暗記? なぜそんな無駄なことに貴重な時間を使わねばならないのだね。
それよりも、この書物を書いた先人が、われらに何を伝えようとしているのか、そのことについて尋ねたまえ。だから君らは駄目なのだ」

と痛烈にやりかえす。
しかし、最後のひとことが余計であった。
激昂した兄弟子は、孔明の胸倉をつかみあげ、孔明はそれを乱暴に払いのける。
「なんだ」
「やるか」
の売り言葉、買い言葉で、例によって喧嘩がはじまる。
徐庶は、その場にいても、ぎりぎりになるまで(孔明が気絶する寸前まで)止めに入らなかったので、止める役はいつも馬良であった。
とはいえ、止めようとして、止められたことは一度も無く、どころか、喧嘩の輪に巻き込まれ、だれにも手出しをしていないのに、ぽかりとやられて、輪の外につまみ出されるのが常であった。
そうして、数倍にも顔が腫れあがった孔明と一緒に、並んで小川へ顔を冷しに行くのである。

しかし、こんなことを繰り返しながらも、門弟たちの視線の先は、いつも孔明であった。
生意気だのなんだのと悪口を言いながらも、彼らはみな、孔明の言動を気にしていた。
みなで相談して、なにかを決めなくてはならない、というときでも、みなは孔明の意見は「普段から生意気」という理不尽な理由で、まずは無視をするものの、時間が経つにつれ、なんだかんだと孔明の意見を採用して、ことに当たっていることが多々あった。
門弟たちは、態度がわるい、というので、孔明をいじめたりはしていたけれども、孔明の見識に関しては、みなが一目置いていたのである。
孔明も、どこかでそれを理解していたからだろう。
どんなにひどく殴られたときでも、孔明はほかの門弟たちのことを、批判することはあったけれど、個人攻撃をすることは決してなかった。

当時を思い出し、あのときは痛かったなあ、と頬をさすっていると、街道からぱっぱかと、気持ちのよい馬のひずめの音が近づいてくる。
趙雲が帰ってきたのであった。
馬良は趙雲が、腕のよい職人と、地主をひっとらえるのに十分な兵卒たちを連れて戻ってきてくれることを期待したのであるが、残念なことに、趙雲はひとりで帰ってきた。
馬良が、変わりはない、孔明の作業は順調のようだ、と伝えると、趙雲は深く肯き、糸をもって機屋に入っていった。
解説を担当している老人たちは、
「あらたな職人がやってきた!」
と、展開に動きがあったので、よろこんでいる。

「やあ、子龍、おかえり。糸のほうはどうだ?」
と、ここ二日で、はじめて孔明はまともに顔を上げて、人と言葉を交わした。
ずっと孔明を観察してきた側とすれば、珍しい機会にめぐまれている、というのに、趙雲は、ぶっきらぼうに答える。
「言われたとおりのものはすべて揃えてきた。ひどい顔だな」
お、と馬良は期待した。
趙雲ならば、孔明の作業の手をすこし止めることが出来るかもしれない、と思ったのだ。
孔明は『ひどい顔』の言葉に反応し、顔をしかめたものの、しかし両手はしっかりと織機から離れない。
馬良は、つづいて、趙雲の
「さあ立て。食事だ」
の言葉を期待したのであるが、意外にも趙雲はおもしろそうに孔明を見ると、そのまま、
「しまいまで気を抜くな」
と言って、あっさりと機屋を出てきてしまった。

「趙将軍、これでは軍師は五日後を待たずに倒れてしまいます」
馬良が抗議をすると、趙雲は肩をすくめて言う。
「それはそれで仕方あるまい」
「冷たいですぞ。主騎たる趙将軍のおことばとも思えませぬ」
「そうか?」
気を悪くしたふうでもなく、それだけ答えると、趙雲は馬を休ませるためにそのまま厩舎へ行ってしまう。
馬良には小石をぶつけてさんざん遊んでいた村の悪ガキたちも、いかにも強そうな趙雲には、おっかなびっくりと道を開けるばかりである。
機屋のほうを振り返ると、孔明はふたたび髪を振り乱し…あれほど身だしなみに細心の注意を払う男が、信じられないことであったが…とんとんからり、とんからり、と一心腐乱に機を織っていた。





夜になると、馬良は花嫁の家でご馳走を食べ
(ご馳走といっても馬良のような良家の子息にしてみれば質素極まりないものであったが、こんなひなびた農村では、それがたいそうなものなのだということは知れた)、一番風呂に入り、ぬくぬくとしたところで寝所に向かったのであるが、機屋のほうからはとんとんからり、とんからり、と、しつこく…
いや、相変わらず孔明の機を織る音が聞こえてくる。

しんとした農村に孔明の機を織る音が。
そして機屋には蝋燭の橙色のあたたかそうな明かりが灯されており、なにやらふしぎと郷愁をさそわれる。
しかし機屋をそっと覗けば、そこにいるのは夜なべをしている働き者の優しい母さんなどではなく、機織の鬼なのだが。

満点の星がきらきらと瞬き、こちらに話しかけてくるようだ。
ああ、家に帰ったなら、今度は妻子を連れてこんなふうに、用もなくあちこちを回るのもよいなぁ、としみじみしていると、不意に、
「ぐげっ」
と場をぶち壊すような巨大な牛ガエルが踏み潰されたような声がした。

馬良は仰天し、あわてて家の中に逃げようとしたが、つづけて、聞き馴染みのある声がした。
「痴れ者め、ネズミ如きにこの俺が倒せるか!」
こわごわと庭木の陰から、そばに置いてあった戸口のつっかえ棒を警棒代わりに手にとって、そおっと覗き見ると、
趙雲が庭にでん、と立っており、その足元には、あきらかに不審な男が『出』の字のようになって地面に倒れ付していた。
それを、趙雲が立ち上がらないように片足で踏みつけているのである。
「何事でございますか、趙将軍?」
「うむ、どうやら地主が雇った男らしい。判りよいことに、機屋に火をつけようとしておった」
それを聞き、馬良は、ぱっと顔を輝かせた。
「なんと! それでは、この男を役所に連れて行き、誰に雇われたものかを白状させれば、すぐに四方まるく治まりますぞ」
馬良の言葉に、趙雲はうむ、と生返事をする。気乗りではない様子だ。
馬良は怪訝そうに首をかしげた。
「証拠が無いとでも?」
「いや…実は糸を仕入れるついでに、この土地の地主について、方々から噂を仕入れてきたのだ。かなり悪辣な男であることは間違いない。
もし俺や軍師の名を出して告発するとみなに下知すれば、あっという間に証拠は集まり、裁きの場に引っ立てることができるであろう」
「ほう、小悪党の典型のような男でございますな。それでは話が早い」
「そうだ。話は早い。軍師が機を織る理由がなくなってしまう」
それもよいことだ、と馬良は思ったが、なくなってしまう、という、惜しむような趙雲の言い方が気にかかる。
「将軍は、軍師に機を織らせたいのでございますか?」
ハテ、亮君が、機織を好きだということは、私とて三日前に知ったばかりであるのに、趙将軍はもっと前から知っていたのかしらん、と思っていると、趙雲は答える。
「楽しそうだろう、久しぶりに」
「は?」
「旅であろうと、機織であろうと、無我夢中になれるものであれば、なんでもよい。細事にこだわり、眠れぬほどに煩悶するよりは、よほど健全だ。そうは思わぬか?」
「将軍は、軍師が、周瑜と己を比べることが細事であると?」
「そうではない。周瑜という男は、たしかに千年に一度の大器であっただろう。俺も軍師とともに江東に赴いたので見知っているが、実によく出来た男であった。だが、完成品であった」
「完成品?」
よいことではないか、と思うのだが、夜闇のなかの趙雲の顔は固い。

「そうだ。完璧なのだ。あまりに完成度が高すぎて、そこに飾りをつけることが出来ない。俺は口下手なのでうまく言えないのであるが…」
「つまり、将軍の言われる『飾り』とは、『想い』のことでございますか?」

馬良の補助に、趙雲はおおいに肯いた。

「そう、そうなのだ。周瑜は一人で完結している男だった。他者の想いを己に乗せることのできない男なのだ。排他的とは違うのであるが、完成された天才であるがゆえに、他者の入り込めるわずかな隙間すらない。
それに奇妙なことに、敵ながら実に素晴らしい男なのであるが、完璧であるがゆえに、だいたいの行動が読めてしまう。意外性がないのだ」

「矛盾している話ではありますが、わかる気がいたします」
ふと、馬良の脳裏に、ワガママな末弟の顔が過る。
わが弟ながら、孔明にも劣らぬ頭脳の持ち主である、とひそかに思っているのであるが、趙雲の言葉を聞いて、もやのような不安が沸いてきた。
馬謖が周瑜と似たような欠点を持っているような気がしたのである。

「俺は周瑜という男を目の当たりにするまでは、完璧な人物というものがもしいるのならば、その者が天下を取るだろうと思っていた。
だが、そうではない。完璧というものは、美しいが脆く、有限でつまらぬ。俺はいままで諸葛孔明という男が完璧に近づくためにはどうしたらよいか、そればかり考えていた。だがそうではいけない。それではあれの持つ無限の可能性をかえって潰してしまうのだ。
目指すべきは、主公のように清濁あわせ持つ、無限の器。もしあの破天荒な器にすこしでも近づくことができたならば、諸葛孔明はさらに一回り大きくなるだろう。だが、問題がある」
「どのような?」
「それに自分で気づいておらぬ。主公の前で平気でいられるくせに、周瑜を前にして落ち込むと言うのも未熟な証拠だ。周瑜とは違っていてよいのだ。諸葛孔明は周瑜になってはならない」

馬良はおどろき、うろたえていた。
なんという思い入れの深さ、そして期待であろう。
これほど大きな期待と思いを寄せられては、自分ではその重みでぐらついてしまう。
だが、孔明はちがうのだ…いや、趙雲は、孔明はちがう、と信じているのだ。
もはや主騎だから、親しい仲であるから、などといった理由だけでは表現しえない思いの強さである。
人の絆というものが、これほどまでに深くなるものなのかと、馬良はおどろき、うろたえた。
たとえ家族との間でも、自分はだれかとこれほどの絆を築けているだろうか、と。

片足で石ころでも踏んでいるように放火魔を抑えつつ、気むずかしそうに顔をしかめて語る趙雲を、馬良はまじまじと見た。
その視線で我に返ったのだろう、趙雲は、気恥ずかしいのを誤魔化すように、ぎゅっとその眉根を寄せると、わざと恐ろしい顔をして、踏み潰していた放火魔を拾い上げると、片手で軽々と持ち上げ、

「喋りすぎた。コレは俺が処理する」

と、怒ったように言った。
「どうなさるので?」
「一晩、豚小屋に繋いでおけば、いくらか反省するであろう」
気の毒だな、とその様子を想像し、馬良は身震いをした。
そんな馬良に背を向けて、趙雲はずるずると地べたの上で放火魔を引きずっていく。
夜風にぴゅうとさらされて、湯冷めをした馬良は、もう一度ぶるりと震えると、趙雲の背中に声をかけた。
「趙将軍は、お休みになりませぬので?」
「案ずるな。野宿は慣れている」
「野宿? なぜです。部屋はきちんと用意してくれておりますぞ」
趙雲は足を止めると、ちらりと孔明のいる機屋を見た。
だいぶ夜も更けているのであるが、暗さにもめげず、孔明の夜なべは続いている。
「俺は軍師の主騎だ」
つまり、孔明が機屋で夜なべを続けるかぎり、戸口にでも陣取って、夜警をするというのだろう。
「そういうことでございますか」
「そういうことだ。では明日。貴殿も早く休まれよ」
「お休みなさい」
遠ざかる背中に言葉をかけながら、馬良は、自身以上にその人物を理解してくれる友をもつ孔明に、嫉妬している自分に気が付いた。
そうして無性に家に帰りたくなった。
家に帰って、妻子の顔を見たい、と強烈に思った。


つづく……

(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/08/06)

浪々歳々 10

2020年05月03日 09時50分25秒 | 浪々歳々


心地のよい朝であった。
ほととぎすの鳴き声と、厨で食事の支度をしている女たちの気配で目を覚ました馬良は、しばらく寝台のうえでぼんやりとしていた。
村に逗留して四日。
すっかり馴染んで、小ぶりの部屋の、どこになにがあるのか、すっかり把握している。
洗濯をしてもらった衣を羽織りつつ、部屋を見回す。
質素な農家の一室である。
りっぱな機屋があり、家のなかに客室がきちんとあるのだから、質素といえども、貧しい、と括るほどでもない。
娘が文字を読めない、というのも、恥じることでもない。
家事に一日を追われる身で、勉学に励めというのはムリな話である。
それに家屋はまだ建って数年、といったふうで、調度品にも中原の文化を思わせる装飾がほどこされている。
どこか洗練されているのだ。
そういえば、ここの家人はみな、言葉がきれいだな、と馬良は思う。
洛陽を中心に考えて、そこから遠ざかれば遠ざかるほど、言葉はちがってくる。
広大な中国大陸では、その差も大きい。
まして南方の田舎村となると、通常の会話においてさえ、齟齬が生じるのがあたりまえなのであるが、この村に来てから、馬良は不便を感じたことが無かった。

今日は期日の五日目であるが、と思いつつ、馬良が機屋の様子を見るために表にでると、ざばざばと水音がする。
見ると、井戸のかたわらで、孔明が顔を洗っていた。
孔明は馬良に背を向ける形で、結髪をほどき、癖のついた黒髪を指で梳いている。
とうとう織物が完成したのだ。
「ごくろうさま、亮くん。言葉どおり、期日までに仕立て上げることができるとは、さすがだよ」
と馬良がよろこび駆け寄ると、その気配に、孔明は振り返った。

が、

振り返った孔明の顔を見たとたん、馬良の言葉から出たのは
「今すぐ眠りたまえ!」
だった。

孔明の容貌はひどいものであった。
双眸はまるで兎のように赤く、げっそりと頬はこけ、肌は全体に青白い。
あきらかに貧血だ。
それなのに目は奇妙に興奮して、らんらんと輝いている。
なまじ、元がすばらしく、本人も、すばらしい内容をさらに引き立てる工夫をつね日頃凝らしているだけに、くずれたときの反動はすさまじい。
まるで地の底から、封印された古代の神が数百年ぶりに這い出してきたような有り様であった。

「そんなに、ひどいかね」
孔明は、不思議そうにして、おのれの頬に手を当てる。
「鏡を見ていないのかい。まるで幽鬼か妖怪だよ。
村の人間が見たら逃げ出すくらいだ。
ほら、部屋は用意してくれているのだ。いますぐ眠りたまえ」

「うむ…たしかにまぶたが重い気がする。
しかしね、少しばかり語りたいのだが、機織というのはやはり、素晴らしい。機を織っているあいだは、頭の中にあった悩みはすっかり真っ白になっているのだ。
そうやって作業に没頭しているうち、わたしは悩むこと事態が馬鹿馬鹿しいということに気づいた。周瑜はたしかにすばらしい男であったけれども、だが、つまるところ私ではない。そして、彼は故人なのだ。
周瑜は私にとって、最高峰に位置する人間になるだろうが、なぜだろうね、ふしぎと必ずおなじ高みに登れる予感がしているよ。まるで生れ変わったような気分なのだ」

「それはいいことだ」
と、馬良は友の復活を、心から喜んだ。
表情は恐ろしげであるが、その上にきらめく明るさは、たしかに孔明のものである。
「趙将軍もきみのことを心配していたようだよ。会ったのかい?」
「ああ、布が完成したときに呼んだよ。彼らしく、「よくやった」としか言わなかったけれどね。いまは機屋にいるよ。
自画自賛はあえて避けたいところであるが、子龍は私の布を見て、言葉をなくすほど感動しているらしい」
「そんなに素晴らしいものなのかい」
「是非見てくれたまえ」
孔明は得意げに胸を張る。
そうして、馬良と一緒に機屋に戻ろうとするので、馬良は再度、眠るように諭した。
朝に眠るのは身体によくない、と、こういうときばかり常識を口にする孔明を、むりやり部屋におしこめるようにして、馬良は孔明を寝かしつけた。

そうして、出来上がった衣はどんなものかしらん、とわくわくして機屋に行くと、すでに趙雲と、花嫁一家がやってきて、完成品をながめていた。
馬良は、花嫁一家が、これで救われる、とよろこぶ様を期待していたのであるが、しかし空気が重い。
布を手にしている趙雲が、うなだれる一家に、
「努力だけは認めてやってくれまいか」
と、謝っている。
そんなにひどいものができてしまったのか。
しかし、確かに努力はしたのだ、ここはがんばって、友を応援してやらねば、と馬良は気負って趙雲の背中ごしに、ひょいと完成品を覗き見たが、
ひとめ見るなり、馬良はううむ、と唸ってしまった。

そこにあるのは、なんとも強烈な衣であった。
精巧かつ高度な技術をもって、織り込まれたであろうことは、素人目にも容易にわかる。
技巧的なものだけならば、すばらしいといえるのであるが、問題はその全体の印象であった。
天才の、天才たるがゆえの暴走で、布は出来上がってはいたものの、文様の形といい、その配置、配色といい、あまりに斬新すぎた。
ただ飾っておくだけならば目をみはるほどのできばえなのであるが、これを着てみたいか、と尋ねれば、十人が十人とも、
「きれいだけれど着たくない」
と答えるであろう。
機織に夢中になるあまり、実用的なことはすっかり頭からはじけ飛んでしまったようだ。
真っ白になったのは、悩みだけではないらしい。
実用を考えて、さらに工夫を凝らすことができるのが、つねに現場に立つ職人なのであるが、
孔明は職人ではないので、天才職人との戦い、つまり、機織の技術だけを追求してしまったので、キテレツな結果が生じてしまったわけだ。
それほどに、時代の先の先を行ってしまったシロモノが、そこにあった。
これを着こなせる女は、それこそ孔明のことばではないが、天才に立ち向かうくらいの峻厳な気負いでもって、袖を通さねばならないであろう。

馬良に気づいた趙雲が、がっくりとうなだれている家族のほうを気にしつつ、馬良の腕を取って機屋の外に出た。
「軍師はどうした?」
「寝ております」
「そうか、それではこの家の者たちが、おかしな気を起こさぬように見張っていてくれぬか。
俺はちょっとひと走りして」
「代わりの衣を市場から仕入れてくるのでございますか」
と、先回りした馬良であったが、趙雲は首を振った。
「いや、ちょっとひと走りして、地主の息子と話をつけてくる」
「…ハナシ?」

ぴんときた。
馬良は自分の勘の良さをうらめしく思った。
「ちょっと一走り、干し肉を買ってくる」
というくらいのさりげなさで趙雲は話をつけてくる、などと言ってはいるが…

「なりませぬぞ」
「話をするだけだ」
「なりませぬ! ただの話で終わるとは思えませぬ。趙将軍ともあろうお方が、なんという浅慮な」
趙雲は、ちいさくため息をつくと、頭を振った。
「わかっておる。しかし、ほかによい策が浮かばぬのだ。せっかく軍師の気持ちが持ち直したというのに、ここで娘を救えなかったとなれば、前よりもっと落ち込むであろう」

ああ、なるほど、と馬良はまた、理解した。
つまり、趙雲としては、花嫁一家にも同情している。
してはいるが、趙雲の中では、それより、孔明がふたたび自信喪失になってしまうことのほうが、ずっと大問題なのだ。
冷たいのだか、温かいのだかわからない人だな、と思いつつ、馬良は智恵をしぼってみた。

「そうだ、ゆうべの放火魔は如何なさいました。やつを役所に突き出して、地主が火付けを指示したと証言させる、というのは」
「うむ、あいつか。残念ながら様子を見に行ったところ」
「死んでいたのですか?」
「いいや。豚に囲まれつつ、元気に眠っていた。だが、くりかえすようだが、期日は今日なのだ。正規な手続きにこだわっていると、娘は救えぬ」
「困りましたなぁ」
とんだ休暇になったものだと思いながら、馬良はけんめいに智恵をしぼる。

馬良はいままでの経験から、孔明を絶対的に信じていた。
その期待を孔明は裏切ったことがない。
一度もだ。
だから、生じた結果について、こんなふうに頭を使わねばならないことは一度もなかった。
孔明にすっかり依存する癖がついていたと反省しつつ、馬良はあれやこれやと考える。
「やはり、市場へ行って、べつの衣を仕入れてくるしかないのでは?」
「これほどの精巧な技巧をこらした布はそうはあるまいよ。
市場で売っているようなものでは、偽物だとすぐにばれてしまうぞ」
そうして趙雲は、いささかやつれた顔をして、ぼそりとつぶやく。
「やはり話をつけに」
行くべきかと皆まで言わせず、馬良はさえぎった。
「このような田舎でその勇名を地に落とすような真似をなさってはなりませぬ。
第一、亮くんが眠っているあいだに、貴殿のそのような振る舞いを見過ごしたとなったら、亮くんは一生、わたしを許さないでしょう」
実際に、孔明は怒り狂うであろう。
その恐ろしいさまを、馬良は想像することすらできない。

趙雲は、馬良の言葉に、とりあえず肯いてはいるものの、どこか不満げだ。
孔明が朝方までずっと起きていたのと同様に、主騎である趙雲も眠っていない。
冷静沈着が売りの武将が、そこいらの猪武者と変わらぬ有り様に劣化しているのは、睡眠不足が原因なのだ。
「趙将軍、ともかく落ち着きなさい。布は、とりあえず完成をしているのです。もしかしたら地主は布を見て、たしかに約束どおりであるといって、おとなしく引っ込むかもしれませぬ。それまで様子を見ても悪くはありませぬぞ」
「いささか楽観的に過ぎぬか」

趙雲が漏らした、思わぬ弱気なことばが、馬良の世話焼き気質を刺激した。
それはつまり、過剰なまでに、人のためにおのれを犠牲にしても、なんとかしなくては、と努力をしてしまう、損で自虐的な行動の発動を意味していた。

「大丈夫、お任せなさい。私も亮くんとともに、司馬徳操のもとで学んだ男ですぞ。たかが地方の地主、亮くんがいなくても。なんとかしのいで見せましょう。
趙将軍は、地主たちが来るまで眠って、英気を養ってらっしゃい。ちょうど亮くんも眠っているのだし」
「大丈夫なのか」
と、趙雲は眉をしかめる。
その、いまひとつな自分への信頼に、ひっそりと傷つきつつ、馬良は孔明を真似て、胸を張って見せた。
「ええ、大丈夫ですとも。さあ、お休みなさいませ」
趙雲は、あまり我を張って眠らないでいると、かえって馬良を傷つけるのではないか、という心優しい配慮から、
あまり納得していない様子ではあるが、仮眠をとるために、去っていく。
馬良は、趙雲がすっかり見えなくなるまで、必死に孔明の様子を想像し、参考して、虚勢を張っていたが、
しかし実は、なんの策も浮かんでいなかった。

いまから実家に帰って、幼常(馬謖)によい策を立ててもらうというのは、ダメ?

ふと気づくと、機屋の戸口に花嫁と花婿の一家が立っていて、じいっ、と馬良を見ている。
どうやら、馬良が趙雲に大丈夫だと請け負ったところから会話を聞いていたらしい。
この細くてちいさな若旦那(馬良はふつうの身長なのであるが、身の丈八尺の孔明や趙雲とならぶと、たしかに小さく見えた)が大丈夫だと言っている。
それならば信用してもよいのかしら、という顔をしている。
馬良は汗をたらたら流しつつ、
「任せておくがよい、ぞんぶんにもてなしてもらっただけの礼はするぞ」
と、これまたよせばいいのに言い切った。

どんどんドツボにハマりつつある自分に、はげしい自己嫌悪をおぼえつつ、カラカラと高らかに笑ってみせると(孔明がいつもそうするからだ)、余裕綽々、というふうにゆったりと歩いて、さりげなく門を出る。
そうして人がいないのをたしかめて、猛然と走り出して、ちかくを流れる小川の土手へ逃げ込んだ。
孔明の機織のお守りがてら、ちょっと気分転換に外を散歩したときに、みつけた静かな場所である。

「ああ、どうしたらよいのだ!」

だれに言うとはなしに、おもわず小川のせせらぎに向かって叫んでみる。
しかし、答えるのは逍遥とした風の声ばかり。
ここでうまく危機を乗り越えれば、日ごろこうむっている孔明への恩を返すことができるし、孔明の面子も保たれる。
しかし乗り越えることができなければ、花嫁は地主の息子のもとへいかねばならなくなり、機織をすることで周瑜という男の存在を乗り越えるきざしをみせている孔明は、ふたたび自信を喪失する。
もちろん、孔明を援けることができなかった馬良も趙雲も、おなじくらいに落ち込むだろう。
責任重大ではないか、とあらためてことの重さにうろたえつつ、馬良はうなった。
しかしあせればあせるほど、よい策は浮かんでこないのであった。


つづく……

(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/08/06)

浪々歳々 7

2020年05月02日 10時16分11秒 | 浪々歳々


孔明の人生は、ハタから見る限り、あまり恵まれたものではない。
両親を早くに亡くし、故郷を曹操に焼き払われ、頼りにしていた叔父もほどなく死亡。
私塾にて親友を得るが、ことごとく、やはり曹操が原因で失い、劉備の軍師となったが、これまた弱小勢力で苦労の連続。
孔明が安定した生活を送っていたのは、襄陽の私塾に通っていた数年の間だけなのだ。
これまでの人生に、挫折がなかったわけではないだろう。
戦火を知らず、裕福な家に生まれた馬良には、孔明の歩んできた人生を、感覚として理解できない。
さまざまな苦労を重ねて、自ら道を切り拓いたのが孔明だと、馬良は思っている。
孔明は自分の才能を自慢するが、過去の労苦をひけらかしたり、愚痴ったりしたことは一度もない。
だから馬良は、友としてだけではなく、人として、孔明を尊敬している。
その孔明が、自ら、胸のうちに秘めた脆さを、はじめて口にしたのだ。
これは相当、周瑜という人物に圧倒されたのにちがいない。
馬良は、いろいろと励ましの言葉を考えた。
気にすることはない、君は君だ、とか、頑張って才を磨いて、周瑜に追いつくようにしよう、とか。
しかしそのどれも、結局、口にすることができなかった。
どんな励ましを述べても、孔明を傷つけるだけのような気がしたからである。
そうして、互いに暗い空気を背負ったまま、村に入っていった。





静かな村であった。
ときおり、飼っている鶏の鳴き声や、牛の低いうなり声が山間をよぎる。
小川が流れているらしく、さらさらと心地よいせせらぎの音もした。
だが、静か過ぎる。
なにか不幸でもあったのだろうかと馬良は思い、民家に目をやったのであるが、定番の泣き女の声も聞こえず、不気味なくらいにひっそりしている。
いや…それどころか、赤い提灯がぶらさがっている。
祝い事があるらしい。
なんだかおかしいなと思いつつ、馬を進めると、女の泣き声が聞こえてきた。
やはり葬儀でもあったのだろうかと、馬を下りて、そっと覗き見ると、おどろいたことに、みごとな礼装の娘と、その親族らしい女たちと男親があつまって、みなでしくしくと泣いているのであった。





室内の装飾から、村人たちの、素朴な風情ににあわぬ晴れ着姿といい、どう見てもめでたい華燭の典がおこなわれているふうに見えるのであるが、せいいっぱい飾り付けられた屋内で、なぜだか彼らはひとつところにあつまって、しくしくと泣いているのだ。

さてこれは、晴れて結婚となったわけだけれども、花嫁をあまり気に入らぬ花婿あたりが土壇場になって怖気づき、花嫁を置いて逃げてしまったのではないか知らん、と馬良は想像をたくましくした。
どちらにしろ、気の毒なことには変わりはない。
落ち込んでいるときに、もっと不幸な人を見ると慰められるのは、不謹慎ではあるが事実だな、と思いつつ、馬良は村人に声をかけた。
「どうしたのだね、そんなふうに泣いて」
しくしくと泣くのに夢中になっていた人々のうち、輪の中心になって、見事な牡丹を黒髪にさした娘が顔を上げた。
その初々しい顔を見たときに、馬良は、さきほどの想像を打ち捨てた。
まさに泥沼に咲いた清楚な一輪の蓮の花。
こんな娘を袖にして、逃げるばか者はおるまい。
「あなたさまは、どちら様でございますか?」
と、娘はしゃくりあげながらも気丈に尋ねてきた。
傍らでは、娘の母親とその親族らしい女たちが、「こんなのあんまりだ」とか、「世の中おしまいだ」といささか大げさな声を上げている。
「わたしは旅の者なのだが、すこし休憩をさせてもらおうかと思って声をかけたのだよ。取り込み中であるようだから、別の家を当たるが」
退きかけると、不意に袖をがっしりと掴まれる。
仰天すると、いままでいないと思っていた花婿らしい晴れ着の若い男が、地べたに転がっていたのである。
それが馬良の裾をがっしり掴み、泣きはらした眼を向けてくる。
どうやら、床に打ち伏したまま、おんおんと泣いていたようだ。
せっかくの晴れ着が泥に汚れているが、殴られた様子ではない。

若者は激情家であるらしく、馬良の服の裾を両手でしっかりとつかんで、がなるように叫んだ。
「見れば身分のあるお方のご様子。我らを哀れとお思いならば、どうかお助けくださいませ!」
馬良はおのれがヒヨワなことを知っている。
知っているがゆえに、危険に鋭い。
なんだか知らんが逃げるが勝ちだ、と直感し、足を引きかけたところへ、戸口から、ひょいと孔明が顔を覗かせる。
「どうしたのだね、良くん。いまふみ潰された牛ガエルみたいな声が聞こえたけれども」

馬良はつねづね思うのであるが、諸葛孔明という人は、あやしげな仙術を用いていて、じつは普段は魔法の目に見えない看板を首からぶらさげているのではなかろうか。
それはふつうの人にはみえないのであるが、困った人が見ると、そこに看板が掲げてあるのがわかるのだ。
その看板には、こうあるに違いない。

『当方、とてもお節介。よろず悩み事ひきうけます。お代は不要』

なぜそんな奇妙な空想をしたかといえば、孔明がただ顔を出した、というだけで、その場の泣き崩れていた人々が顔をあげ、まるで神さまがやってきた、といわんばかりに、ぱっと顔を輝かせたからである。
困り果てた人、弱り果てた人が、孔明の顔を見ると、千里の彼方から救い手がやってきたような顔をしておおよろこびするのは、今に始まったことではなく、いつ、いかなる場合においても、たいがいそうであった。
これは徳、というものなのであろうか。
馬良などは、人から期待されただけで、万事うまくこなさねば、と緊張してしまう。
まして他人にお願いします、と頼まれて、よしきた、まかせておけ、などと答えることは、なかなかできない。
馬良が孔明を尊敬するのは、孔明は実にあっさりと、
「よかろう」
のひと言で承諾してしまうからだ。
もともとお節介な気質もあるだろうが、おのれの能力に自信があるから出来ることだろうとも思う。
孔明の場合、結果がきちんと伴うわけだから、やはり、さすが、のひと言につきる。

とにもかくにも、孔明は、いきなり涙でくしゃくしゃになっている村人たちの視線が一斉に集まってきたので、面食らっているようである。
「だれか死んだのか」
孔明が遠慮なくずばり尋ねると、花嫁の母親らしい、農家の女将さんにしては気品のある顔立ちをした女が前に進み出て、袖で涙を拭きながら、孔明に答えた。
「これから死ぬのでございます」
「病かね、それとも事故か」
「どちらでもございませぬ。あたくしどもの誇りを示すために、死ぬのでございます」

花嫁の母の話はこうである。
このたび、めでたく娘と許婚の婚儀が整った。
今日がその日であったのだが、このあたりを治めている地主が待ったをかけた。
娘は村でも評判の機織名人なのであるが、今回の婚儀のために、地主から借金をした。
わずかな額であったのだが、今日になって地主が証文を持ってきたのを見ると、借金が数十倍にも膨れ上がっている。
おどろいて、なにかの間違いだと抗議したのだが、利子がついたのでこの額になった、証文があるので、払うことができなければ、娘は貰っていく、という。
この地主に、いささかオツムのあやしいドラ息子がいる。
この息子が娘に横恋慕をしていたので、親に泣きついて、無理にでも娘を自分の物にしようというのだろう。
その魂胆は、誰の眼にも見え見えであったし、地主への反発もあって、村人たちは総出で抗議をしたのであるが、証文の存在が重く、借金の返済を撤回させることができない。
しかしなんとか借金返済を五日後にまで延ばすことができた。
もちろん、五日で工面できる額ではない。
それを見越したのか、地主は、今度、劉左将軍の奥方に献上する予定の衣がある。その衣を五日後に作ることができたなら、借金は帳消しにしてやろう、と言い捨てて言った。
しかしどちらも無理である。
実は、娘は婚儀の支度の途中で、黄金の指先に怪我を折ってしまい、機織ができない状態なのだ。
しかし、かねてより近隣の豪族の娘から頼まれていた衣があり、これに手を加えればなんとかなりそうなのであるが、残念なことに、死ぬ気で機を織るにしても、糸が足りない。
これから買出しに行くとしても、大きな市のある臨烝へ行って戻ってでは、期日の五日は間に合わない。
かといって、唯々諾々と、地主の卑怯な要求を呑むわけには行かない。
ならば、誇りを示すために、ドラ息子に触られる前に死んでくれよう、と花嫁は言い出し、母親も、それでこそあたくしの娘です、と褒め上げる。
そんなふうで、せっかくの婚儀の場が、永のお別れをみなに伝える場となってしまった、というのだ。
地主が嫌味ったらしく残していった、証文の写しを見ると、正規のものであり、役場で問題にするのも難しい。
元金の数十倍、という利子の付き方が尋常ではないが、もともと借りた金というのが、証文の額と、花嫁たちの言う額とでまったく違うのである。花嫁が字を読めないことをいいことに、地主が嘘の金額を書いて、それをタテにしているらしかった。
だが、それを証明できるものがないかぎり、娘は地主の家に行かねばならない。


つづく……

(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/08/06)

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