こじれるまえに出て行くべきではなかろうか、と孔明のほうをちらりと見ると、いささかやつれ気味の青白い端正な横顔に、さきほどまでの余裕はなく、じっと趙雲と貞姫の様子を観察している。
そうして、孔明は、深刻なときにそうする癖として、きつく眉根をよせて、つぶやいた。
「いかんな、これは」
しかし、動こうとはしないのである。
「亮くん、やはり出て行くべきではないかね。趙将軍と夫人は、常日頃から反目しているのだろう? われらが出て行って、仲裁すべきではないかね」
そうだな、と孔明は言って、じっと趙雲たちから目をそらさずに、こぼれる前髪の束の先を、細い指先でもって弄ぶ。物を考えているときの孔明の癖である。
「われらの目的は、そもそも地主の邪な思惑から娘を助けることであった。そうだな?」
「そうだよ。だが、こうなると夫人の存在が大きいね」
「彼女の一声ですべてが決まるか。とはいえ、私まで出て行ったら、問題はさらにこじれるであろう。良くん、頼まれて欲しいのだが」
と、孔明は馬良に言った。
一方の趙雲は、貞姫と冷たい火花を散らしている最中であった。
地主一行と村人は、思わぬなりゆきに沈黙を守っている。
「そなたはほんとうに腹が立つ!」
と、貞姫は手にしていた布を趙雲に投げつけた。趙雲はそれを難なく受け止める。そうして手にした布を、丁寧に畳みながら、言った。
「そちらの地主は、か弱き村人を相手に、くだらぬ賭けをしたそうでございます。劉玄徳の妻である貴女様が、そのような賭けに入ってはなりませぬ。もちろん、ただ田舎を散策するつもりであったのでしょうな?」
「わらわが何をしようと勝手であろうが!」
「勝手ではありませぬ。貴女様の軽率な行動は、主公の名誉を傷つけます。それを黙ってみているわけにはまいりませぬ」
「なぜ決め付けるのじゃ! 将軍、そなたがわらわの何を知っている、と言うのじゃ! なにも知らぬであろうが! 奥向きでは、籠の中に閉じ込められたような息のつまった生活しかさせてもらえぬ、外に出れば出たで、軽率だのなんだのと責められる! わらわはこれでは人質ではないか!」
「人質ではございませぬ。大切な主公の奥方でございます」
ふたたび金切り声がひびきわたるかな、と予想した馬良であるが、しかしそうではなく、貞姫は泣きそうな顔をして、責めるように趙雲を見ている。
孔明は、馬良に素早く言った。
「いいかね、あくまで自発的にそう言った、というふうにするのだ。だれかに智恵をつけられて言った、というふうにはさせてはならぬ」
「むずかしいものだね」
「これが、当初の目的をいちばんに果たせる魔法の言葉だ。効果は絶大だぞ。さあ、頼む。いや、待ってくれ」
と、孔明は懐からまゆずみを取り出した。愛用の品らしい。
「亮くん、化粧までしているのか」
「病気のときや眠れない日がつづいたときだけね。相手に好印象を与える顔をつくる決め手は眉だよ。だから、とりあえず顔を洗うことと、眉を整えることだけは怠ってはいけない。それはともかく、きみのその眉は目立つから、これを塗って隠して行きたまえ。さあ、それでは頼んだよ」
孔明にうながされ、馬良は、内心はどきどきしながらも、あくまで自然に見えるように、茂みから出て、趙雲のそばへと向かった。
雲は、足音で馬良がそばに来たことがわかったようだ。振り向かずに、すばやく尋ねてきた。
「隠れていろと言ったはずだが?」
「軍師からお言葉を預かってまいりました。軍師が、夫人にこう言えと」
と、馬良が孔明から預かってきたことばを耳打ちすると、貞姫たちから視線をはずさないでいた趙雲が、はじめて振り返った。
「なんだ、それは」
「軍師曰く、コトをもっとも丸く治めることのできる言葉なのだそうです。将軍、演技力がためされておりますぞ。さっきのような下手なのは、ナシです」
「わかっている」
といいつつ、どこか緊張した面持ちで、趙雲は顔の筋肉を苦労していろいろ調整しつつ、なんとか笑みらしきものをつくって、貞姫に微笑みかけた…つもりだろうが、ぎくしゃくした歪んだ顔になった。
そうして、ほとんど棒読みで、言う。
「しかし残念ですな。この布は、奥方様によくお似合いになると思ったのですが」
とたん、それまで崩れそうなほど心細げな表情をうかべていた貞姫が、ふと表情をやわらげた。
「将軍、もしかして、そなたがその布をそのように仕立てよと指示したのか」
「そういうわけではありませんが、この布を織った職人をよく知っておりまして、けして悪気でこのように仕立てたのではございませぬ。奥方様ほどのご器量ならば、この布をうまく服にしあげて、着こなせるのではと思ったのでございますが」
「そう思うか。まことに?」
「それは」
運がよければ、と言いかけているのを察した馬良は、とっさに背後から小声で言った。
「趙将軍、お答えにならずとも結構です。笑顔だけでいいのですよ。笑顔、笑顔!」
「顔が引きつる!」
「そこを我慢なさい。ことを丸く治めるのには貴殿の笑顔が必要なのです!」
趙雲は仕方ない、というふうに軽く息をはくと、貞姫のほうに向き直って、とりあえず、笑みらしいものを向けた。
もとが端正なのでとりあえず様になってはいるものの、やはり嘘の気配がただよったうさんくさい笑みである。
しかし貞姫は急に大人しくなった。
「そうか。ならば、この布は受け取ることにしよう。わらわは帰る。将軍はもちろん、わらわとともに帰るのであろうな?」
と、貞姫はちらりと上目遣いに趙雲を素早く見て、それからすぐに顔を怖くしかめた。
そうして、はじめて馬良は、孔明が、急に深刻な表情になった理由を悟った。
これはたしかにまずい。
隣の趙雲を見ると、ともに帰ろうといわれて、渋っている。
どう対処すべきかと茂みを振り返ると、孔明が馬良においでおいでをしている。
すっかり伝令役となった馬良は、貞姫たちにその存在が知られていないのを幸い、孔明のもとへ戻った。
「子龍に、姫とともに帰れと伝えてくれないか。私たちは大丈夫だと。ただし、慎重に、と」
「大丈夫かい、亮くん。夫人のあの様子からすると」
みなまで言わせず、孔明は馬良の言葉を止めた。
「子龍は気づいていない。教えてはだめだ。あの男のことだから、事実を知ったとたんに、不器用であるから、態度がおかしくなる。あの姫は敏感にそれを悟るだろう。そうなったときのほうが恐ろしい。知らないままでいいのだ。あとの対処はわたしが考える」
「我らが考えて、どうにかなるものだろうか」
「どうにかせねばなるまいよ。まったく、ノンビリ落ち込んでいる場合じゃなかった。大変なことだぞ。良くん、わかっているとは思うが」
「もちろんだ。誰にも言わない」
「信頼しているよ。何度もすまないが、子龍に、先刻の指示を頼む」
馬良が趙雲のもとに戻って、孔明の指示を伝えると、趙雲はやはり嫌そうにしたが、しかし貞姫たちをそのまま置いておくわけにもいかず、しぶしぶ、というふうに貞姫たちと帰ることとなった。
※
そのあとどうなったかといえば、地主の要求は、布の献上という時点で果たされたので、狐につままれたような面持ちの村人と地主に、ことは治まった。
双方、これ以上の騒ぎはならぬ、と言って諭し、地主はまだ娘を得られなかったことに未練があるようであったけれども、騒ぐ理由がないので、くやしそうにしながら、おのれの屋敷に帰っていった。
孔明と馬良はふたりして連れ立って臨烝へ帰ることになった。
道中は、さして見るべきものはなく、趙雲のことがあるので、どちらかといえば重い気分で帰路をたどることとなった。
孔明はしきりに、
「自分の問題にばかり捕らわれていたのは未熟だった」
と反省し、一方で、
「江東の人間とは、とことん相性がわるい」
とこぼしていた。
とりあえず、孔明はこの休暇で、持ち前の明るさを取り戻し、めでたしめでたしになるはずであったが…
貞姫のことに関しては、歴史が後日談を語る。
なので、あえてここでは語らない。
※
そんな休暇があったのも忘れていた、数年後のある日のことである。
孔明は成都の郊外を、みずから馬車を引いて、となりに養子の喬をのせて走っていた。
それというのも、最近、成都の郊外に、機織技術の抜きんでている集落がある、と聞いたからであった。
できれば彼らを街中に移住させ、貿易の要となる錦の質を向上させようというのが孔明の狙いであった。
何度か役人を差し向けて、移住をうながしていたのだが、彼らはなかなか首を縦に振らない。
どうも移住してきたばかりで、また土地を動かねばならないということと、成都は、主が変わったばかりで政情が不安定だということが、彼らをしぶらせているようである。
ただ、非常に腕がよい職人がそろっていると聞いたので、それは惜しいと思った孔明は休暇を利用して、自分で村におもむくことにしたのだ。
段々畑のあるのどかな農道を走っていたときに、となりの喬が、手綱をひく孔明の袖を引いた。
みると、あぜ道で、老人たちが作業の手をとめて休憩をしているのである。
なんてことのない風景であったが、何が気になるのだろうと馬をとめると、老人たちもこちらに気づいた。
そうして喬は馬を下り、あぜ道をのぼっていく。
孔明はそれから、ゆっくりとその後を追って、あぜ道をつづいた。
身なりのよい少年が近づいてきたので、老人たちは愛想よく目を細めていたが、あとからやってきた孔明をみて、
「あっ!」
と声をあげた。おや、自分が何者か知っているのかな、と思った孔明であるが、老人のつぎの言葉は意外なものであった。
「いつかの機織職人!」
「は?」
「やっぱりそうだ! あんた、なんで成都にいるの!」
もしもその場に馬良がいたなら、彼らが、孔明が機織をしているときに、集まってくる村人に解説をして暇つぶしをしていた老人たちだということが、すぐにわかっただろう。
よくよく聞くと、あの村は、結局地主の横暴に耐えかねて、村ごと土地を捨てて逃げ出したのだ。
彼らはもともと洛陽の機織職人集団であったのが、やはり戦乱に追われ、ながれながれて荊南にいた。
だからこそ、さほど土地に執着もなかった。
そうして益州こそ平和な土地と信じて、やってきた。
その後、培った機織の技術をつかって、なれない土地で生計をたてていた。
孔明が事情を説明したところ、説得するまでもなく、彼らは
「腕のよい職人でもある人ならば、われらのことをわかってくださるだろう」
とよろこんで、移住に承諾してくれた。
そうして、かれらが作った蜀錦は周辺諸国でも名高い貴重な貿易品となり、蜀が三国のなかでもっとも貿易の盛んな国として、栄えるのに役立ったのである。
おわり
御読了ありがとうございました。
(サイト「はさみの世界」 初掲載年月日・2005/08/06)