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三本脚で立つ~思考の経路

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BABYMETAL探究(モンスター考②)

2016-07-26 20:47:56 | babymetal
言うまでもなく、”いわゆる”「モンスター」とは、「恐ろしい・不気味だ」といった印象を与えるはずのものだ。
その意味から言えば、BABYMETALを「モンスター」と呼ぶことは、不当な行為なのかもしれない。
しかし、その発現の仕方は真逆であるにせよ、僕たちが”いわゆる”「恐ろしい・不気味な」「モンスター」に感じる「圧倒的な畏怖」と同質の感情を、BABYMETALにも感じていることは(少なくとも僕にとっては)事実なのである。

例えば「裏モンスター」「逆モンスター」などと称すれば、より的を射た形容になるのかもしれないが、それも煩わしいので、「恐ろしい・不気味だ」ではない「カワイイ・美しい・何ともチャーミングだ」という向きのベクトルでの「モンスター」として、BABYMETALを考えてゆくのである。

僕たち昭和生まれ・育ちの日本人のおっさんは、例えばキングギドラという「モンスター」に、そうしたBABYMETALの「美しさ」にも似た「圧倒的な畏怖」を感じてきたはずなのだ。あるいは、例えば、水木しげるを介して、さまざまな妖怪たちに可愛ささえ感じてもきたのだ。

『モンスターの歴史』(ステファヌ・オードギー著 創元社)の冒頭近くにこんな記述がある。
世界中どんな地域のモンスターにも、さまざまな種類のものがある。だからそれぞれのモンスターがもつ個別の性質について見ることは大事だ。しかし共通していえることは、自然界でも芸術作品のなかでも、モンスターはなによりもまず、「過剰な存在」だということだろう。

そう、なのだ。
BABYMETALが、僕の半世紀以上の人生遍歴上でこれまで出会ってきた、様々なミュージシャンや歌手やバンド等と隔絶しているのは、ひと言で言えば、その圧倒的な「過剰さ」、である。
あらゆる音楽の中でその激しさ・速さ・喧しさにおいて一つの極に位置する「ヘヴィメタル」と、この世のあらゆる存在のなかでも眼を和ませ頬を緩ませる存在としての一つの極である「美少女」3人の、それも、見たことのないキレッキレの舞踊。
こんな「過剰な」、享受する側から言えば「贅沢な」存在であるBABYMETALに出会ってしまった後では、他のどんなミュージシャン・歌手・バンドも、何か物足りない。
BABYMETALがいかに「濃厚」か、ということの証左だ。

アイドルとメタルの融合、「KawaiiMETAL」、という「交雑」の「構造」そのものが、そうしたBABYMETALの<モンスター>性を孕んでいる、ということについて前回触れたのだが、BABYMETALがとんでもない面白いのは、「METAL」要素・成分以上に、その「Kawaii」要素・成分の方が、よりモンスターぶりを発揮していることにある。

それは、端的に言えば、BABYMETALが「アイドル界」にではなく「メタル界(あるいは、もう少し広げるならばラウドロック界)」に軸を置いて活動しているところから来る。

つまり、BABYMETALは、2014年7月以降、その活動拠点(の片足?)を本格的に海外においたことによって、より巨大な「モンスター」となった、ということだ。
まさに紙芝居(キツネ神のお告げ)通りである。(この、フィクションと事実との絡み合いも、「モンスター」としての大切なポイントである。次回以降いずれ詳しく考えたい)

2014年3月2日の「黒い夜」メタルレジスタンス第1章完了までは、(「黒い夜」ラストの紙芝居に明らかなように)いわば「METAL」をアイドル界に持ち込むべく、メタルの神に選ばれた3人が奮闘を重ねる、という構造になっていた。この時点でのメタルレジスタンスとは、「アイドル界(あるいは、もう少し広げるならばJ-POP界、日本のポップ音楽界)」におけるメタル復権、といったものだった。
がしかし、ここまでは、群雄割拠のアイドル界においては、高品質のパフォーマンスを見せるアイドル、あるいは、かなり本格的なメタルにまで踏み込んだアイドル、という程度であり(それでもラウドパーク、サマソニ出演や、女性アーティストとしては史上最年少の武道館公演という「快挙」を成し遂げた、先鋭的な存在ではあったものの)、現在のBABYMETALが僕たちに見せている「モンスター」ぶりとは質が異なるものだ。
モスラで言えば、幼虫モスラであって、今の成虫モスラとは未だ殆ど別物であった。

「逆輸入アイドル」などという言い方が昨年あたりにはよくなされた。
国内のアイドル中心の音楽シーンを場にしてBABYMETALを語るならば、そのような言い方にならざるをえないし、実際に、海外でのウケ方に衝撃を受けてBABYMETALの凄さを認知したという国内ファンの方も大勢いるだろうから、「逆輸入アイドル」という形容は決して間違いではないのだが、それではBABYMETALの「モンスター」ぶりは今ひとつ見えてこない。
(さらには、「経営コンサルタント・評論家」達の「BABYMETALの成功の原因は・・・」等の妄言が跋扈するのも、そうした目で「BABYMETALという企画の成功」をとらえてしかいないためであろう。その「モンスター」ぶりが見えて(感じられて)いれば全く語り方が変わってくるはずなのだ。というか、その「モンスター」ぶりへの「圧倒的な畏怖」(という正しい反応)があれば、「ああ、これはBABYMETALだからBABYMETALたりえた空前絶後・唯一無二の事態なのであって、一般化・普遍化・法則化などはできないよなあ・・・」と口を噤んで嘆息するしかないはずだと思うのである)

文化人類学に、<まれびと><異人>という概念がある。

BABYMETALの「モンスター」ぶり、その本質(の一つ)とは、「メタル界(ラウドロック界)への<まれびと><異人>」というものであるはずだ。

2014年の武道会2DAYSまでは、あえて言えば、「アイドル界へのメタル界からの<まれびと><異人>」がBABYMETALのメタルレジスタンスだった、ということか(紙芝居ではそのようなストーリーが語られる)。
しかし、爛熟したアイドル界においては、BABYMETALの3人であっても、<まれびと><異人>ではなく、「ああそういうのもアり、だね」といったかたちで消化されてしまう。国内のアイドル界はあまりにも「なんでもあり」でありすぎて「なんじゃこりゃ!」が発生しえなくなっているのだ。

しかし、とりわけ象徴的なのがソニスフィアというメタルフェスだが、海外のフェスやコンサート会場に登壇し、パフォーマンスを繰り広げるBABYMETALとは、まさに<まれびと>であり<異人>であった

『異人論序説』(赤坂憲雄 ちくま文庫)には、次のような詩的散文による定義がある。

あらゆる境界は、わたしたちの想像や夢の源泉であり、始原のイメージ群が湧きいづる場所である。世界という存在の奥底をのぞきこもうとする誘惑と、寡黙な存在をことごとく征服したいという欲望とが、そこには渦をまき、蓄積されている。
<異人>とは、共同体が外部に向けて開いた窓であり、扉である。世界の裂けめにおかれた門、である。内と外・此岸(こちら)と彼岸(あちら)にわたされた橋、といってもよい。媒介のための装置としての窓・扉・門・橋。そして、境界をつかさどる〈聖〉なる司祭=媒介者としての<異人>。知られざる外部を背に負う存在(もの)としての<異人>。内と外が交わるあわいに、<異人>たちの風景は茫々とひろがり、かぎりない物語群を分泌しつづける。


メタル界(あるいはラウドロック界)という「共同体」に、海を越えてある日突然舞い降りた、何ともカワイイ「知られざる外部を背に負う存在(もの)としての<異人>」
例えばソニスフィア・フェスの約30分ほどの映像を通して観ることによって、当日の観客たちの、BABYMETALとのそうした初「遭遇」の衝撃を僕も追体験できるような気がする。

もちろん、純粋に音楽的なパフォーマンスとして、楽曲の完成度、神バンドの演奏の完成度、SU-METALの歌声の魅力、それらのとんでもなく高いクオリティが、会場の6万人(?)のメタル魂をゆさぶった、ということがまず何と言っても大きいのだろうが、しかし、BABYMETALの魅力は、そうした純粋な音楽的な要素だけでは語りきれないことは、言うまでもないことだ。

それを何と言っても先鋭的に具現・表出するのが、YUIMETAL・MOAMETALの舞踊である。
これがあるからBABYMETALは<異人>なのであり、「モンスター」なのである。

僕がBABYMETALに魅了されたのが、「メギツネ」のMV一発であったことは、ここに何回か書いたが、まさに「過剰さ」が詰まったあの優れたMVの中の、「とどめ」というべき絵姿が、ラスト近くのYUI・MOAの扇風機ヘドバンであった。

美少女アイドルの典型的なカワイイ属性であるツイン・テールとリボンが、あの舞踊においては、ヘヴィメタル(ラウドロック)を見せる「演」奏と化している、その衝撃よ!

まさにBABYMETALの<異人>としての「モンスター」ぶりが、あの数秒間に鮮明に露呈しているのだが、そうした瞬間はBABYMETALにはぎゅうぎゅう詰めであり、魅了されるツボ(地雷)はいたるところに偏在している

その「過剰さ」、すなわち「モンスター」。

メタルなのだ。ラウドロックなのだ。
それが、カワイイ美少女アイドルの表情や身体による「演」奏としてビジュアルとしてキレッキレに具現化・表現されるという<異人>ぶり。(もちろんSU-METALがまずありきなのだが)YUIMETAL・MOAMETALの舞踊とは、まさに「内と外・此岸(こちら)と彼岸(あちら)にわたされた橋」だと呼ぶべきものだ。だからこそ、彼女たちのステージ上での一挙手一投足は、神々しさを放ち、しばしば僕たちの涙腺を緩ませるのである。

観客動員とかチャートとかの結果論としての「モンスター」ではない。
YUIMETAL・MOAMETALの容貌・立ち居振る舞い・その舞踊さらにはその存在そのものがメタル(ラウドロック)の「共同体」においては<異人>だという意味で(も)、BABYMETALは正しく「モンスター」なのである。

だからこそ、

このようにモンスターはつねに、両極端の反応を引きおこしてきた。人びとはモンスターを崇拝するか嫌悪するかのどちらかで、どちらでもない無関心な状態というものはありえない。しかしこの崇拝と嫌悪というのは、じつのところ表裏一体なのである。モンスターはその語源から考えると「汚したり汚されたりせずには触れることのできない存在」、つまり「神聖な存在」であり、この神聖さこそがモンスターの本質だと言える。
『モンスターの歴史』


まさに、これは(他のミュージシャンや歌手やバンドとは異なる)BABYMETALについての謂だろう。

いつも笑顔だから気づきにくいが、もちろん、BABYMETALはいつでも<異人>の悲哀、「モンスター」の悲しみを背負ってパフォーマンスを続けているのだ。先日のFUJIROCKでも、バックステージのFMラジオ等で出演者なのにディスられる、という仕打ちがあったようだが、これは彼女たちにとっては常の事態であろう。
認知度とか、人気とか、スポンサーがとか、電通がとか、ではなく、その存在の成り立ちとして<異人>であるがゆえの不可避の事態なのである。
それは、「モンスター」、<異人>である宿命なのだ。












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