ケルベロスの基地

三本脚で立つ~思考の経路

BABYMETAL探究(横アリ2日目参戦記(2))

2015-12-17 15:47:30 | babymetal
いまだに、3姫の乗ったゴンドラが会場の上空をゆっくり巡っている情景が目の前に浮かんでくる。

「原風景」と呼ぶのは間違った呼び方なのだろうが、もう人生の折り返し地点は確実に過ぎたはずの僕の残された人生の時間のなかで、事あるごとにたびたび思い起こすであろう、根源的な「聖なる」意味をもった光景であった。
そんな気がする。
(映像化されれば、何度も見返すことになり、記憶がさらにより鮮明に補完されるのだろう)

初めにゴンドラが登場し、予想に反してステージに降りずに客席の上空へとせりだしてゆくのを目にして、ステージから会場の後ろへまっすぐ渡って消えていくのかな、と思っていたのだ。ところが、ゴンドラの動きを統べている天上に配置された「線」を目で追っていき、いま何が起ころうとしているのか、これから何が起こるのか、理解したのだ。

その瞬間、涙腺がぶわっと崩壊した

東スタンドで娘と並んで見ていたから、ぐるりと周る最後に僕たちの前を(といってもアリーナではなかったので距離はあったがそれでもずいぶんと近くを。幕張ライヴのことを考えたら、至近距離といってもいいところを)赤い三角錐が過ぎってゆく。

物販で、買おうか買うまいか最後まで迷い、「迷ったら買え(?でしたっけ、買って後悔せよ、でしたっけ?)」の格言に従って、「ええい」と結局買ってしまったTrilogyTEE①3姫をトライアングル型にフィーチャーしたTシャツ、「ふだんはさすがに着づらいし、今日はこれ着て臨もう」とライヴ前にこれに着替えて(同じように考え、着替えたおっさんメタルヘッズも多いでしょうね)、1時間30分のライヴで汗だくにしていたのだが(スタンド席も全員総立ちで合いの手入れまくりでした)、目の前の赤い三角錐のゴンドラに載った3姫と、自分のTシャツのイラストとの照応に気づき、「そうか、そういうことだったのか!」と、今度は鳥肌が立ったのだった。

しかも、(「ららら」ではなく)「The One」(Kerrang!のKOBAMETALのインタビューにははっきりとこう明示されているから、正式決定なのだろうか)のメロディー、プログレっぽいソリッドで変態的なギターの速弾きがピロピロ鳴り続け、SU-METALの圧倒的な歌声(質も量も)が絶えることなく会場に響き続ける。

あれは、結局、何分間のできごとだったのだろうか?10分間くらい?
いずれにせよ、SSAでの「Road of Resistance」に匹敵する、新曲の超ロング・ヴァージョンであったが、とりわけ今回のは、もはや演奏という以上に「聖なる儀式」だ、と、そんな思いを持った。

赤い三角錐のゴンドラで宙を経めぐる3姫たちは、さながら、迷える(しかし絶対的な忠誠を誓う)下々たちを睥睨・閲覧する姫・皇女たち、といった佇まいだった。
僕には、そう感じられた。

それでいい、と思う。
いや、もうすでに、事実そう、なのだ。

僕たち(勝手に「たち」にして、ごめんなさい。でも、皆さん、気持ちは同様ですよね?)オッサンメタルヘッズ(あるいは洋楽好き中年~初老男)は、「姫さま」3人を支える「爺や」とか「男衆」とかのひとりでよいのだ、と。

それにしても、こうした3姫とファンとの「関係性」は、BABYMETALの「いま」だから成り立つものであって、例えばさくら学院とその「父兄」との関係性とは全く質を異にするものだし、今年6月の幕張ライヴ『巨大天下一メタル武道会』ですら、こうした<絶対的な崇高さ>を、これほど明らかなかたちで僕たちが感じることはなかった。

今回の横アリ・ライヴに関しての多くの方の感想を読んだが、(表現の仕方は異なるが)「これまでとは全く違う」というコメントをいくつも目にした。
このことは、単なる僕の一個人的な偏見ではなく、実際にあの日あそこで実現されたことが、会場の観客の多くに同じ印象を強く感じさせるものだった、ということだ。

単に、ゴンドラで会場の宙を一周するという仕掛けが斬新だった、ということではない。
その後の重大発表も含めて、これが「今」の(「今」からの)BABYMETALなのだ、ということ、それは今までのBABYMETALとも次元を異にするものなのだということ、その象徴的な表現を、僕たちはこの目でこの耳でこの身体で、心底感じた、ということなのだ。

ひと言で言えば、神々しさ、だ。

BABYMETALというアーティスト(?)パフォーマー(?)バンド(?)は、僕たちが経験してきたバンド、そこから想像できるアーティストたち、それらをすでにはるかに超えた存在になってしまっていた。

それを何といっても痛烈に体感させるのが、あの日のSU-METALの歌声だった。

横アリ2日目のラストを体験して、数日後のいま何か言えといわれるならば、まず出てくる言葉が、やはりそれだ。これも皆さん異口同音にそう述べているが、僕も口を揃えたい。

いやいや、もう、凄かった。さんざんBABYMETALを観倒し・聴き倒してきたファンが皆口を揃えてそう言うほど、あの日のSU-METALは凄かった

SU-METALの歌は、決して(テクニカルな意味で)「上手い」と感じさせるものではない。
にも関わらず、SU-METALの歌声は、聴くたびに、こころの奥まで浸み徹り、全身に響きわたり、僕たちの存在全体を揺さぶるのだ。涙を流させるのだ
そこが、他のいわゆる「私、歌上手いでしょ?」とビブラートを巧みに操る「歌姫たち」とは、全く異なるところだ。

「魂」というか、「まごころ」というか、全身全霊を籠めたさわやかな歌声、それがSU-METALの歌声だ。
暑苦しくはないのに、重たくはないのに、聴き手の身体全体に染みわたる。

そうしたSU-METALの歌声の”らしさ”が、これ以上ないほどリミッターを解除された楽曲、それが「The One」であり、そのある意味での最高の表現形態が、横アリでのあの場面だった。

女神のような、とよぶべき歌声が、崇高な雰囲気を纏った歌を、長時間ずーと歌い続ける。
目には、宙をへめぐる三角錐のゴンドラが、ゆっくり、僕たちの上空を巡るのが見えている。

そうした、明らかに自分たちの知見を超えた存在に対する感情とは、畏敬、帰依、といった感情だろう。(この夏に書いた「聖性」考に通じる)。
単に、楽曲が魅力的だ、演奏が凄い、歌がすさまじい、舞踊が超絶的だ、そして、とんでもなくカワイイ、というだけ(だけ、って…これだけでももちろんとんでもない至高のものなのだが)ではなく、彼女たちがその高い才能によって成すことが出来る成果に満足することも奢ることもなしに、常に”とてつもなく大きなもの”に立ち向かい続け(結果としてほとんどの場合見事に勝利し)ていくその姿は、神々しいとしか呼びようのないものだ。

一緒に参戦した娘だが、会場に向かう途中でいろいろとBABYMETALをめぐって話をするなかで、「3人とも、蹴り上げすごいよなあ」という言葉を発した。
蹴り上げ?
一瞬考え込んでから、ああ、と首肯したのだが、娘は少林寺拳法を10年近くやっていて、少林寺拳法では、SU-METALのメギツネでの「なめたらいかんぜよ」のあのキックのような蹴りを、<蹴り上げ>というのだ。
それなりに専門的な鍛錬の年月を重ねてきた娘(全国大会に出たこともある)が言うのだから、単に素人目に「キックもびしっと決まっている!」というのとは異なるレベルで、彼女たちのパフォーマンスは、細部に至るまで高度な完成度で濃縮されているのだ。

そうした多次元の完成度の中でも、その「核」がSU-METALの歌であることは、すべてのファンが首肯するだろう(BABYMETALの「魂」である、とここでも何度か形容した)が、その「核」「魂」の白熱が、とんでもないレヴェルで放射される、それを僕たちは目撃・体験したのだ。

ライヴ参加後の多幸感にずーっとひたっていよう、こんな拙い文章をコセコセ書いて感動を薄めるようなことはしないでおこう。このまましあわせに包まれた気分で年を越そう。
そんな思いもあるにはあったのだが、「World Tour 2016 USTour」の告知を見て、がばっと跳び起きたのだ。

姫たちが(過酷な)闘いに出ようとしている時に、下々の爺や・男衆である僕がのんびりしているわけにはいかない!

横アリライヴをめぐって、さらに「探究」をするのである!

(つづく)