輝ちゃんつれづれに 

最近はインスタ・LINE、スレッズを始めました。楽しかったこと、残しておきたいことを自分の言葉で書き込みます。

いつの間にか ラストスパートだ

2013年11月25日 01時15分31秒 | 日記

こんな間違えがあるなんて

俺は、「坂の上の雲七」を買ったつもりが

 

 

 

司馬遼太郎の第七巻」しか頭になかった。

ブログのアップ用に写真を撮った。

いつものように前巻と購入したのを並べて。

いつも表紙の裏に購入したメモを書く。

ページをめくった!違う!「竜馬がゆく」ではないか。

それまで全く気が付かなかった。

呆けてきたのかな?単なる間違いで許せる範囲なら。

慌てて今日、間違いなく「坂の上の雲七」を買ってきた。

 

 

 

空海の世界(一)(二)」を読了し、8月4日から坂の上の雲を読み始めている。

私は本を読む習慣がなかった。60を過ぎ、城山三郎を知ってから本の魅力に。

昨年、40何年かぶりに電車通勤をした。

三鷹-千駄ヶ谷間の時間を利用して司馬遼太郎を読み始めた。

せっかく読むのなら長編がいいだろうと。

(上)(下)」は実に面白かった。河井継の助になりきって電車に乗っていた。

そして、「竜馬がゆく(一)~(八)」を読み切った。

明治維新をかじったら、どうしても「坂の上の雲」を読まないと、と。

 

 

自分に言い聞かせよう

新聞を見ていて何気なく・・・くじけないで 柴田トヨ

そうなんだよ、力んではいけないんだ

一人ひとりに同じように陽射しや風は吹いてくる

受け止め方なんだ

素直になれるのか、ひねくれるのか

今日、草むしりをしていて頭が空っぽになった

猫の額しかない庭に何を苦戦しているのか、この自分

 

暑い、寒い、腰が痛い、雨が降っているとか理由にして先延ばし

雑草のたくましいこと

人に説教かます前に手と足を動かせよ

雑草に負けるなと

 

くじけないで

ねえ 不幸だなんて

溜息をつかないで

 

陽射しやそよ風は

えこひいきしない

 

夢は

平等に見られるのよ

 

私 辛いことが

あったけれど

生きていてよかった

 

あなたもくじけずに

 

 

 

 

 


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世の中はどうなっているの

2013年11月23日 22時47分35秒 | マツンのおもい

シドロモドロ

 

 

久しぶりに「シドロモドロ」ということばを思い出した。

東京都の猪瀬直樹知事 ばれちゃった5000万円

「知らないと言ったら知らない」から始まり、「個人の借用」というところにきている。

誰がどう見ても嘘を言っていると確信している。

往生際の悪い奴だから道連れを探しているんだろう。

ふつうに考えてください。

5000万円を紙袋に入れて渡す光景を。人の目を盗んでやっている?

どのくらいの厚さになるのかな?

トカゲのしっぽ切りでは終わらないだろうね!

個人の問題だからなおさら都知事の職を辞するのですね!一刻も早く!

一都民として非常に恥ずかしい。

亡くなった奥様が怒っていますよ!あなたらしくないよって!

最近俺と同じ年代が事を起こしているね!みのもんたさんはどこに行った!

 

ふじみまつりに参加

 

 

第1回 ふじみまつり クリーンプラザふじみ

三鷹・調布の「ごみ焼却場の紹介」と言った方が分かりやすい。

三鷹とばかり思っていたら住所は調布市なんだ。

三鷹市役所の隣にあるのに。平成25年3月に完成したばかり。

このような機会がないと見学できないから一人で行った。

つくっているときから煙突が気になった。初めは煙突とは思わなかった。

煙突は、高さ100㍍、幅10.5㍍。不気味な気もするが。

中にはエレベータもなく、保守・点検は階段を使うそうだ。

 

      

たくさんの人が      プラットホーム      ごみピット          ごみクレーン

      

パレット           エコワークショップ1  3階にあります      中央制御室

 

素晴らしい施設。大きいし、きれいだし。生活にはなくてはならない施設。

これからは自分のマチを自分の目で確かめようと・・・。

帰りに、野崎八幡に寄ってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (3)
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昔ばなし2_班広報誌”のがわ”に原稿を

2013年11月23日 20時21分17秒 | マツンのおもい

65歳・サードステージに立って

 

(1)かすかなおもいで

 

 私は昭和21年1月8日生まれの戦後一期生です。武蔵野市で生まれ育ちました。今の東京都立小金井公園テニスコート横の6畳一間のバラック小屋が私の生まれ故郷です。桜堤コミュニティセンターの広場(清水湯と松井医院)が遊び場のメーンだったようです。

 武蔵野は今振り返るとその当時からコミュニティがあったのですね。小学生の学芸会、盆踊り、そして是政まで海水浴に行きました。大人も子供も仲がいいのです。みんな知り合い。

 私が小学校に上がる時、吉祥寺にランドセルを買いにバスで出かけました。泥んこの五日市街道をエンストを繰り返し、クランクをまわしてやっと動く姿が瞼に浮かんでいます。初めて食べたラーメンが美味しかったこと、隣の模型屋さんがなぜか気になった。

 大沢にお住まいの先輩方はこの時代のありようは心と体に染みついていると思います。立川基地が近く、アメリカ兵がジープに乗ってきてチョコレートをくれます。「ギブミーチョコレート」という英語を知らない私の友達たちがアメリカ兵を取り囲みます。私はへそ曲がりですから見向きもしませんでした。

 あと嫌な思い出は「パンパン」です。子供心に「卑しい」という心が芽生えました。混血の子が生まれほっぽり出されるケースがほとんどでした。

 小学校1・2年生は玉川上水の土手を恵美ちゃんと歩いて武蔵境の駅前の第二小学校まで通いました。途中に幼稚園と高校があったのは覚えています。子供心にとにかく遠かったです。3年生からは武蔵野二中で複式学級。午前中は小学生、午後は中学生。そのころから給食が始まり、コッペパン、脱脂粉乳の日々。桜堤団地が誕生してから大きく変容。新設の境北小学校は5年生から。その時の先生方は初々しかった。自分たちが学校・日本の教育を作るんだという気概が子供心に突きささってきました。担任の中原先生は健在でまだ同窓会をやっています。

 

(2)三鷹市民に

 

 昭和53年4月22日に三鷹市民になりました。北野という世田谷よりの緑に囲まれたところでした。窓口と言うか市に対して一番困ったのは新川保育園がストライキで休園になったことです。今では当たり前ですが当時、専任の共稼ぎは少数派で休みをとるときつい目で見られました。そんなことが頭にふっと浮かびました。

 平成20年12月10日に大沢に引っ越してきました。以前、中学校訪問で三鷹7中に来た時、しびれるような感動を覚えました。一瞬、なぜ私は長野県の山の奥の中学校にいるのだろうかと。それほどのどかで包容力のある場所でした。

 国立天文台があり、大沢の里、野川公園、武蔵野の森公園、調布飛行場と素晴らしい自然が迎えてくれます。音、風、香りなどが自然との対話を楽しませてくれます。

 生き方の一つとして昨年、三鷹シルバー人材センターに登録しました。じき団塊の世代が年金生活に大量に入ってきます。豊かに楽しく老後を送るために共生、共学、共遊、共食、共創などが必要だと思います。シルバーこそが時代の中心になり元気なニッポンを創らなくてはいけないと思います。ちっぽけな私ですが何かのお役に立てればと思っている次第です。

 日野原重明先生は75歳以上の方を「新老人の会」として運動しています。三鷹市は従来のコミュニティと並行して、老人参加の新しいコミュニティの草創が必要かと思われます。その窓口として同じ年代の、体験を共有した人間が橋渡しになることが必要だと思います。同じ土俵に乗って、心と心のキャッチボールができる窓口になりたいと思います。

(大沢1丁目 松本輝一)

2011年(平成23年)4月


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出会い そして繋がりに

2013年11月23日 01時40分11秒 | マツンのおもい

藤沢市湘南台でのまなび

私は、NPO法人シニアSOHO普及サロン・三鷹の会員になっている。

そんな関係で昨日(11月21日)は、「ふじさわブログ村」に参加した。

藤沢市湘南台に遠征。

ブログを活用して地域活動、コミュニティビジネスする人の情報交換会。

前半1時間はブログに関する何でもQ&A。

あとの1時間は参加者の活動・ビジネスの自己紹介(ミニプレゼン)。

 キーワードは、「地域」「ふじさわ」「地域貢献」「シニアの地域参加」 「自分発信」など。

 誰でも関心ある人は、ここに参加表明して参加できます。会場にプロジェクターあり。

CS湘南2F会議室・・・カルチャ湘南台ビル内

なぜか、成り行きで進行役に

 

 

gooの苔口さんが少し業界の話と検索エンジンの歴史と活用を紹介。

gooというポータルサイトについて。

日本の検索サイトの歴史。

フェイスブックとブログの違い

フェイスブックとブログ両方使うメリット。

ブログの特長。

 

 

14名が輪になって「村」を始める。

最初は堅かった雰囲気が質疑応答のころから笑顔で意見交換。休憩後はアッピール時間。

それぞれみなさん実に特徴がある。

パソコンヒゲヤマ。

えのぽ|江の島・藤沢ポータルサイト。動画配信サイト。コラムの掲載。

コーラス。第九で忙しい。

第14回イルミネーション湘南台 点灯式の準備で忙しい。

台湾旅行の疲れが抜けない。

多世代の学びに関心がある。学校でないところの学びとは。

ジオラマ。文章は難しい。

自分の日記・記録と思っていたが・・・。読んでもらう術。

2時間があっという間に過ぎた。

 

     

 

8名が参加しての懇親会。盛り上がった。「しらす」は絶対食べに行かないと。

西東京・三鷹組は電車を乗り換え午前様。

中央線新宿駅。快速最終高尾行は朝のラッシュ並。大都会は夢の世界だ。

 

やっぱり大人の勉強会はすごい。小田急線に乗っている最中にフェイスブックで「村」の写真が掲載される。即時性がフェイスブックの特徴でもある。

 

そう思ったら苔口さんもフェイスブックにアップ。内容を紹介。

gooブログを利用していただいているシニアNPOのオフ会に参加しました。
シニアのITリテラシーは高いなぁと感じました。若者と同じスキルや知識をお持ちの方も多く勉強させていただきました。
リアルなコミュニティを補完するためにブログで継続した情報発信が大事だなぁと思いました。ブログは日記じゃないと再認識の夜でした。

 

自分で振り返ってみると、アナログ的な会も面白いですね。
人の話を聞いてあげようという雰囲気になり、話し手も聞いている人の反応を見ながら話せます。
講演会等、どこに行ってもプロジェクターがありパワーポイントの資料と説明です。

うんざりしませんか?

一番の手抜きは用意された資料がパワーポイントと同じという代物。
シニアだからこそ経験を生かしたプレゼンがあってもいいかな!と思いました。

 


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昔ばなし1_入院中に考えたこと

2013年11月21日 15時25分58秒 | マツンのおもい

日本固有の働きバチが、自業自得の入院生活を送っている。

リストラの嵐、また二十一世紀がカウントダウンされている複雑な社会の中で、自分の生まれ育った「戦後=自然=ふるさと」を振り返ってみたい。

 私は昭和二十一年一月八日、東京・武蔵野に生まれ、結婚する二十六歳の時までそこにいた。

正真正銘の「戦後一期生」である。

最近雑誌で知ったが、この年代には佐高信、青木雄二、落合恵子、吉永小百合等がおり、多彩な顔ぶれが揃っている。

 

■ 占領軍のキシム音の中で

 立川軍事基地に近く、上空は軍需飛行機の爆音、すぐ横を走る五日市街道が軍需街道であり、占領軍の物資輸送の騒音の中での怯えた幼少の生活。「ふるさと」といえば唱歌に出てくる「うさぎおいしかの山…」の情緒的な風情など縁がなかった。子供心に、きっちりと今でも胸に刻んでいるのは、ジープに乗ったMPが、鼻水垂らしたがきたちに「プリーズチュウインガム・チョコレート」というと、「ギブミー」と手を出し群がるがきたち。私は戦争に負けた日本人がなぜアメリカ人にへりくだるのか理解が出来ず、群れの中に入らなかった。嫌だったのがパンパンガール、身体を売っても心は売るなと。結果的には孤児(あいの子)が残されたのだ。

■ 自然たち

 一歩道路をへだてた横は一面の畑。その先は小金井公園。土の匂いだけが迫ってくる。人糞を肥やしにしていた時代。そこには隠れた名物「こえだめ」が所々にあった。日が暮れ太陽が沈むころ、遊び疲れ我が家に帰る途中「黄金の池=こえだめ」に落ちてしまった。今では経験できない、くさい思い出だ。真っ青な空、緑のじゅうたん、さらさら流れる小川が走馬灯のように浮かぶ。タニシ、エビガニを採り、無邪気に水遊びしていた情景が浮かぶ。たった五十数年ですべてを喪失。高度成長に溺れた我々の責任である。自動車の公害が玉川上水の桜並木を破壊した。あの子供の時見た花見は夢うつつだったのか。急流の上水は自殺の名所だった。太宰治もその仲間。ドザエモンが上がったといえば飛んでいき、夜中ポットン便所に怖くて行けない情けない自分。武蔵野といえば雑木林。夏のかぶと虫採りはおおいに興奮したものだった。

■ 戦後の生活は

 一番苦しかったのは水汲み。共同井戸からバケツで必要な分だけ運ぶのが私の役目。肩に食い込む天秤棒の重さは脂汗がにじむ思い出したくない断面である。そしてカマドの火起こし。当然マキ割りも。ご飯を炊くのは「初めチョロチョロ中パッパ…」というマニュアルに従って。生活は苦しかった。親父が大工で酒とバクチが好きで家に入る現金は僅か。おかずはさんまか納豆。七輪に火を起こし、どこの家の前でも子供たちがさんまを焼いていた。夕焼け空に消えるさんまの煙がむなしかった。じいちゃんと会う楽しみは週一回菓子パンをもらうこと。でも必ず酔っ払って狭山用水路に寝ている。菓子パンが食べたい一心で起こしに行く。翌朝、ご飯の上に乗せ、蒸らした菓子パンの味は忘れられない。

■ 遊びは

 陽が出てから沈むまで地球と喧嘩の日々。「メンコ」。相撲・俳優の絵がついたカード。力強く巧妙にカードを地面に打ち、相手が裏返れば勝ち。「ベーゴマ」も本気でやった。タルに布を張り場が出来る。コマの喧嘩をし、落とせば勝ち。コマの大きさ・角度等を研究し、やすり・グラインダーで加工し、自分流のコマ作りしたのを覚えている。「紙芝居」は話術もストーリーよりも、じゃら銭を出し水あめをなめるのが楽しみだった。今でも覚えているのは、どこからか「赤胴鈴之助」の曲がラジオから流れてくると一日が終わるのだ。

■ 夢は

 吉祥寺という「まち」に行くことが憧れ・夢であった。夢がかなう日が来た。ピカピカの小学校一年生。夢の吉祥寺で赤い新品のランドセルを買ってもらった。砂利道の五日市街道をゴトゴト走る木炭バスはすぐエンコ。運転手がクランク棒でブルン・ブルン。簡単にエンジンはかからない。占領軍の車が何気なくスーと走り去っていく。悔しかったこと。初めてのラーメン。うまかった。夢は近かったのだ。

■ 希望は

 小学校は武蔵境の駅前、遠かった。エミちゃんと手をつないで歩いた道はしっかり覚えている。いつも歌を口ずさんでいた。その曲が思い出せない。が、美空ひばりの歌だったのは確かだ。庶民を勇気づけ、日本の復興の柱となったのは歌だった。美空ひばりのリズミカルで、明日を切り開く明るい歌があった。また、隣から聞こえてくるギターの軽やかなメロデー「汽車の窓からハンカチ振れば…」で始まる高原列車がなぜか心に温まる歌だった。小学校一年の夢の絵は「モノレール」を描き、コンクールで賞をもらった。あとで上野動物園のモノレールを見て、俺の夢は何だったのだ。夢と現実のギャップに驚いた一幕もあった。

■ 学校の思い出は

 三年生の三学期、学級委員長に選ばれた。じいちゃん、ばあちゃんにすっ飛んで報告をしたのを覚えている。なにしろ、初めてで最後の経験だった。愛称「テルちゃん」はおとなしく、はにかみ屋で、先生に指されると顔が真っ赤になる内気な純情少年だった。四年生から近くの中学校での複式学級が始まった。同時に給食も。コッペパン、脱脂牛乳だけが脳裏に残っている。五年生で自分たちの境北小学校が出来た。担任の中原先生のビンタは有名。悪ガキばかりだから先生も大変。その境北小学校も少子化で合併され消滅。日本の戦後の生活は辛く・貧しく・厳しかった。が、庶民の心を支える歌が復興への大きな力だったと思う。ないないづくしの日本から、モノあまりの日本へ。

■ ニューふるさとの創生を

 たった五十数年前の「自然=ふるさと」は喪失してしまった。美空ひばりの歌を聞いた風景はどこに行った。復興・繁栄・崩壊のベクトルの中で、人の心を置き去ったツケだろう。二十一世紀を目前にした今、私たちは大きな変換点に立っている。デジタル時代の到来で世界中の情報が同一の水平地点に揃った。グローバル社会の中でインターネットの活用が社会を大きく変えるだろう。情報技術が発達する中で、変革・改革の嵐の中で大切なことは、人間の心を核におかなくては日本は廃墟となろう。アナログとデジタルの融合でニューふるさとを創生し、予測できない二十一世紀を豊かに生きる社会づくりに個々の力を結集すべきだろう。

 

 入院中に毎日新聞から募集のことを知った。ワープロを使わず、四百字の原稿用紙に鉛筆で書いた。漢字を忘れている。鉛筆を持ち、考えながら文章を書くのは自分の正直な心が反映されるだろう。粗末なものだが、入院中の記録として残したい。

 

 1999年6月24日、日本経済新聞の「春秋」欄に次のような文があった。

 …晩年に吹き込んだ名曲「みだれ髪」は作詞した星野哲郎さんにとっても忘れられない歌となった。福島県塩屋岬にひとり立ち、夕日を見つめていた星野さんは「類を見ないほどの不幸を背負い、しかも歌の女王としての地位を死守して、他人のために歌いつづけなければならなかった」(星野著「紙の舟」)美空ひばりを思った。…

 

昭和四十一年度 成人記念「かどで」武蔵野市

花ならば 白百合の花

星ならば 水色の星

あこがれは 清く明るく

二十歳 あゝ二十歳

幼い夢と われは別れん

 

昨日まで 甘えたけれど

これからは 大人の私

雨や風 たとえ吹こうとも

二十歳 あゝ二十歳

くじけず独り 我は歩まん

 

父のように 心豊かに

母のよう 笑顔忘れず

いつの日か 君に恋して

二十歳 あゝ二十歳

真心ささげ 我は嫁がん

 昭和四十一年一月十五日


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