日本固有の働きバチが、自業自得の入院生活を送っている。
リストラの嵐、また二十一世紀がカウントダウンされている複雑な社会の中で、自分の生まれ育った「戦後=自然=ふるさと」を振り返ってみたい。
私は昭和二十一年一月八日、東京・武蔵野に生まれ、結婚する二十六歳の時までそこにいた。
正真正銘の「戦後一期生」である。
最近雑誌で知ったが、この年代には佐高信、青木雄二、落合恵子、吉永小百合等がおり、多彩な顔ぶれが揃っている。
■ 占領軍のキシム音の中で
立川軍事基地に近く、上空は軍需飛行機の爆音、すぐ横を走る五日市街道が軍需街道であり、占領軍の物資輸送の騒音の中での怯えた幼少の生活。「ふるさと」といえば唱歌に出てくる「うさぎおいしかの山…」の情緒的な風情など縁がなかった。子供心に、きっちりと今でも胸に刻んでいるのは、ジープに乗ったMPが、鼻水垂らしたがきたちに「プリーズチュウインガム・チョコレート」というと、「ギブミー」と手を出し群がるがきたち。私は戦争に負けた日本人がなぜアメリカ人にへりくだるのか理解が出来ず、群れの中に入らなかった。嫌だったのがパンパンガール、身体を売っても心は売るなと。結果的には孤児(あいの子)が残されたのだ。
■ 自然たち
一歩道路をへだてた横は一面の畑。その先は小金井公園。土の匂いだけが迫ってくる。人糞を肥やしにしていた時代。そこには隠れた名物「こえだめ」が所々にあった。日が暮れ太陽が沈むころ、遊び疲れ我が家に帰る途中「黄金の池=こえだめ」に落ちてしまった。今では経験できない、くさい思い出だ。真っ青な空、緑のじゅうたん、さらさら流れる小川が走馬灯のように浮かぶ。タニシ、エビガニを採り、無邪気に水遊びしていた情景が浮かぶ。たった五十数年ですべてを喪失。高度成長に溺れた我々の責任である。自動車の公害が玉川上水の桜並木を破壊した。あの子供の時見た花見は夢うつつだったのか。急流の上水は自殺の名所だった。太宰治もその仲間。ドザエモンが上がったといえば飛んでいき、夜中ポットン便所に怖くて行けない情けない自分。武蔵野といえば雑木林。夏のかぶと虫採りはおおいに興奮したものだった。
■ 戦後の生活は
一番苦しかったのは水汲み。共同井戸からバケツで必要な分だけ運ぶのが私の役目。肩に食い込む天秤棒の重さは脂汗がにじむ思い出したくない断面である。そしてカマドの火起こし。当然マキ割りも。ご飯を炊くのは「初めチョロチョロ中パッパ…」というマニュアルに従って。生活は苦しかった。親父が大工で酒とバクチが好きで家に入る現金は僅か。おかずはさんまか納豆。七輪に火を起こし、どこの家の前でも子供たちがさんまを焼いていた。夕焼け空に消えるさんまの煙がむなしかった。じいちゃんと会う楽しみは週一回菓子パンをもらうこと。でも必ず酔っ払って狭山用水路に寝ている。菓子パンが食べたい一心で起こしに行く。翌朝、ご飯の上に乗せ、蒸らした菓子パンの味は忘れられない。
■ 遊びは
陽が出てから沈むまで地球と喧嘩の日々。「メンコ」。相撲・俳優の絵がついたカード。力強く巧妙にカードを地面に打ち、相手が裏返れば勝ち。「ベーゴマ」も本気でやった。タルに布を張り場が出来る。コマの喧嘩をし、落とせば勝ち。コマの大きさ・角度等を研究し、やすり・グラインダーで加工し、自分流のコマ作りしたのを覚えている。「紙芝居」は話術もストーリーよりも、じゃら銭を出し水あめをなめるのが楽しみだった。今でも覚えているのは、どこからか「赤胴鈴之助」の曲がラジオから流れてくると一日が終わるのだ。
■ 夢は
吉祥寺という「まち」に行くことが憧れ・夢であった。夢がかなう日が来た。ピカピカの小学校一年生。夢の吉祥寺で赤い新品のランドセルを買ってもらった。砂利道の五日市街道をゴトゴト走る木炭バスはすぐエンコ。運転手がクランク棒でブルン・ブルン。簡単にエンジンはかからない。占領軍の車が何気なくスーと走り去っていく。悔しかったこと。初めてのラーメン。うまかった。夢は近かったのだ。
■ 希望は
小学校は武蔵境の駅前、遠かった。エミちゃんと手をつないで歩いた道はしっかり覚えている。いつも歌を口ずさんでいた。その曲が思い出せない。が、美空ひばりの歌だったのは確かだ。庶民を勇気づけ、日本の復興の柱となったのは歌だった。美空ひばりのリズミカルで、明日を切り開く明るい歌があった。また、隣から聞こえてくるギターの軽やかなメロデー「汽車の窓からハンカチ振れば…」で始まる高原列車がなぜか心に温まる歌だった。小学校一年の夢の絵は「モノレール」を描き、コンクールで賞をもらった。あとで上野動物園のモノレールを見て、俺の夢は何だったのだ。夢と現実のギャップに驚いた一幕もあった。
■ 学校の思い出は
三年生の三学期、学級委員長に選ばれた。じいちゃん、ばあちゃんにすっ飛んで報告をしたのを覚えている。なにしろ、初めてで最後の経験だった。愛称「テルちゃん」はおとなしく、はにかみ屋で、先生に指されると顔が真っ赤になる内気な純情少年だった。四年生から近くの中学校での複式学級が始まった。同時に給食も。コッペパン、脱脂牛乳だけが脳裏に残っている。五年生で自分たちの境北小学校が出来た。担任の中原先生のビンタは有名。悪ガキばかりだから先生も大変。その境北小学校も少子化で合併され消滅。日本の戦後の生活は辛く・貧しく・厳しかった。が、庶民の心を支える歌が復興への大きな力だったと思う。ないないづくしの日本から、モノあまりの日本へ。
■ ニューふるさとの創生を
たった五十数年前の「自然=ふるさと」は喪失してしまった。美空ひばりの歌を聞いた風景はどこに行った。復興・繁栄・崩壊のベクトルの中で、人の心を置き去ったツケだろう。二十一世紀を目前にした今、私たちは大きな変換点に立っている。デジタル時代の到来で世界中の情報が同一の水平地点に揃った。グローバル社会の中でインターネットの活用が社会を大きく変えるだろう。情報技術が発達する中で、変革・改革の嵐の中で大切なことは、人間の心を核におかなくては日本は廃墟となろう。アナログとデジタルの融合でニューふるさとを創生し、予測できない二十一世紀を豊かに生きる社会づくりに個々の力を結集すべきだろう。
入院中に毎日新聞から募集のことを知った。ワープロを使わず、四百字の原稿用紙に鉛筆で書いた。漢字を忘れている。鉛筆を持ち、考えながら文章を書くのは自分の正直な心が反映されるだろう。粗末なものだが、入院中の記録として残したい。
1999年6月24日、日本経済新聞の「春秋」欄に次のような文があった。
…晩年に吹き込んだ名曲「みだれ髪」は作詞した星野哲郎さんにとっても忘れられない歌となった。福島県塩屋岬にひとり立ち、夕日を見つめていた星野さんは「類を見ないほどの不幸を背負い、しかも歌の女王としての地位を死守して、他人のために歌いつづけなければならなかった」(星野著「紙の舟」)美空ひばりを思った。…
昭和四十一年度 成人記念「かどで」武蔵野市
花ならば 白百合の花
星ならば 水色の星
あこがれは 清く明るく
二十歳 あゝ二十歳
幼い夢と われは別れん
昨日まで 甘えたけれど
これからは 大人の私
雨や風 たとえ吹こうとも
二十歳 あゝ二十歳
くじけず独り 我は歩まん
父のように 心豊かに
母のよう 笑顔忘れず
いつの日か 君に恋して
二十歳 あゝ二十歳
真心ささげ 我は嫁がん
昭和四十一年一月十五日