何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

シルバー&ワンコ敬愛の週

2015-09-21 23:53:39 | ひとりごと
<シルバーによるゴールドの輝き> 9月21日 敬老の日

シルバーウィーク真っただ中だが、シルバーウィークだろうが勤労に勤しんでおられるのが、シルバー世代かもしれない。

昨年の冬から調子が悪い風呂を、ガス屋さんと相談しながら騙しだまし使っていたのだが、最近ようやっと風呂の工事が終わった。
これほど時間がかかった理由の一つに、我が家と工務店の予定が合わず、工期が決まりづらかったというのもあり、それには我が家の事情もあったのだが、仕事のできる左官屋さんが激減しているという事情も大きい。
いつもお世話になっている工務店でも、仕事ができる大工・左官屋さんは40代以上で、その数は少なく、監督が務まるレベルとなると前期高齢者の方に頼らざるを得ないとか。出来上がった資材を組み立てる方式の家屋がトレンドなので、土壁、瓦のふきあげ、タイル張りの風呂など、昔ながらの日本建築の手法を受け継ぐ者が育っておらず、純然たる日本建築とまでいえない我が家程度の家でも、その修理ができる大工・左官屋さんの確保は難しくなってきているらしい。

大丈夫か日本の技術、と不安に感じていたところ、今日、庭師さんの話で更に不安になった。

松など特別な技術を要する庭師も育ってないらしい。
以前は数人の職人さんに入ってもらっていた庭も、職人さんの数が減っているのと、職人さんに任せるほどの庭木でもない(御大の判断)という理由から、ここ数年では松ともみじと鬼門に植わる柊だけを本職にお願いし、あとは家族総出で庭作業をすることにしている。
今日がその日であったため、腰が痛い。
生垣を刈りこみ、枯れ木も山の賑わい程度の木を(家族それぞれの趣味で)切りそろえ・・・・・本職の手による門被りの松以外は、スッキリしていることだけが取り柄の庭が出来上がった。
それはさておき、仕事のできる庭師さんも高齢化しており、激減しているらしい。
生垣バリカンでブンブンやるような仕事なら若い園芸屋さんも引き受けるらしいが、松などは、脚立に座り込むこむこと一日、枝振りを考え細かく剪定し、葉を刈るのでなく(一つ一つ)取る作業なので、たった一本の松に、ほぼ丸一日かかってしまう。
名だたる名園の仕事ならともかく、普通の庭の手入れは、コストと労力と根気と和の美意識、どれをとっても若者向きではなく、次世代が育っていないそうだ。

日本建築や日本の庭の美は、何も宮大工と特別な庭師だけで成り立っていくものではないはずだ。
幕末維新にかけて日本を訪れた外国人は、日本の一般家庭の庭の手入れの良さと、それらの集合体である町屋の緑の美しさに感動したと、何かで読んだ記憶があるが、日本家屋や日本の庭の美は、その裾野の広さ故に素晴らしいともいえたのではないだろうか。

江戸時代と現代の園芸(朝顔)をミステリー仕掛けで書いて面白かったのが、「夢幻花」(東野圭吾)だ。
江戸時代に盛んであった朝顔の新種開発の負の遺産を引き継いでいく家系の話であり、受け継ぐものとしては、ここで書いているものとは反対のベクトルが働くものではあるが、江戸の植木・庭熱が書かれている「夢幻花」には、ミステリー一辺倒でない面白味があった記憶がある。

受け継いでいって欲しい真っ当な技術や伝統すら継承が難しいのが現在だが、「夢幻花」は、園芸を通して負の遺産について語られている。
見て見ぬふりをして放っておいてその''負''が消えるなら、そのままにしておけば良いが、''負''であっても、いや''負''であるだけに負の遺産の持つ悪の力は大きい。
であれば、負の悪が広まらぬように見守る役目を誰かが引き受け、その役目を継いでいかねばならない、そんな印象を与えて終わる話だったと記憶している。

''負''を改めるどころか、狭い範囲にしか知られぬ''負''であるのをいいことに、悪用する悪知恵が跋扈するのが現代であるように見えて仕方がないが、お天道様のもと広く国民に行きわたってきた優れた技術は、広く健全に次の世代に伝わって欲しいと願う、シルバーウィークのど真ん中の一日であった。





<ワンコ愛護週間> 9月20日、動物愛護週間はじまる

先月、家族の生活リズムが変わるお盆期間に、ワンコが疲れないようにと点滴をお願いしたら、これがなかなか良かったので、月に一度は栄養補給しようということになり、先週も点滴をしてもらった。
診察台で気持ちよさそうに点滴を受けていてパワーがついたのか、夜鳴きどころか昼も鳴く事態となり、困り果て、シルバーウィーク初日、老ワンコをつれて実家(ワンコ誕生の犬舎)に相談に伺った。

我が家の家長は自分だと認識しているワンコは、実家の両親(犬舎の御夫妻)を親分と慕い敬っているが、犬舎に滞在することは、好きではない。
ワンコがまだ若かりし頃、(人間)家族旅行のためワンコを実家に預けた時など、ワンコは平気な様子を装いつつも、犬舎では飲まず食わずの行をして実家両親を困らせていた。
そんなワンコなので、昨日、実家に連れて行かれた時も、「宿泊か?」と恐怖心で胸が一杯になったのかもしれない、突然目を剥いてショック状態に陥ってしまった。
初めての事態に頭が真っ白になり取り乱す私達の前で、実家父は冷静にワンコを寝かせて心臓マッサージを施して下さった。
ほどなく呼吸が落ち着き、砂糖水を飲み、ケロリと元気になったが、その間たった数秒のことが、恐ろしく長く感じられ、それを思い出すと今も私の動悸の方が早くなるほどだ。

シルバーウィーク中は、我が家の前期ご老体に休養してもらうため、私達がナイトサービスをすると決めている。
夜鳴きだけなら夜通し抱っこでも添い寝でもして過すが、医療行為が必要な事態への対処は無理なので、不安材料が又ひとつ増え、澄んだ秋空には程遠い、寂しい連休を過ごしている。

<「犬の介護も人と同じ」20日から動物愛護週間> 産経新聞 9月20日(日)7時55分配信
ここをクリック!
記事には「人が動物からさまざまな恩恵を受けて生きていることを知り、動物に感謝し、命を尊ぶ心を育てる」とある。
ワンコが我が家に与えてくれる、愛や優しさやユーモア―は計り知れない、その宝物を大切にしながら、ワンコが過しやすい環境を考えていきたいと思うシルバーウィークの一日である。

辛い時、ツクバヤマハレ

2015-09-17 19:47:10 | 
水害の復旧も捗々しくないにもかかわらず次の台風が発生し、九州では今度は阿蘇山が噴火だというので、滅入っている。
実害に遭われている方には申し訳ないが、少しスカッとした青春モノなど読もうと思い手に取ったのが、「屋上のウインドノーツ」(額賀雫)だ。

舞台は茨城県の県立高校の吹奏楽部
何事にも自信がない引っ込み思案な少女・給前志音が吹奏楽部に入部し、東日本大会出場を目指すなかで成長していくという絵に描いたような青春モノ。
特に重いテーマを扱うでなし、素朴で単純な青春モノだが、この少女を吹奏楽部に勧誘し、その成長を見守ることを通して自分自身も成長する吹奏楽部部長の日向寺大志が、部の運営で困難にぶち当たった過去を引きずっている姿に、少し自分を重ねながら読んでいた。

かつて大志が所属していた中学校の吹奏楽部も東日本大会を目指していたが、部の運営をめぐり、揉めに揉めたあげくに暴力事件(もどき)を起こして出場を辞退せざるを得なくなったという古傷。
熱血教師と部員たち皆の願いは一つ、「東日本大会出場」で一致しているが、その目的達成のための方法論はそれぞれ違うため揉めに揉める。
教師の過激な指導方法、それに乗じる一部の生徒、それを良しとしない他の生徒。
目的は同じなのだからと、それぞれの間を取り持とうとする生徒、大志。
そんな大志に向けられる言葉は、「八方美人」。
この種の人間に向けられる言葉は、最高で「調整役」、悪くすると「優柔不断」「八方美人」、最悪の場合には「コウモリ」の非難を浴びる。

吹奏楽部のために良かれと思った行動が「八方美人」と非難されるが、非難されたことに怒るのではなく、皆に不快な思いをさせてしまったと反省する、そんな軟弱な姿が更に部員の苛立ちを招き、孤立感を深める大志。
音楽そのものから離れることを考えるまでになった大志を救うのは、やはり音楽・楽器を手にすること。
そして得た結論は、『辛い時に楽器にすがれる奴は、強い』
この言葉が、一人ぼっちで楽器演奏の真似事をしていた志音を救い、充実した高校生活へと導くことになる。

「屋上のウインドノーツ」に書かれるゴタゴタとその解決は、中高生の部活にありがちな事であり、青春モノとして読む分には笑って読み飛ばせるものではあるが、これは大人になるにつれ経験することになる(ちょっとした)組織運営の手法論問題のはしりであり、その難しさを今ひしひしと感じている自分としてはホロ苦い思いで読み終わったのだが、ともかく、この青春モノは登場人物が皆、実年齢に応じて気持ち良く成長し、爽やかなうちに話を終える。

最終章の題は「風は山から吹いている」、そして最後の一行も「今日も、風は山から吹いている」
茨城の若人の成長を見守る山は、どの山か、今日も風は吹いているか。



ところで、楽器が身近にある生活を長々としながらも真剣に打ち込んだことがないため、『辛い時に楽器にすがれる奴は、強い』という実感はないままにきたが、この言葉は確かなのだと思っている。
敬宮様を救ったものの一つが、音楽だと思うからだ。
初等科の頃、イジメもあって通学に不安を覚えておられた敬宮様が、通常の学校生活に戻られるきっかけとなったのが、管弦楽部への入部だといわれている。
管弦楽部に入部されるなり、朝練にも参加されるほど打ち込まれ、大聴衆を前に演奏されるまでになられたのだ。
また、女子中等科に入学されてからの半年ほど、色々悩まれたことがあったのだろう、夜が眠れず通学時間が乱れたといわれる時期がある。ご自分のお立場、ご自分が女子であることによる御両親のお立場、全てを理解される年齢となり苦しい時期がおありであったことは、ほんの少しの想像力と常識があれば分かりそうなものだが、マスコミは12歳の少女に向けるものとは思えないバッシングを敬宮様に浴びせかけた、それは見ているこちらの方が心が折れ痛むほどのものだった。
敬宮様がそこを乗り越えられるきっかけの一つも、音楽だと云われている。
当時、これほどのバッシングを浴びれば学内に居場所がないのではないかと(勝手ながら)心配したが、管弦楽部の演奏を聴くため音楽会にお出かけになった時を境に、通常の学校生活に戻られ、学内での百人一首大会や球技大会でリーダー的な存在として活躍されほど元気を取り戻されたのだ。(注、中等科では、敬宮様ご自身は管弦楽部に所属されていない)

お立場上つらい経験をされることが多い敬宮様が、その都度しなやかに立ち上がられる原動力が、御両親の揺るぎない愛情にあるのは当然のことだが、辛い時期に敬宮様の手にヴァイオリンを手渡されたのが、どのような逆境にあっても決して品格が揺らぐことがない皇太子様であることを思う時、その絆の強さに心打たれる。
以前、「イーハトーブの星」で、こう書いた。

「皇太子様には、幸せな人になって欲しいというより、どのような環境でも幸せを見いだせる人になって
 欲しい」
「皇太子・天皇という立場は孤独ゆえに、静かに自らを省みることが出来る人になって欲しい。楽器の練習に
 心を傾ける時間は、内省にも慰めにもなる」
との深いお考えから楽器を勧められ、皇太子様も研鑽を積んでこられたと、何かで読んだ記憶がある。

皇太子様から敬宮様へ、人として一番大切なものが受け継がれている。
皇太子様から敬宮様へ、日本の良き風は吹いている。

おもしろきこともなき世を

2015-09-15 19:18:18 | 
判官贔屓という言葉があるが、大体において私にもそのきらいはあり、勝てば官軍の好き放題よりは、二本松少年隊や桑名藩の辛酸に心痛め、小栗忠順や河井 継之助の新政府ならば、かくのごとき世にはならなかっただろうと思ってきたので、長州の志士について特に思い入れはなかったのだが、違う視点を与えてくれたのが、「花見るひまの」(諸田玲子)だ。

七つの短編からなる「花見ぬひまの」は、本の帯に「幕末の嵐の中で、赤穂浪士討ち入りの陰で、女たちは命を燃やしたー」とあり、作者自身もあとがきで「本書はすべて恋の話」と書いているので、主眼は恋なのだろうが、全編に登場するのが尼さんなので、その恋は時代背景以上に複雑だ。だが、私が感じ入ったのは恋バナでは、ない。

それぞれ独立した七編だが、高杉晋作と望東尼を書いている冒頭の「おもしろきこともなき」と最後の「心なりけり」を読み、これまでと少しばかり違う印象をもったのだ。
幕末維新といえば、尊王攘夷派であれ佐幕派であれ荒々しい益荒男だけが大手を振って歩いている印象があったが、福岡藩士の妻であり後に尼となった望東尼は、得意の和歌で勤王の志士を精神的に支援していただけでなく、物理的にも追っ手に追われる志士に隠れ家として自分の山荘を提供していたというから驚きだった。
この時代に、『今は内戦をしている時ではない』『開国前に日本を統一すべし』という明確な考えを持ち、そのために活動する(女性)勤王家である、望東尼。
この望東尼に匿ってもらう数々の尊王派の志士のなかに、高杉晋作もいた。
望東尼と高杉晋作は隠れ家で政を対等に議論する。
『今は戦をしている時ではない、ひとつになって異国に備えよと平野(國臣)さんも言うておられました。
 戦を仕掛けたのはまちごうていた、ということですたい。けど長州征伐はもっと悪い。
 とんでもないことです。同じ国のなかで戦うなんて・・・・・。
 長州には何としても、生き残ってもらわんとなりません。』
話は政だけでなく、歌人としても知られる望東尼の和歌にも及ぶ、その時紹介されたのが、この歌だ。

おもしろきこともなき世と思ひしは 花見ぬひまの心なりけり

この二人が山荘(隠れ家)で会ったのは一度きりだが、この後に今度は望東尼が高杉晋作に助けられる。
尊皇派への弾圧が厳しくなり望東尼は捕縛され姫島に島流しの身となるが、これを救い出すのが、既に胸の病に冒され病床についていた高杉晋作なのだ。
姫島から脱出したばかりで疲労困憊の高齢の望東尼と胸を患う高杉晋作は枕を並べて療養しながら、やはり政や歌を語り合う。
そこで生まれたのが、高杉晋作辞世の句として有名な、この句である。

おもしろきこともなき世を面白く 住みなすものは 心なりけり

この辞世の句には諸説あるようで、「おもしろきこともなき世をおもしろく」を晋作がつくり、下の句を望東尼が付け加えたという説もあるようだが、「花見ぬひまの」では高杉晋作の最期を見舞った折に、二人が昔を懐かしみ「おもしろきこともなき世と思ひしは 花見ぬひまの心なりけり」を捩って作られた歌だとしている。

庭いじりの愉しみを知る者としては望東尼の「花見ぬひまの」にも心惹かれるが、高杉晋作の辞世の句は「花見ぬひまの」を昇華させた感があり、更に惹かれる。
そして、あの時代に、男性と対等かそれ以上に政に取り組んだ女性がいたことと、そのような女性に同志として対等に向き合った志士がいたことを教えてくれた「花見ぬひまに」、こういう機会でなければ手に取ることがなかっただろう方向性、読んで良かった。

命がけで政に対峙した望東尼がこの世を去ってから、およそ150年。

<女性議員比率 日本9・5%で113位 なお先進国で最低水準> 産経新聞2015.3.5 16:09配信より一部引用
世界の国会議員らが参加する列国議会同盟(IPU、本部ジュネーブ)は5日、各国の議会に占める女性の割合調査を公表し、日本は今年1月1日現在で190カ国中113位だった。依然として先進国の中で最低水準が続くが、昨年1月1日現在の127位からは順位を上げた。

日本国の象徴である天皇家においては、男児がおられない長男御一家は立場を追われる危うさであり、男児を産めなかった皇太子妃は病になるまで追いつめられ、一粒種のお姫様は女児という理由で存在がないものとされている。

150年前から退化しての、最低水準は続いている。


ところで、大震災や大水害、度重なる噴火と、まったくもって「おもしろきこともなき世」である。現時点では、勿論それを「面白く」と往かぬのは当然だが、少しでも違う視点で希望を見つけて頂けるように、そして自戒の念も込めて、この歌を今一度書き記したい。

おもしろきこともなき世を面白く 住みなすものは 心なりけり



追記
一方的なこのブログでも、ワンコ生活&庭いじり&野菜作り、常念岳への想い、読書の愉しみ、そして応援したい色々などを書いていると、自ずと繋がりを感じることもあり、その中からヒントを頂ける日々に感謝している毎日です。

号外 二百十日の地の噴火

2015-09-14 12:48:32 | ニュース
二百十日はなんとか過ぎたが、どうもいけない。

東日本の大水害の被害の全容もまだ分からず、行方不明の方が数多くおられるなか、何を書くのも躊躇われていたが、躊躇っているうちに次の自然災害が日本を襲おうとしている。

<阿蘇山で噴火発生 警戒レベル3に引き上げ> 9月14日 10時14分NHKより一部引用
14日午前、熊本県の阿蘇山で噴火が発生し、噴煙の高さが2000メートルまで上がって火口周辺で大きな噴石が飛んだのが確認されました。
気象庁は噴火警戒レベルを入山規制を示す3に引き上げて中岳第一火口からおおむね2キロの範囲では大きな噴石や火砕流に警戒するよう呼びかけています。
気象庁によりますと、14日午前9時43分ごろ阿蘇山の中岳第一火口で噴火が発生しました。噴煙の高さは火口から2000メートルまで上がり、火口周辺に大きな噴石が飛んだのが確認されたということです。



この山域のカルデラ破局噴火の恐ろしさを書いた「死都日本」(石黒 耀)について書いた時、「二百十日」(夏目漱石)も併せて読んでいた。
(参照、「神坐す山の怒りの火」 「破局に終わらせない知恵を」 
    「伝承は神の教え其の壱」 「伝承は神の教え其の弐」 「神の教えを継ぐ皇太子様」

その阿蘇山まで噴火するとは。
「二百十日」は、阿蘇山に登ろうとする圭さんと碌さんの会話で話が進むが、身分と能力について等、この時代ならではの諸々を、漫談のような語り口に包んで強烈に風刺している。
「二百十日」で漱石が云わんとしたことは、私の解釈では、民衆は捨てたものではない、むしろ優秀な民を活かさぬようなら、そのような社会の方が間違っている。
阿蘇山が噴火したことで、又、噴火の本になるが、災害に屈しない民こそ国の宝だと信じられるような本を教えてもらったばかりだ。
「起返の記~宝永富士山大噴火」(嶋津義忠)

災害の本は当分は精神的にキツイと思い、今しばらく時が経ってから読むつもりだったが、「富士山噴火」(高嶋哲夫)では桜島の麓出身の自衛隊員の対応が冷静かつ迅速であったこと思えば、災害を「知っている」ということは、いざという時に大きな違いを生むのは確かだ。そうであれば、江戸時代に富士山噴火に立ち向かった「民」の覚悟を書いた「起返の記」を今読むことは、急がれるし必要なのだと覚悟を決めさせた、今日の噴火である。

ただ今この時は、阿蘇山の噴火が収束し、被害が少ないことを願うばかりだが、地殻変動の活動期に入り、気候変動の影響による異常気象が頻発する我が国では、いかなる災害ももはや他人事ではない。
明日は我が身の覚悟を決め、心して備えをしなければならないが、今は東日本水害の復旧と阿蘇山噴火の収束を心から祈っている。

号外2 命を守る行動を

2015-09-11 12:52:18 | ニュース
「号外 命を守る行動を」から

日本中が固唾をのんで見守っていた、電柱おじさんとワンコ御夫婦も無事救出され、一安心したのも束の間のこと、今日は宮城県に特別警報が発令され、また河川が決壊したと伝えている。

電柱おじさんだが、電柱につかまり救助を待っている目の前を、奥さんがいる家と長男が乗っている車が濁流に飲み込まれ流されてしまったそうだ。膝までつかる濁流に薄手の夏着のまま立っているだけでも心身ともに厳しいことだろう、と映像を見る者は心配していたが、まさか目の前で妻子が濁流に流されてしまうのを目撃されていたとは、思いもしなかった。
救助された電柱おじさんは、後にやはり救助されていた妻子と再会されたが、電柱につかまりながら、家も妻子も目の前で失ったと思いながら救助を待っておられた時間を思うと、どれほど心に傷を負われたか。

「富士山噴火」(高嶋哲夫)には、大震災で目の前で母と弟を喪った心の傷が癒えない女医に、教授(医師)がかける言葉がある。
『教授によれば、人には二種類あるそうだ。
 あえて逆境に立ち向かう者と、新しい環境に身を置き出直そうとする者。
「私はどちらの生き方も肯定できる。耐えられないほどの悲しみを経験した者の乗り越え方の違いだけだと
 信じるからだ。
 乗り越えた先の人生がより良いものだと信じている。』

被災された方がこの苦しみを乗り越え、乗り越えられた先の人生がより良いものになるよう、心から強く強く祈っている。

ところで、今回の救助で私がワンコ救助に注目したのは、もちろん私が大のワンコ好きだということもあるが、「富士山噴火」で二度と元の住まいに帰れないかもしれないと覚悟を決めながら避難する被災者に、「手荷物は一つだけにして下さい」と繰り返し要請される場面があったからだ。
長い人生を生きてきた証し、大切な思い出、これから生きていくための糧。
しかし、持ち出せるのは、たった一つ。
「富士山噴火」を読みながら、自分にとっての''一つ''を考えることは、これまでの人生と、これからの人生を見つめなおすことに繋がると感じていた矢先だったので、崩れそうな屋根の上でワンコだけを抱いて救助を待っている姿に心を打たれたのだ。
命は何ものにも代えがたい。
ワンコを守りきった御夫婦と、ワンコを守る麻袋を手に救助にあたられた自衛隊の方の優しさに、改めて''命''の尊さを教えて頂いた。
たった一つの掛け替えのないもの。

「鬼怒川」屋根に取り残された人と犬をヘリで救出



そして、災害時の優先順位。
この救出劇を生で見ていた家人によると、濁流に立つ電柱につかまっている電柱おじさんと、屋根の上で雨に打たれながら救助を待っているワンコご夫妻に先んじて、この近所の家屋に取り残された家族が救助されたそうだ。
真っ先に救助された人達の家屋は一階部分が水に浸かっているとはいえ、屋外で取り残されている人の救助が先ではないかと、やきもきしながら見ていたそうだ。
それが、この家族を救助し、次の救助にあたる前に、この家族の家屋は濁流に流されてしまったのだ。
まさに危機一髪、間一髪、自衛隊の判断が間違っておれば、その家族は家もろとも流されてしまっていた。
危機に際しての優先順位の重要性を突き付けられた。

「富士山噴火」で(先に書いた)女医は、大震災時に父である自衛隊員に救助を要請したが、父が別の救助を優先したため、母と弟を目の前で喪うという経験をしている。家族を守らなかった父を怨み、癒えない心の傷を抱えながら、富士山大噴火の被災地での医療団に加わり、現場で治療するなかで悟っていくのだ。
『父さんは私達を見捨てたんじゃない。
 自分の仕事をやっただけ。一人でも多くの命を助ける。
 だから私も自分の仕事をする。』

危機に直面した現場では、より助かる可能性がある者を優先的に救助したり、より危険な現場にいる者を優先的に救助したり、一度の多くの人が助けられる現場を優先したり、と一瞬一瞬の判断が運命を決することになる。
消防・警察・自衛隊など救助にあたる人々は、日頃からその判断を間違えないための訓練を積まねばならないのはもちろんだが、我々国民としては、それを信じて従わなければ、混乱をきたすし、後々心に痛いことになる。

今この瞬間にもさまざまな人々が救助に全力を尽くしておられる。
その方々を心から応援するとともに、被災された方々の無事を心から祈っている。