今日はガス管工事のために、普段駅まで通っている遊歩道が閉鎖されて、通れなくなりました。ヨーグルトと牛乳を買いに家を出たのですが、いつもの道が使えなくて、警備員さんに、突き当りの赤い屋根の家を左に行くと、駅に出ますと教えられ、なんとか駅までたどり着きました。さらに遠いスーパーまではとても行く気になれず、駅のリトルマーメイドでパンを買い、ファミマでヨーグルトと牛乳を買って、家に帰るのですが、それがよくわからず、ぐるぐる回り道ばかりしていました。この辺は、袋小路が多くて、行ける!と思ってもそうはいかず、戻ったり進んだりと、近いのになかなか帰巣できませんでした。引っ越して半年、いまだに家の周りの道路が頭に入っていません。生まれたところが下町の碁盤の目のような地域だったし、その後の引っ越した先も、たいていがそうなっていました。こんなに複雑な道路の地域に住むことになったのは初めて。まいりました・・・。
このところの新聞折込広告は、母の日にちなんだものばかり。母がすでに他界している私には縁がないと思っていました。義母とも、もう会っていません。そのために、中古マンションに引っ越したようなものですから。
自分の母は、というと昭和天皇と同じころに「多発性骨髄腫」で亡くなりました。父が、「あいつは弱いから」と告知を受けず、自分ががんだとも知らないまま、亡くなりました。でも、思うのです、女性って、そんなに弱いのか?よほど、男性より精神的には強いと思うのです。出産の痛みを経験しているわけですから母は。その点、私は出産経験がない弱い女なのかなあ、でも、がんになれば当然告知は受けますし、一人暮らしだから当然治療は自分で決めなくてはならない。
母は東京下町の八百屋の次女として昭和2年に生まれました。子供の頃は体が弱く、運動神経も鈍いので、体育の試験がない私立の女学校を選んだそうです。今の上野学園だとか。で、戦争を迎え、弱いなんて言っていられない状態で、勤労動員で「風船爆弾」を作ったそうです。東京大空襲にあい、運よく母の家族は全員無事でしたが、親せきを頼ってその後、愛知県に疎開。そして、代用教員の研修中に父と知り合い、戦後、父が東京の大学に通い始めたころに同棲結婚して母の実家の裏に住みました。
大恋愛の末の結婚でしたが、けっこうケンカはしていたようで、特に母は更年期には必ずヒステリー起こして寝込んでいました。
父は趣味に没頭して、寝室も別だったし、結婚生活がいいものだったかどうかは、本人に聞いていないのでわかりませんが、インテリの父と結婚したことに最初は母は大満足だったんだと思います。父は、生活のために母の実家に居候的な結婚をしたことに後悔はしてもそこから逃げることはしませんでした。
母は青春時代を戦争に奪われ戦後は実家の手伝いに追われて、好きなことができなかった自分を恨んでいたのではないでしょうか。いろんな不満を抱え、私たちが生まれる前には、父がいながら駆け落ち騒動を起こしたこともあったそうです。そんな情熱的な血を受け継いでしまったのは、恐ろしいことです。
母の日に、母に感謝って、そんな習慣もなくなった私には関係ないけれど、母は、もとは少女だったし、恋愛して結婚して(しなくても)母になったわけで、それでもそれぞれが一生懸命生きてきていますよね。特別な日じゃなくても、日々、それに感謝すべきなのは、子供の方です。そして、その子供のおかげで、母親として生活し、あるいは、父の日も来月きますが、父親として生活しているんです。親は結婚の相手を選べるけれど、子供は選んで生まれたわけじゃない。それでも、その偶然の運命は、すごいことだと思います。
今になって、ようやく母を一人の女性として考えることができるようになりました。本当は、やりたいことがもっともっとあったのかもしれません。ヒステリー寝込みの時は必ず、専業主婦になんかなるもんじゃないと言っていました。何がしたかったのでしょう。夫に尽くすだけの人生で、よかったのか(よくない!)。最後は小さくなってオラウータンの赤ちゃんのようでした。私は、酒乱の夫の暴力で苦しんでいて、母にはずいぶんと心配をかけてしまいました。
今は3組に1組が離婚する世の中です。無理することはない。自分を殺して偽装家庭にいるよりも、自分らしく生きた方が、子供にとてもいいと思います。人間は奴隷ではないのだから、自分らしく生きていきましょう。あの世に行ったら、母に聞いてみます。それでよかったのかって。
年功序列も終身雇用も昔の話です。同一労働同一賃金で、正社員も非正規も同じように生活できるようにして、専業主婦の第3号は廃止すべきなんです。そうしない限り、男女平等は実現しません。
大学出たのに仕事に就けず、親の介護に振り回されて気がつけば貧困女性にという現実があるそうです。介護は娘がという考えは、おかしい。そして、親の介護のために結婚するなんて、もっとおかしい。結婚したければするし、結婚したくなければしなくていいじゃないですか。道徳とか、憲法改正でそういう旧社会の家制度の押し付けは、納得いきません。誰かを奴隷のようにしなくては成り立たない社会制度は、あってはならないのです。教育勅語なんて、ほんと、もってのほか!!母はすらすら覚えていたけれど、意味も分からなかったんじゃないかな。意味わからないものをただ覚えさせることって、押し付け教育でしょう。軍事教練じゃあるまいし。母が受けた戦前の教育は、本当に気の毒なものでした。
子供は大人の夢をかなえるいきものじゃないから、親がやりたかったことは、親が子育て終わってから目指せばいいのです。個人の人生を尊重しましょう。人はどうして、所有したがるのか・・・。私も父親に反発していたころは、「稼いでから物を言え!」と怒られました。その割に、社会人になっても、家賃など援助してもらっていました。親が体験した戦争の恐怖とか貧困、私は何も経験していないからわからないんです。でも、想像することはできます。ずいぶんと後になって、親のありがたみがわかりました。
全ての子供たちへ。生きているということだけでもすごいことなんだから、母親に「産んでくれてありがとう」と言ってほしいです。