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《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

Bunge (2003b) 『創発と収斂』第3章 第3節 物理的プロセスと化学的プロセスへのシステム的接近、の試訳20160626

2016年06月26日 23時11分31秒 | システム学の基礎
2016年6月26日-3
Bunge (2003b) 『創発と収斂』第3章 第3節 物理的プロセスと化学的プロセスへのシステム的接近、の試訳20160626

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第3節 物理的プロセスと化学的プロセスへのシステム的接近

 歴史的には、物理的システムの最初に知られた例は、太陽系 the solar system である。太陽系が単なる天体の集合体であるというよりも、一つの星座といった、そのようなものだと認識するのには、ニュートン(1667)ほどのものが必要だった〔It took no less than Newton (1667) to recognize it [=太陽系] as such rather than as a mere assemblage of bodies , such as a constellation. 〕彼は、太陽系は、重力的引力によって一緒に保たれており、太陽系のあらゆる構成要素は慣性(質量)を持っているから、重力的引力は単一の天体へと崩壊を引き起こすことはない、という仮説を設けた。もしそれらのどれかが止まると、それは太陽へと落ちるだろうし、他の惑星の軌道は変わるだろう。どの惑星を除去しても、同様の結果が得られるだろう。こうして、太陽系は全体性という性質を示すのである。しかし、この全体は分析可能である。すなわち、全体の状態は、それの構成要素のそれぞれの状態によって決まる。惑星天文学者の主な仕事は、精確に言えば、惑星たちとそれらの月たちの状態を特徴づける変数を、測定するか計算することである。しかし彼らはまた、そのシステムが他の天体と相対的に一つの全体として運動する仕方を見つけ出すことにも興味がある。
 しかし、ニュートンの粒子力学に関する独自の定式化は、力学的システムの研究にはうまく適さない。なぜなら、その指示対象は、その系の残りの粒子によって及ぼされる力に従う単一の粒子だからである。オイラー、ラグランジュ、そしてハミルトンは、力学系の全体的な性質を記述する関数を導入して、ニュートンの方法(ベクトル的力学 vectorial mechanics)を一般化した。このような一つの関数、作用は、ハミルトンの変分(または極値)原理を満たす。つまり、系の作用は、最大かまたは最小である。(等価的に、システムの考え得る歴史のすべてについて、実際の歴史は、その作用の極値的な(つまり最大または最小の)値に相当する。今度は、その原理は、運動についての微分方程式を含意する。図3.1を見よ。これは、理論物理学のすべての分野に採用される接近〔アプローチ〕である。つまり、分析(微分方程式)が総合(変分原理)と結びつけられている。

 図3.1 (a)ベクトル的力学。問題とする粒子pの運動は、その系〔システム〕の他の粒子に影響される。(b)分析的力学。指示対象は、一つの全体としての力学的な系である。そこでは、個々の粒子は、いくつかの相互作用する構成要素の間のたった一つである。

 個体、液体、そして重力のであれ、電磁気のであれ、その他のものであれ、物理的場は、全体というさらなる例を提供している。このようないかなる連続的媒体の或る領域における摂動は、全体のすみからすみまでに伝わる。池に落ちつつある石のこと、あるいは電場のなかを動きつつある電子のことを考えよ。それは、固体と液体は、気体には似ず、場によって一緒にされる、原子または分子のシステムであることとは一致しない。
 全体性と創発の別の例は、いわゆる量子力学に典型的な、もつれあい、相関関係、または非分離性である。これが意味するのは、多数の構成要素から成る微小物理的システムの状態は、それの構成要素の状態に分解(要因化 factored)できないということである。言い換えれば、二つ以上の量子が一緒になって一つのシステムを形成するとき、その構成要素が空間的に分離されるようになってさえも、それらの個体性は失われるのである(たとえば、Kronz and Tiehen 2002を見よ)。
 最後に、化学的システム〔化学系〕の概念を検討しよう。この類のシステムは、構成要素が、その数または濃度が変わる化学物質(原子または分子)であるシステムとして特徴づけられよう。なぜなら、それらは互いに反応することに関わるからである(たとえば、Bunge 1979aを見よ)。よって、反応が始まる前と、反応が完了した後では、システムは物理的であって、化学的ではない。たとえば、電池は、それが働いている間にだけ、化学的システムである。
 化学反応は、創発または質的新奇性の最適の例を、ながらく与えてきた。しかし、化学的システムの概念は、19世紀中の化学的で薬学的な産業での化学反応の創発とともに、よく知られるものとなった。化学的構成におけるあらゆる変化は、構成要素間での相互作用によってか、構成要素とその環境との間の相互作用によって引き起こされるから、システムの真のモデルは、その構成だけでなく、その環境、構造、そして機構を組み入れるだろう。つまりそれは、第2章の第5節で導入された基本的CESMモデルの特殊化であろう。
 では、生物システムへと移ろう。それは、超化学的性質を授けられた、化学的システムの上位システムである。
」[試訳20160626](Bunge 2003b: 43-45)。


Bunge (2003b) 『創発と収斂』第3章 第2節 概念的システムと物質的システム、の試訳20160626

2016年06月26日 19時25分46秒 | システム学の基礎
2016年6月26日-2
Bunge (2003b) 『創発と収斂』第3章 第2節 概念的システムと物質的システム、の試訳20160626

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第2節 概念的システムと物質的システム

 近代数学は、特に抜きん出たシステム的科学である。実際、近代数学者は、はぐれた事項ではなく、システムかシステム構成要素をを扱う。たとえば、実数、多様体、ブール代数、そしてヒルベルト空間は、システムとして述べられる。これらの事例のすべてで、集合体 aggregate または集合 set をシステムに変えるものは、構造である。構造すなわち、システムの構成要素の間の諸関係の集合、またはシステム構成要素への働き〔作動〕 operations である。(数学的システムは、ときに「構造」と呼ばれる。これは誤称である。なぜなら、構造は性質であり、そしてあらゆる性質はなんらかのものの性質だからである。たとえば集合は、その要素が連結 concatenation と相反 inversion の操作によって組織化〔編制〕されていれば、集団的性質を持つ。
 実は、現代の数学者は二つの類のシステムと取り組んでいる。一つの類は、数学固有の対象で、環、位相空間、方程式のシステム、そして多様体である。もう一つの類は、このような対象についての理論である。理論は、もちろん仮説演繹のシステム〔体系〕である。すなわち、含意関係によって連結された式から構成されるシステムである。しかし、理論はまた数学的対象として見られてもよい。つまり、メタ理論の対象である。たとえば、理論の論理と論理の代数である。最後に、現代数学の全体は、相互に関係する理論(各理論は、或る類いの数学的システムを指示する)から成る一つのシステムと見なされよう。
 このことすべては、もちろん数学者にはよく知られている。Hardy (1967) が述べたように、数学的考えの重要性は、それの他の数学的考えへの関係性に比例する。数学においては、存在することは、少なくとも一つの数学的システムの構成要素であることだとさえ、或る者は言うかもしれない。はぐれものは、資格を得られない。
 以下に、具体的システム、すなわち複雑で変化可能な物、だけを考慮しよう。つまり、理論といった概念的システムはあまり深くは扱わないことにする。_具体的 concrete_(または_物質的 material_)システムは、それの構成要素のあらゆる一つ一つが変化可能で、そのシステム自身の他の構成要素に作用したり、作用されたりするような複成物 composite thing として定義される。これと等価な定義は、物質的システムは、その構成物のすべてがエネルギーを持つ複雑物である、というものである。物質性とエネルギーの広い概念によって、人だけでなく、社会システムもまた、物質的である。もっとも、もちろんながら、社会的事柄は、物質を超える創発的性質である。
 変化可能であることに加えて、宇宙を除いてあらゆる具体的システムは、それの環境と相互作用する。しかしながら、このようなシステムと環境の相互作用は、内部構成要素の相互作用よりも弱い。この条件が満たされなければ、宇宙(それは単一圏であろう)以外のシステムは無い。
」[試訳20160626](Bunge 2003b: 42-43)。





Bunge (2003b) 『創発と収斂』第3章 第0節と第1節 システム的接近、の試訳20160626

2016年06月26日 16時45分10秒 | システム学の基礎
2016年6月26日-1
Bunge (2003b) 『創発と収斂』第3章 第0節と第1節 システム的接近、の試訳20160626

 Bunge (2003b) の『創発と収斂:質的新奇性と知識の統一 Emergence and Convergence: Qualitative Novelty and the Unity of Knowledge』の《第3章 システム的接近》の、まえがきと第1節を、以下に訳出する。



第3章
システム的接近

 前の章で見たように、システム主義とは、あらゆるものは一つのシステムであるか、あるいは一システムの構成要素であるという見解である。この章と次の章では、システム主義は、原子、生態系、人物、社会、そしてそれらの構成要素に対して、またそれらが構成する物についても成立すると主張しよう。システム主義はまた、観念と記号についても成立する。すなわち、日常的知識、科学、科学技術、数学、あるいは人文学においてであろうと、はぐれた考え〔観念〕または孤立した意味ある記号なぞ無いのである。実際、或る考えや記号は、他の考えや記号に関係しないなら、いかにして把握したり、作り出されたり、適用されたりするのか、理解が難しい。宇宙だけが、他のなにものとも繋がっていないが、それでも単 なる集合体aggregateであるよりは、一つのシステムである。事実、宇宙のいかなる構成要素も、少なくとも一つの他の構成要素と直接的(面と向かっての社会的相互作用のように)か間接的(たとえば物理的場を通して)かのどちらかであれ、相互作用する。
 システム主義は、個体主義(または原子論)と集産主義 collectivism(または全体論)の両方の代わりとなる。したがってシステム主義は、小還元主義 micro-reductionism(「あらゆるものは、底から来る」)と大還元主義 macro-reductionism(「あらゆるものは、頂きから来る」)の両方の代替となる。個体主義は、木々を見るが森を見失なう。他方、全体論は森を見るが木々を見逃す。システム的接近だけ が、木々(そしてその構成要素)と森(そしてそれのより大きな環境)の両方に注目することを容易にする。下記と次章で見るように、木々と森々に対して成立することは、_必要な変更を加えて _mutais mutandis_、他のあらゆるものにも同様に成立する。

第1節 システム的接近

 システム的存在論は、認識論的であろうと実践的であろうと、すべての問題について、システム的接近を示唆する。単純な事例でその働き方を見てみよう。人はどのように車種を、選ぶのだろうか?。普通、人は、サービス設備を無視して、予算に合う最良の車を探す。しかしこのやり方は、輸入車の場合では、災難を招く。なぜなら、部品と専門技術は高くつくし、もっと入手困難だからである。問題へのシステム的接近は、車問題についての四つのあり得る解決策を、次のようにしてまとめて検討するだろう:

||〈良い車、良いサービス〉〈良い車、悪いサービス〉||
||〈悪い車、良いサービス〉〈悪い車、悪いサービス〉||
=
|| V11 V12 ||
|| V21 V22 ||

この行列の四つの記入項の値は、次のように順位づけられるだろう:

 V11 > V12 >= V21 >V22。

 この進め方は、_システム的接近_と呼ばれる。その反対は、_分野的接近〔扇形的接近、では意味が取れないか。円の一部という意味か。分派的接近とすべきか〕sectoral approach_と呼ばれる。システム的接近のほうが、扇形的接近よりも効率的だと言いたい。なぜなら、実在それ自体が、未分化の小塊かまたは分離した事項の緩い集まり assemblage であるよりは、期せずしてシステム的だからである。車も、人々も、原子や光子でさえも、空虚のなかに存在するのではない。(そのうえ、まったくの空虚というようなものは無い。あらゆる場合が、物理的場たちの席なのである。)
 あらゆるものは、宇宙を除けば、他の何かに繋がれ、他の何かに埋め込まれている。しかし、あらゆるものが他のあらゆるものに結ばれているわけではない。また、すべての結合が同じ強さであるわけでもない。このことによって、部分的な隔離が可能となり、或る個々のものを宇宙の残りを考慮することなく研究することが可能となる。この資格〔能力 qualification〕によって、システム主義は、全体論またはブロック宇宙説から区別される。
 従来通り、哲学者たちは、これらの科学的変化に気をつける時間を割いた。事実、初期のシステム的哲学は、有名なドルバック男爵によって手作りされた。彼の『社会システム』(1773)のまさに冒頭に、「〔フランス語〕」と書いた。三年後、『自然のシステム』で、彼は自然のシステム性(と物質性)のための十分な論拠をこしらえた。それが持つ力は、楽しまれはしなかった。これらの力ある著作は、ドルバックの第二の祖国、フランスで追放された。今日でさえ、全体のフランス啓蒙思想は、大半の大学でほとんど無視されている。そこでは、システム主義は、しばしば全体論と混同され、小心者には恐ろしい唯物論と同様に、まったくもって不人気である。
 しかし、哲学的共同体によって説得力のある哲学的考えが無視されるならば、他のところで花咲きそうである。これがシステム主義に起こったことであり、生物学者のルードビッヒ フォン ベルタランフィLudwig von Bertalanffy (1950) によって、はっきりと唱えられた。彼は、一般システム理論の運動を鼓舞したのである。すべての運動と同様に、この運動も異質的である。それには、強固な意志を持つ科学者と工学者(たとえば、Ashby 1963; Milsum 1968; Whyte, WIlson, and Wilson 1969; Weiss 1971; Klir 1972)を含んでいる。また、システム主義を全体論と混同する一般大衆向けの書き手も(たとえば、Bertalanffy 1968; Laszlo 1972)そばに並んでいる。大衆向けの書き手は、システム理論は、経験的研究に携わることなくして諸問題に取り組むための秘訣だと信じている。彼らの純粋に形式的な類推と乱暴な主張は、Buck (1956) とBerlinski (1976)の痛烈な批判をもたらした。
 一般システムの理論者は、哲学者と同様に、強固な意志の者と弱い意志の者とに分かれる。わたしの自身の著書である『システムの世界 A World of Systems』(1979)は、節度あるシステム的接近を採用して、形式的道具を使って、化学、生物学、心理学、そして社会科学に適用する。システム主義は、近代科学的世界観に内在する存在論の一部であり、それゆえ出来合いの置き換えよりも理論化にあたっての案内となると、わたしは主張する。」
[20160628試訳](Bunge 2003b: 39-41)。