2016年6月30日-1
Bunge (2003b) 『創発と収斂』第3章 第4節 生命へのシステム的接近、の試訳(4)20160630
「
生物システムという概念についてのわれわれの特徴づけによって、議論の多い別の概念、すなわち生物種 biospecies 、の精確な定義 precise definition をしてはどうだろうか。具体的な物の種が_生物種 biospecies_ であるのは、
(a)それのすべての属員〔成員 member〕が、(現在、過去、または未来の)有機体〔生物体〕 organismであり、、
(b)(任意の収集体、または数学的集合ではなく、)自然類 natural kind であり、、
かつ、
(c)進化的系譜 evilutionary lineage の属員〔成員 member〕であるとき、、
そしてそのときに限ると、われわれは規定した。
この規約 convention 〔約定〕によれば、生物種は、或る点で一つの全体として振る舞う一つの物または具体的個物ではなく、物たちの収集体である。よって、それは一つの概念であ。しかしもちろん無駄な概念ではなくて、数や容積という概念と同様に、生命を表す〔表象する〕と称するいかなる概念的構築においても、鍵となる概念なのである。そのうえ、種とその他の分類学的タクサtaxonomic taxa〔タクソン学的タクサ〕は、多かれ少なかれ仮説的である。一方、生きている有機体は、実在するのだ。そういうわけで、「爬虫類」や「齧歯類」といったクラスは、もはや受け入れられない。個々のアリゲーターやネズミの実在をだれも疑わないとしても、である。
しかし今日、何人かの生物学者と哲学者は、空間と時間にわたる、種は個物的または具体的システムであると主張している。(そのような記述は、正しくは個体群に適用される。)その見解は、数々の理由から誤りである。第一に、多くの種の個体群たちは、地理的に分散している。それで、個体群のそれぞれすべては一つのシステムであるけれども、個体群たちの全体は一つのシステムではない。
〔個体群内有機体間の結合性(または繋がり性)と個体群間の結合性も、(種類と)程度の問題になる。しかも、有機体間を繋ぐ結合力の種類は様々だろう。また、(種個物説を唱える人たちのように)時空にわたっていると捉えると、はぐれ雄猿が、たまにやってきて或る個体群に属する
(実は、どの個体群もその範囲は明確ではない。確かに、他と遠く隔たった島の個体群はその範囲が明確で生殖的に閉じていると言える。この例を考えれば、マーナとブーンゲ(訳書 2008)が指摘しているように、個体群を定義するときには、その前に種タクソンが定義されていなくてはならないことと合わせて、種をそれが属する有機体〔生物体〕によって定義すること自体に難点があるということに思い至らなければならない。→システム的種概念へ。)
雌と交尾して子が生成されれば、系譜を生成することになり、はぐれ雄猿は、過去と未来にわたる系譜の一員である。ここでのブーンゲの議論は、マーナとブーンゲ(2008)での主張と同じく、私見では生物種の定義が中途半端であることによる。正しい指摘をしているが、解決案には至っていない。システム的種概念とそれに関する主張は、種問題(擬似問題 pseudoproblemとなる)を、すっきりと解明している。→標語:あらゆるについて、種類と程度を考えよ。とりわけ、種類設定のときの分類が重要であり、分かれ道となる。〕
(雀とか海驢〔あしか〕とかアルファルファ牧草や小麦のことを考えよ。)第二に、生物種という概念は、(単一種の)個体群と(多種からなる)共同体〔群集 community〕と生態系という概念を構築するのに必要である。
第三に、種水準でクラスという概念を採用するのを拒む人でも、隣接する高いタクソン水準で、つまり属 genus でクラス概念を導入せざるをえなくなる。そうしなければ、体系学を行なうことは不可能である。おそらく、この場合には、個物と解釈された生物種の集合を、属として定義するのであろう。しかしそのとき、いずれ有機体も、どの属にも属さないことになるだろう。というのは、一つの属の属員〔成員〕は種であって、個物でないからである。とりわけ、どの人も、ヒト属 genus _Homo_ の属員〔成員〕ではないであろうし、なおさら、霊長類ではないし、哺乳類ではないし、脊椎動物でも、動物でさえもないだろう。この〔おかしな〕ことをはっきりと理解するには、3つのまったく異なる関係が、これらの考察に含まれていることを理解するだけでよい。すなわち、部分全体 part-whole 関係、〔数学の〕集合的属員 membership〔成員〕関係、そして集合的包含 inclusion 関係である。たとえば、心臓は、一個の有機体の一部分である(<)。一個の有機体は、一つの種に属する(∈)。そして、一つの種は一つの属に包含される(⊆)。つまり、_h_ < _o_ ∈ _S_ ⊆ _G_。残念ながら、このような基本的な区別が、生物学の学生にふつう教えられていない。精密性は、たんに几帳面さなのではなくて、明瞭な思考の構成要素であり、理論づくりの条件であり、不毛な論争の抑止力である。「個物としての種」テーゼ〔試験可能な、定言または仮説〕の虚偽的特徴を、早いうちにはっきりと理解すれば、伐採者から全体の森を救うことになるのだ。
」[20160630試訳]
(Bunge 2003b: 47-48)。
Bunge (2003b) 『創発と収斂』第3章 第4節 生命へのシステム的接近、の試訳(4)20160630
「
生物システムという概念についてのわれわれの特徴づけによって、議論の多い別の概念、すなわち生物種 biospecies 、の精確な定義 precise definition をしてはどうだろうか。具体的な物の種が_生物種 biospecies_ であるのは、
(a)それのすべての属員〔成員 member〕が、(現在、過去、または未来の)有機体〔生物体〕 organismであり、、
(b)(任意の収集体、または数学的集合ではなく、)自然類 natural kind であり、、
かつ、
(c)進化的系譜 evilutionary lineage の属員〔成員 member〕であるとき、、
そしてそのときに限ると、われわれは規定した。
この規約 convention 〔約定〕によれば、生物種は、或る点で一つの全体として振る舞う一つの物または具体的個物ではなく、物たちの収集体である。よって、それは一つの概念であ。しかしもちろん無駄な概念ではなくて、数や容積という概念と同様に、生命を表す〔表象する〕と称するいかなる概念的構築においても、鍵となる概念なのである。そのうえ、種とその他の分類学的タクサtaxonomic taxa〔タクソン学的タクサ〕は、多かれ少なかれ仮説的である。一方、生きている有機体は、実在するのだ。そういうわけで、「爬虫類」や「齧歯類」といったクラスは、もはや受け入れられない。個々のアリゲーターやネズミの実在をだれも疑わないとしても、である。
しかし今日、何人かの生物学者と哲学者は、空間と時間にわたる、種は個物的または具体的システムであると主張している。(そのような記述は、正しくは個体群に適用される。)その見解は、数々の理由から誤りである。第一に、多くの種の個体群たちは、地理的に分散している。それで、個体群のそれぞれすべては一つのシステムであるけれども、個体群たちの全体は一つのシステムではない。
〔個体群内有機体間の結合性(または繋がり性)と個体群間の結合性も、(種類と)程度の問題になる。しかも、有機体間を繋ぐ結合力の種類は様々だろう。また、(種個物説を唱える人たちのように)時空にわたっていると捉えると、はぐれ雄猿が、たまにやってきて或る個体群に属する
(実は、どの個体群もその範囲は明確ではない。確かに、他と遠く隔たった島の個体群はその範囲が明確で生殖的に閉じていると言える。この例を考えれば、マーナとブーンゲ(訳書 2008)が指摘しているように、個体群を定義するときには、その前に種タクソンが定義されていなくてはならないことと合わせて、種をそれが属する有機体〔生物体〕によって定義すること自体に難点があるということに思い至らなければならない。→システム的種概念へ。)
雌と交尾して子が生成されれば、系譜を生成することになり、はぐれ雄猿は、過去と未来にわたる系譜の一員である。ここでのブーンゲの議論は、マーナとブーンゲ(2008)での主張と同じく、私見では生物種の定義が中途半端であることによる。正しい指摘をしているが、解決案には至っていない。システム的種概念とそれに関する主張は、種問題(擬似問題 pseudoproblemとなる)を、すっきりと解明している。→標語:あらゆるについて、種類と程度を考えよ。とりわけ、種類設定のときの分類が重要であり、分かれ道となる。〕
(雀とか海驢〔あしか〕とかアルファルファ牧草や小麦のことを考えよ。)第二に、生物種という概念は、(単一種の)個体群と(多種からなる)共同体〔群集 community〕と生態系という概念を構築するのに必要である。
第三に、種水準でクラスという概念を採用するのを拒む人でも、隣接する高いタクソン水準で、つまり属 genus でクラス概念を導入せざるをえなくなる。そうしなければ、体系学を行なうことは不可能である。おそらく、この場合には、個物と解釈された生物種の集合を、属として定義するのであろう。しかしそのとき、いずれ有機体も、どの属にも属さないことになるだろう。というのは、一つの属の属員〔成員〕は種であって、個物でないからである。とりわけ、どの人も、ヒト属 genus _Homo_ の属員〔成員〕ではないであろうし、なおさら、霊長類ではないし、哺乳類ではないし、脊椎動物でも、動物でさえもないだろう。この〔おかしな〕ことをはっきりと理解するには、3つのまったく異なる関係が、これらの考察に含まれていることを理解するだけでよい。すなわち、部分全体 part-whole 関係、〔数学の〕集合的属員 membership〔成員〕関係、そして集合的包含 inclusion 関係である。たとえば、心臓は、一個の有機体の一部分である(<)。一個の有機体は、一つの種に属する(∈)。そして、一つの種は一つの属に包含される(⊆)。つまり、_h_ < _o_ ∈ _S_ ⊆ _G_。残念ながら、このような基本的な区別が、生物学の学生にふつう教えられていない。精密性は、たんに几帳面さなのではなくて、明瞭な思考の構成要素であり、理論づくりの条件であり、不毛な論争の抑止力である。「個物としての種」テーゼ〔試験可能な、定言または仮説〕の虚偽的特徴を、早いうちにはっきりと理解すれば、伐採者から全体の森を救うことになるのだ。
」[20160630試訳]
(Bunge 2003b: 47-48)。