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Bunge (2003b) 『創発と収斂』第3章 第0節と第1節 システム的接近、の試訳20160626

2016年06月26日 16時45分10秒 | システム学の基礎
2016年6月26日-1
Bunge (2003b) 『創発と収斂』第3章 第0節と第1節 システム的接近、の試訳20160626

 Bunge (2003b) の『創発と収斂:質的新奇性と知識の統一 Emergence and Convergence: Qualitative Novelty and the Unity of Knowledge』の《第3章 システム的接近》の、まえがきと第1節を、以下に訳出する。



第3章
システム的接近

 前の章で見たように、システム主義とは、あらゆるものは一つのシステムであるか、あるいは一システムの構成要素であるという見解である。この章と次の章では、システム主義は、原子、生態系、人物、社会、そしてそれらの構成要素に対して、またそれらが構成する物についても成立すると主張しよう。システム主義はまた、観念と記号についても成立する。すなわち、日常的知識、科学、科学技術、数学、あるいは人文学においてであろうと、はぐれた考え〔観念〕または孤立した意味ある記号なぞ無いのである。実際、或る考えや記号は、他の考えや記号に関係しないなら、いかにして把握したり、作り出されたり、適用されたりするのか、理解が難しい。宇宙だけが、他のなにものとも繋がっていないが、それでも単 なる集合体aggregateであるよりは、一つのシステムである。事実、宇宙のいかなる構成要素も、少なくとも一つの他の構成要素と直接的(面と向かっての社会的相互作用のように)か間接的(たとえば物理的場を通して)かのどちらかであれ、相互作用する。
 システム主義は、個体主義(または原子論)と集産主義 collectivism(または全体論)の両方の代わりとなる。したがってシステム主義は、小還元主義 micro-reductionism(「あらゆるものは、底から来る」)と大還元主義 macro-reductionism(「あらゆるものは、頂きから来る」)の両方の代替となる。個体主義は、木々を見るが森を見失なう。他方、全体論は森を見るが木々を見逃す。システム的接近だけ が、木々(そしてその構成要素)と森(そしてそれのより大きな環境)の両方に注目することを容易にする。下記と次章で見るように、木々と森々に対して成立することは、_必要な変更を加えて _mutais mutandis_、他のあらゆるものにも同様に成立する。

第1節 システム的接近

 システム的存在論は、認識論的であろうと実践的であろうと、すべての問題について、システム的接近を示唆する。単純な事例でその働き方を見てみよう。人はどのように車種を、選ぶのだろうか?。普通、人は、サービス設備を無視して、予算に合う最良の車を探す。しかしこのやり方は、輸入車の場合では、災難を招く。なぜなら、部品と専門技術は高くつくし、もっと入手困難だからである。問題へのシステム的接近は、車問題についての四つのあり得る解決策を、次のようにしてまとめて検討するだろう:

||〈良い車、良いサービス〉〈良い車、悪いサービス〉||
||〈悪い車、良いサービス〉〈悪い車、悪いサービス〉||
=
|| V11 V12 ||
|| V21 V22 ||

この行列の四つの記入項の値は、次のように順位づけられるだろう:

 V11 > V12 >= V21 >V22。

 この進め方は、_システム的接近_と呼ばれる。その反対は、_分野的接近〔扇形的接近、では意味が取れないか。円の一部という意味か。分派的接近とすべきか〕sectoral approach_と呼ばれる。システム的接近のほうが、扇形的接近よりも効率的だと言いたい。なぜなら、実在それ自体が、未分化の小塊かまたは分離した事項の緩い集まり assemblage であるよりは、期せずしてシステム的だからである。車も、人々も、原子や光子でさえも、空虚のなかに存在するのではない。(そのうえ、まったくの空虚というようなものは無い。あらゆる場合が、物理的場たちの席なのである。)
 あらゆるものは、宇宙を除けば、他の何かに繋がれ、他の何かに埋め込まれている。しかし、あらゆるものが他のあらゆるものに結ばれているわけではない。また、すべての結合が同じ強さであるわけでもない。このことによって、部分的な隔離が可能となり、或る個々のものを宇宙の残りを考慮することなく研究することが可能となる。この資格〔能力 qualification〕によって、システム主義は、全体論またはブロック宇宙説から区別される。
 従来通り、哲学者たちは、これらの科学的変化に気をつける時間を割いた。事実、初期のシステム的哲学は、有名なドルバック男爵によって手作りされた。彼の『社会システム』(1773)のまさに冒頭に、「〔フランス語〕」と書いた。三年後、『自然のシステム』で、彼は自然のシステム性(と物質性)のための十分な論拠をこしらえた。それが持つ力は、楽しまれはしなかった。これらの力ある著作は、ドルバックの第二の祖国、フランスで追放された。今日でさえ、全体のフランス啓蒙思想は、大半の大学でほとんど無視されている。そこでは、システム主義は、しばしば全体論と混同され、小心者には恐ろしい唯物論と同様に、まったくもって不人気である。
 しかし、哲学的共同体によって説得力のある哲学的考えが無視されるならば、他のところで花咲きそうである。これがシステム主義に起こったことであり、生物学者のルードビッヒ フォン ベルタランフィLudwig von Bertalanffy (1950) によって、はっきりと唱えられた。彼は、一般システム理論の運動を鼓舞したのである。すべての運動と同様に、この運動も異質的である。それには、強固な意志を持つ科学者と工学者(たとえば、Ashby 1963; Milsum 1968; Whyte, WIlson, and Wilson 1969; Weiss 1971; Klir 1972)を含んでいる。また、システム主義を全体論と混同する一般大衆向けの書き手も(たとえば、Bertalanffy 1968; Laszlo 1972)そばに並んでいる。大衆向けの書き手は、システム理論は、経験的研究に携わることなくして諸問題に取り組むための秘訣だと信じている。彼らの純粋に形式的な類推と乱暴な主張は、Buck (1956) とBerlinski (1976)の痛烈な批判をもたらした。
 一般システムの理論者は、哲学者と同様に、強固な意志の者と弱い意志の者とに分かれる。わたしの自身の著書である『システムの世界 A World of Systems』(1979)は、節度あるシステム的接近を採用して、形式的道具を使って、化学、生物学、心理学、そして社会科学に適用する。システム主義は、近代科学的世界観に内在する存在論の一部であり、それゆえ出来合いの置き換えよりも理論化にあたっての案内となると、わたしは主張する。」
[20160628試訳](Bunge 2003b: 39-41)。