生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

風間虹樹の絵画〈いのち無限〉/平原社展(北海道帯広)のご案内

2016年06月27日 23時38分21秒 | 進化理論
2016年6月27日-4
風間虹樹の絵画〈いのち無限〉/平原社展(北海道帯広)のご案内

 風間虹樹が製作した絵画〈いのち無限〉が、平原社展/帯広市民ギャラリーにて展示されます。ご楽覧いただければ幸いです。










 風間虹樹 2016年6月
 いのち無限
 229x229cm[S100菱形展示]
 地塗り済み麻画布に、ジェッソ、墨、アクリル絵具、油絵具、グロスポリマーメディウム。
 いのち絵画の技法:叩きつけ泡立ち法、振り出し法、曜変法、層化貼り込み法。
 狙い:様々な種類と活動程度と形態的大きさの生命体たちを、絵具で表面体に創造すること。
 特徴:火の要素と水の要素の相互作用、自然な製作方法の採用、二層絵画、菱形(十字=人間の象徴)、



◇ 第91回平原社展 ◇
 会期:2016年7月14日(木)〜19日(火)、21日(木)〜26日(火)
 時間:10:00 〜 19:00 (最終日は16:00まで)
 会場:帯広市民ギャラリー
     帯広市西2条南12丁目 JR帯広駅地階
 入場料:一般 500円、高校生以下は無料。


Bunge (2003b) 『創発と収斂』第3章 第4節 生命へのシステム的接近、の試訳20160627(3)

2016年06月27日 14時30分30秒 | システム学の基礎
016年6月27日-3
Bunge (2003b) 『創発と収斂』第3章 第4節 生命へのシステム的接近、の試訳20160627(3)



Bunge 2003b: p.47-
  「
 _s の構造_=直接的と間接的、物理的または化学的、共有結合的と非共有結合的な、すべての結合。それは、_s_の構成要素を相互に繋ぎ、そうして一緒に保つ。加えて、_s_の環境における諸事項とのすべての(物理的、化学的、そして生物学的)結び。
 _s の機構_=_s_を生きているように〔状態に〕保つすべてのプロセスたち。それらのうち、いくつかの分子の合成は、核酸と酵素によって合同的に制御される一つのプロセスで、  〔→何が統合的に制御しているのか? あるいは置かれた環境との相互作用の関係によって自動的に?統御が「創発」するのか?? →これでは生命作用を創発させる構造形成が先か、あるいは他の何の成立が先かの堂々巡りになる?〕  代謝を伴う構成要素たちの移送、再配置、集成、そして分解を行なう。またその分子合成は、システムの維持と自己修復、、  〔「、、」は、「;」に対応させた訳である。〕  (たとえば、ATP分子における)自由エネルギーの捕捉と貯蔵、、電気的または化学的な様々な種類の信号たち(これらによって近くのまたは遠くの構成要素たちは相互に通信する。たとえば、ホルモンと神経伝達子によって運ばれる構成要素たち)、、そして遺伝子の発現と抑止、、環境からの刺激の検出、、そしていくつかの部分の修復またはさらに再生、、を行なう。数個の水準での存在者とプロセス〔の外延〕を示す概念たちが同時的に発生していることに、注意されたい。つまり、原子、分子、細胞内小器官、細胞、有機体全体、そして環境、という水準たちである。よって、上記の特徴づけは、システム的であって、小還元的主義でも大還元的主義でもない。また、環境の適性 fiteness というLawrence J. Henderson の概念が暗黙のうちに生じていることにも、注意されたい。そのような概念は、機械論的説明にも、生気論的説明にも無い。機構は、単一の親細胞から二つの細胞たちがおおよそは同一の構成、環境、そして構造を持つであろうこと(ただし、一つの細胞は生き、片方の細胞は死ぬという場合を除く)ゆえに、述べられなければならなかった。類似:スイッチを切る前と後の電球。複製可能性は、いずれにしろ含められなかった。すべての有機体が生殖するわけではないからである。
 (また、遺伝情報という流布している概念とその同類も、われわれは含めなかった。遺伝プログラム、暗号、青写真、転写、翻訳、そして誤り訂正である。というわけは、それらは精確ではないし、暗喩的で、したがってときには示唆的だが、そうでないときには誤解に導くからである[Mahner and Bunge 1997を見よ]。これらの用語を無批判に使えば、彼らが名づけたプロセスが理解されるという錯覚を奨励することになる。それは間違いである。なぜなら、基礎となっている機構が明かされるまでは、何も理解されるわけではないからである。われわれは、どの事象〔出来事〕においても、遺伝物質すなわちDNAを、そしてそれに内在する諸法則を受け継ぐのであって、非物質的な遺伝的プログラムではない。)
 生物システムという概念についてのこの解明によれば、染色体は生きていないのである。なぜなら、それらは代謝しないからである。同様に、ウイルスは生きていない。なぜなら、なんらかの宿主細胞の外側では、まったく機能しないからである。(宿主—ウイルスのシステムだけが生きている。もっとも、哀れなるかな、しばしば病気である。)
 〔→宿主—ウイルスのシステムは、単一のシステムとして成立しているのならば、病気という概念は当てはまらない。宿主に病気ならば、ウイルスは病気を引き起こす生き物で、たとえば大腸菌もウイルスも生命体だ考えざるを得ない。→システムの境界 boundaryと接面 interfaceの問題。結論:ウイルスは生命体である。少なくとも、複製しているときは生きている。結晶状態のときは、活動を停止しているだけであって、活動を再開する能力を形態構造として持っている。凍結精子も活動を停止させられているだけであって、生きている。クマムシもそうである。さらには、成長する鉱物結晶は、生きていると考えることが可能である。生命には様々な種類と段階または程度があると考えるのがよい。〕

また、どのように洗練されようと、ロボットも生物システムの資格は無い。生化学的構成要素の代わりに、機械的および電気的構成要素から作られていることだけからしても、資格は無い。またなぜなら、自発的に進化したことからほど遠く、それらは人々のために人々によって、設計され組み立てられたからである。
」[試訳20160627](Bunge2003b: 47-48)。






Bunge (2003b) 『創発と収斂』第3章 第4節 生命へのシステム的接近、の試訳20160627(2)

2016年06月27日 10時20分33秒 | システム学の基礎
016年6月27日-2
Bunge (2003b) 『創発と収斂』第3章 第4節 生命へのシステム的接近、の試訳20160627(2)

  「生命という概念の定義に対しては、伝統的に二つの接近〔アプローチ〕がある。一つは、あらゆる有機体〔生物体 organism〕のなかに含まれていて最初の駆動者として機能する単一の特異な存在者 a single peculiar entity を仮定することで、たとえば古代の非物質的なエンテレキーとか超近代的ゲノムである。二つ目は、単一の特異な性質 a single peculiar property を仮定することで、たとえば同じく古代の有目的性または目的論 purposefulness or teleology であり、今日では再命名された「目的律 teleonomy」である。これらのいずれの戦略も、うまくいかない。エンテレキーは仮想的で imagenary、検証できない inscrutable。ゆえに、科学の視界を越えている。DNAは、必要だが、酵素なくしては無力であるし、生細胞の外ではたいしたことはしない。目的論について言えば、高度に進化した有機体だけが、(ときおり)目的があるように振る舞う。〔それに対しては〕われわれは代替案を探さなければならない。
 システム的接近は、生命について次の特徴づけを示唆する。それは、第2章第5節で提案したCESMモデルによって表わされる。生きているシステムまたは有機体は、半開の物質的システム s であり、それの環境とともに熱力学的平衡からはほど遠く、システムの境界は半透過性の脂質膜であり、かつ、次のことを満たすものである。
 _s の構成_=物理的で化学的な微小システムたちと中規模システムたちである。とりわけ、水、炭水化物、脂質、蛋白質、そして核酸である。これらの構成要素は十分に近接していて、化学反応へと達し得る。また、いくつかの構成要素は制御システムで、境界内の環境変化にもかかわらず、かなり一定した内的環境を維持する。
 _s の環境_=栄養物とエネルギー流量の豊富な媒体。ただし、その変数(たとえば圧力、温度、放射強度、そして酸性度)は、かなり狭い区間内に限定される。
 



===
システムの性質とシステムの状態について、いまだ輪郭が漠然とした想念。
 〔では、生きているという性質(←?。「生きている」はシステム的な、つまりシステムが持つ一つの性質として捉えてよいのか?、あるいはシステムの一つの状態か?)はいかにして出現するのか? →Bunge (2003b) では、物体間の力またはエネルギーの構造的変換が創発的性質として成立し機能するという説明構造になるだろう。創発は、自己組織化あるいは自己集成が、なんらかのシステム的条件下で「自然に naturally」(これこそ、機構が不明の隠れた状態変化、もしくはオカルト的事態ではないか?)起きるということになるだろう。自己組織化〔自己編制〕または自己集成は、下からの[bottom-up これはいったいどういうことなのか?]秩序生成として採用せざるを得ないのだろう。しかし、自己組織化または自己集成が、諸力と諸条件を特定してきちんと定式化されているとは思えない。上からの秩序を仮定せざるを得ないと思う。20160627記〕


Bunge (2003b) 『創発と収斂』第3章 第4節 生命へのシステム的接近、の試訳20160627(1)

2016年06月27日 00時23分30秒 | システム学の基礎
2016年6月27日-1
Bunge (2003b) 『創発と収斂』第3章 第4節 生命へのシステム的接近、の試訳20160627(1)

 「
第4節 生命へのシステム的接近

 近代の生物学者は、つねにシステムを研究してきた。細胞から器官から大きなシステムから全体の多細胞有機体〔生物体〕から個体群から生態系である。生物学の編成そのものが、この「存在の連鎖」を反映している。図3.2を見てほしい。

図3.2 生物学の編成は、自然界に見られる、部分と全体の関係を反映している。稜線は、二重の矢として読まれるべきである。それはさらに、問題、概念、仮説、方法、そして発見の流入を象徴する。

 しかし、大方の専門家は、自分の分野を残りの分野から分離してきた。システム的接近への必要性〔需要〕の認識の広まりは、つい最近のものであった。それは、或る分子生物学者たちが、発生の進行における個々の遺伝子の機能を決定するための伝統的試み、つまり普及している一遺伝子一形質仮説は、限界があると指摘したときである。実際、この計画〔プログラム〕は、遺伝子網〔ネットワーク〕として組織〔編制〕された、大きな調節システムを分析するのに失敗している。
 この遺伝子網による接近でも、不十分である。というのは、遺伝子は互いに相互作用するだけでなく、酵素にのよって表現(活性化)されたり、抑制(不活性化)されたりするからである。よって、遺伝子網は、蛋白質網と結ばれなければならない。おそらく、発生への正しい接近は、じかに接している環境に埋め込まれた、ゲノムと全蛋白の超システムに焦点を合わせることであろう。しかしもちろん、このような総合は、巨大な先行する分析的作業無しには到達不可能であろう。そう、他所でのように、正しい戦略は、小還元(全体→部分)と大還元(部分→全体)の組み合わせである。しかし、生物学の存在論へと転じよう(それについてのさらなることは、Mahner and Bunge 1997がある)。
 生物学とその哲学における再発する問題は、その指示対象の一般的特徴づけであった。すなわち、生命という概念の定義ある。マシン主義とか人工生命企画はもちろん、機械論(そして付随する急進的還元主義)と生気論(心霊主義としばしば対となる、様々な全体論)という極端を避けることからだけでも、システム的接近は、ここで助けとなる。
 機械論者は、生きている細胞をその構成と間違える。生気論者は、構造と環境はもちろん、構成を見逃し、代わりに、有機体の創発的(超物理的)諸性質に焦点を合わせる。そして、人工生命の熱烈愛好者といったマシン主義者は、構成または材料を無視して、形態的特徴についての計算機模型に甘んじるのだ。三つのすべての誤りは、細胞の構成要素は生きていないと認めることによって、そして細胞は物理学、化学、そして計算機科学には知られていない、独特な仕方で自己組織化することを仮定することによって、避けられる。
」[試訳20160627](Bunge2003b: 45-46)。