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《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

ブラヴァツキー『秘密教義 第一巻 宇宙発生論』 第三部 付録 第1節 (3)

2014年08月11日 09時29分34秒 | 秘教/オカルト科学
2014年8月11日-1
ブラヴァツキー『秘密教義 第一巻 宇宙発生論』 第三部 付録 第1節 (3)

付録 ADDENDA
秘学〔オカルティズム、隠秘学〕と科学について ON OCCULTISM AND SCIENCE
第1節 SECTION 1
これらの付録をつけた理由 REASONS FOR THESE ADDENDA

〔第1節続き〕

[秘学 対 唯物論 Occultism Versus Materialism]

  We shall have, in Book II., to openly approach dangerous subjects.
  われわれは、第二巻で、危険な主題に正面切って取りかからなければならない。

We must bravely face Science and declare, in the teeth of materialistic learning, of Idealism, Hylo‐Idealism, Positivism and all‐denying modern Psychology, that the true Occultist believes in "Lords of Light;"
われわれは、唯心論、〔Dr. Robert Lewinsが創立した宗派の〕物質唯心論、実証主義、そしてすべてを否定する現代心理学という唯物論的学問の面前で、敢然と科学に立ち向かい、真の秘学徒は《光の主》を信じると宣言しなければならない。

that he believes in a Sun, which, far from being simply "a lamp of day" moving in accordance with physical law, and far from being merely one of those Suns, which according to Richter ---". . . . are Sun‐ flowers of a higher light"--- is, like milliards of other Suns, the dwelling or the vehicle of a god, and a host of gods.

また、物理法則にしたがって動いている単なる「日中の明かり」であることとはかけ離れている、そしてまたリヒターによれば「或る高級な光の太陽花〔ヒマワリ〕である」ような、あまたの他の太陽たちと同様に、一つの神と多くの神々の住処または乗りものであるような太陽たちのうつの単なる一つであることとはかけ離れている、一つの太陽を信じると、宣言しなければならない。

In this question, of course, it is the Occultists who will be worsted.
この問いで、やっつけられるであろう者は、もちろん秘学徒たちである。

They will be considered on the prima facie aspect of the dispute to be ignoramuses, and labelled with more than one of the usual epithets given to those whom the superficially judging public, itself ignorant of the great underlying truths in nature, accuses of believing in mediæval superstitions.
秘学徒たちは、その論争の一見したところでは無学の人たちだとみなされるだろう。そして、表面的な判断をする(彼ら自身も自然における偉大な根本的真理に無知である)大衆に対して与えられる軽蔑言葉を一つならず貼られるであろう。
また、中世の迷信を信じているとして避難されるであろう〔accusesがどれにかかっているのか、わからない。Zirkoff版479頁で校訂されてはいない〕。

Let it be so.
そうさせておこう。

Submitting beforehand to every criticism in order to go on with their task, they only claim the privilege of showing that the physicists are as much at loggerheads among themselves in their speculations, as the latter are with the teachings of Occultism.
仕事を続行するために、前もってあらゆる批判を甘受するが、物理学者たちは推測において反目しているというのは、〔the latter=physicists? occultists? 秘学徒たちが?〕秘学の教えについて反目しているのと同様であると示す権利を、秘学徒たちは主張するだけである。

純粋性または可能性(潜在性)と陰陽二元性/ダイアン フォーチュン

2014年08月10日 13時51分09秒 | 秘教/オカルト科学
2014年8月10日-1
純粋性または可能性(潜在性)と陰陽二元性/ダイアン フォーチュン

 
 《1》は、《2》になり、《3》になり、……。
 (一者)は、(二者)になり、三者になり、……。

  「23. Chokmah and Binah, then, represent essentianl maleness and femalenes in their creative aspects. They are not phallic images as such, but in them is the root of all life-force. 〔略〕
 ... it means that everything rests upon the principle of the stimulation of the inert yet all-potential by the dynamic principle which drives its energy direct from the source of all energy. 〔略〕
 ... the great principle of the stimulation or fecundation of the inert all-potential by the active principle. 」
(Dion Fortune 1935(1984): 149)。

  「23. コクマーとビナーは、創造的様相において本質的雄性と雌性を表象〔再現前〕する。〔略〕それらには、すべての生命力の根がある。〔略〕
 それが意味するのは、あらゆるものは、すべてのエネルギーの源から直接に自らのエネルギーを駆動する動的原理によって、不活性であるけれどもすべての可能性があるものを刺激するという原理に支えられているということである。〔略〕
 不活性なすべての可能性〔潜勢性〕が活動的原理によって刺激されるまたは受胎する(受精する)という偉大な原理……」
(20140810試訳。大沼忠弘(訳1985: 203頁)を参照した。)


  「25. Every relationship of manifested existence involves the Binah and Chokmah principles ...」
(Dion Fortune 1935(1984): 150)。

 「25. 顕現した存在のあるゆる関係性は、ビナーとコクマーの原理を伴っている……」
(20140810試訳。大沼忠弘(訳1985: 203頁)を参照した。)


  「26. The principles of maleness and femalenes as manifested in Chokmah and Binah represent more than mere positivity and negativity, activity and passivity. Chokmah, the All-begetter, is a vehicle of primal force, the immediate manifestation of Kether. It is, in fact, Ketherin action; for the different Sephiroth do not represent different things, but different functions of the same thing, _i.e._ pure force welling up into manifestation from the Great Unmanifest which is behind the Negative Veils of Existence. Chokmah is pure force ...」
(Dion Fortune 1935(1984): 150)。


[ふ]
フォーチュン,D.1935(1973)(大沼忠弘 訳 1985/10/30).神秘のカバラー[世界幻想文学大系 第四十巻].412pp.国書刊行会.[定価3,800円][B19860810]

[F]
Fortune, Dion. 1935(1984). The Mystical Qabalah. viii+308pp+3 diagrams. Samuel Weiser. [$8.95] [B19871028]

色彩と音響

2014年08月08日 17時38分17秒 | 秘教/オカルト科学
2014年8月8日-2
色彩と音響

 アリス ベイリーの『秘教瞑想〔秘的瞑想〕への手紙』が、
http://www.bailey.it/testi-inglese/Letters-on-Occult-Meditation.pdf
から入手できる。


 「 手紙VII 色彩と音響の〔色と音の〕使用

1920年8月27日

 法則を破るものは法則によって滅び、法則を守るものは法則によって生かされる。このことに疑問の余地は無い。秘学の真の研究は、現象の理由と方法の研究である。それは、諸結果が達成される方法を見出すことであり、また、諸々の出来事の支配的法則を発見するためには、出来事と状況の綿密な分析を必要とする。」
(2014年8月8日試訳)。
 
 
 「ロゴスがこの太陽系のための偉大な宇宙的言葉を発したとき、三条の主要な色彩が発し出て、ほとんど同時に別の四条の流れにもなりつつ、そうして顕現を可能にする七条の色彩がわれわれに与えられた。これらの色彩は、次の通りである。すなわち、

1. 青 Blue。
2. 藍 Indigo。
3. 緑 Green。
4. 黄 Yellow。
5. 橙 Orange。
6. 赤 Red。
7. 菫〔赤紫〕 Violet。

〔略〕

 これら七条の色彩はロゴス的瞑想の産物であった。ロゴスが瞑想し、熟考し、心的に宿し、理想的世界を形成し、それを思考物質で組み立てた。そうして、われわれの客観宇宙は、深い青または藍を総合的な基調色としつつ七色で輝いて、存在へと閃いた。したがって色彩について一定のことが措定できる。

 1. 色彩は、客観的な瞑想に関係があり、したがって形態に関係がある。

 2. 色彩は瞑想の成就で発せられる音響の結果である。

 3. これら七つの色彩とそれらの賢明な把握に、ロゴスが行ない建設するのと同様に行なう人間の資質 capacity が横たわっている。

 4. 色彩は、様々な乗り物に、またそれらの乗り物が機能する界に、一定の影響を与える。秘学徒によって、どの色彩がどの界に適用出来るかが、したがってまたどの色彩がその界のための基本的な色合い〔色相 hue〕であるのかが知られるとき、彼は小宇宙の成長についての基礎的な秘密を把握する。そして彼は、ロゴスが自らの客観的太陽系を建設するのに用いたのと同一の法則によって、自らの顕現体を建設できるのである。これは、光線瞑想が、賢明な学徒についには明かすであろう秘密なのである。」
(2014年8月8日試訳)。


ブラヴァツキー『秘密教義 第一巻 宇宙発生論』 第三部 付録 第1節 (2)

2014年08月08日 15時07分49秒 | 秘教/オカルト科学
2014年8月8日-1
ブラヴァツキー『秘密教義 第一巻 宇宙発生論』 第三部 付録 第1節 (2)
"The_Secret_Doctrine_Vol_1COSMOGENESIS"(pdf), p.440-
〔六巻本の〕"secretdoctrineVol.II"(pdf), p.199-


付録 ADDENDA
秘学〔オカルティズム、隠秘学〕と科学について ON OCCULTISM AND SCIENCE
第1節 SECTION 1
これらの付録をつけた理由 REASONS FOR THESE ADDENDA

〔第1節続き〕

  On the other hand, whatever the writer may do, she will never be able to satisfy both Truth and Science.
一方、筆者のすることが何であれ、真理と科学の両方を満足させることは決してないだろう。

To offer the reader a systematic and uninterrupted version of the Archaic Stanzas is impossible.
体系的で途切れない版の古代のスタンザを読者に提供することは、不可能である。

A gap of 43 verses or Slokas has to be left between the 7th (already given) and the 51st, which is the subject of Book II., though the latter are made to run from 1 et seq. for easier reading and reference.
43の詩節またはスローカが、(すでに与えられた)7番目と51番目の間に残されなければならなかった。それは、第二巻の主題であり、読みやすく参照しやすいように、第1節以降として番号づけられている。

The appearance of man on Earth alone occupies as many stanzas, which describe minutely his primal evolution from the human Dhyan Chohans; the state of the globe at that time, etc., etc.
地球上での人の出現だけで数多くのスタンザを占めている。そこには、人的ディヤーニ チョーハンたちからの人の初期の進化が、またその時の地球の状態などなどが、詳細に述べられている。

A great number of names referring to chemical substances and other compounds, which have now ceased to combine together, and are therefore unknown to the later offshoots of our Fifth Race, occupy a considerable space.
化学物質や他の化合物を指すきわめて多くの名称が、かなりの紙幅を占めている。もっとも、今では結合を止めており、したがって、われわれ第五人種の後の子孫たちには不明である。

As they are simply untranslateable, and would remain in every case inexplicable, they are omitted, along with those which cannot be made public.
それらは単に翻訳不可能であるので、またあるゆる場合に説明不可能のままであろうから、それらは省略される。

Nevertheless, even the little that is given will irritate any follower and defender of dogmatic materialistic Science who happens to read this.
それにもかかわらず、たまたまこれを読むことになる教条的で唯物論的な科学の追随者と擁護者は、与えられたほんの少しでも読めば、苛立ってしまうだろう。

  Before proceeding to other Stanzas, it is proposed, therefore, to defend those already given.
したがって、他のスタンザに進む前に、すでに与えられたスタンザを擁護するつもりである。

They are not in perfect accord or harmony with modern Science -- this we all know.
それらは、現代科学とは完全に一致または調和してはいない。そのことは、承知している。

Had they been, however, as much in agreement with the views of modern knowledge as a lecture by Sir W. Thomson, they would have been rejected all the same.
それらは、W. トムスン卿による講演のような現代知識の諸見解と、多くが合致するけれども、やはり拒絶されてしまうだろう。

For they teach belief in conscious Powers and Spiritual Entities; in terrestrial, semi-intelligent, and highly intellectual Forces on other planes*; and in Beings that dwell around us in spheres imperceptible, whether through telescope or microscope.
というのは、意識の諸力と霊的存在者たち〔の存在〕への、他の界への地球の半知性的な、そして大変知的な諸力〔の存在〕への、そして望遠鏡でも顕微鏡でも知覚できないがわれわれの周りの天球たちに住む存在たちへの確信を教えるからである。

   * Their intellection, of course, being of quite a different nature to any we can conceive of on Earth.
   彼らの思考過程は、当然ながら、われわれが地球上で考え得るようないかなるものとも極めて異なっている本性のものである

Hence the necessity of examining the beliefs of materialistic Science: of comparing its views about the "Elements" with the opinions of the ancients, and of analysing the physical Forces as they exist in modern perception before the Occultists admit themselves to be in the wrong.
よって、秘学徒が自分たちを間違っていると認める前には、唯物論的科学の信念を検討する必要、〈元素たち Elements 〉についての唯物論的科学の見解と古代の意見を比較することの必要、そして現代の知覚において存在するような物理的諸力を分析する必要、がある。

We shall touch upon the constitution of the Sun and planets, and the occult characteristics of what are called Devas and Genii, and are now termed by Science, Force, or "modes of motion," and see whether esoteric belief is defensible or not (Vide infra, "Gods, Monads, and Atoms)".
われわれは、太陽と諸惑星の組織立てと、そしてデーヴァ〔神々、天使たち〕と精霊たち Devas and Genii と呼ばれ今では科学によって力または〈運動の様式〉と名づけられたものの隠れた特徴について扱うだろう。そして秘教的信念が擁護できるものなのかどうかを見ることにしよう(下記の〈神々、モナドたち、原子たち〉を見よ)。


Notwithstanding the efforts made to the contrary, an unprejudiced mind will discover under Newton's "agent, material or immaterial" (of his third letter to Bentley), the agent which causes gravity, and, in his personal working God, one finds just as much of the metaphysical devas and genii, as in Kepler's angelus rector conducting each planet, and the species immateriata by which the celestial bodies were carried along in their courses, according to that astronomer.
反対方向への努力がなされても、偏見の無い心は、ニュートンの(Bentleyへの第三書簡の)〈物質的または非物質的作用者〉のところで、重力を引き起こす作用者を発見するだろう。また、ニュートンの個人的な働いている神において、おのおのの惑星を運営するケプラーの言う支配者と同様に、形而上学的デーヴァと精霊たちを、そしてまたこの天文学者によれば天体がその進路に沿って運ばれる非物質的種 the species immateriata を見つけるのである。

[[Vol. 1, Page] 479 DUAL NATURE OF THE SUN.]


秘密教義第二巻第3部付録第V節

2014年08月07日 16時38分22秒 | 秘教/オカルト科学

   秘密教義 第二巻 第3部 
       付録 第V節 

              H.P.ブラヴァツキー
              麻名隆志 訳



         第V節
                       [p.731]
     有機体の進化と創造的諸中心

 宇宙の進化,でなければ自然の全王国における種の漸進的発展は,一定不変の諸法則によって働くと主張される。これは認められており,法則は現代科学においてよりも秘教科学においてはるかに厳密に施行される。しかし,われわれは次のようにも教えられる。それは同様に,「より不完全なものからより完全なものへ,より単純なものからより複雑なものへ,ひとつひとつは微小であるが,要求される方向へたえまなく累積していくような,止むことなき変化によって,発展はなされる」という一法則である,と。比較的巨大な種が生じるのは,極度に小さなものからである。
 秘教科学はそれに同意する。しかし,この法則は初源の創造[Primary Creation]として知られているものにだけ適用されるとつけ加える。それは,原初的諸原子からの,そしてそれらの最初の分化においては前原初的原子[pre-primordial ATOM]からの諸世界の進化である。また,空間と時間における周期的進化の時期の間,この法則は制限され,下級王国でだけ働く。それは,最初の地質的期間[複数]に,単純から複雑へと,第三環[Round]の残存物[relics]から生き残っている未開発の材料に対してそのように働く。残存物は地球の活動が始まる時に客観的実在へと投射される。
 科学と同様,秘教哲学は意匠[design]あるいは「特殊創造」を認めない。「奇蹟的」なものに対するいかなる主張も拒絶するし,自然の一定かつ不変の諸法則のほかに何も受け入れない。しかし,それは周期的法則,力(あるいは霊)と質料の二重の流れを教える。そして質料は,存在の中立的中心[neutral centre]から発して,その周期的前進と止むことなき変形において発展する。諸時代を通じて全脊椎動物が発展したもとの「原始的胚種」[primitive germ]は,植物と動物が展開[evolve]したもとである原始的胚種とは異なっている。働きかけられるべき質料が発見されるときの条件によって働き具合が決定されるような副次的諸法則があるが,
科学――特に生理学と人類学――はそれについてほとんど気づいていないようである。科学の信奉者はかの「原始的胚種」について語り,「意匠」と「意匠する者」が,すばらしい構造の肋骨と特に手を持った人間の場合に,もしも存在するならば,「非常にはるか昔に置かれ,そして(意匠)は,実際,原始的胚種に含まれているにちがいない」し,そこから全脊椎動物のみならず,「おそらく全生命,動物と植物がゆっくりと発展してきたのだ」(「現代科学と現代思想」の94ページ)ということが,疑問の余地なく示されていると言い張るのだ。
 これは「原始的胚種」については本当であると同じ程度に,かの「胚種」が人間よりも「非常にはるか昔に遡る」だけだというのは嘘である。というのは,それは,われわれの太陽系の起源でさえからも,測られぬほどかつ考えられぬほど遠い(空間においてでなく,時間において)ところにあるからだ。ヒンズー哲学が大変正確に教えているように,「Aniyamsam Aniyasam」は,偽りの観念を通してのみ知ることができる。それは,一なるものから生じ,各々は七からなる一形態に生じた「多」であり,生きている霊的胚種あるいは諸力の諸中心であり,まず初源の衝撃[PRIMARY IMPULSE]を創ってからそれから,進化と漸進的緩慢的発展の法則にその衝撃を与えたのである。
 教えをこのわれわれの地球に厳密に限れば,次のことが示されよう。すなわち,最初の人間のエーテル形態は七つのディヤン・チョーハンの力の中心によって七層にまず投射されたのと同じように,植物と動物の形態の軍勢のあらゆる始祖[ROOT]あるいは親種に対して創造的力[power]の諸中心がある。このことは,再びいうが,「特殊創造」ではないし,普遍的法則によって働く一般的「基礎計画[ground-plan]」におけるものを除けば,いかなる「意匠」もない。しかし,確かに「意匠する者[designers]」は存在する。もっとも,これらは,語の絶対的な意味では,全能でもなければ全知でもない。それらは単に建設者[Builders]あるいは石工であって,(われわれの界では)ついぞ知られることなき親方石工[Master Mason]――一つなる生命であり法則であるもの,によって与えられる衝撃のもとに働いている。この天体に属しながら,それらは他のいかなるものにも働く手あるいは可能性を,少なくても現顕現期[Manvantara]では持っていない。諸周期において厳密に幾何学的かつ数学的尺度の進行に対して働くということは,絶滅した動物種が存分に示している。また,それらが,(副次的動物の子孫の)下級生命の細部における意匠によって活動するということは,博物学が十分に証拠立てている。新種の創造においては,ネコ属の大きな変異――オオヤマネコ,トラ,ネコ,など――におけるがごとく,ときには親種族から非常にかけ離れたりするが,新環境下で必要とされようと無用となろうと,種に対して付属物を加えたり奪ったりして新しい進化を方向づけるのは「意匠する者」である。こうして,大小にかかわらずあらゆる動物と植物を自然が養っていると言うとき,それは正しい。というのは,総計された自然を形成するのは,自然のそれら地球の霊達であるからだ。自然は,ときたまその意匠に失敗するとしても,盲目であるとは考えられないし,失敗を責められることもない。性質と属性の分化した一つの総計に属するので,それは,単に制限され不完全なものだからである。
 霊の物質への旅(それに比例して霊は隠される)――両者は一つなのだが――と次いで,能動的であるのと受動的であるのとが交替して,霊への逆上昇と物質の征服が続く,霊の永遠の螺旋的巡行,という進化的諸周期のようなものがなかったなら,動物学と地質学の諸発見をいかに説明するのであろうか? 権威ある科学の言明にもとづけば,軟体動物から大海竜へ,最小の陸虫から再び第三紀の巨大動物へと動物生命を辿ることができることはどうなのか? そして後者どもがかつて妨げられたことが,これら全ての種が減少し衰え小さくなったという事実によって示されていることは,どうなのか? より不完全なものからより完全なものへ,そしてより単純なものからより複雑なものへと働く外見上の発達過程が,偉大な宇宙的過程における単に二次的な性質の非常に不完全な一般化であるのでなく,本当に普遍的法則であるのならば,そしてもし主張されるような諸周期がないのならば,中生代の動植物は新石器時代最後のものと席を交換すべきであった。首長竜と魚竜こそが現在の海と川の爬虫類から発達していると見つけるべきものであって,小型化した現代の類似物に席を譲ったのではない。さらに言えば,旧友である良き気性の象こそがノアの洪水以前の化石先祖であっただろう。また鮮新世のマンモスこそが珍獣動物園にいたであろう。メガロニックスmegalonyx [貧歯目重歩上科に属する北アメリカ更新世のウシ大の化石哺乳類]と巨大なオオナマケモノmegatherium [重歩上科に属する南アメリカ中新世~更新世と北アメリカ更新世の体長6mの化石哺乳類]がナマケモノの代わりに南アメリカの森にいただろう。その森には石炭期の巨大シダがコケと現在の木――それは小木であって,カリフォルニアの巨木でさえ,過去の地質時代の巨大木にくらべれば小木である――の席を占めていただろう。第三紀と中生代のmegasthenian[MegasthenaはDanaの分類における哺乳綱の第二目。最大で最強の哺乳類を含む]の世界の生物たちは現時代のmicrosthenian [Microsthena はDanaの分類における哺乳綱の一目。最小で最弱の哺乳類を含む]の動植物よりも複雑で完全であったに違いないとは確かなのだろうか? 例えば,ドリオピテクスは現代のゴリラやギボンよりも,より発達した知能に対して,解剖学的により完全でより適していることが見出されている。それなら,これはどうなのか? これら巨大な陸棲と海棲の竜[dragon,恐竜?]の全ての,また空飛ぶ巨大な爬虫類の構造が,蛇,亀,鰐,そして鯨――要するに,われわれが知っている全ての動物――の解剖学的構造よりもはるかに発達し複雑であることはなかったと,信じるべきなのか?
 しかしながら,議論のために,進化のこれら全ての周期,人種,七つの形態と秘教的教えの全内容が,妄想と落し穴以上のものではない認めよう。科学に同意し,人間と彼の乗り物が,オカルティストが主張するように,閉じ込められた「霊」と殻あるいは身体――徐々に改良され今や完成した機械装置である――である代わりに,単により発達した動物であり,その最初の形態は,トビトカゲ[flying dragon,トンボ?]とブヨ,鯨とアメーバ,鰐と蛙,など,などとこの地球上で同一の原始的胚種から現われたと言おう。この場合,人間は他の全ての哺乳類と全く同じ発達と同じ成長過程ょ通って来たに違いないのか? もし人間が一個の動物であって,それ以上のものではなく,獣から出た,大変知力の発達したものであるなら,人間は彼と同種類の巨大な哺乳動物,彼の時代の巨大人類[meganthropos;ところで1941年にはジャワの前期更新世層からMeganthropus palaeojavanicusという化石人類が発見された]であったと認められるべきであり,少なくとも,そうであったという特権が与えられるべきである。このことがまさに,秘教科学が,はじめの三つの環において起こったこととして示すものであり,この点,他のたいていのことと同様,秘教科学は現代科学よりも論理的で首尾一貫しているのである。それは,人間の身体を獣の創造と同じ所に分類し,最初から最後まで動物進化の道上にあると断言する。一方,科学は人間を,未知の祖先から生まれた親のない孤児,「特殊化していない骨格」のままにしているのが実際なのだ! そしてこの誤りは,周期のに関する教義を頑なに拒否するところから来ている。
                
              ―――――

            A.
                       [p.734]
   哺乳綱の起源と進化:科学と秘教的系統発生学。

 すでに行なった西洋進化論の批判において,人間の起源の問題についてほとんど専念して取り扱ったので,種の分化に関するオカルティストの立場を定めることは悪くないだろう。人間以前の[pre-human ]動植物はスタンザへの注釈においてすでに一般的に扱った。そして,現代生物学の推論の多く,すなわち爬虫類からの鳥類の派生,「自然選択」の部分的正しさ,そして一般的に変形説[transformation theory]の正しさが認められた。今や片づけるべく残っているのは,最初の哺乳類相の起源の謎である。ド・カトルファージュ氏は,それが第二時代のHomo primigeniusと同時代であると証明しようとそんなにめざましくも努力している。
 「種の起源」に関係した幾分錯綜した問題――より特別には化石あるいは現存の哺乳類の多様なグループの問題――は,略図の助けでより明解になるだろう。西洋の生物学者* が信じている「生物進化の諸要因」がどの程度まで事実と合致して適切だと考えられるかが,こうして明らかになるだろう。
  * ダーウィン説はあまりにも無理を強いられてきておりハックスリィでさえそれが「狂信」へと時々退廃するのをかつて非難せざるをえなかった。一仮説の価値を無意識的に誇張する思索家の良い例をオスカー・シュミットは挙げている。彼は認める(「由来の学説とダーウィニズム」,p.158),「自然選択」 は「種形成の解答が他の自然条件において見出されるように,ある場合には……不十分であり,他の場合には……不必要である」。彼はまた認める,「中間段階が欠けている。このことは胎盤の無いものから胎盤の有る哺乳類への直接的移行を確信を持って推論する権利を与えるだろう」(p.271)と;また,「われわれは哺乳類の起源に対する憶測と推論についてもっぱら言及しているのだ」(p.268) と;そして「仮説的系統」の考案者たちの,とりわけヘッケルの度重なる失敗を。にもかかわらず彼は 194ページで「自然選択に基づいた由来の学説によって得られたものは,有機体が「血縁的な存在」であるという結びつきに関する「知識」である」と承認する。知識とは上に引用した承認事項と照らすと,それでは,単に推測と理論の同義語であるのだろうか?
 エーテル-スピリチュアル的,アストラル的,物質的進化の間の境界を定める線が引かれなければならない。おそらく,ダーウィン説信奉者が第二過程の可能性を考えようとしたまい遊ばしたのならば,「哺乳類の起源に対する憶測と推論について言及しているのだ」(O.シュミット教授の「由来の学説とダーウィニズム」,p.268 ) という事実をもはや嘆かなくてすんだであったろう!! 現在のところ,卵生の脊椎動物と哺乳綱の生殖系の間にある認められている隔たりは,進化論者とともに,全ての現存する有機体を一つの血統的連続線に結びつけようと望んでいる思索家にとって絶望的な難問となっている。
 例えば,有蹄類の場合をとりあげよう。「これほど豊富な化石資料は他の部門では見られない」と言われている。この方向で大変な進展がなされてきたので,いくつかの例では,現代と始新世の有蹄類との間の中間的絆が発掘されてきた。著名な例は,現在の一指の馬が古第三紀の三指のアンキテリウムAnchitherium[ユーラシア・北アメリカ中新世のウマ科動物]から派生したという完全な証拠の場合である。西洋生物学と東洋の教義の間の比較のもととなるこの基準は,したがって,これ以上の良いものにはできないだろう。ここで用いられた系統図は,一般に科学者の見解を具体化しているように,Rutimeyer の徹底的な研究に基づくシュミットのものである。そのおおよその正確さについては――進化論の見地からは――これ以上望むところはほとんどない:――

          有蹄類。

I .
           

 進化の中間地点。科学は行き詰まりに到る。「これらの二つの科がどの祖先[root]にさかのぼるのかは不明である」(シュミット)。


  /   オカルティズムによる「祖先[ROOT]」。
  │アノプロテリウム科   パレオテリウム科
  │     \     / 
  │      \   /
  │       \ /
II.│ 哺乳類界(動物)の七つの原始の物質-アスト
  │ラル的かつ両性的祖先型の一つ。これらは初期の
  │レムリア人種と――科学のいう「知られざる祖先」
  \と同時代のものである。


 Iは西洋進化論者によって探求された領域を表わすもので,そこには気候的影響,「自然選択」,そして有機体を分化させる他の全ての物質的原因が存在する。生物学と古生物学はここに活動分野を見出し,種の分離に対して,ダーウィンやスペンサーや他の者が示したように,大いに寄与している多くの物質的作用を研究している。しかし,この領域でさえ,ディヤン・チョーハンの知恵の半意識的[sub-conscious ]働きは全ての「完全へ向かう止むことなき奮闘」の根本をなしている。その影響は,ド・カトルファージュが「環境 milieux」と名づけ,スペンサーが「環境 Environment」と名づけた純粋に物質的な[material]諸原因によって非常に修正されるけれども。
 「進化の中間地点」とはアストラル的原型[prototypes]が次第に物質的原型になるのをはっきりと開始し,かくて今やわれわれの周囲で働いている分化的作用に支配されるようになるような段階である。物質界的因果関係は,「皮膚の毛」を身につけると――すなわち,一般に生理的装備に続いて直ちに起こる。両性の分離以前のヒトと哺乳類の形態*
  * どうか次のことに留意されたい。動物――哺乳類を含む――は全てヒトが脱ぎ捨てた組織から進化してきたけれども,なお,はるかに下級の存在として哺乳動物はヒトよりもはるかに早い時期に胎盤を持つようになり別個<のものになった。
は,アストラル質料[matter]から紡ぎ出され,食べたり飲んだり消化したりなどなどする物質的有機体のものとは全然似ない構造を持っている。有機体において知られている生理的装置はほとんど全て,アストラルから七つの根元型が物質化しはじめるのに引き続いて――現存する二界[plane,水準あるいは面とすべきだが慣行訳にしたがう]の間の「中間停止」のあいだに展開[evolve]された。われわれに馴染みある,副次的な地上の諸法則の影響が付随して起き,哺乳類の種の全ての産出という結果になった以上には,進化の「基本計画[ground-plan ]」は,これらの祖先型にはほとんど描き出されなかった。ゆっくりした分化の長い時期[aeon]は,しかしながら,この結果を生じさせるのに必要だった。
 第II図は(粗い)質料[物質]へ降下する前の純粋にアストラルの原型[prototypes]の領域を表わす。アストラル質料は,注意されなければならないのは,第4番目の状態の質料であり,われわれの粗い質料のように,それ自身の「原質」[protyle]を持っている。自然にはいくつかの「原質」があり,物質の色々な界[plane]に対応している。二つの亜物質界のエレメンタル王国,マインド界(マナス[manus ],第5番目の状態の質料)は,ブッディ界(第6番目の状態の質料)と同様,各々そして全て,対象宇宙の基礎を構成する六つの「原質」の一つから展開される。地球上の質料のいわゆる三つの「状態」は,「固体」,「液体」,そして「気体」として知られているが,厳正に言えば亜-状態にすぎない。物質界への降下,それはついに生理学的な人間と動物となったが,その過去の実在性については,いわゆるスピリチュアリズムの「物質化」の事実において明白な証拠がある。
 これら全ての例において,アストラル界の物質界への完全な一時的同化[mergence,統合吸収]が起きる。初期レムリア時代――地質学でのジュラ紀――のアストラル人種からの生理学的人間の進化は,交霊会の部屋での「霊[spirits]」(?)の「物質化」と正確に対応している。クルックス教授の「ケティー・キング」の場合には,生理学的機構――心臓,肺,など――の存在が疑う余地無く示された!!
 これはある程度までゲーテの原型[ARCHETYPE]だと言える。彼の言を聞こう:「かくしてわれわれは多くを得るべきであった。九つの完全な有機体は全て,一つの原型にしたがって形づくられる。原型は,そのまさに永続的な部分において多少とも単に変動し,そしてさらに,日に日に,再生産によって自分自身を完成し変形する」。これは,最初のアストラル根源型[astral root-types ]から種が分化するというオカルト的事実の一見不完全な予示となっている。「自然選択」,などなどの全民兵隊が生み出すのが何であろうと,構造的設計図の基本的統一性は後続する修正の全てによっても,実際上影響されずに残る。ある意味で全ての動物王国と人間王国に共通する「型の統一性」は,スペンサーやその他の者が考えると思われるように,全ての有機的形態の血縁性の証拠であるのではなく,自然が彼女の創造物を形作るにあたって従がった「基本設計[基礎計画]」の本質的統一性に対する証拠物件である。
 真相を要約するため,種の分化において関与する現実的要因[factor]の作表を再び利用しよう。過程自体の諸段階については,有機体の発展のもとである基礎的諸原理であるから,生物の専門家に領域に入ってしまう以上の注釈はここでは必要ない。



                

    動物と植物の種の起源に関与する要因。

     基本的アストラル原型[PROTOTYPES]が
         物質界に入る。
      
                ―――――
 ラマルクの発達に  1.遺伝によって伝えられる変異。
関する「生得と必要  2.自然選択。
の」法則を生じしめ  3.性選択。
るディヤン・チョー  4.生理的選択。
ハンの衝撃[Impulse]  5.隔離。
。それは全ての下位  6.成長の相関。
の媒介者[代理者]  7.環境への適応。(機械論的因果
の背後に横たわって     関係に反して,知的な。)
いる。
           
              
                  [A終わり,p.738]

(『暗燦』第5号、1996年8月?)


ブラヴァツキー『秘密教義 第一巻 宇宙発生論』 第三部 付録 第1節

2014年08月06日 22時40分51秒 | 秘教/オカルト科学
2014年8月6日-1
ブラヴァツキー『秘密教義 第一巻 宇宙発生論』 第三部 付録 第1節
"The_Secret_Doctrine_Vol_1COSMOGENESIS"(pdf), p.440-
〔六巻本の〕"secretdoctrineVol.II"(pdf), p.199-

付録 ADDENDA
秘学〔オカルティズム、隠秘学〕と科学について ON OCCULTISM AND SCIENCE
第1節 SECTION 1
これらの付録をつけた理由 REASONS FOR THESE ADDENDA

  MANY of the doctrines contained in the foregoing seven Stanzas and Commentaries having been studied and critically examined by some Western Theosophists, certain of the Occult Teachings have been found wanting from the ordinary stand-point of modern scientific knowledge.
  前出の七つのスタンザと注釈に含まれる教義の多くは、或る西洋神智学者たちによって研究され批判的に検討されてきており、オカルトの教えのいくつかは、現代的科学知識の通常の観点からは欠けていることが発見された。

They seemed to encounter insuperable difficulties in the way of their acceptance, and to require reconsideration in view of scientific criticism.
彼らは、受け入れるにあたって克服できない困難に出会い、科学的批判に照らした再考察を必要としたようである。

Some friends have already been tempted to regret the necessity of so often calling in question the assertions of modern Science.
友人たちがすっかり後悔に駆られたのは、現代科学の主張をしばしば呼び出さねばならないことであった。

It appeared to them --- and I here repeat only their arguments --- that "to run counter to the teachings of its most eminent exponents, was to court a premature discomfiture in the eyes of the Western World."
〈最も顕著な主唱者の教えに反することは、西洋世界の眼には時期尚早な敗北を招くことであった〉、これが彼らに明らかだったことであり、またここでわたしが彼らの主張を繰り返すだけの事柄でもある。

  It is, therefore, desirable to define once and for all the position which the writer, who does not agree in this with her friends, intends to maintain.
  したがって、友人たちとはこの点で同意しないわけだが、筆者が主張し続けようとする立場をずばりと定義することが望ましい。

So far as Science remains what in the words of Prof. Huxley it is, viz., "organized common sense"; so far as its inferences are drawn from accurate premises --- its generalizations resting on a purely inductive basis --- every Theosophist and Occultist welcomes respectfully and with due admiration its contributions to the domain of cosmological law.
科学が依然として、ハクスリー教授の言葉で〈組織された常識〉のままである限り、つまり、科学の推論結果が正確な前提から導かれる限り、あらゆる神智学徒と秘学徒は、つつしんで、また宇宙法則の領域への科学の寄与を当然にも賞賛して、歓迎するところである。

There can be no possible conflict between the teachings of occult and so‐called exact Science, where the conclusions of the latter are grounded on a substratum of unassailable fact.
秘学の教えといわゆる精密科学の教えの間には、相反する可能性はあり得ない。精密科学の諸結論が論争の余地のない土台に基づいているところでは、そうである。

It is only when its more ardent exponents, over‐stepping the limits of observed phenomena in order to penetrate into the arcana of Being, attempt to wrench the formation of Kosmos and its living Forces from Spirit, and attribute all to blind matter, that the Occultists claim the right to dispute and call in question their theories.
秘学徒が論争し異議を唱える権利を主張するのは、それをより熱心に主唱する者が、存在の奥義へと入り込むために、観察される現象の限界を踏み越え、宇宙 Kosmos の形成物とその生きている諸力を、霊からもぎ取ろうと試みるときだけである。

Science cannot, owing to the very nature of things, unveil the mystery of the universe around us.
科学は、物事のまさにその本性ゆえに、われわれの周りの宇宙 universe の神秘を明かすことばできない。

Science can, it is true, collect, classify, and generalize upon phenomena; but the occultist, arguing from admitted metaphysical data, declares that the daring explorer, who would probe the inmost secrets of Nature, must transcend the narrow limitations of sense, and transfer his consciousness into the region of noumena and the sphere of primal causes.
科学は、現象に対して収集し、分類し、そして一般化することができる。それは本当である。しかし、秘学徒は、認められた形而上学的資料〔観察事実〕から論じつつ、自然の最奥の秘密を探ろうとする大胆な探検者は、感覚の狭い限界を越えて本体たちの領域と第一原因へと自らの意識を移さなければならないと明言する。

To effect this, he must develop faculties which are absolutely dormant --- save in a few rare and exceptional cases --- in the constitution of the off‐shoots of our present Fifth Root‐race in Europe and America.
このことを引き起こすには、いくつかの稀で例外的な場合を除けば、ヨーロッパとアメリカにおける現在の第五根人種の子孫たちの体質にまったく眠っている能力を発達させなければない。

He can in no other conceivable manner collect the facts on which to base his speculations.
推測が基づくべき事実を、他に考え得る方法では、集めることはできない。

Is this not apparent on the principles of Inductive Logic and Metaphysics alike?
このことは、帰納論理と形而上学の諸原理についてと同様に明らかではないか?

ブラヴァツキー『秘密教義 The Secret Doctorine』(1)

2014年08月05日 14時02分10秒 | 秘教/オカルト科学
2014年8月5日-1
ブラヴァツキー『秘密教義 The Secret Doctorine』(1)

 ヘレナ P. ブラヴァツキー Helena Petrovna Blavatsky の『秘密教義 The Secret Doctorine』は、二巻からなる大部の書である。第三巻として出版されたものは、遺された原稿が、たとえばアニー ベサントによって編纂されたものである。なお、アリス A. ベイリー Alice A. Bailey が引用するのは、二巻本が六巻本として出版されたものらしい。

 『秘密教義 The Secret Doctorine』の原文である英文は、一文が長いことが多く、たとえばthatがどの部分を指しているのかとか、或る主張文は引用していっているのか、あるいはまた反語的にまたは皮肉で言っているのか、判定し難いことがしばしばで、訳することが大変難しい。ブラヴァツキー自身、英語は母国語ではないからと弁明している。

 東條真人『シークレット・ドクトリンを読む』は、ブラヴァツキーの母国語であるロシア語の三巻本を参照している。またなによりも、広範で深い研究にもとづく解説がなされている。日本語の読者にとって、おおきな贈り物である。

 以下にいくつか、引用させていただく。

  「 本書が大方の人々から荒唐無稽な作り話と受け取られるであろうことは、間違いない。〔略〕
  筆者は、本書の内容がもつ論理的な一貫性によって、この新たな創世記(宇宙誕生の神話)が、現代の科学者たちが《作業仮説》として気軽に受け入れているものと同等の資格をもつことになると言っておきたい。 さらに言うならば、本書は〔略〕、宇宙そのものに忠実であり、統一性と 類推の法則にしたがっているからこそ考察に値するのである。」(東條真人(編訳)2001/5: 25頁)。

 神智学またはトランスヒマラヤ密教では、人間に関わる世界を七つの界 plane に分類して(これらは宇宙物質界に相当する)、それぞれをまた七つの亜界 subplane に分類している。下からの三つは、物質界 physical plane、アストラル界 astral plane、そしてメンタル界 mental plane である。物質界の上位の四つの亜界の物質はエーテル体 etheric body と呼ばれ、下位の気体、液体、固体という三つの状態の物質は濃密物質体 dense physical body と呼ばれる。

 人間の本質は、魂 soul またはエゴ ego であり、それがいくつかの三重の衣(または鞘 sheath)をまとっている。
 肉体システムを統御する機構の作動が不全となり、したがって生命維持機能が不全となり、かつ、魂が離脱を自ら決定することが、(肉体の)死である。こうして転生 reincarnation を繰り返す。物質界という浮き世を経験することで、物質を栄化しつつ、徳を積み、覚醒していくといういわば巡礼の旅をするのである。

 →意識の三状態、臨死体験記録の総括、エーテル体、Hodgsonの透視による個体発生の経過。


 
□ 文献 □
東條真人(編訳・解説).2001/5/11.ヘレナ・P・ブラヴァツキー〔著〕シークレット・ドクトリンを読む.339pp.出帆新社[トランス・ヒマラヤ密教叢書].[本体3,500円+税][c201407??]

H.P. ブラヴァツキー『秘密教義』第二巻 第3部 付録 第I節

2014年08月03日 23時12分05秒 | 秘教/オカルト科学
2014年8月3日-3
H.P. ブラヴァツキー『秘密教義』第二巻 第3部 付録 第I節

   秘密教義 第二巻 第3部
     付録 第I節
              H.P.ブラヴァツキー
              麻名隆志 訳


 Secret Doctrine は1888年に出版されて近代オカルティズムの古典となっているが,現在なお汲みつくされていない泉である。近年,人類の祖先を巡る問題に新しい材料が加えられた。ひとつはアフリカで発掘されたアウストラロピテクス類であり,もうひとつは分子進化学による類人猿とヒトとの分岐年代の推定結果である。どちらも専門技術的問題があるが,結論としては古代の叡智,occult science(密教科学,秘教科学,神秘科学)の教えに近づいてきているのではなかろうか。
 原書としてはTheosophy Company のファクシミリ版を用い,Theosophical Publishing House のZirkoff 編の3巻本も参照した。

  *****************************************

        秘密教義

      第二巻。――第3部。
         付録。

  科学と秘密教義を対照させる。
  「この地獄界の知識――
   そう;友よ,そは何ぞ? 偽なるや,真なるや?
   偽なるもの,をいかな死すべき者が知りたいのか?
   真なるもの,をいかな死すべき者がかつて知ったというのか?」


      目次
                       ページ
第I節.古代人類学か,現代人類学か? ‥‥‥‥‥645
          ―――
第II節.人類祖先が科学によって提出さる ‥‥‥‥656
 プラスティドゥーレ魂,そして意識的神経細胞 ‥670
          ―――
第III節.ヒトの化石遺骨と類人猿 ‥‥‥‥‥‥‥‥675
 西洋の進化論:ヒトと類人猿の比較解剖学 ‥‥‥680
 ダーウィニズムとヒトの古さ:類人猿と彼らの
  祖先 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥685
          ―――
第IV節.地質紀の長さ,根人種周期,そしてヒト
     の古さについて ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥690
 それらについての現代科学の推察 ‥‥‥‥‥‥‥694
 惑星の連鎖期とその複数性について ‥‥‥‥‥‥699
 秘教的地質年代学 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥709
          ―――
第V節.有機体の進化――創造的諸中心 ‥‥‥‥‥731
 哺乳類の起源と進化 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥734
 ヨーロッパの旧石器人種たち ‥‥‥‥‥‥‥‥‥738
          ―――
第VI節.巨人,文明,そして水没した諸大陸を歴
     史にたどる ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥742
          ―――
第VII節.いくつかの水没した大陸の存在に関する
     科学的,地質学的証明 ‥‥‥‥‥‥‥‥778


  *****************************************


      第二巻への付録

        第1節

   古代人類学か現代人類学か?

 人の起源についての問いが,偏見がなく正直で熱心な科学者に対して,真剣に発せられると,その答えはつねに「われわれにはわからない」である。ド・カトルファージュ(de Quatrefages)は,不可知論的態度において,そのような人類学者の一人である。
 これは,他の科学者が公平でもなく正直でもないとうわけではなく,われわれの所見が思慮あるものとはときとして疑わしい場合と同様である。しかし,ヨーロッパの科学者の75%が進化論者だと推定される。現代思想のこれらの代表たちが全て,諸事実についての目にあまる虚説を張る罪を犯しているのだろうか? 誰もこうは言わない――が,大変例外的な場合がいくつかある。しかしながら,科学者たちは,反僧侶的熱狂によって,またダーウィニズムに代わる学説(「特殊創造説」をのぞいて)のどれにも絶望することによって,無意識のうちに,弾力性が不十分な仮説を「押しつける」ことにおいて不誠実である。その仮説は,今や課せられている過酷な緊張を憤る。同じ課題上の不誠実さは,しかしながら,聖職者社会でも大手を振っている。テンプル主教は,彼の「宗教と科学」において,ダーウィニズムの徹底的な支持者として打って出た。牧師たるこの著者は,物質を(その「最初の刻印」を受けた後),全ての宇宙的現象を助けを受けないで展開するもの[evolver ]と見なすことをできるかぎりやっている。この見解は,「世界の果て」に仮説的な神を設定する点で,ヘッケルの見解と違っているだけである。その神は諸力の相互作用から全く超然として立っているのだ。このような形而上学的実在[entity]は,カントのものと同じく,神学的神ではない。テンプル主教が唯物論的[物質主義的]科学と休戦したのは,われわれの考えでは,無分別である――それが聖書の宇宙創造説を全く拒否することになるという事実を別にしても。われわれの「学識ある」時代の唯物論に対して奴隷根性を発揮するのを前にして,われわれオカルティストはほほえむだけである。しかし,このような神学的怠け者が仕えていると称する主君たち,キリスト,そして一般にキリスト教徒への忠誠についてはどうなのか?
 しかしながら,当面,この牧師に挑戦する気はなく,目下の仕事は唯物論的科学だけに関するものである。われわれの問いに対する後者の答えは,その最良の代表者にあっては,「われわれにはわからない」である。もっとも,大多数の人は,全科学は先祖伝来の財宝であって,全てのことを知っているがごとく振るまう。
 というのは,実際,この否定的返答によっては,科学者の大多数はこの問いについて思索するのを妨げられなかったわけで,各人は,他の全てを除いて受け入れられた自分自身の特別な理論を持とうと努めている。こうして,1748年のMailletから1870年のヘッケルに至るまで,人類の起源についての理論が,その発明者の個性と同じ数ほどにも異なっている。ビュッフォン,Bory de Saint-Vincent,ラマルク,E.ジェフロワ・サンチレール,Gaudry,Naudin,ウォレス,ダーウィン,オーウェン,ヘッケル,Fillippi,フォークト,ハックスリィ,アガシー,など,各々は起源についての多かれ少なかれ科学的な仮説を展開した。ド・カトルファージュはそれらを2つの主要なグループにまとめている。1つは急速な変成[transmutation,今のevolutionと同様の意味]に,他は非常に漸進的な変成に固執する。前者は,新しい型(人間)は全く異なった生物から生まれることに賛成し,後者は累進的な派生による人間の進化[evolution]を教える。
 まことに不思議なことに,これら権威者の最も科学的なるものから,人間の起源という主題に関する全ての理論の最も非科学的なるものが今まで発してきたのだ。これは,非常に明白なことで,人間が類人猿様の哺乳類の子孫であるという現今の教えが,土くれからのアダムとアダムの肋骨からのイブの形成ほどには敬意をもって遇されないだろう時が急速に近づいている。というのは――
 「明らかに,とりわけダーウィニズムの最も基本的な諸原理に従えば,ある有機体は,発生がそれ自身に対して逆の順序になっているような他の有機体の子孫ではありえない。よって,これらの諸原理と一致して,人間は,何であろうといかなるタイプの類人猿の子孫でもないとしか考えられない。」*

  * ド・カトルファージュ「人類」, p.111。人と類人猿の頭脳のそれぞれの発達が述べられている。「類人猿では,側頭葉楕円体の[temporo-spheroidal]襞は,中頭葉を形成しているが,前頭葉を形成する前部の襞よりも以前に出現し完成する。人では前頭葉の襞は,反対に,最初に出現するものであって,中頭葉の襞は後に形成される。」(同上)

 類人猿説に対するLucaeの議論は,人と類人猿における頭骨の軸をつくっている骨の屈曲の違いに基づいており,それはシュミット(「由来の学説とダーウィニズム」,p. 290)によって,公平に論じられている。彼は,「類人猿は成長するにつれ,ますます獣的になるが,人はますます人間らしくなる」と認め,実際,先へ進むにあたってしばしためらっているようにみえる。たとえば,「頭骨の軸のこの屈曲は,したがって,類人猿とは反対で,人の形質としていっそう強調されよう。ある部類の特殊な特徴はそれから引き出すのはほとんどできない。由来の学説についてはとりわけそうであって,この事情は決して決定的ではないように思える」。 著者は明らかに,この議論に少なからず気をもんでいる。彼は,それが,現在の類人猿が人類の先祖であるどんな可能性をもひっくりかえすと断言する。しかし,それはまた,人と類人猿が共通の――もっとも,今までのところ完全に理論的な――祖先をもっていたというぎりぎりの可能性をも否定しないであろうか。
 「自然選択」自体でさえ,日に日にますますおびやかされている。ダーウィン陣営の脱落者は多く,かつては最も熱狂的な信奉者であった者が,新しい諸発見のために,ゆっくりとしかし着実に新規まき直ししようと準備している。1886年10月の「王立顕微鏡学会誌」には,次のような記事が読める:――
 「生理的選択。――G.J.ロマネス氏は,自然選択を,適応的構造の起源のための理論であるとみなすにはいくつかの困難があることを発見している。彼はそれに代わって生理的選択,あるいは最適者の分離,と称するものを提案する。彼の意見は,生活条件における小さな変化に対する生殖系の極度の感受性にもとづいており,野生種においては多少とも不妊へと向かう変異がひんぱんに起こっているにちがいないと考えている。もし変異がこのようであるなら,生殖系は,親の型ではある程度の不妊性を示す一方,変異型の限界内で多産でありつづける。変異は,交雑によってだめにはならないし,不妊性によってなくなってしまうことにもならないだろう。この種類の変異が起きれば,生理的障壁によって種は二つの部分に分けられるにちがいない。‥‥著者は結局,互いの不妊性を,種の分化の結果の一つではなく,その原因であると認めている。」*

  * これに加えられた編集部の論評は,アテニウム[ロンドンの文芸評論誌]――(3069号,1886年8月21日, pp. 242-3)誌上で「F. J. B.」氏は,自然観察者(ナチュラリスト)は長い間「形態的」と「生理的」種があると認めてきたと指摘している,というものである。前者は人の心にその起源があり,後者は,類縁個体グループの外的器官と同様に内的器官に影響を与えるに十分な一連の変化に起源がある。形態的種の「生理的選択」とは混乱した考えであり,生理的種の生理的選択なんてのは「冗長な用語」である。

 上述のことが,ダーウィン説を補足するものであり,それから導かれるものであることを示す試みがある。これは,せいぜい不体裁な試みである。公衆がまもなく信じさせられるだろうことは,チャールズ・ディクソンの「自然選択なしの進化」もまたダーウィニズム――著者がそうであるときっと主張するように,拡張されたダーウィニズムであるということだ。
 しかし,それは,一個の人間の身体を3片にあるいはいろいろな部分に分割し,そうして各部分はかつてあった如く同一の人間である,ただ拡張されただけだ,と主張するようなものだ。けれども著者は79ページで述べている:――「明瞭に理解してほしいのは,先のページの一語たりとも,ダーウィンの自然選択説に反対して書かれていないということである。私がなした全てはある現象を説明する試みである。ダーウィンの仕事を研究すればするほど,彼の仮説の真実性をますます確信することになる。」(!!)
 そして,この前の48ページで彼が言及しているのは:――「ダーウィンが彼の仮説を支持するものとしてずらりと挙げた諸事実の圧倒的なこと。それは,あらゆる難点と異議にもかかわらず,自然選択説を進展させ勝ち誇らせる」。
 これはしかしながら,この学識ある著者がこの説を「誇らかに」打ち負かすのを妨げたりはしない。そして,彼の仕事を「自然選択なしの進化」とおおっぴらに呼ぶことさえ,あるいは多言を要すれば,ダーウィンの基本的考えをみじんに打ち砕くことを,妨げはしない。
 自然選択自体については,この上ない認識が,ダーウィニズムの結論を暗黙に受け入れる今日の多くの思索家の間に広まっている。それは,たとえば,「自然選択」が種を生じさせる[originate]力を持っていると考えるような,レトリックの工夫にすぎない。「自然選択」には実体がない。しかし,有機体の間で適者の生存と不適者の除去が,生存への努力においてもたらされる様式を記述する便利な文句ではある。有機体の全てのグループは,生計手段を越えて繁殖する傾向がある。生活のためのたえざる争い――環境条件に加えて「食物を十分に取るためと食べられることから逃げるための努力」――は,不可避的に不適者をたえまなく取り除く。どの種属のエリートもこうしてえり分けられ,種を繁殖させ,それらの有機的特徴を子孫に伝える。全ての有益な変異はこうして永続し,漸進的改良が達せられる。しかし,自然選択は,筆者の卑見では,「力としての選択」とは,実際は全くの作り話である。とりわけ,種の起源の説明として用いられる場合はそうである。それは単に,「有益な変異」が生み出されたときに定型化される仕方を表わす代表的用語にすぎない。ひとりでには,「それ」は何も生み出さないし,「それ」に対して与えられる仕上げられていない材料に作用するだけである。問題になっている本当の問いとは,何の原因が――他の二次的諸原因と一緒になって――有機体自身において「変異」を生み出すか,である。これらの二次的原因の多くは,単に物理的,気候的,食餌的などなどのものである。まことに結構。しかし,有機体の進化の二次的側面を越えて,より深遠なる原理がさがし求められねばならない。唯物論者の「自然発生的変異」と「偶然的分岐」は,「物質,力,必然性」の世界では自己矛盾的用語である。準知性的刺激の監督的存在は別として,型の単なる変異性は,例えば人体の驚くべき複雑さと驚異を説明するには無力である。ダーウィニストの機械的理論の不十分さは,全く否定的思索家の中でもフォン・ハルトマン博士によって,十分に暴露された。盲目の未分化の細胞が,ヘッケルが書いたように,「自ずと器官へ配列する」などと書くのは,読者の知性を侮辱するものだ。動物の種の起源についての秘教的解答は他所で与えられる。
 性選択,自然選択,気候,隔離,などなどの旗のもとにまとめられた,分化についてのこれら全く二次的な原因は,西洋の進化論者を誤らせ,肉体的発展の出発点として役立つ「祖先型」が「どこから」というのが何であろうと,本当の説明は与えていない。真実は,現代科学に知られている分化的「原因」は,動物の元始の根原型がアストラル界から物質化[physicalization]した後で作用しはじめるにすぎない。ダーウィニズムは,進化とはその中間点で出会うにすぎない。すなわち,アストラル的進化が,通常の物質的諸力(これを,われわれの現代の五官によって知る)の活動に席を譲ったとき,である。しかし,ここにおいてさえ,ダーウィンの説は,最近なされた「拡張」した形でも,この場合の諸事実にうまく対処するには不適当である。種における生理的変異に潜んでいるもの――それに対しては他の全ての法則は従属的で二次的なものである――は,物質にゆきわたっている半意識的[sub-conscious]知性存在であり,究極的には神とディヤン・チョーハンの[Dhyan-Chohanic]英知の反映[REFLECTION]に帰すことができる。*

  * ネーゲリの「完全になるうること[perfectibility]の原理」,フォン・ベアの「目的に向かう努力」,Braunの「自然の進化史における内的刺激としての神の息吹き」,オーウェン教授の「完全になるうることへの傾向」などは全て,神とディヤン・チョーハンの想念に恵まれた,普遍的な導きのフォーハット[FOHAT]の暗黙の表明である。

 まんざら似てなくもない結論に,Ed. フォン・ハルトマンのような著名な思索家はたどりついた。彼は,手助けされない自然選択の効能に絶望して,進化は無意識(オカルティズムの宇宙ロゴス)によって知的に導かれていると考える。しかし,後者はフォーハット,あるいはディヤン・チョーハンのエネルギーを通して単に間接的に働き,それは偉大なる悲観論者が描くような直接的な仕方ではない。
 科学者の間でのこのような相異,互いのそしてしばしばの自己矛盾によって,本書の筆者は他の教え,より古い教えを――未来の科学的評価のための仮説としてだけであろうとも――明るみに出すように勇気づけられた。現代科学についてはどのみちあまり知らないけれども,この古代の開拓地の卑しき記録者にとってさえも明白なのは,上述の科学的虚偽と欠陥である。これら全てについて,二つの教えを平行線上に置くために,触れようと決めたのだった。
 今までのところ,「秘密教義」は全く,形而上学に関わってきた。今や地上に降りた。そして,物質科学と実地の人類学の領域,あるいは唯物論的自然観察者が自分たちの正当な領域だと主張する領域内に適所を得る。彼らは,ずうずうしくも更に,魂の働きがより高度にそしてより完全であるほど,動物学者と生理学者だけによる分析と説明にますます従うと主張している(ヘッケル「細胞の魂と魂の細胞」について)。この驚くべき主張はある人のものであって,彼は,彼の猿人由来説を証明するために,人の祖先の中にキツネザル科[Lemuridae ]を含めるのをためらわなかった。キツネザル科は,脱落膜が脱落しない[indeciduate]哺乳類である原猿亜目[Procimiae]の[分類]階級にまで,彼によって昇進させられた。原猿亜目には,彼はまことに間違って,脱落膜と盤状胎盤があるとしている。*

  * 下記参照。第II節「人類の祖先が科学によって提示さる」における,ド・カトルファージュによるヘッケルに対する暴露。

 これについて,ヘッケルは,ド・カトルファージュによってきびしくとがめられ,彼自身の同僚の唯物論者たちと不可知論者,彼に優らずとも同程度には偉大な権威者たち,すなわち,ウィルヒョウとドュ・ボア・レーモンによって批判されたのだった。*

  * ドュ・ボア・レーモンは厳密に言えば不可知論者であって,唯物論者ではない。彼は唯物論的教養――それは,精神現象は単に分子運動の産物だと断言する――に対して最も激しく抗議した。脳の構造に関する最も正確な生理学的知識がもたらすものは「運動中の物質以外の何物でもない」と彼は主張する。そして,「さらに進まなければならない,そして心的原理の全く不可解な性質,それは単なる物質的原因の所産であると考えるのは不可能である,を認めざるをえない」。

 このような反対にもかかわらず,ヘッケルの無思慮な理論は,今日まで,科学的で論理的だと言う人がいる。人の意識,魂,霊の不可解な性質は,今や,活発な原生生物[Protista]の原形質分子の機能の単なる進歩であり,人の心と「社会的本能」の文明に向かっての漸進的進化と成長は,蟻,蜂,そして他の生物の文化のなかにその起源をさかのぼらせねばならない。古代の叡智の教義を偏見なく聞こうという機会は実際ほとんど残されていない。教養のある俗人が教えられるのは,「下級動物の社会的本能は,近ごろ,明らかに,諸モラル,人間のモラルさえの起源であると考えられるようになった」(!),そしてわれわれの神聖なる意識,魂,知力,そして霊感はゼリー状のBathybiusの「単一の細胞魂の低級段階から進歩してきた」(ヘッケルの「進化の現在位置」注を見よ)のだ,と。そして彼はそれを信じているようである。このような人々に対して、オカルティズムの形而上学は、最も壮大なオーケストラと声楽のオラトリオが中国人に対して生み出すような効果、つまり、神経にさわる音といった効果を生み出すにちがいない。
 しかしながら、「天使たち」、最初の3つの前動物的人類種,そして第4人種の没落についての秘教的教えは、ヘッケル流の「プラスティドゥーレ的[plastidula ,plastidule はヘッケルの想定した生命担荷体,生命的原子]」,あるいは無機的な「原生生物の分子魂」よりも低い水準の作り事で自己妄想であるだろうか? 上述のアメーバの魂からの人間の霊的性質の進化と,大洋の軟泥の中の原形質体的住者からの人間の物質体[肉体]の主張されているところの発展の間には,深い裂け目があって,それは知的能力を存分に持っていても誰にも容易には橋渡しできないだろう。物質体の進化は,現代科学が教えるように,論争の決着がついていない一課題である。同じ方向での霊的そしてモラルの発展は,粗野な唯物論の気狂いじみた夢である。
          [つづく。p. 650,下から3行目まで]


     ***********************************

  第II節より抄訳
 [p. 671, 25行目~p. 672, 4 行目]

 後者(オカルティズム)が教えるのは,――(a) われわれの(プラーナ)生命素因[life-principle]の生命原子は,人が死ぬとき全く失われるのでは決してない。生命素因(独立の,永久の,意識的要因)が最高に注入されている原子は,一部は遺伝により父から子へ伝えられ,一部はもう一度団結させられてモナドの全ての新しい生まれ変わりにおける新しい身体に生命を与える素因となる。なぜなら(b) , 個体の魂がずっと同一であるように,諸下級素因(身体,そのアストラル体,あるいは生命複体,など)の原子も同一である。それらは,ひと続きの種々の身体,などなどにおける同一個体に対して親和性とカルマの法則によって引き出されるのである。


(1986年7月2日発行『暗燦 第4号』,p. 50-61)

存在するものはすべて生命である。存在しないものは存在しないだけである。

2014年08月03日 14時32分58秒 | 秘教/オカルト科学
2014年8月3日-1
存在するものはすべて生命である。存在しないものは存在しないだけである。

  「It has been stated before now that Occultism does not accept anything inorganic in the Kosmos. The expression employed by Science, "inorganic substance," means simply that the latent life slumbering in the molecules of so‐called "inert matter" is incognizable. ALL IS LIFE, and every atom of even mineral dust is a LIFE, though beyond our comprehension and perception, because it is outside the range of the laws known to those who reject Occultism. "The very Atoms," says Tyndall, "seem instinct with a desire for life.ʺ Whence, then, we would ask, comes the tendency "to run into organic form"? Is it in any way explicable except according to the teachings of Occult Science?」
(H.P. Blavatscky 1988, The Secret Doctorine Volume I Cosmogenesis. Facsimille edition, p.???; Zirkoff edition, p.248-249)。

  「すべては生命であり、鉱物屑でさえも、そのあらゆる原子は一つの生命である。そのことは、われわれの把握と知覚を越えている。なぜなら、オカルティズムを拒否する者たちに知られている諸法則の範囲外だからである。」
[20140803試訳]。


  「Chemistry and physiology are the two great magicians of the future, who are destined to open the eyes of mankind to the great physical truths. With every day, the identity between the animal and physical man, between the plant and man, and even between the reptile and its nest, the rock, and man―is more and more clearly shown. The physical and chemical constituents of all being found to be identical, chemical science may well say that there is no difference between the matter which composes the ox and that which forms man. But the Occult doctrine is far more explicit. It says: ‐‐‐ Not only the chemical compounds are the same, but the same infinitesimal _invisible lives_ compose the atoms of the bodies of the mountain and the daisy, of man and the ant, of the elephant, and of the tree which shelters him from the sun. Each particle―whether you call it organic or inorganic―_is a life_. Every atom and molecule in the Universe is both _life‐giving_ and _death‐giving_ to that form, inasmuch as it builds by aggregation universes and the ephemeral vehicles ready to receive the transmigrating soul, and as eternally destroys and changes the _forms_ and expels those souls from their temporary abodes. It creates and kills; it is self‐generating and self‐destroying; it brings into being, and annihilates, that mystery of mysteries―the _living body_ of man, animal, or plant, every second in time and space; and it generates equally life and death, beauty and ugliness, good and bad, and even the agreeable and disagreeable, the beneficent and maleficent sensations. It is that mysterious LIFE, represented collectively by countless myriads of lives, that follows in its own sporadic way, the hitherto incomprehensible law of Atavism; that copies family resemblances as well as those it finds impressed in the aura of the generators of every future human being, a mystery, in short, that will receive fuller attention elsewhere.」
(Zirkoff edition, p.261)。

 「化学と生理学は、未来の偉大な魔術師たちである。それらは、偉大な物理的真理に人の眼を開かせることになる。〔略〕
 山と雛菊、人と蟻、象と(人を日除けする)木を構成する、化学複合体だけでなく、不可視の極微的生命たちも、同一である。各々の粒子は、有機的と呼ばれるようが無機的と呼ばれようが、一つの生命である。宇宙におけるあらゆる原子と分子は、生命を与えており、そして死を与えてもいる。……」[20140803試訳]。



 自己組織化とは、いったい何なのだろうか?。
 一つの大生命で小さな小さな生命たちの活動である。
 活動または運動とは、生命である。


 

生気論と秘教

2014年07月24日 17時35分33秒 | 秘教/オカルト科学
2014年7月24日-1
生気論と秘教



 生気論とは何なのか、永らくわからないままで来た。一か月ほどまえ、秘教は生気論の立場であることを知った。そこで、秘教の生気論とはどのようなものなのかを探ることにした。
 電網処で提供されているPDFで、

 THE SECRET DOCTRINE
 THE SYNTHESIS
 OF SCIENCE, RELIGION, AND PHILOSOPHY
 by H. P. BLAVATSKY
 Vol. I. ― COSMOGENESIS
http://turtlegang.org/history/metaphysical/The_Secret_Doctrine_Vol_1.pdf
[受信:2014年7月24日。]

 THE SECRET DOCTRINE
 Vol. II ― ANTHROPOGENESIS
http://turtlegang.org/history/metaphysical/The_Secret_Doctrine_Vol_2.pdf
[受信:2014年7月24日。]

の二つを入手した。

 この版では、原著には無い(Zirkoffが編集したThe Theosophical Publishing House版にも無い)見出しが付けられている。たとえば、下記の文章の前には、「Alaya, the Universal Soul」という見出しがあり、その前後に狭い空白行が挿入されている。
 さて、一部を訳してみた。

  「Esoteric philosophy teaches that everything lives and is conscious, but not that all life and consciousness are similar to those of human or even animal beings.
  秘教哲学の教えでは、あらゆるものは生きていて意識があるが、すべての生命と意識が人類のあるいは動物の生命と意識に同様であるのではない。

Life we look upon as "the one form of existence," manifesting in what is called matter; or, as in man, what, incorrectly separating them, we name Spirit, Soul and Matter.
〔大〕生命を、われわれは「存在の唯一の形態〔形体〕」と見なす。それは、物質と呼ばれるもののなかに顕現している。あるいは人のように、霊、魂、そして物質と、不正確に分離して名づけるもののなかに顕現している。

Matter is the vehicle for the manifestation of soul on this plane of existence, and soul is the vehicle on a higher plane for the manifestation of spirit, and these three are a trinity synthesized by Life, which pervades them all.
物質は魂がこの存在界で顕現するための乗りものであり、魂は霊がより高位の界で顕現するための乗りものであり、これらの三つは、〔大〕生命によって総合される三つ組〔三位一体〕である。そして〔大〕生命は、それらすべてに行き渡っている。

The idea of universal life is one of those ancient conceptions which are returning to the human mind in this century, as a consequence of its liberation from anthropomorphic theology.
普遍的生命という考えは、この世紀に人類の心に戻りつつある古代の捉え方の一つである。また、その結果、人間中心主義的神学からの解放となっている。

Science, it is true, contents itself with tracing or postulating the signs of universal life, and has not yet been bold enough even to whisper "Anima Mundi" !

The idea of "crystalline life," now familiar to science, would have been scouted half a century ago.

Botanists are now searching for the nerves of plants; not that they suppose that plants can feel or think as animals do, but because they believe that some structure, bearing the same relation functionally to plant life that nerves bear to animal life, is necessary to explain vegetable growth and nutrition.

It hardly seems possible that science can disguise from itself much longer, by the mere use of terms such as "force" and "energy," the fact that things that have life are living things, whether they be atoms or planets.

原子であれ惑星であれ、生命を持つ物は生きている物であるという事実を、科学がずっと長く隠すことができるというのは、「力」と「エネルギー」といった用語を使うだけでは、ほとんど不可能のようである。」(20140724試訳)
(Boris de Zirkoff (ed.)のSDIでは、p.49になる)。

形態の進化

2014年03月29日 12時48分59秒 | 秘教/オカルト科学
2014年3月29日-2
形態の進化

 アリス べイリーの講演録である『原子の意識 The Consciousness of Atom』の
  LECTURE III. The Evolution of Form, or Group Evolution.
  講義3 形態の進化、または集団進化
では、プルターク Plutarch(日本語訳 54頁では「プラトン」となっている)の考え方に言及している。

  「To my mind, Plutarch conveys the idea of the manifestation
of the subjective through the medium of the objective form
in a much more illuminating way than does the dictionary.
He says : ?

  "An idea is a being incorporeal, which has no sub-
  sistence by itself, but gives figure and form unto shape-
  less matter, and becomes the cause of manifestation." 」
(Alice A. Bailey "": )

  「わたしには、プルタークは、客観的形態という媒体による主観の顕現という考えを、辞書よりも極めて啓発的に伝えていると思います。彼が言うには:

   「考えは無形であり、それ自体はいかなる生活〔生存〕も持たない。しかし、形状の無い質料に形象と形態を与え、顕現の原因となる。」
」[20140329試訳](アリス ベイリー(AABライブラリー訳 2002/5/20)『意識の進化』54頁を参照した)。


Geoffrey Hodsonによる胚発生の透視研究

2014年03月28日 22時59分11秒 | 秘教/オカルト科学
2014年3月28日-5
Geoffrey Hodsonによる胚発生の透視研究

 1929年出版の『The Miracle of Birth: A Clairvoyant Study of Prenatal Life』には付録が無いようだが、Quest edition(1981)の『The Miracle of Birth: A Clairvoyant Study of a Human Embryo』には、Appendixがa、b、cと三つある。

a. The World Mother    ......................... 75
 (Chart?Part of the embryo and their
  corresponding principles and colors).... 78
b. Descent into Incarnation ........................ 81
c. Development of the Embryo?
 New Attitude ............................................ 91


Hodson, Geoffrey. 1929[First Quest edition, 1981]. The Miracle of Birth: A Clairvoyant Study of a Human Embryo. 98pp. [B19850817] [Rh19850820]
[My Citation:
「The consciousness of the ego wa beginning to touch the emotional level and to influence directly the building of the emotional body. (...). / The line of communication between the ego and the fetus has gradually become broader. (Hodson 1929: 42)」
「The shape of hte physical body is decided by that of the etheric mold into which it is built by the nature-spirits. This mold is produced partly by the formative power of the "sound" vibration emitted by the zygote and permanent atom, *[= see Chapter 5] and partly by the Lords fo Karma, who model it according to the karma of the individual. (Hodson 1929: 43)」
「The end of the shaft ...
 At the moment of fertilization a flash of light descends from the highest spiritual level of the ego into the spermatozoan, gives it its creative impulse and energy...(Hodson 1929: 45)」
「Appendix b. Descent into Incanation pp.81-90」
「Appendix c. Development of the Embryo pp.91-95」

Hodson, Geoffrey. 1955[Fourth printing1977]. Occult Powers in Nature andin Man: Lectures Delivered in 1953 at the Summer Sessions at Olcott, Wheaton, Illinois, Headquaters of the Theosophical Society in America. xxviii+145pp. The Theosophical Publishing House, Adyar. [B19850817]

Hodson, Geoffrey. 1980[1952]. The Kingdom of the Gods. xxiii+272pp+3 charts+29 illustrations (color plates). The Theosophical Publishing House, Adyar. [B19850817] [at Cover page: 'As to the proof of the existence of these beings the author points out that, while there can be no demonstrable proof of the fruits of mystical experience, test by personal research is possible and he says, 'That test I have attempted to apply, and this book is in part a record of my own findings.' '.]

Hodson, Geoffrey. 1982[First Quest edition]. Fairies at Work and at Play observed by Geoffrey Hodson. 126pp. [B19850817]




Hodson, Geoffrey. The Miracle of Birth: A
http://hpb.narod.ru/MiracleBirthGH.htm

 Clairvoyant Investigations  Science
http://www.geoffreyhodson.com/Clairvoyant-Investigations-2.html


欲望または志向による形態進化

2014年03月27日 23時53分23秒 | 秘教/オカルト科学
2014年3月27日-6
欲望または志向による形態進化

  「勇気を培う方法とは、あらゆる状況において勇気を示していくことです。状況に立ち向かい、勇気の中で成長することです。何でもやり続けることによって、勇気が培われます。小さな事で勇気を培っていくうちにも、宇宙全体の中で独りであるというような大きな事においても勇気を持つことが容易になります。」(クレーム 2002: 192頁)。

 あらゆる物質に意識があり、魚を海から乾いた陸地に駆り立てたり、類人猿から人間へと進化させたりしたのは、原子の意識であり、それに内在する欲望の原理だという。これは、「ラマルクの〈内在的で必然的な〉発展法則を構成しているデアーニ チョーハンの衝撃」が駆り立てているということになるのか?

 
  「いのちの本質とはまさに変化です。それは基本です。宇宙全体に変化以上にリアルな〔実在する〕ものはありません。変化が起こると、人は自分自身のマインドの中で、非常に取るに足らないやり方でしかそれをコントロール〔統御〕することができません。いのちが新たな形態、新たな表現方法を見いだすにつれて起こる変化は人間にはコントロールできません。
 最初に海から出て乾いた陸地に住み始めた魚は、それまで考えもしなかった変化を体験したのです。そこには私たちが志向と呼ぶメカニズムが働き、まさにその本性によって魚を海から陸に駆り立てたのです。魚は異なった環境を求めたのです。欲望の特性はグラマーですが、同時にそれはあらゆる岩や石、物質そのものの中にあります。死んだ物質というようなものはありません。あらゆる物質に意識があります。魚を海から乾いた陸地に駆り立て、類人猿から人間へと進化させたのは原子の意識であり、宇宙のすべての原子に内在している欲望の原理です。
 そのプロセスはロゴスによって思い描かれました。単なる物質的な可能性としてではなく、それは、すべてのものと同じように、エネルギー的な観点から心象化されたのです。エネルギーがそれを不可避なものにします。欲望そのものの原理、志向、いのちのまさに本質から、海の生き物から陸の生き物への変化が起こったのです。それを行うには勇気がいります。初めはすべての魚がそうしたのではありません。彼らは海の端まで来て、「いや、私はいやだ。あそこはそれほど濡れていないじゃないか。どうやって生き延びればいいんだ?」と言っていたのでしょう。するとある魚が通りかかって、おそらく第四光線タイプでしょうが、こう言った。「あそこは乾いている。よし、僕が行くから、みんなついておいで!」」
(『協力の術』p.192-193)[受信:2014年3月27日]
http://sharejapan.org/sinews/magazines/swl9d8/vep55f/57lqb5


クレーム,ベンジャミン.2002(石川道子 訳 2002/5/1).協力の術.356+x pp.シェア・ジャパン出版.[1,500円+税][B20020513][Rh20041016]



生命と物質

2014年03月27日 23時18分31秒 | 秘教/オカルト科学
2014年3月27日-5
生命と物質

  「物質はこの存在界での魂の顕現のための乗り物であり、
魂はそれより高位の界での霊の顕現のための乗り物であり、
これら三つ〔物質、魂、霊〕は生命によって総合される一つの三位一体である。
生命はそれらすべてに充満している。」
(『秘密教義』第一巻80頁)。[試訳20140327]

  「Matter is the Vehicle for the manifestation
of Soul on this plane of existence, and Soul is the
Vehicle on a higher plane for the manifestation of
Spirit, and these three are a Trinity synthesized
by Life, which pervades them all.
 “The Secret Doctrine” Vol. I. Page 80.」
Alice A. Bailey "Esoteric Psychology - Volume I",
SYNOPSIS OF A TREATISE ON THE SEVEN RAYS
[受信:2014年3月27日]
http://www.lucistrust.org:8081/obooks/?q=node/376






秘教原論1:秘教における考え方と基本的前提

2014年03月27日 09時28分01秒 | 秘教/オカルト科学
2014年3月27日-3
秘教原論1:秘教における考え方と基本的前提



1. 仏陀 曰く……

 照応の法則 the law of correspondence

 
2. 知識と智慧

  「知識とは、〔略〕人間の発見したものと、経験したものとの綜合といってもよかろう。それは五感の感覚で認識し、人間の知性を用いて相互に関連づけ、診断し、定義し得るものであり、心の中で確かであると感ずるもの、或いは、実験によって確かめ得るものである。〔略〕要するに、事物の形態の面の成形と発達とを取扱うもののすべての謂である。故にそれは進化の物的面、及び太陽系と惑星(地球)と人間の進化の場である三つの世界と人間のもろもろの体とに於ける質料とに関心を寄せるのである。」[『人間と太陽との得度』、仲里誠桔 訳 1981: 14頁。]。
  「Knowledge ... might be termed the sumtotal of human discovery and experience, that which can be recognised by the five senses, and be correlated, diagnosed, and defined by the use of the human intellect. It is that about which we feel mental certitude, or that which we can ascertain by the use of experiment. (......) It concerns all that deals with the building and developing of the form side of things. Therefore it concerns the material side of evolution, matter in the solar systems, in the planet, in the three worlds of human evolution, and in the bodies of men.」(「Initiation: Human and Solar」[受信:2014年3月27日。]
http://www.bailey.it/images/testi-inglese/Initiation-Human-and-Solar.pdf

  「叡智は、〔略〕形態の内にある生命の発達、千変万化する乗り物を通じた霊の進歩、そして生命〔生涯〕から生命〔生涯〕へと互いに継いでいく意識の拡張と関係する。それは、進化の生命の面を扱う。それは物たち things の本質を扱うのであって、物そのものを扱うのではないから、推論能力からは離れて、真理を直観的に感知することであり、また偽と真の間、実在と非実在の間を区別する内的知覚である。〔略〕
 知識が質料の学〔科学? →秘教でのscienceの定義を探すこと〕であるように、叡智は霊の学である。知識が分離的で客観的にあるのに対して、叡智は総合的で主観的である。知識は分割し、叡智は統一する。知識は区別し、叡智は融合する〔組み合わせる〕。では、礎解〔x理解〕 understanding とはどういう意味であるのか?」[20140327試訳。仲里誠桔 訳 1981: 14頁を参照した。]
 「Wisdom ... has to do with the development of the life within the form, with the progress of the spirit through those ever-changing vehicles, and with the expansions of consciousness that succeed each other from life to life. It deals with the life side of evolution. Since it deals with the essence of things and not with the things themselves, it is the intuitive apprehension of truth apart from the reasoning faculty, and the innate perception that can distinguish between the false and the true, between the real and the unreal. (......)
  Wisdom is the science of the spirit, just as knowledge is the science of matter. Knowledge is separative and objective, whilst wisdom is synthetic and subjective. Knowledge divides; wisdom unites. Knowledge differentiates whilst wisdom blends. What, then, is meant by the understanding?

 
3. understanding 礎解

 understanding とは、下に立つことである。すなわち、なんらかの物事について、その元または基体を把握することである。