キリスト教的な「正義(righteous)」は、少数派であるときに、もっとも威力・存在価値を発揮する。
多数派にいる時ではなく。
世間に媚びず、靡かず、利害得失を離れて、自己犠牲をするところに、美しさがある。キリスト教的「正義」ってのは、ほとんどそういう文脈で発揮される。
塩狩峠の主人公とか、中村哲さんとか、キリスト教的にすっごくかっこいい人ってのは、少数派で、自己犠牲をしている人。利害得失を離れている人。
あ、キリスト教だけではなく、他の宗教でもそうですね。
論語でも言う:
子曰わく、志士仁人は、生を求めて以て仁を害すること無く、身を殺して以て仁を成すこと有り。
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毎日、ランニング中のAudibleで聴いている中島敦『李陵』でも、最近、
李陵 = right
蘇武・司馬遷 = righteous
って区別ができるな、って気がついた。
- 世間の目を気にして、誰かに自分の事績を知ってもらいたい、と考えていた李陵。
- 世間の目を気にせず、誰にも自分の事績を知ってもらわなくてもいい、と考えていた蘇武。
- 世間の目を気にせず、生きている誰にも自分の事績を評価してほしくなかったけど、後世には自分の事績を知ってもらいたいと考えていた司馬遷。
こう、三者三様の、捉え方ができる。
作者の中島敦が、そこまで考えていたか。
いずれにせよ、蘇武と司馬遷の美しさ、勁(つよ)さ、が際立つ。
蘇武と司馬遷には甲乙つけ難い。蘇武の方がちょっとカッコいい?
Right と Righteous の違いは、10年単位でモノを考えるのか(right)、100年単位でモノを考えるのか(righteous)、の違いと考えています。