河合敦さんの本を興味深く読んでいたら、一つ、引っかかる箇所に遭遇。
「英雄色を好む」は歴史が証明している
的な。
え。
その論理性の甘さに、違和感しかない。語尾の「歴史が証明」の下品さに、言葉を選ばず言えば、虫唾が走る。
何を「歴史が証明」したのですか。
ちなみに、渋沢栄一の女性関係が派手だったという文脈で。
そのお行儀の悪さを弁護したいようだ。
性的衝動(リビドー)と活動力・行動意欲の関係をフロイト的な心理学から説明するなら、まだ分かる。
しかし。
「歴史が証明」?
何を「歴史が証明」したのだろう。
「英雄色を好む」というように、性欲旺盛な人が活動的で、英雄的に社会の発展に寄与してきた、と言いたいんだろう。
確かに、そういう側面もあろう。人生はバイタリティだから、立派な、活躍している人間に、性欲が強い人間が多い、と。
私も、私の経験から、かつて、このブログでも「英雄色を好む」的な考えを擁護したことがあった。
「英雄が色を好む」のではなく、「色を好むと英雄的に行動的になれる」って文脈で。
その仔細はあえて繰り返さない。
しかし。
性欲旺盛な人間が、どれだけ、世間に迷惑をかけてきたか。
終戦時の露助。引き揚げのどさくさに紛れて日本女性を犯しまくったロシア兵。
人肉の佐川さんなんかはちょっと例外ですが、皆さんの周りにも、異性関係がだらしなくって、周りから総スカンの人がいませんか。
この河合「英雄色を好むを歴史が証明」に対抗する形で、仮説を立ててみる。
「英雄が色を好む」ように見えるのは、「英雄」がワガママでワンマンで権力を振りかざしているから、その「色を好む」行為に誰も異を唱えることができないだけ。
「英雄」のお行儀の悪さを、周りが指摘することが憚られる。怖くて指摘できない。
だから英雄の下半身が野放しになる。英雄のスケベさが公になる。
毛沢東が天下の美女を連れ込んで毎夜ハーレムの悦楽に浸っていたように。
つまり、「英雄」になっちゃうと、その「色を好む」行為に歯止めが効かなくなる。カネもあるし、権力もあるから。
本当は、英雄じゃない下っ端も、同じようにスケベなんだけど、金と権力がないから、「色を好む」行為ができないだけ、なのかもしれない。
要するに cannot afford 。金銭的に余裕がない。
金銭その他、「色を好む」ことができて許される環境にあれば、英雄じゃなくても色を好むのでは。
実際、安価に女性とコトを致すことができる大阪の飛田新地に行く人の中で、「英雄」的に社会で活躍している人は多くあるまい。
値段は張るが、吉原のソープ街に通う人の中に「英雄」はどれくらいいるんだろうか。
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まとめます。
「英雄色を好む」は、「英雄は性欲が旺盛だ」という意味ではない。
「英雄は、性欲発散して傍若無人・酒池肉林的に振る舞えるカネ・権力がある」ってだけの話ではないのか。
河合敦さん。
「歴史が証明」って書いてますが、何を歴史が証明したんですか。
しっかり論じていただきたい。
※ 「〜は歴史が証明」みたいな、手垢のついた、ませた中学生が書くような、陳腐な表現を使うのがいけない。本当に、自分の頭で考えて、自分の肚で咀嚼して、自分の言葉で書いていない。
自分の頭で考え、自分の肚で咀嚼し、自分の言葉を誠実に紡ぐ人は、軽々に「〜は歴史が証明している」なんて大きなテーゼを、大上段から偉そうに書かない。