備中高松城 水攻めの謎 ~ 秀吉が築いた堤防の長さは、3キロメートル? 300メートル? ~

2014-07-06 19:03:56 | うんちく・小ネタ
秀吉の「備中高松城 水攻め」は、日本史上でも有名な戦いですが、実は大きな謎も伴っています。
そもそも「水攻め」とは何なのでしょうか。



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  <蛙ヶ鼻に残る備中高松城水攻め堤防の一部(公園整備前の状況)>



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1.水攻めの効果 


お城の水攻めといえば、平成24年(2012)公開の映画 『のぼうの城』(原作:和田竜)をイメージされる方が多いかも知れません。
(私も映画を観に行って、その後のテレビ放送でも観ました。再放送があったら、多分また観てしまうでしょう・・・)

ただし、『のぼうの城』の水攻めの描写には、かなり誇張があります。
実際に戦国時代に行われた水攻めは、堤防の中に急激に注水して水圧で建物を破壊するとか、城を完全に水没させて城兵を溺死させることを狙ったものではありません。

戦国武将たちは、常に「費用対効果」を考えて戦をしました。
それでは、堤防建設という多額の資金、そして労働力を費やしてまで期待した、水攻めの効果とは何かを考えてみましょう。

備中高松城の実例も参考に考えると、水攻めの効果として次の3項目が挙げられます。

 (1) 城と外部との連絡を絶つ
 (2) 籠城軍の生活環境を悪化させ、戦う意志を失わせる
 (3) 「国力」の差を見せ付け、敵を降伏させる

 



(1) 城と外部との連絡を絶つ

籠城戦は、平たく言えば「時間稼ぎ戦術」です。
援軍の到着を待ち、敵より兵力が勝ってから反撃に出る。
あるいは、城を攻撃する敵方が、何らかの事情が発生して城攻めを継続できなくなり撤退。そんなコールドゲームを期待する。
そうした時期を待ち、じっと耐えるのが籠城戦です。

それに対する攻撃軍は、まず籠城軍と援軍の連絡を絶つことが肝心です。
そして、兵糧の運び入れを阻止し、逆に籠城軍の兵糧が尽きることでの「時間切れ」の降伏を狙います。
そのためには、通常は城の周りに何重にも柵をめぐらせて、兵を配置して警備します。
水攻めの場合は、水没地域によって、城と外部との連絡を完全に遮断できるのです。
従って、城の周辺を冠水させて孤立させる程度でも、十分にその目的を達成するのです。



(2) 籠城軍の生活環境を悪化させ、戦う意志を失わせる

水攻めされた備中高松城では、付近にあった染物屋から染物用の板を数百枚集めて小船を3隻作り、城内の連絡用に使用したと伝えられています。
おそらく、城内の大部分が床下浸水し、本丸や要所の櫓などの高い区画が寸断されて残る状態だったのでしょう。

城兵は、水に漬かっていない場所へ避難し、過密状態のため寝るときも身を横たえることは出来なかったでしょう。
兵糧も多くが水に漬かってしまい、乾いた地面も少なく炊事も出来ず、生米をかじる状態だったかもしれません。

さらに、洪水による床下浸水を経験した人はイメージし易いかも知れませんが、水とともに様々な汚物が流れて来ます。
また、乾いた場所を求めてムカデやヘビなど、同居したくない生き物が座敷に這い上がってきます。

生活環境を劣悪にし、籠城軍に戦いを続ける意思を失わせる。
これも水攻めの効果です。



(3) 「国力」の差を見せ付け、敵を降伏させる

水攻めの堤防建設には、多額の資金、そして労働力を要します。
さらに、敵を前にした戦場での工事は、それを短期間で完成させなければなりません。

よほど豊富な軍事力と経済力が無ければ、成しえない技です。
言い換えれば、織田軍(秀吉軍)の軍事力と経済力を、備中高松城の籠城軍に、さらには救援に来た毛利軍に思い知らせることが出来るのです。
歴然たる「国力」の差を見せ付けられた毛利軍は、講和に応じる態度を固めました。


以上の事から、「水攻め」は味方の兵力を損じることなく、敵の城を降伏させる戦術と位置付けられます。
しかも、「物心両面」で敵の戦意を喪失させてゆき、通常の兵糧攻めよりも早い降伏が期待できるという点が特徴と言えます。



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2.備中高松城水攻め堤防の長さは、3キロメートル? 300メートル?


(1) 3キロメートル説

備中高松城の水攻め堤防の長さを記した最初の史料は、『中国兵乱記』です。
これは、実際にこの城に籠って戦った人物が、後年に著した貴重な史料です。
著者の中島元行は、清水宗治の副将として毛利家から派遣され、備中高松城の二の丸を守りました。
晩年に至り、毛利家の求めに応じて、天正5年(1577)から同10年までの間、中国地方で繰り広げられた毛利一族と織田信長・羽柴秀吉との戦闘の経過を軍記として記録しました。それが『中国兵乱記』です。
元行の没年が慶長19年(1614)ですから、「水攻め」から30年ほど経って書かれたことになります。
『中国兵乱記』には、堤防の長さを26町(約2.8キロメートル)、幅は基部で9間(16.2メートル)で、高さ4間(7.2メートル)と記されています。
現在、堤防の一部が残る蛙ヶ鼻から、足守川の水を引き入れた門前までの距離を測ると、およそ3キロメートルあります。
つまり、『中国兵乱記』は、この区間の全てに堤防が築かれたと述べています。

『中国兵乱記』の記述をもとに、この区間に長大な堤防が築かれていたとするのが定説となりました。
江戸時代には『太閤記』人気の影響も合わさって、長大な堤防を描いた地図や絵画が多く出回りました。
現代に入ってからは、吉川英治や司馬遼太郎の小説に長大な堤防が登場し、周知されてゆきました。

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(2) 300メートル説

江戸時代中期の寛政3年(1791)、地理学者の古川古松軒(ふるかわ こしょうけん)は、備中高松城跡と周辺地域を踏査しました。
その結果、古松軒は水攻め堤防について、従来の説とは異なる新たな見解を示し、「備中国加夜郡高松城水攻地理之図」(びっちゅうのくに かやぐん たかまつじょう みずぜめちりのず)に記しました。
その新たな見解とは、秀吉が水攻め堤防を築いた区間を、蛙ヶ鼻から松山街道(現在の国道180号線)までの間、およそ300メートルに限定したことです。
その図中では、堤防を描いた横に「此所二新堤築ク」と注記し、堤防が限定的に築かれたことを強調しています。

しかし、この説は関心を集めることも無く、やがて埋もれてゆきました。

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<「備中国加夜郡高松城水攻地理之図」>



昭和60年(1985)6月、大雨による洪水で、備中高松城跡の一帯がまるで水攻めの光景を再現したかのように水没したことがありました。
これにより、「ここは、元々水没し易い地形なのでは? 」との見解が、地元研究者を中心に持たれるようになりました。
平成9年(1997)、地元の県立高松農業高等学校土木課が、精密に土地の高低を測定した結果、旧松山街道(国道180号線)に沿った一帯が、備中高松城の周辺より1メートルほど土地が高くなっていることが分かりました。
これは、太古の昔より氾濫を繰り返し、度々流路を変えていた足守川(あしもりがわ)によって運ばれた土砂が堆積したもので、「自然堤防」(しぜんていぼう)と呼ばれるものです。
つまり、蛙ヶ鼻と自然堤防の間、およそ300メートルの区間を塞き止めれば、古川古松軒が考えたように水攻めが可能だったということが証明されたのでした。

以上が、水攻め堤防の長さに関する「3キロメートル説」と「300メートル説」の概略です。
皆さんは、どちらの説を支持されるでしょうか。
ちなみに、大河ドラマ「軍師官兵衛」では、大河ドラマとしては初めて「300メートル説」を採用しています。



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3.水攻めの日本史 


備中高松城の水攻めは、NHK大河ドラマ 「軍師官兵衛」では、官兵衛が立案したというストーリーになっています。
実際に官兵衛自身が考え付いたものかどうか、そこまで詳しく記した史料は残っていません。
しかし、ドラマにそこまで詮索を入れるのは野暮というもの。ここはドラマとして楽しみましょう。

ついでながら、平成8年(1996)に放送された大河ドラマ 「秀吉」では、黒田官兵衛が秀吉に水攻めを献策する場面で、こんなセリフがありました。

 「唐土の古代の戦術をもとに、水攻めを考えました」

古代支那(中国)の戦術を真似て、備中高松城の水攻めが立案されたというのは、明らかな誤りです。
(先ほど、ドラマはドラマとして楽しみましょうと言ったばかりですが・・・)

城をめぐる戦いで、川の水を塞き止めて人工的に洪水を発生させ、敵の動きを制約するという戦術は、もっと古くから日本に存在しました。


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(1) 寿永2年(1183)、越前国の燧ヶ城(ひうちがじょう)に籠った木曽義仲方の武将が、平家の大軍勢を迎え撃つため、城の近くを流れる日野川を塞き止めて一帯を水浸しにしたという記述が『源平盛衰記』にあります。
これは、籠城軍が攻撃軍に対して行った水攻めです。


(2) 永禄2年(1559)、近江国の戦国大名・六角義賢(ろっかく よしかた)が、配下の高野瀬秀隆(たかのせ ひでたか)の居城・肥田城(ひだじょう)を水攻めにしています。
これは、秀隆が六角氏の敵対勢力・浅井長政(あざい ながまさ)に内応したための報復でした。
義賢は、肥田城の守りが堅く攻略が困難と判断し、城の周囲に長さ58町(約6.4キロメートル)の堤防を築き、川の水を引き入れて水攻めにしました。
この「肥田城水攻め」は、堤防が決壊し、結局は失敗に終わりましたが、今も堤防遺構が部分的に残っています。


(3) 元亀3年(1572)に織田信長が浅井長政の籠る小谷城を攻めた時、信長が本陣を置いた虎御前山城から東方の付城・宮部城まで、長さ50町(約5.5キロメートル)にわたって高さ3メートルの土塁を築いています。
そして、土塁の外側(小谷城に向かう側)は塞き止めた川の水を流し入れ水浸しにし、内側には軍道を造っています。


天正10年(1582)の備中高松城水攻めは、こうした歴史の流れの上にあります。
また、織田家の多くの武将たちの故郷・濃尾平野に蓄積されてきた治水技術もその素地となったと考えられます。
木曽川・長良川・揖斐川のいわゆる「木曽三川」は、近世以前は洪水が起こるごとに流路を変える暴れ川でした。
この流域では、集落の周囲を堤防で囲んだ「輪中(わじゅう)」が中世より発達しまていました。
川の水を、人の力で制御するという考えと技術とが、秀吉の水攻めの成功を生んだと言えるでしょう。


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  <蛙ヶ鼻に残る備中高松城水攻め堤防の一部(公園整備後の状況)>



なお、秀吉は備中高松城の「水攻め」での成功体験で自信を得て、その後もたびたびこの戦術を用います。

天正12年(1584)、小牧長久手合戦の一環で、織田信雄方の尾張国・竹ヶ鼻城(たけがはなじょう)を水攻め。
天正13年(1585)、紀州攻めで太田城(おおたじょう)を水攻め。
天正18年(1590)、小田原合戦で、北条方の武蔵国・忍城(おしじょう)を水攻め。


こうして大規模な「水攻め」のノウハウが蓄積され、水辺を防禦の要とした城を、逆に無力化してゆくことになりました。
たとえば、慶長15年(1610)、徳川家康は清須城を廃城とし、新たに名古屋城の築城に着手しています。
この時、家康は清須城を廃城にする理由の一つに、そこが「水攻め」に弱い立地だということを挙げています。

さて、日本史上で最後の内戦は明治10年(1877)の西南戦争ですが、この戦いの中で最後の「水攻め」が行われています。
同年2月22日、西郷隆盛率いる薩摩軍は、政府軍が籠もる熊本城(城内に陸軍の熊本鎮台が置かれていた)への攻撃を開始しました。
籠城する政府軍4000人に対し、攻撃する薩摩軍は1万人超。
しかし、さすがに堅固な熊本城はビクともしません。
やがて政府軍の援軍が福岡より南下して来たため、薩摩軍は兵力の大部分を田原坂方面に移動。
熊本城に籠る政府軍の反撃を防ぐため、城の周囲を流れる坪井川・井芹川の合流点を塞き止め、熊本城下を水浸しにしました。
この話を初めて聞かれた方は、
「あの高石垣を誇る熊本城を水攻め!?」
と、意外に思われるかも知れません。
これは、冒頭で述べた水攻めの3つの効果のうち、「城と外部の連絡を絶つ」に目的を絞った作戦でした。

その後、4月14日に熊本県南部の海岸に政府軍別働隊が上陸。
熊本城に援軍として駆けつけ、薩摩軍を駆逐しました。
こうして日本史上最後の「水攻め」は、攻撃軍の敗退で幕を閉じたのでした。

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  <西南戦争時の熊本城周辺の水没区域>




備中高松城を歩く。 ~ この城から、歴史の急展開が始まった! ~  <「軍師官兵衛」ゆかりの城⑩>

2014-07-06 11:05:54 | うんちく・小ネタ
備中高松城  びっちゅう たかまつじょう  (岡山県岡山市)



NHK大河ドラマ 「軍師官兵衛」、物語はいよいよ天正10年(1582)の備中高松城をめぐる戦いに入りました。
難攻不落の城に対し、気宇壮大な水攻めの敢行。
そして、織田・毛利両軍の主力決戦を目前に起きた本能寺の変。
官兵衛・秀吉の決断で、歴史が急展開してゆきます。
ここは見逃せませんね。


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天正5年(1577)に播磨国の上月城をめぐる戦いで織田・毛利の両軍が激突してより5年。
前半戦は、毛利軍が優勢でした。
織田軍はその頃、大坂の石山本願寺をはじめ、丹波の波多野氏、播磨の別所氏など多方面で交戦中であり、毛利軍との戦いに専念できない状況にあったのです。

しかし、信長はそうした敵を一つ一つ撃破してゆき、後半戦では毛利攻めに巨大な軍事力を投入できるようになりました。
また秀吉の調略によって、備前の宇喜多氏が織田方となりました。
続く備中が織田軍に制圧されれば、毛利軍はいよいよ備後、そして安芸の本領に敵の侵入を許すことになってしまいます。
毛利軍にとって、備中は絶対防衛圏とも言うべき要衝となりました。

毛利軍は、備中の7ヵ所の城を対・織田軍の最前線と定め、防衛体制を布きました。
いわゆる「境目七城」(さかいめななじょう)です。
その中で、最も規模が大きいのが備中高松城です。
備中高松城は、周囲を沼沢地に囲まれていて、まさに水の要害でした。
ここに清水宗治が兵力5000を率いて籠り、守備を固めていました。



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それでは、備中高松城を訪ねてみましょう。




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石井山より見た備中高松城です。
水攻めの際、秀吉はここに本陣を置きました。
先ずは、秀吉・官兵衛の目線でこの城の立地を検分してみましょう。

今は美しい田園が広がっていますが、かつてこの一帯は敵の侵入を許さない深い沼地でした。
その中に島を連ねるように城跡が残っています。

そして三方が山に囲まれた地形です。
堤防を築いて水の出口を完全に塞ぎ、この城を水攻めにしようとは、何とも壮大な作戦を考えたものです。



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備中高松城の推定復元図です。
現在の地形に、文献史料および発掘調査成果の情報を合わせて推定されたものです。
しかし、発掘調査は部分的にしか行われておらず、その姿には未だ謎が多いです。


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城の城の南側にあった「舟橋」の跡です。

秀吉の攻撃を前に、城主・清水宗治は、ここに大規模な外堀・八反堀(はったんぼり)を築きました。
八反堀には、船を横並びにした上に橋板を渡して、長さ約64メートルの舟橋(ふなばし)を架けていました。

通常は、城兵の出入りや物資の搬入路として利用し、敵が迫ってくると撤去して侵入を阻む仕組みだったと伝わります。


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三の丸跡です。
お寺が建っていますが、何となく曲輪の形がうかがえます。


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二ノ丸跡。
今は畑となり、道路も開通しています。
周囲の田圃より土地が高くなっていて、曲輪があった場所だと分かります。


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本丸跡は公園になっています。


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本丸跡に入ります。


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清水宗治の辞世の句を刻んだ石碑が建っています。
「浮世をば 今こそ渡れ 武士(ものもふ)の 名を高松の 苔に残して」

城兵5000名の生命を保証するという条件で、宗治は自決。
備中高松城は開城しました。

こうして秀吉は、「本能寺の変」での信長の死を秘したまま、毛利軍との講和を成立させました。
そして、軍を率いて上方へ急旋回し(「中国大返し」)、天下人への階段を昇ってゆきます。


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清水宗治の首塚。
元は石井山の秀吉本陣跡にありましたが、明治42年(1909)に本丸跡に移されました。


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昭和4年(1929)、備中高松城は「高松城跡 附水攻築堤跡」として、国史跡の指定を受けました。


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本丸を囲っていた沼地は、明治時代に埋め立てられました。

水攻めから400年目にあたる昭和57年(1982)、南側を中心に部分的に復元されました。


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再び水を湛えた沼に、誰も予想しなかったことが起こりました。
土中深く埋もれていた蓮の種が自然に発芽し、再び美しい花を咲かせるようになったのです。

蓮の種は非常に生命力が強く、縄文時代の遺跡から発掘された種の発芽に成功した例もあります(大賀ハス)。

備中高松城跡の沼で、蓮の花が咲くのは7月上旬。
旧暦では6月上旬にあたり、まさに秀吉の水攻めの時期に重なります。

この備中高松の地で、移りゆく時代と、人の世を見守り続けた蓮の花です。





街角に残る黒田家の面影 ~ 姫路市妻鹿地区 ~

2014-07-05 11:04:46 | うんちく・小ネタ
国府山城を訪ねた後、南側に広がる妻鹿(めが)地区を歩いてみました。
まず向かったのは、黒田官兵衛の父・職隆(もとたか)の廟所(びょうしょ=お墓)です。

黒田職隆は、大河ドラマ「軍師官兵衛」では柴田恭兵さんが演じてますね。


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案内板が出ていました。
大河ドラマの効果で訪ねる人が増えたのでしょう。


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地元では、このお墓は「筑前さん」と呼ばれ親しまれてきたそうです。
江戸時代に黒田家の子孫・筑前国の福岡藩主がここを整備し、崇敬したためこの名が生まれたようです。


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廟所の全体像です。
墳丘の上にお堂が建てられています。


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墓前際が近いようで、のぼりが立っていました。
今も地元の人たちに親しまれ、大切にされているのが分かります。

黒田職隆は、「軍師官兵衛」で柴田恭兵さんが演じているような、穏やかで人当たりの良い人物だったのかな、
とか想像してみました。


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廟所を後にして少し歩くと、江戸時代の面影を感じさせる町並みに出会いました。


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この建物は、「灘のけんか祭り」で使う屋台を収納する倉庫です。


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史料館として、表の扉を開けてくれています。
道路からですが、収納されている屋台を見学することができます。

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豪華絢爛な屋台の飾りです。
刺繍で描かれているのは「黒田二十四騎」のひとり、母里太兵衛(もり たへえ)です。
実は、母里太兵衛はここ妻鹿の出身なのです。

大河ドラマ「軍師官兵衛」では、速見もこみちさんが熱く演じています。


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山陽電鉄・妻鹿駅前に設けられた観光案内地図です。
ゆっくり散策すると、他にもいろいろな発見がありそうです。



国府山城を歩く。  ~ 自然のままの山城に、官兵衛の意気込みを見る ~  <「軍師官兵衛」ゆかりの城⑨>

2014-07-02 00:07:10 | うんちく・小ネタ
国府山城  こうやまじょう  (兵庫県姫路市)




JRに乗って大阪から姫路に向かう時、列車は最後に大きな川の鉄橋を渡ります。
姫路市街の東を流れる「市川」(いちかわ)です。

右手の車窓、つまり市川上流の風景の斜め前方に、不意に姫路城の天守が出現します。
なかなかに演出的な登場で、旅情を楽しませてくれます。
天守は次第に視界の中で大きくなってゆきます。
市川を渡り終えたら、まもなく姫路駅に到着です。

ところで、この市川の鉄橋から見る姫路城とは正反対の方向に、もうひとつの城跡があります。
国府山城(こうやまじょう)です。


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天正8年(1580)羽柴秀吉は三木城の別所氏を滅ぼし、御着城の小寺氏を駆逐して、ついに播磨国を平定しました。
秀吉の次なる目標は、備前国・備中国(ともに現在の岡山県)への進出です。
そして、いよいよ中国地方の覇者・毛利氏との決戦に臨むことになります。

播磨国は、その軍事作戦の基盤として重要度を増大させました。
黒田官兵衛は秀吉に対し、その本拠地を姫路城に定めるよう強く勧めます。
そして、秀吉に姫路城を譲った官兵衛は、自らは家臣団を率いて国府山城に移り、ここを居城としました。


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市川の河口付近から見た国府山城です。
標高102メートルの山上に築かれた山城です。

甲山城、功山城とも表記されますが、いずれも「こうやまじょう」と読みます。
また、城が立地する市川河口の東岸一帯の地名から、妻鹿城(めがじょう)とも呼ばれています。


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近づいて見ると、山のあちこちに岩盤が露出し、絶壁を成しているのが分かります。
西麓は、満々と水を湛えた市川が迫り、天然の要害です。


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南麓の登山口脇にある城址碑です。
「妻鹿城址」と記されています。


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また、城址碑の近くに城跡の平面図を記した説明板が設けられています。
国府山城の縄張が詳細に記されています。
(ただし、建物のイラストはあくまでイメージです。)


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山に登ってみましょう。
途中の傾斜は急ですが、山上は比較的広々としています。
尾根道に沿って、人工的な削平地が段々と築かれています。
城の曲輪の跡でしょう。


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しかし、自然地形を粗くならしただけの平坦地です。
石垣はもとより、土塁や虎口(城門)といった防御のための普請の跡も見られません。

国府山城は、南北朝時代の14世紀前半、赤松氏に属して活躍した妻鹿孫三郎が築いた城に始まると伝えられています。
南北朝期の山城は、楠木正成の千早城のように険しい山の斜面そのものを防御力とし、尾根筋には簡素な平坦地を造って番小屋を建てた程度のシンプルなものでした。
現在確認できる山上の遺構を見る限り、官兵衛はこの城にほとんど手を加えていないようです。

官兵衛の時代には、戦いには鉄砲が大量に投入されるようになっていて、城の構造もその対応が不可欠となっていました。
南北朝時代の城などは、すっかり時代遅れで、万一籠城戦ともなれば圧倒的に不利です。
なぜ、こんな状態のままにしておいたのでしょうか?


おそらく、官兵衛はこの城で籠城戦を展開することは、全く考えていなかったでしょう。
この時の官兵衛の考えは、以下の3つに集約されていたのでしょう。

(1)播磨の支配体制が変わったことを国中に認識させよう!
  秀吉が姫路城に入城し、官兵衛は退く。これほど分かりやすい手は無い。

(2)情報収集で秀吉を支えよう!
  官兵衛の強みは、情報収集と分析力。秀吉が居る姫路から近くて、情報収集に適した地は、市川河口の港町・妻鹿が最適。

(3)必ず勝ち進む!
  勝ち進んで全国各地に展開してゆく。いつまでも播磨には居ない。 


つまり、妻鹿の国府山城は、官兵衛にとって作戦途上の暫定的な拠点だったのです。
そのため、城は家臣団とその家族を短期間収容する屋敷地であればよく、本格的な城普請は眼中に無かったのでしょう。



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国府山城から南を見る。
市川河口と播磨灘。
物流と交通の要衝で、ここが人、モノ、情報が集まる地だったことが納得できます。

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国府山城から北を見る。
姫路市街の向こうに姫路城が見えます。