聚楽第 -発掘された本丸石垣-①

2012-10-14 23:12:38 | 歴史
 聚楽第(じゅらくだい/じゅらくてい)は、天正14年(1586)、豊臣秀吉が関白の政庁兼邸宅として、京都に築いた城郭構えの屋敷です。
 聚楽第・・・何とも難解に感じる名前ですが、「聚」という字には「あつめる」という意味があります。また、「第」という字は音読すれば「テイ」ですが、「亭」や「邸」と同じく「やしき」を意味します。つまり、聚楽第を直訳(?)すれば「楽しみを集める屋敷」ということになります。
 さて、「楽しみを集める」とは、何を示すのでしょうか?

 そのヒントは、天正16年(1588)4月、秀吉が後陽成天皇を聚楽第に迎えた時の様子を、秀吉自ら命じて記録させた『聚楽第行幸記』の中に記されています。同書には「爰(ここ)において行幸有べしとて聚楽と号して里第をかまへ」(意訳 : ここに天皇を迎える目的で、聚楽と名づけた屋敷を構えた)とあり、「聚楽」という名称には、天皇を迎えたいという秀吉の強い意志が籠められていることが分かります。
 さらに、「誠に長生不老の楽を聚むるものか」という記述があり、さり気なく命名の由来の核心に触れています。・・・しかし、この「長生不老」はどうやら秀吉の造語らしく、どのように解釈するかが難しいところです。(似たような語呂でも、「不老長寿」とは違うでしょう。それでは天皇行幸と意味がつながらなくなってしまいます)

 思うに、秀吉は聚楽第に後陽成天皇を迎えて行幸の盛儀を行い、戦乱の中で断絶しかけていた舞楽も再興しました。また、この時期に臣下に加わった大名たちの謁見も多くが聚楽第を舞台とし、その際に行われた豪華な饗宴、あるいは侘び数寄の茶会、能や舞といった芸事、さらには室内を飾る狩野永徳の筆による障壁画などは、いずれも当時の最高水準の文化によるもので、秀吉はこれらを融和の材料として天下統一を仕上げてゆきました。
 至高の文化を結集して、天下泰平を推し進める。「楽しみを集める」の意味するところは、この辺にあるのではないでしょうか。

 天正19年(1591)、秀吉は関白職とともに聚楽第も甥の秀次に譲ります。しかし、やがて秀吉に実子・秀頼が誕生したことで秀吉・秀次の対立は深刻化してゆき、文禄3年(1594)秀吉は秀次を高野山に追放し切腹させました。そして文禄4年(1595)、秀吉はまるで秀次の痕跡を地上から抹消するかのように聚楽第を破却し尽くしてしまいました。

 現在、聚楽第の跡地はすっかり市街地となっていて、うっかりすると素通りしてしまうほどです。でも少し注意して歩くと、聚楽第や大名屋敷の跡を示す石碑を見つけたり、「山里町」「高台院町」といった町名に聚楽第の名残を感じることもできます。


 <※山里町は茶室を設けた山里曲輪に、高台院町は秀吉の妻おね(高台院)に由来すると言われています>


  23