聚楽第 -発掘された本丸石垣-③

2012-10-24 01:41:48 | 歴史
さて、先に紹介した石垣の写真を見て、お城好きの方は「おや?」と、疑問を感じたかも知れません。ではもう一度、今度はやや拡大した石垣の写真を見てみましょう。


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いかがでしょうか。
石垣の裏側に詰め込まれた栗石(ぐりいし)が、近世城郭の一般的な石垣に比べてかなり小ぶりなのです。
栗石は石垣を裏から支え、また、石垣の裏の排水を良くして、石垣に余分な水圧がかかるのを防ぐという役割があります。
近世城郭でよく目にする石垣では、通常は小さいもので握り拳くらい、大きいものは人の頭くらいの大きさの栗石を混在させて使っています。
それに対し聚楽第のこの石垣は、手の平に軽々と乗せられるような小ぶりな河原石をぎっしりと裏側に詰め込んでいるのが特徴的です。


なぜこうした構造になっているのでしょうか。その理由をうかがえる史料があります。
天正14年(1586)と推定されている三月十三日付の「前田玄以黒印状」です。

この書状で前田玄以は、下鴨神社に対し、

 「地元の人足を使って、鴨川の河原の栗石を三十荷、今日明日中に聚楽に届けられよ」

と命じています。 (※前田玄以は、秀吉政権下で京都所司代を務めた武将)


 「今日明日中に届けられよ」という文言から、突貫工事の様子が見て取れます。加えて突貫工事ゆえの資材不足・人員不足も一時的に発生していたのかも知れません。
こうした背景によって、下鴨神社に命じ、地元の人足まで徴用し、近場の鴨川から小ぶりな河原石までも採集させたとも考えられます。
今回発見された石垣は、聚楽第の築城当時の模様を物語る生き証人と言っても良いのではないでしょうか。