聚楽第 -発掘された本丸石垣-④

2012-10-25 23:40:37 | 歴史
写真は、今回発掘された聚楽第の金箔瓦です。
石垣のすぐ南から出土しました。


79_3



金箔瓦は、漆を接着剤として、瓦の瓦当(がとう:瓦を屋根に葺いた時、軒先に面する部分。通常、文様が凹凸で表現されている)に金箔を貼り付けてあります。

金箔瓦は、織田信長によって考案されたと考えられています。信長は自らの居城である安土城を金箔瓦で飾り、限られた一門の城以外では金箔瓦の使用を認めなかったようです。
そして、信長政権を継承した秀吉もこのスタイルを継承しました。但し、一門以外でも特に信頼する大名、活躍を期待する大名には金箔瓦の使用を認めたことが、各地の城郭の発掘調査で確認されています。

なお、安土城で出土する金箔瓦は、文様部分の凹面に金箔が貼られています。
それに対し、秀吉の大坂城・聚楽第・伏見城で出土する金箔瓦は、文様部分の凸面に金箔が貼られているという違いがあります。今回出土した瓦を良く観察すると、確かに文様部分の凸面に金箔が貼られています。


81



文様部分の凹面に金箔を貼る「信長方式」と、凸面に金箔を貼る「秀吉方式」。
この違いは何を意味するのでしょうか?

最近の研究では、「信長方式」は技術的に手間がかかって難しいけれど、風雨に晒される環境での耐久性を優先したもの。「秀吉方式」は作業を簡略化し、とにかく大量生産を優先したもの。 という見解があります。
確かに秀吉の金箔瓦の使用量は、信長を圧倒しており、なかなか説得力の有る説です。

ひょっとすると、秀吉はただの「サル真似」になるのがイヤで、信長とは金箔の貼り方を逆にしたのかも・・・。
私がたった今、思い付いたこの説などは、いかがなものでしょうか?